天王寺公園フルコース
大阪市立美術館のゴッホ展が終わるのを待ってました。その前の国宝展の時に常設展だけ訪ねようとしたら常設展だけの入館はできないと断られてしまいました。続くゴッホ展もその可能性がありそうだったので、終わるのを待っていた次第。
真田幸村の人となりや業績、名言を紹介する高札が何本も立っていますが、徳川方については一本もなく、大阪人の真田贔屓は明白。自宅近くの上本町ハイハイタウンにも「真田幸村緒戦勝利之碑」が立っていて、1年でドロップアウトした母校が真田丸そのものだったこともあり、自分も真田贔屓たらざるを得ません。
6年前は存牟堂で発行してもらった茶臼山登頂証明書、現在は別の場所で発行されているようです。
幕末から明治初期の浮世絵師・南粋亭芳雪(森芳雪)の錦絵、浪花百景の茶臼山です。この標高26mの山は5世紀築造の前方後円墳という説と、8世紀に和気清麻呂が築造を試みるも断念した運河を掘り出した土を積み上げたものという説があるものの、後者がほぼ定説のようです。月をバックに大きな口を開けて飛んでいる鳥はたぶんヨタカ。
大阪市立美術館
中央の石段じゃなくて石段脇に設けられた新しいエントランスから入館するようになってました。
国宝展とかゴッホ展とかの特別展じゃないので、65歳以上の大阪市民は無料も、リュックのポケットに差し込んでいたペットボトルの水はポリ袋に入れろと注意され、さらにリュックは前にかけろと注意され、こんなことを他の美術館博物館で言われたことがなく、国宝展の時に常設展だけを見ることはできないとぶっきらぼうに応対された時の不愉快を思い出しながら入館。
Google Mapのクチコミを評価の低い順に読んでみると我が意を得たりでした。昭和の役所の匂いが漂っているような気がする美術館です。同じ市立美術館でも、中之島美術館ではこの昭和の匂いが若干感じられるものの、東洋陶磁美術館では全く感じないです。
どこかのおばちゃんを彷彿とさせる如来三尊像(南北朝時代北魏、6世紀前半)と、どこかのおっちゃんを彷彿とさせる如来三尊像(北魏、延昌4年 - 515年)。おっちゃんの方の左右の菩薩像はおばちゃんの方に比べると手抜き感が。
北魏は五胡十六国時代に続く南北朝時代の北朝、4世紀から6世紀の鮮卑族(漢民族ではない北方民族)による王朝、次第に遊牧民族的文化と漢民族文化との融合を進め、後の随や唐の基礎となる国家体制を確立。魏志倭人伝の魏と区別すべく北魏と呼ばれます。
時の日本は倭の五王の時代、南朝(宋、斉、梁、陳)とは讃・珍・済・興・武の称号を授けられるほどの交流があった一方、北魏との直接外交の記録はないらしい。
浮彫菩薩半跏思惟像(南北朝時代東魏、武定7年 - 549年)は菩提樹の下で思惟する菩薩がロマンチックに描かれています。中宮寺の国宝菩薩半跏像と同じポーズ、ロダンの考える人とも似てますが、ロダンと違って顎に手が付いてません。東魏は北魏が分裂した王朝。
日本の鳳凰と比べるとずいぶん力強さを感じさせる鳳凰像(随代、6世紀後半)、鳳凰にはキジのように肉垂があるのは珍しいかと思いきや、手塚治虫の火の鳥には無いものの、銀閣寺や平等院の鳳凰にも肉垂があります。
いずれも出展品リストに天龍山石窟将来と出自が記されています。北魏から唐代の天龍山石窟群から将来した(持ってきた)石像ということです。山西省の省都太原の南西約40kmほどの標高約1700mの山上の断崖に穿たれた主要な21の石窟に200体以上の像が彫られています。1920年代に徹底的に盗掘され、海外へ持ち出され、見るも無惨な姿が遺されていると分かってきました。
シカゴ大学Tianlongshan CAVES PROJECTサイトで、天龍山石窟の第1窟から第21窟までの現在の姿や盗掘される前の姿を確認でき、また石像単位でデータベース化されていました。Phoenixで検索すると大阪市立美術館の鳳凰がずばりヒット、第8窟にあったものと分かりました。第8窟のページを見ると、鳳凰が入口右側の柱の上にあったことも確認できテンションが上りました(5番目の写真)。さらに浮彫菩薩半跏思惟像は第3窟のものと判明。大阪市立美術館で絞り込むと浮彫菩薩半跏思惟像と鳳凰を含め8点がヒットしました。
天龍山石窟について調べれば調べるほどいろんなことが分かってきて、考えさせられたのですが、長くなるので文末にまとめます。
第7展示室は「中国の金属工芸」、壁に照射された履歴書によると「大阪市立美術館広報大使」の青銅鍍金銀 羽人(後漢時代、1~2世紀)、膝に器物を挟んで両手で支えるようになっていたらしい。不老不死の仙人で、羽人と呼ばれ空を飛べるらしいけど羽はついていません。アンパンマンみたいに空を飛ぶのかも知れません。
藤田美術館の饕餮禽獣文兕觥に似た西周(殷)の獣頭兕觥が展示されていたものの、撮影写真に利用制限あり(撮影OKも投稿NG)マークが付いていたのが残念。
「永徽元年」方格四神文鏡(唐代永徽元年 - 650年)はキトラ古墳でも見られる四神が描かれた鏡、下側の玄武は明瞭も、上側の朱雀は殆ど摩耗してよくわからないのが残念。北の玄武なので鏡を置く向きとしては反対じゃないかとも思えるのですが、玄武が鏡の中央向きなので、これでいいのかも。
双鳳瑞花文八花鏡(唐時代、8世紀)、広いスペースに一対の鳳凰と蓮、盛唐期の典型的な唐鏡とのこと。久保惣でほぼ同じ唐鏡を見たばかりですが、鳳凰の片脚を鏡胎から浮かせているという超絶技巧だけでなく、広いスペースも冗長さがなく、こちらのほうが優れているかと。
ショーケース手前側は漢代の青銅器フィギュア。
その中の鴟鴞形水滴(六朝時代 3~5世紀、ふくろう形の水差し)は書道用の文房具の一種と思われます。同時代の辟邪形水滴 、ぱっとみカエルのように見えますが辟邪、よく見ると2本の角がしっかり刻まれています。辟邪が描かれた鏡も久保惣で見ていますが、久保惣の辟邪は龍のような形態です。
第9展示室も「アジアの彫刻」、文殊菩薩騎獅像頭部(唐代 9世紀)も出展品リストでは天龍山石窟伝来とあります。「将来」ではなく「伝来」で、シカゴ大学のデータベースでも上述の8点には含まれておらず、天龍山石窟将来かどうか未確定のようです。
如来立像頭部(南北朝時代北魏、5世紀後半)は伝雲岡石窟将来。雲岡石窟は山西省大同市(天龍山石窟の北約300km)に位置し、敦煌莫高窟、龍門石窟と並ぶ中国三大石窟のひとつとされる世界文化遺産。
天龍山石窟から遡る北魏時代(5世紀中頃〜6世紀初頭)の開削で、高さ13〜17mもの巨大仏など北魏の国家的プロジェクトとして造営され、天龍山石窟と較べ遥かに規模が大きいこともあり比較的保存状態は良いものの、やはり20世紀初頭にかなりの盗掘にあい海外へ流出、メトロポリタン美術館、ボストン美術館、大英博物館などにその仏頭などが所蔵されています。
浮彫供養人行列図(南北朝時代北魏、永平4年 - 511年)は龍門石窟古陽洞将来。龍門石窟も中国三大石窟に数えられる世界文化遺産。河南省洛陽市に位置し、北魏後期〜唐代(5〜9世紀)のもので何と2300窟もの規模、古陽洞(Google Map)はその最も古いと言われる石窟。行列のそれぞれの人物の上に名前が刻まれていて、先頭は比丘法智師、続いて法訓王、法威王、法嵩(すう)王、王たちにはそれぞれ従者がふたりずつ付き添っています(参考)。
浮彫飛天像(南北朝時代北魏、6世紀前半)は鞏県石窟将来、鞏県(きょうけん)石窟(Google Map)は北魏時代から隋・唐代に地方の僧侶・信徒や地方豪族の寄進により造営された、河南省鞏義市(洛陽の東約60km)に位置する約30窟の小規模な石窟群。
重要文化財 尾形光琳 円形図案集は光琳のデザインブック。
上田公長画、篠崎小竹賛「蟹子復讐之図 」、さるかに合戦の一場面を描いたもの。二本足のカニが「栗」にきび団子を与え仲間にする場面。針を杖のように立てている「ハサミ」、杵のようなものを持った「臼」も描かれています。「大阪の宝」ウェブサイトのバーチャル体験展示室で物語の概要やキャラクター紹介が動画になってました。
「中国のやきもの」の展示室。ここでも円文双耳壺(新石器時代、紀元前2200-紀元前2000年)、説明には「馬家窯文化(甘粛省仰韶文化)」とあり馬家窯文化と仰韶文化が一緒にされているのですが、弥生文化博物館の双耳壺とほぼ同じ文様なので、仰韶文化ではないかと思われます。
色鮮やかな唐三彩の壺です。釉垂れが抑えられた古美術として価値の高い一品らしい(参考)。
最後は「絵になる人々」、豊臣秀吉像、作者は不明も東福寺禅僧・惟杏永哲による慶長5年の賛が書されていて、秀吉没後まだ2年で描かれた像です。重要文化財で高台寺蔵・狩野光信の豊臣秀吉像とそっくりで模倣したものと思われますが、表情はこちらの方がキリッとしてます。伝江口君像や重要文化財で天龍寺蔵の円山応挙像も展示されていたものの本館蔵ではないので撮影NG。
慶沢園側の出口から外に出るとテラスが設置されていました。慶沢園の池がよく見えるのですが何もいないようです。慶沢園も65歳以上の大阪市民は無料なのでぐるっと回ってみたものの暑いだけでした。
天龍山石窟石仏
さて、天龍山石窟について。天龍山石窟を最初に発見したのは、考古学者の関野貞(せきのただし、北浦定政が作成した平城京復元図を元に調査研究し平城宮の発見を確立した東大教授)で大正3年のこと。観仏日々帖さんのブログに天龍山石窟の発見と石仏流出物語が詳しくかつとてもわかり易くまとめられていました(その1、その2、その3、その4、その5、その6)。上述のシカゴ大学Tianlongshan CAVES PROJECTサイトも観仏日々帖さんのブログからの情報です。
関野貞による発見の4年後、北京の写真館主・外村大治郎らによって、「豹や狼の棲むところの断嵯絶壁を攀り、梯子登りや綱渡り軽業」しての約1週間の調査が行われ、天龍山石窟(早稲田大学図書館のデータベース)という写真集が大正11年に刊行されています。シカゴ大学サイトの盗掘前の写真はこの写真集によるものです。
しかしながらこの写真集が凄まじい盗掘の契機となり、3年後の1925年にはスウェーデンの美術史家、オズワルド・シレンによる「Chinese Scurpture」が刊行され結果的に追い打ちをかけるものとなってしまったようです。清朝崩壊後の混乱期だったこともあり、目を覆うばかりの破壊が行われてしまいました。
盗掘された石仏を日本や欧米にもたらしたのは大阪に本社を構え、ニューヨークやロンドン、北京などに支店をおいていた美術商の山中商会。社長の山中定次郎自身が天龍山石窟を二度訪ね、一度目はその素晴らしさに大いに感動も、二度目の訪問ではその惨状を目の当たりにして悲嘆、盗掘された仏像の回収に奔走し45点を回収しています。その多くは東武鉄道の根津嘉一郎に買い取られ、イギリス、フランス等ヨーロッパに寄贈され、東博と根津美術館にも数点ずつ遺されています。
第二次大戦後、シカゴ大学による天龍山石窟石仏群の調査、復元を試みる活動が行われ、日中国交正常化後に日本人による活動も行われています。現在、国内では30点の天龍山石窟石仏が所蔵され、内最多の8点(仏頭は4点)が山口コレクションとして大阪市立美術館所蔵と分かりました。大阪市立美術館の8点が山中商会や根津嘉一郎の手を経たものかは不明ですが、山中商会については可能性が高そうです。
今日の中国では山中定次郎を天龍山石窟の破壊・略奪的流出の張本人と厳しく指弾されているものの、山中の天龍山石窟石仏への愛着も単なるビジネスではなかったようです。この辺の善悪の判断はとても難しいです。中国に限らず、エジプトやギリシャ、メソポタミアの古代美術品が、大阪市立美術館や東博以上に、メトロポリタン、ルーブル、大英博物館などに流出しています。廃仏毀釈で散逸した奈良時代から鎌倉時代の寺宝、尾形光琳や俵屋宗達、さらには膨大な浮世絵も海外に流出しています。これらの流出した美術品が、制作された国や時代の文化への深い理解や憧れにつながったことも間違いありません。ただ石窟石仏のように破壊を伴う流出には頭を抱え込まずにいられないです。
観仏日々帖さんのブログに感銘を受け、天龍山石窟石仏がなぜ今、大阪市立美術館にあるのかを自分なりの理解をまとめてみたのですが、とても十分に伝えきれるものではなく、多くの文献をあたり、とてもわかりやすく執筆されている上述のその1からその6をじっくり読んでいただければと思います。