天王寺公園フルコース

大阪市立美術館のゴッホ展が終わるのを待ってました。その前の国宝展の時に常設展だけ訪ねようとしたら常設展だけの入館はできないと断られてしまいました。続くゴッホ展もその可能性がありそうだったので、終わるのを待っていた次第。

歩いても行ける距離ですが、暑いので谷町線で天王寺、美術館の前に茶臼山へ。谷町筋の植栽にヤノネボンテンカ。花も美しいですが、クリスピーな名前が気に入ってます。漢字で書くと矢の根梵天花、別名タカサゴフヨウ。

バプテスト教会の向こうに通天閣。日曜主日礼拝の最中です。天王寺公園北側の入口、四天王寺ゲートという名前らしい。

茶臼山

天王寺公園茶臼山ゲートを抜けたところにある一心寺存牟堂(ぞんむどう)です。茶臼山登頂証明書を発行してもらうため訪ねたことがあるのですが、数日前YouTubeだかテレビだかで紹介されていた大阪夏の陣図屏風を見たくなってやってきました。

大坂夏の陣の陶板パネル、原本は大阪城天守閣所蔵で重要文化財、福岡藩黒田家伝来の六曲一双図屏風。真田幸村隊と徳川家康本陣部分です。真田の旗印が「六文銭」ではなく「丸に二」になってます。Geminiによると「丸に二引(まるににびき)」と呼ばれ六文銭と併用されたいたようです。

最前面に葵紋の鎧を着た足軽が横一列に整列して進軍する家康本陣、見たまま聞いたままが描かれているようで生々しい。作者が不詳なものの、大坂の陣終結後間もない時期に描かれたものらしい。撮りそびれてしまったのですが、画面左下には逃げ惑う避難民や略奪などの場面も描かれおり、「戦国のゲルニカ」とも評される図屏風です。

久しぶりに茶臼山に登ってみます。登ると言っても大した距離でも高さでもなく、1分ほどで登頂。

標高26mの茶臼山三角点、南側には葵の紋、北側には六文銭。冬の陣では北の大阪城に向かって攻める徳川勢の本陣、夏の陣では南から攻めてくる徳川勢に対する真田隊の防御陣となった茶臼山です。

真田幸村の人となりや業績、名言を紹介する高札が何本も立っていますが、徳川方については一本もなく、大阪人の真田贔屓は明白。自宅近くの上本町ハイハイタウンにも「真田幸村緒戦勝利之碑」が立っていて、1年でドロップアウトした母校が真田丸そのものだったこともあり、自分も真田贔屓たらざるを得ません。

6年前は存牟堂で発行してもらった茶臼山登頂証明書、現在は別の場所で発行されているようです。

幕末から明治初期の浮世絵師・南粋亭芳雪(森芳雪)の錦絵、浪花百景の茶臼山です。この標高26mの山は5世紀築造の前方後円墳という説と、8世紀に和気清麻呂が築造を試みるも断念した運河を掘り出した土を積み上げたものという説があるものの、後者がほぼ定説のようです。月をバックに大きな口を開けて飛んでいる鳥はたぶんヨタカ。

上述、和気清麻呂が構築しかけて諦めた運河跡と言われる川底池です。ズームすると通天閣の跳ね出し展望台がよく見えます。

南側からの茶臼山です。カワセミやゴイサギを期待してカメラをリュックに入れて来たものの、なにも現れず。

2年半の休館を経て漸く今年3月にリニューアルオープンしたの大阪市立美術館です。

大阪市立美術館

中央の石段じゃなくて石段脇に設けられた新しいエントランスから入館するようになってました。

国宝展とかゴッホ展とかの特別展じゃないので、65歳以上の大阪市民は無料も、リュックのポケットに差し込んでいたペットボトルの水はポリ袋に入れろと注意され、さらにリュックは前にかけろと注意され、こんなことを他の美術館博物館で言われたことがなく、国宝展の時に常設展だけを見ることはできないとぶっきらぼうに応対された時の不愉快を思い出しながら入館。

Google Mapのクチコミを評価の低い順に読んでみると我が意を得たりでした。昭和の役所の匂いが漂っているような気がする美術館です。同じ市立美術館でも、中之島美術館ではこの昭和の匂いが若干感じられるものの、東洋陶磁美術館では全く感じないです。

それはともかく、結論から言うと、常設展(企画展示というらしい)だけだと大した事なく30分もあれば見終えるのではと思っていたものの、不愉快感を帳消しにして余りあるほどの充実ぶりでした。昭和の匂いに鼻をつまんで、じっくり鑑賞したほうがお得です。

入館して右手の第6展示室「アジアの彫刻」。最初は「特別展示、2024年新収蔵」の男神立像、アンコールワットが創建された12世紀クメール王国のもの。とてもマッチョです。

どこかのおばちゃんを彷彿とさせる如来三尊像(南北朝時代北魏、6世紀前半)と、どこかのおっちゃんを彷彿とさせる如来三尊像(北魏、延昌4年 - 515年)。おっちゃんの方の左右の菩薩像はおばちゃんの方に比べると手抜き感が。

北魏は五胡十六国時代に続く南北朝時代の北朝、4世紀から6世紀の鮮卑族(漢民族ではない北方民族)による王朝、次第に遊牧民族的文化と漢民族文化との融合を進め、後の随や唐の基礎となる国家体制を確立。魏志倭人伝の魏と区別すべく北魏と呼ばれます。

時の日本は倭の五王の時代、南朝(宋、斉、梁、陳)とは讃・珍・済・興・武の称号を授けられるほどの交流があった一方、北魏との直接外交の記録はないらしい。

浮彫菩薩半跏思惟像(南北朝時代東魏、武定7年 - 549年)は菩提樹の下で思惟する菩薩がロマンチックに描かれています。中宮寺の国宝菩薩半跏像と同じポーズ、ロダンの考える人とも似てますが、ロダンと違って顎に手が付いてません。東魏は北魏が分裂した王朝。

日本の鳳凰と比べるとずいぶん力強さを感じさせる鳳凰像(随代、6世紀後半)、鳳凰にはキジのように肉垂があるのは珍しいかと思いきや、手塚治虫の火の鳥には無いものの、銀閣寺や平等院の鳳凰にも肉垂があります。

いずれも出展品リストに天龍山石窟将来と出自が記されています。北魏から唐代の天龍山石窟群から将来した(持ってきた)石像ということです。山西省の省都太原の南西約40kmほどの標高約1700mの山上の断崖に穿たれた主要な21の石窟に200体以上の像が彫られています。1920年代に徹底的に盗掘され、海外へ持ち出され、見るも無惨な姿が遺されていると分かってきました。

シカゴ大学Tianlongshan CAVES PROJECTサイトで、天龍山石窟の第1窟から第21窟までの現在の姿や盗掘される前の姿を確認でき、また石像単位でデータベース化されていました。Phoenixで検索すると大阪市立美術館の鳳凰がずばりヒット、第8窟にあったものと分かりました。第8窟のページを見ると、鳳凰が入口右側の柱の上にあったことも確認できテンションが上りました(5番目の写真)。さらに浮彫菩薩半跏思惟像は第3窟のものと判明。大阪市立美術館で絞り込むと浮彫菩薩半跏思惟像と鳳凰を含め8点がヒットしました。

天龍山石窟について調べれば調べるほどいろんなことが分かってきて、考えさせられたのですが、長くなるので文末にまとめます。

第72代横綱稀勢の里そっくりの如来坐像(南北朝時代北魏・太和18年 - 494年)、光背には7体の如来、台座には2匹の獅子、裏面では大魏太和十八年(494年)と読み取れます。右肩を露出した袈裟の掛け方は偏袒右肩(へんだんうけん)と呼ばれ、北魏時代、涼州(現在の甘粛省)で生まれた仏像の表現形式らしい。

白大理石で作られた見事な透かし彫りの二菩薩半跏像(南北朝時代北斉、天保4年 - 553年)、龕(がん)を構成する菩提樹の光背の中に左右対称の半壊思惟菩薩像、まわりに多数の人物や動物が刻まれていて、菩提樹の上部左右には宙を舞う天女の姿も見えます。台座の2頭の獅子の間で股を広げて座っているのは香炉を抱えた力士らしい。歴史にはめっぽう強いChatGPTとの会話が楽しい。

北斉は北魏が東魏と西魏に分裂して東魏を受け継いだ国(550–577)、天保はその北斉の初代皇帝文宣帝が即位した時の付けられた年号(550年〜559年)。

上掲の二菩薩半跏像と同じ構図で半跏思惟じゃなくて立像の二菩薩立像(南北朝時代北斉、6世紀中頃)、人物や動物の頭や顔が無くなっているものの二菩薩像が遺されていて、香炉を支える力士もいます。この卵形の香炉の形は青銅器でも見かけます。

緑と赤の彩色が残る菩薩立像(南北朝時代北斉〜随時代、6世紀後半)。300年ぶりに南北を統一した随の成立は581年も、わずか2代で滅亡し、唐が登場します。

第7展示室は「中国の金属工芸」、壁に照射された履歴書によると「大阪市立美術館広報大使」の青銅鍍金銀 羽人(後漢時代、1~2世紀)、膝に器物を挟んで両手で支えるようになっていたらしい。不老不死の仙人で、羽人と呼ばれ空を飛べるらしいけど羽はついていません。アンパンマンみたいに空を飛ぶのかも知れません。

藤田美術館の饕餮禽獣文兕觥に似た西周(殷)の獣頭兕觥が展示されていたものの、撮影写真に利用制限あり(撮影OKも投稿NG)マークが付いていたのが残念。

青銅人物鳳凰飾龍把香炉(六朝時代、3〜5世紀)、鳳凰や仙人、いろんな動物たちが背中に乗った透かし彫りの龍の香炉。龍の首が把手になってます。

青銅鏡も多数展示。細文地蟠龍文鏡(戦国時代、紀元前5~3世紀)、天に上る前のうずくまった龍を精緻な文様にした蟠龍文がびっしり刻まれています。

「湛若止水」団華文鏡(隋~唐代初、7世紀前半)は青銅でも鉛の含有量が多い銀色に輝く白銅鏡。精緻なパルメット文(ヤシの葉をモチーフにした古代ギリシャやローマを起源とする文様)が幾何学的に配置されたエキゾチックさを漂わせる鏡です。

「永徽元年」方格四神文鏡(唐代永徽元年 - 650年)はキトラ古墳でも見られる四神が描かれた鏡、下側の玄武は明瞭も、上側の朱雀は殆ど摩耗してよくわからないのが残念。北の玄武なので鏡を置く向きとしては反対じゃないかとも思えるのですが、玄武が鏡の中央向きなので、これでいいのかも。

双鳳瑞花文八花鏡(唐時代、8世紀)、広いスペースに一対の鳳凰と蓮、盛唐期の典型的な唐鏡とのこと。久保惣でほぼ同じ唐鏡を見たばかりですが、鳳凰の片脚を鏡胎から浮かせているという超絶技巧だけでなく、広いスペースも冗長さがなく、こちらのほうが優れているかと。

ショーケース手前側は漢代の青銅器フィギュア。

その中の鴟鴞形水滴(六朝時代 3~5世紀、ふくろう形の水差し)は書道用の文房具の一種と思われます。同時代の辟邪形水滴 、ぱっとみカエルのように見えますが辟邪、よく見ると2本の角がしっかり刻まれています。辟邪が描かれた鏡も久保惣で見ていますが、久保惣の辟邪は龍のような形態です。

第8展示室はスイス人実業家・ウーゴ・アルフォンス・カザール「カザールコレクション」、1912年に大阪に赴任以来、日本の美術品を蒐集、太平洋戦争中から1964年に永眠するまで主に神戸ジェームズ山の外国人住宅で暮らしていたらしい。太平洋戦争時に収蔵品をアメリカへ運ぼうとしたものの叶わず、コレクションはコンテナに収蔵されたまま親交のあった大阪市立美術館に移され、その没後大阪市立美術館へ譲渡されたとのこと。

4000点以上のカザールコレクションから、めばる鏡蓋根付と陽明門が刻まれた日光東照宮牙彫印籠、いずれも明治時代。

根付がびっしり収納された収納箪笥と、猿回し木彫彩色根付。

第9展示室も「アジアの彫刻」、文殊菩薩騎獅像頭部(唐代 9世紀)も出展品リストでは天龍山石窟伝来とあります。「将来」ではなく「伝来」で、シカゴ大学のデータベースでも上述の8点には含まれておらず、天龍山石窟将来かどうか未確定のようです。

如来立像頭部(南北朝時代北魏、5世紀後半)は伝雲岡石窟将来。雲岡石窟は山西省大同市(天龍山石窟の北約300km)に位置し、敦煌莫高窟、龍門石窟と並ぶ中国三大石窟のひとつとされる世界文化遺産。

天龍山石窟から遡る北魏時代(5世紀中頃〜6世紀初頭)の開削で、高さ13〜17mもの巨大仏など北魏の国家的プロジェクトとして造営され、天龍山石窟と較べ遥かに規模が大きいこともあり比較的保存状態は良いものの、やはり20世紀初頭にかなりの盗掘にあい海外へ流出、メトロポリタン美術館、ボストン美術館、大英博物館などにその仏頭などが所蔵されています。

浮彫供養人行列図(南北朝時代北魏、永平4年 - 511年)は龍門石窟古陽洞将来。龍門石窟も中国三大石窟に数えられる世界文化遺産。河南省洛陽市に位置し、北魏後期〜唐代(5〜9世紀)のもので何と2300窟もの規模、古陽洞(Google Map)はその最も古いと言われる石窟。行列のそれぞれの人物の上に名前が刻まれていて、先頭は比丘法智師、続いて法訓王、法威王、法嵩(すう)王、王たちにはそれぞれ従者がふたりずつ付き添っています(参考)。

浮彫飛天像(南北朝時代北魏、6世紀前半)は鞏県石窟将来、鞏県(きょうけん)石窟(Google Map)は北魏時代から隋・唐代に地方の僧侶・信徒や地方豪族の寄進により造営された、河南省鞏義市(洛陽の東約60km)に位置する約30窟の小規模な石窟群。

四面像(南北朝時代西魏、6世紀中頃)、順に如来三尊像、アショーカ王施土因縁、シャカの涅槃、弥勒菩薩三尊像だそうです。涅槃の場面で悲嘆するひとたちの表情が迫力です。

「大阪の宝」展示室です。 三彩印花花文碗(唐時代、8世紀)、外側の底まで三彩の精緻な文様。

狻猊双鸞唐草文八稜鏡(唐代、8世紀)、狻猊(さんげい、二足立ちの獅子)と鸞(らん、歳をとった鳳凰)がそれぞれ対に配置され、上掲の双鳳瑞花文八花鏡同様に鸞の片脚が鏡胎から浮いています。

重要文化財 尾形光琳 円形図案集は光琳のデザインブック。

上田公長画、篠崎小竹賛「蟹子復讐之図 」、さるかに合戦の一場面を描いたもの。二本足のカニが「栗」にきび団子を与え仲間にする場面。針を杖のように立てている「ハサミ」、杵のようなものを持った「臼」も描かれています。「大阪の宝」ウェブサイトのバーチャル体験展示室で物語の概要やキャラクター紹介が動画になってました。

「中国のやきもの」の展示室。ここでも円文双耳壺(新石器時代、紀元前2200-紀元前2000年)、説明には「馬家窯文化(甘粛省仰韶文化)」とあり馬家窯文化と仰韶文化が一緒にされているのですが、弥生文化博物館の双耳壺とほぼ同じ文様なので、仰韶文化ではないかと思われます。

色鮮やかな唐三彩の壺です。釉垂れが抑えられた古美術として価値の高い一品らしい(参考)。

 

古代青銅器の鬲(れき)の形態を模した龍泉窯青磁の鬲式香炉(南宋-元代、13世紀〜14世紀)、口縁のふたつの鉄班が景色ですね。

景徳鎮窯の青花蓮池文瓶(元代、14世紀)、景徳鎮窯で生み出されその後の世界のやきもののスタンダード技法となった白地の青い文様の「青花青磁」。

景徳鎮窯の青花釉裏紅氷裂文壺(清代、18世紀-19世紀)、赤地や青地の文様のいろんな形に区切られた区画に和風の菊や桜。中国での日本趣味、それとも日本からの注文?想像が膨らむ、とのコメント。

加彩駱駝(南北朝時代北魏、6世紀)、シルクロードとの往来を伝える動物俑です。

最後は「絵になる人々」、豊臣秀吉像、作者は不明も東福寺禅僧・惟杏永哲による慶長5年の賛が書されていて、秀吉没後まだ2年で描かれた像です。重要文化財で高台寺蔵・狩野光信の豊臣秀吉像とそっくりで模倣したものと思われますが、表情はこちらの方がキリッとしてます。伝江口君像や重要文化財で天龍寺蔵の円山応挙像も展示されていたものの本館蔵ではないので撮影NG。

慶沢園側の出口から外に出るとテラスが設置されていました。慶沢園の池がよく見えるのですが何もいないようです。慶沢園も65歳以上の大阪市民は無料なのでぐるっと回ってみたものの暑いだけでした。

天王寺動物園から新世界

新世界でプファーすべく、65歳以上の大阪市民無料の天王寺動物園を抜けて行くことにします。ホッキョクグマとフンボルトペンギン。

工事中エリアはさらに広がってしまい、動物園全体の1/3くらいが工事中です。羽繕いした時に嘴に刺さった羽がそのまんまのワライカワセミ。

神戸どうぶつ王国だと遮るものなしで間近に見られるレッサーパンダはガラスの向こう。カバと一緒にいる鳥はエジプトガン。

キリンのコウヤ君。あべのハルカスとキリンのハルカスちゃんを一緒に撮れないかと試してみたら、iPhoneの超広角で右端にハルカス、左肺にコウヤ君の一部が撮れました。

ジャンジャン横丁のお寿司の大興は行列ができていたので、やまと屋で串カツ。串カツ店と寿し屋が隣接し小さい窓でつながっているのでお寿司もいただけます。

デザートのチョコバナナ、かかっているのは串カツのソースじゃなくてチョコレート、さほど甘くなくてなかなか行けます。3杯目のプファーはサービス。

金ダライに瓶のコーラとラムネ。強い日差しで白く見える通天閣です。

天龍山石窟石仏

さて、天龍山石窟について。天龍山石窟を最初に発見したのは、考古学者の関野貞(せきのただし、北浦定政が作成した平城京復元図を元に調査研究し平城宮の発見を確立した東大教授)で大正3年のこと。観仏日々帖さんのブログに天龍山石窟の発見と石仏流出物語が詳しくかつとてもわかり易くまとめられていました(その1その2その3その4その5その6)。上述のシカゴ大学Tianlongshan CAVES PROJECTサイトも観仏日々帖さんのブログからの情報です。

関野貞による発見の4年後、北京の写真館主・外村大治郎らによって、「豹や狼の棲むところの断嵯絶壁を攀り、梯子登りや綱渡り軽業」しての約1週間の調査が行われ、天龍山石窟(早稲田大学図書館のデータベース)という写真集が大正11年に刊行されています。シカゴ大学サイトの盗掘前の写真はこの写真集によるものです。

しかしながらこの写真集が凄まじい盗掘の契機となり、3年後の1925年にはスウェーデンの美術史家、オズワルド・シレンによる「Chinese Scurpture」が刊行され結果的に追い打ちをかけるものとなってしまったようです。清朝崩壊後の混乱期だったこともあり、目を覆うばかりの破壊が行われてしまいました。

盗掘された石仏を日本や欧米にもたらしたのは大阪に本社を構え、ニューヨークやロンドン、北京などに支店をおいていた美術商の山中商会。社長の山中定次郎自身が天龍山石窟を二度訪ね、一度目はその素晴らしさに大いに感動も、二度目の訪問ではその惨状を目の当たりにして悲嘆、盗掘された仏像の回収に奔走し45点を回収しています。その多くは東武鉄道の根津嘉一郎に買い取られ、イギリス、フランス等ヨーロッパに寄贈され、東博と根津美術館にも数点ずつ遺されています。

第二次大戦後、シカゴ大学による天龍山石窟石仏群の調査、復元を試みる活動が行われ、日中国交正常化後に日本人による活動も行われています。現在、国内では30点の天龍山石窟石仏が所蔵され、内最多の8点(仏頭は4点)が山口コレクションとして大阪市立美術館所蔵と分かりました。大阪市立美術館の8点が山中商会や根津嘉一郎の手を経たものかは不明ですが、山中商会については可能性が高そうです。

今日の中国では山中定次郎を天龍山石窟の破壊・略奪的流出の張本人と厳しく指弾されているものの、山中の天龍山石窟石仏への愛着も単なるビジネスではなかったようです。この辺の善悪の判断はとても難しいです。中国に限らず、エジプトやギリシャ、メソポタミアの古代美術品が、大阪市立美術館や東博以上に、メトロポリタン、ルーブル、大英博物館などに流出しています。廃仏毀釈で散逸した奈良時代から鎌倉時代の寺宝、尾形光琳や俵屋宗達、さらには膨大な浮世絵も海外に流出しています。これらの流出した美術品が、制作された国や時代の文化への深い理解や憧れにつながったことも間違いありません。ただ石窟石仏のように破壊を伴う流出には頭を抱え込まずにいられないです。

観仏日々帖さんのブログに感銘を受け、天龍山石窟石仏がなぜ今、大阪市立美術館にあるのかを自分なりの理解をまとめてみたのですが、とても十分に伝えきれるものではなく、多くの文献をあたり、とてもわかりやすく執筆されている上述のその1からその6をじっくり読んでいただければと思います。