飛鳥は空がおっきい

飛鳥の古墳めぐり、今日の目的地は石舞台から10分ほどの都塚古墳、それと奈文研飛鳥資料館で開催中の特別展「飛鳥池工房」を回ってみる予定です。朝出かける直前にカメラの電池の充電が殆どないことに気づき、ふたつの電池の内少なくともひとつが100%になるまで2時間ほど待って漸く出発、もう11時前。

名張行急行の車内で時刻表アプリをチェックすると飛鳥駅まで大和八木で10分、橿原神宮前で24分もの待ち時間と分かりました。飛鳥駅からバスのつもりだったけど、快晴で暖かいし急遽八木駅前の観光センターでレンタサイクルを借りて行くことに変更。電チャリで1日1,000円。

せっかく八木で下りたので「ラ・ポッシュ」でランチ。広々とした喫煙室、格別ではないものの満足感あるコーヒー付ランチ、それにここのスタッフさんたちの接客がとても感じよくてお気に入りです。

畝傍高校です。「祝・高市早苗総理大臣就任」と横断幕が掲げられているかと期待していたのですが、何もありませんでした。県立高校なので政治的なメッセージ掲出は難しいのかも。

宝形造に九輪の建つ校舎は奈良県登録有形文化財。明治29年創立で奈良県公立高校ランキングで奈良高校に僅差の2位。

飛騨町交差点を左折すると耳成山、手前は藤原京跡。道路脇にコスモス畑。

コスモス畑の向こうに畝傍山、右手に二上山のフタコブラクダ。画面を引いて畝傍山と耳成山を一枚に、空がおっきい。

ローソン飛鳥奥山店で水を買って、石舞台方面へ右折して県道15号に入ったのは大失敗。明日香の広い谷ではなく山裾の激しいアップダウン、15分ほど大苦戦して漸く石舞台のある島庄集落に出るとかなりの賑わい。石舞台古墳は垣根で囲まれてほとんど見えません。300円の入場料を払うか、北側の高台に上がるといいのですが、先を急ぎます。

都塚古墳

石舞台古墳から500mほどで最初の目的地に到着、都塚古墳です。振り返るといきなり横穴式石室が口を開いていてビックリ。今日の相棒の電チャリと都塚古墳のツーショットです。

説明板に描かれたような41m x 42mのピラミッド状の方墳です。6世紀後半の後期古墳で、被葬者は石舞台古墳の蘇我馬子の父、蘇我稲目説とも言われています。

石室は鉄柵でガッチリ鎖錠されているのですが、羨道は短く、鉄柵の隙間から石室内がよく見えます。

二上山産凝灰岩製の刳貫(くりぬき)式家形石棺、石室天井は石舞台古墳ほどの巨石ではないです。

石室前にショウリョウバッタ。石室左手に墳丘に上る急な坂道が。

墳丘に上ってきました。石室が真下にあることが実感でき、やんごとなき方のお墓かも知れないと思うとちょっと落ち着かない感じです。北側石舞台方向と東側多武峰方向です。

アキアカネがいました。墳丘に角があって方墳を感じさせます。

Map上に都塚古墳の近くに阪田の棚田とマーカーがあったので行ってみたのですが、案山子で知られる稲渕棚田に較べると小規模。5年前はバカ殿様がだった稲渕棚田の特大案山子、今年はやはりあの青と赤のポンデリングだったようです。1.5km先ですが、まだ間に合ったかも。

県道15号から右へ県道115号を進むと多武峰、11年も前に多武峰からこちらへ歩いて下りてきたことがあります。その時の多武峰談山神社の紅葉は実に見事でした。県道15号を手前の方に進むと吉野、大海人皇子や源義経の吉野逃避行はおそらくこの道。

県道15号からの都塚古墳です。結局自分がいる間、石舞台古墳から歩いても10分ほどで家形石棺の置かれた横穴式石室を覗くことができ墳丘にも上れるのに、他の訪問者はひとりも来なくて独り占めでした。もうひとつの目的地、飛鳥資料館へ向かいます。

国営飛鳥歴史公園石舞台地区の芝生広場、右手が石舞台古墳。公園の中に入ってしまったので展望台から石舞台古墳を望むのを忘れてしまいました。

石舞台周辺の賑わいがなくなって、ひっそりとした石畳の道に古民家が並ぶ明日香村の中心部を進むと、岡寺参道の鳥居。

山裾の激しいアップダウンの県道じゃなくて広い谷を進むべく鳥居の前を左折、趣のある石畳の道が続きます。

適当に右折してまっすぐ北へ進むと郵便局、その先になにやら人が集まっていました。全く事前情報は得ていなかったのですが、橿原考古学研究所による発掘調査現場の現地説明会と分かりました。古墳めぐりを始めてから機会があれば発掘調査現地説明会には参加したいとずっと思っていたものの、タイムリーに情報を得ることはなかなか難しいです。それも古墳であれば全国各地で現地説明会が開催されているものの、宮跡現地説明会となるとここ飛鳥くらいかと。自転車で何気なく選んだ道が大当たり、テンション上がりました。

飛鳥宮跡第192次調査現地説明会

自転車を停めてぐるっと回って北側から説明会場に入ると、ベニヤ板のパネルが5枚。地図や年表のパネルが2枚、写真のパネルが3枚です。この場所のGoogle Map航空写真です。飛鳥宮殿正殿跡マーカーと飛鳥宮前殿後マーカーの中間にあるあぜ道のようなところにベニヤ板5枚が立てられています。

年表部分を拡大してみたのですが、左下が前の人の帽子で隠れてしまっていて、孝徳から斉明にかけて緑色で示された都が確認できません。655年から656年の下の緑色は飛鳥川原宮で間違いないですが、その上の緑色は何なのか。下隅に「平成26年秋季特別展・特別陳列『飛鳥宮と難波宮・大津宮』図録」とあり、検索すると史跡飛鳥宮跡(飛鳥宮跡第 191 次)発掘調査成果報告の9ページに同じ年表を発見、飛鳥河辺行宮と確認できました。中大兄皇子(天智天皇)が難波宮から飛鳥に帰り一時期を過ごした行宮、どうやら稲渕棚田の手前に位置する稲渕宮殿がそれだった説が有力らしい。しかしながら孝徳天皇は飛鳥に戻ることを拒否しているので、この年表に記すべきかちょっと疑問は残ります。

赤い部分が今回の調査区となる掘立柱建物SB7910、飛鳥宮正殿です。赤い部分の細長い部分に南北方向の石敷SX7917、正殿SB7910と天皇の生活空間である内郭北区画をつなぐ通路だったらしい。出現した石敷きは地表から30cmほどの深さで意外と浅いという印象です。

石敷SX7917の北側に東西方向の石組溝SD7911。

掘立柱建物SB7910は東西7間、南北4間の建物の東半分で、今回の調査区の西側、1973年の第73次調査区域(段の向こうに杭が並んでいるところ)が建物の西半分です。画面右で石敷SX7916が建物SB7910の周囲を囲んでいるのが確認できます。

午後2時になり橿考研(橿原考古学研究所)学芸員さんによる現地説明会が始まりました。今回の調査は飛鳥宮跡第192次だそうです。

飛鳥宮跡の遺構配置図と今回の調査区、広大な飛鳥宮遺構のごく限られたエリアの調査です。飛鳥宮は3時期の宮殿遺構が重複して存在、Ⅰ期遺構が舒明天皇の飛鳥岡本宮、Ⅱ期遺構が皇極天皇の飛鳥岡本宮、Ⅲ期遺構がⅢAが斉明天皇・天智天皇の後飛鳥岡本宮、ⅢBが天武天皇・持統天皇の飛鳥浄御原宮。今回の調査はⅢ期遺構の内郭(内裏)南区画の調査で上掲の掘立柱建物SB7910(正殿)の構造と規模を確認するのが目的とのことで、その目的は上述の石敷SX7916の発見などで達せられたようです。

Ⅰ期やⅡ期の遺構はⅢ期遺構の下に埋もれていて、Ⅲ期の調査が完了しないとなかなか手が付けられないらしい。ただⅢ期遺構は南北垂直方向に対し、Ⅰ期やⅡ期遺構は少し傾いているとのこと。

説明板の立てられた段差が内郭の北区画と南区画の境界、こちら側の北区画は天皇の私的空間、向こう側の南区画は公的空間、つまり今自分が立っているところに斉明天皇が住んでいたということになります。古代の宮殿というと朱塗りで瓦屋根のイメージですが、白木に茅葺きだったようです。

内郭南区画の全体像です。作業着の女性に、発掘調査が終わったら埋め戻すのですか、と訊ねてみると、はい、埋め戻します、ときっぱり。今日のラッキーさをしみじみ。

発掘現場から100mほど北、3月にもやってきた石敷井戸付近です。この辺りが内郭の北端になるようです。今回の調査区の内郭の南端から200mくらいあります。

飛鳥宮跡のシンボルのように立っているクスノキです。

飛鳥の空

空がおっきい。

飛鳥寺です。バイクのおっちゃんがいい感じ。

飛鳥坐神社前に出て来ました。亀形石造物を訊ねた時に教えてもらった、この手前の公衆トイレ近くで斉明天皇が造った狂心渠が確認できるはず。

公衆トイレ前の説明版がありました。飛鳥東垣内(ひがしかいと)遺跡とあり狂心渠(たわぶれごころのみぞ)が紹介されています。右側の細い水路の溝がそれじゃなく、説明板左端に描かれた、亀形石造物まで続いていると思われる水色の部分がそれのようです。だとすると説明板手前に並ぶ切り揃えられた石がそれなのかも。

飛鳥資料館

奈良文化財研究所飛鳥資料館に到着、5年ぶりです。前庭に須弥山石や亀形石造物などのレプリカが置かれ水が流れています。

エントランスホールの石人像。右側が男性で後から女性が男性を支えていると解釈されることが多いようですが、同一人物の象徴的表現という説もあるようです。

第1展示室です。中央に飛鳥寺の塔の埋納物、ガラスケース中央の四角い箱は舎利容器を収納する木箱、隣の金色の球体はその復元ですが、実際に舎利(釈迦の遺骨)が収容されていたかについては記されていません。ちなみに白いご飯のことをシャリというのはこの舎利から来ているらしい。

宮のうつりかわりのパネルはさっきの発掘現場の年表と比べるとかなり複雑、ビックリしたのは前期難波宮が652年から655年までのわずか3年になっていること。日本書紀では645年に孝徳天皇が難波長柄豊碕宮に遷都とあるものの宮殿が完成したのは652年、654年に孝徳天皇崩御し、655年に斉明天皇が飛鳥板蓋宮で即位(重祚)しています。難波宮の紺色部分の前後にベージュのラインがあるのは、遷都の詔勅から完成するまでの期間と、686年に焼失するまでの期間を表しているようです。

難波宮だけでなく、636年には飛鳥岡本宮、654年には飛鳥板蓋宮が焼失したことが火災アイコンで記されています。この他にも新しく作られた後飛鳥岡本宮も造られたばかりで火災にあっているらしい。狂心渠など多くの土木事業で苦しめられた民衆により放火されたとの説が有力なようです。

飛鳥宮Ⅰ期(飛鳥岡本宮)・Ⅱ期(飛鳥板蓋宮)、飛鳥宮ⅢA期(後飛鳥岡本宮)、飛鳥宮ⅢB期(飛鳥浄御原宮)の図も興味深い。左端の図からⅠ期の発掘調査は殆ど進んでいないと見て取れます。乙巳の変の現場が飛鳥板蓋宮でこのパネルの下には、蘇我入鹿の首が宙を舞っている多武峰縁起絵巻が掲げられていました。後飛鳥岡本宮と飛鳥浄御原宮の違いは天武天皇により造られたエビノコ郭が増設されているだけです。

激動の飛鳥時代のパネルの豪族の盛衰と豪族の分布の図がすごい。5世紀半ばまでは葛城氏、巨勢氏、大伴氏らの豪族が群雄割拠、6世紀半ばから物部氏と蘇我氏の二大豪族の対決となり、600年頃から大化の改新までは蘇我氏が一強、乙巳の変で中臣(藤原)氏が台頭という流れが、豪族勢力の線の太さで一目瞭然、さらにその流れでの秦氏、東漢氏ら渡来系氏族の関わりも記されていて、右手に豪族の分布図まで。分かりにくい豪族の時代がむっちゃ分かりやすくまとめられていて感動的ですらあります。

須弥山石の実物です。

飛鳥の古墳展示室へ。飛鳥時代の古墳にみる変化のパネル、訪ねてきたばかりの都塚古墳が石舞台古墳より古く、石舞台古墳とさほど変わらない大きさであることが確認できました。石室の石が切り揃えられた岩屋山式古墳の元祖の岩屋山古墳、ピラミッドが復元される前の牽牛子塚古墳、もうひとつの八角墳の中尾山古墳の紹介を見て満足。

キトラ古墳の壁画のレプリカはキトラ古墳四神の館より画像が鮮明、順に玄武、白虎、朱雀。青龍は元から判然としないので割愛。

石室天井の天文図のアニメーションです。北斗七星もオリオン座もキトラ古墳のブログで自分が描き込んだ位置が間違っていなかったと確認できました。

高松塚古墳の展示をさっと見て終末期古墳出土品の展示、七宝製亀甲形飾金具は橿考研にも展示されていたのですが、こちらの方が豪勢。

マルコ山古墳は牽牛子塚古墳の600mほど南に位置する六角墳とされる古墳、石のカラト古墳は奈良京都府県境に位置する高天原の住宅地の真ん中ある上円下方墳、いずれもユニークな墳形で訪ねてみたい古墳リストに入ってます。

川原寺の荘厳と題した展示、塼仏は昭和49年に川原寺裏山から千点以上も出土した7世紀のもの。三尊像の塼仏は大阪市立美術館の北魏の石仏と同じ構図、6世紀半ばの仏教伝来からたぶん百年も経たずにここまで仏教や大陸文化が普及していることに驚かされます。

飛鳥寺、薬師寺、大官大寺と並ぶ飛鳥の四大寺だった川原寺、平城京への遷都後も飛鳥に留まるも何度も火災に遭って室町時代には廃寺、江戸時代にその跡に弘福寺が建立され今に至るとのこと。橘寺の向かいにあって前を通ったことがあるだけで、飛鳥をより理解するためにはじっくり訪ねてみる必要がありそうです。とりあえず川原寺のジオラマです。

猿石のレプリカ、実物は吉備姫王墓で見ています。右は「男性」、左は「女性」の現地では見えない後ろ姿のようです。

飛鳥の石造物の幕のマップをチェックすると、石造物がもとの位置にある赤丸印の内、益田岩船鬼の雪隠・俎酒船石は既に訪ねていて結構しっかり飛鳥を歩いている自分です。

地下の展示室で2つ目の目的だった特別展「古代技術の精華 飛鳥池工房」。万葉文化館に囲まれたエリアに復元されている飛鳥池工房出土品の紹介です。ちょっと簡易なジオラマは北側から飛鳥池工房の全体図。金銀製品、ガラス製品、鉄や銅製品等の工房が谷に分散していたことが分かっているようです。

金箔や金糸、カラフルなガラス屑やガラス玉の鋳型などが展示されていたのは割愛して、708年発行の和同開珎に遡る683年頃製造の富本銭、日本最古の貨幣が造られたのが飛鳥池工房。自分が学校で習った歴史では日本最古の貨幣はまだ和同開珎でした。

何気なく撮っておいた木簡がすごいものと分かりました。木簡には「天皇聚□弘寅□」と記されていて、意味は解明されていないものの、「天皇」号が天武天皇期には確実に成立していたことの裏付けになっているものらしい。「天皇」号の成立は天武朝が有力なものの、推古朝、天智朝説もあり。

第二展示室の山田寺東回廊、法隆寺より古い木造建築物です。蘇我倉山田石川麻呂が641年に建設を始めた古代寺院、現在地から700mほどのところの広い空間に小さな観音堂と庫裏のみがあるだけらしいものの、訪ねてみたい。

山田寺跡から出土の塼仏は川原寺のような三尊像ではなく独尊像。川原寺は天武天皇の発願により創建された官寺で仏・菩薩の体系的世界観を表す三尊像の塼仏に対し、山田寺は蘇我倉山田石川麻呂の氏寺であり、釈迦一尊への帰依を示す独尊像の塼仏になっているらしい(ChatGPT談)。

二面石のレプリカ、実物は橘寺の境内で見ることができます。高松塚古墳壁画の顔出しパネル。

飛鳥京全体のジオラマ。写真中心部に置かれた三角プレートの辺りがさっきの現地説明会で5枚のベニア板が立っていたところ。左手の五重塔は川原寺、その向かいが橘寺。奥の方の五重塔は飛鳥寺、その左手が飛鳥池工房、右手の空間は中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠で出会った槻の広場。

来るときにも通ったコスモス畑の向こうに畝傍山、その向こうに二上山。西日を受けて天香久山に向かって走っている自分の影。

藤原京のコスモス畑に着くともう日没。畝傍山の真向こうの大和葛城山に日が沈み、飛鳥のおっきい空の仕上げ。

16時31分、奈良盆地の日没は早い、国立天文台の公表値より20分くらい早いです。

藤原京を出た辺りで目にホコリが入ったか逆さまつげになったかで右目が痛い。そのままガマンして自転車を返却して、大和八木駅のホームに出ると上本町行急行が発車したばかり。

3分後にやってきた特急に乗車、ほぼ満席のビスタカー平屋車両の通路側席に座って片目をつむっていたら痛みが収まってきました。