摺師上町乙傘

8月17日までの「ようこそオーサカ、ようこそニッポン ―なにわ名所と物産図会―」を見たくて6月に訪ねたばかりの久保惣へ。

いつもと趣向を変えて黒背景白文字にしてみました。浮世絵を撮った下手な写真を見やすくするためです。浮世絵にはパッと見ただけでは気づかない細かい描き込みがいっぱい、それを見つけるのはとても楽しいです。スマホの場合、タップして拡大した写真をピンチアウトすると細部までよく見えるので試してみてください。以下、電車はすっ飛ばして浮世絵はこちら

3番線のこうや号は4連1編成しかない31000系、2番線の元泉北高速5000系区間急行に乗り込みます。南海カラーへの塗装変更が発表されており、今のうちに記録しておきます。南海で先頭車貫通扉が無い車両はラピートと30000系こうや号だけ、一般車としてはヒゲ新こと旧1000系/丸ズームこと21000系以来ということになるはず。

正面窓が大きくて、運転士さんも窓前にバッグを置かなかったのでとても見晴らしのいいカブリツキです。対抗は11000系の泉北ライナー、こちらも4連1編成だけの車種。山岳区間対応かどうかは別として、上掲の31000系の車体を18mから20mに伸ばしただけと思っていたのですが、車体形状やパーツの配置がかなり違っています。

泉北ニュータウンらしい景色のカブリツキです。やってきたのは元泉北高速7000系、南海移管後も7000系の車番を引き継いだようです。

和泉中央に到着。前回は行きは徒歩、帰りはバスだったのですが、自転車駐輪場でレンタサイクルをやっていると分かりました。電動アシストで1日600円は安い。

自転車を走らせながら見つけたお店でランチ。お造り御膳と天ぷら御膳があってどちらも1,150円。何気なく天ぷらにしたのですが、どちらもお造りと天ぷらがついていて、お造りメインか天ぷらメインかの違いのようです。ご飯は白米は麦飯かを選べて麦飯にしました。プリプリの大きな海老天2本にとても満足したのですが、税別だったのがちょっと残念。

ランチのお店から見覚えのある桃山学院大学前に出て来ました。向かい側は宮の上公園、この中にあるいずみの国歴史館にあとで立ち寄るつもりです。ここから久保惣まで前回歩いたルートを辿ったのですが、電動チャリでもかなり起伏が激しい地形と分かりました。

久保惣美術館に到着。徒歩30分くらいの道のりが電動チャリで10分くらい。帰り際に撮った外観の写真です。ウザい電線は削除しておきました。

新館の「ようこそオーサカ、ようこそニッポン ―なにわ名所と物産図会―」です。特別展じゃなくて常設展の一部とされていて、常設展の入館料500円の65歳以上2割引で400円でした。

なにわ名所図会と物産図会

橋本貞秀「浪速天満祭図」、画面右の大勢が踊っているのは難波橋、左の万博会場のように大勢が渡っているのは天神橋、その向こうに小さく天満橋。天神橋の向こうにお城、天神橋の向こう岸からは花火が打ち上がっています。生駒じゃなくて伊駒山、クラカリ峠、十三峠、カツラキ山と続いています。大川に目を転じるとよくぶつからないと思うくらいの舟、舟、舟。舟には描かれた人と比べると10m以上ありそうな関羽人形や清正人形も。青森のねぶた祭りのようなものではないかと。橋本貞秀は下総布佐生まれ、歌川貞秀とも号した歌川国貞門人、幕末から明治の浮世絵師。以下の作品では「浪花」なのに本作は「浪速」です。

葛飾北斎「諸国名橋奇覧 摂州天満橋」、これも天神祭を描いたもので橋の上に見物人はびっしりですが、川は貞秀に比べるとかなり寂しい。北斎は文化9年と文化14~15年頃に大坂に来ていて、北洲や北敬といった大坂の浮世絵師が北斎に弟子入りしているらしい。

歌川豊春「浮絵 浪花天満天神夜祭之図」、浮絵とは遠近法で描かれた浮世絵、豊春は歌川派の祖で、芝宇田川町に住んでいたことに由来するらしい。渋谷じゃなくて都営地下鉄御成門駅付近です。

難波橋の上で天神祭の花火の火の粉から逃げ惑っている男たちと団扇で火の粉を防いでいる女性を描いた一鶯斎芳梅「滑稽浪花五拾景 なにハばし」。吉梅は歌川国芳門下で歌川芳梅とも号する江戸時代末期から明治の大坂の浮世絵師。

歌川広重「浪花名所図会 八けん屋着船之図」、東海道五十三次の安藤広重です。安藤は本姓、広重は号で本人も安藤広重とは名乗っておらず歌川広重と呼ぶのが正確らしい。重そうな荷物を担ぐ荷役の男たち、姉さんかぶりの女性たち、菅笠を手にした船場あたりの商家のだんさん、舟の上で飯を食らうふたり、聞き取れない話し声がざわざわと聞こえてきそうな見飽きない一枚です。

一鶯斎芳梅「浪花百景 四ツ橋」、右上が北で上繋橋、右下が炭屋橋、左下が下繋橋、左上が吉野屋橋。ザーッという音が聞こえてきそうな雨。

一鶯斎芳梅「滑稽浪花五拾景 桃山」、わがまち上本町です。酒樽を担いだ花見の人たちが友達を見つけ手をふっているところ、酒樽のタガが外れ、こぼれた酒を物乞いが受け取っているシーンです。

上町台地東斜面は日当たりがよく果樹栽培に適していて、明治時代まで桃畑が広がっていました。今も桃谷、桃山、桃坂、桃陽といった地名が残っています。上掲の桃山学院は英国聖公会により川口外国人居留地に設立された三一小学校が前身で、1891年に筆ケ崎町に移転した際、梅の名所であったことから桃山学院と改称されています。現在の大阪赤十字病院付近です。住所には残らないものの、阪急オアシス桃坂店、UR桃坂コンフォガーデン等建物名に引き継がれています。桃陽の名は近所の人たちが丹精している桃陽ハッピーガーデンに残ります。

桃だけでなく梅でも知られていて、近鉄上本町店辺りには「梅屋敷」と呼ばれた梅園がありました。上本町Yufuraの回りにには梅の木が植えられていて今も毎年春の訪れを知らせてくれます。

もう一枚は歌川芳豊「浪花百景 うぶ湯」、筆ケ崎から近鉄と千日前通を渡った小橋公園にある産湯稲荷神社で、狐に化かされて大名行列の奴さんを気取る男の図です。坂のスロープに建つ産湯稲荷神社の様子は今もそのままです。

葛飾北斎「諸国名橋奇覧 摂州阿治川口天保山」は富嶽三十六景の後、天保5年頃の作。安治川の浚渫工事の土で天保山が作られたのは天保2年、現在は日本一低い山として知られる天保山の標高は4.53m、お祭り騒ぎの工事でできた当時でも標高は20mだそうで、北斎の絵はちょっと誇張し過ぎな気が。

六花園芳雪「浪花百景 天保山」、海側から見た図で手前が天保山、向こうに御城があって背景は生駒です。左側の杭は今も大阪市市章となっている澪標、船に水深を知らせるためのもの。

岳亭五岳「大阪天保山夕立の景」、岳亭春信とも号した幕末期の浮世絵師・戯作者。葛飾北斎に師事、文政から天保期にかけ数回に渡り京・大坂に滞在していたらしい。本作の構図はどうみても北斎の神奈川沖浪裏のパクリ、日本一高い富士山の代わりに日本一低い天保山がこれみよがしに大きく描かれています。神奈川沖浪裏と比べて波がさほどダイナミックでない分、山が目立ちます。江戸時代の作品のはずですが、大坂ではなく大阪になってます。ちなみに写真が歪んでいるのはガラスケースに映り込む照明を避けるため。

六花園芳雪「浪花百景 勝鬘院愛染堂」、上町台地の西側の崖に建つ勝鬘院、愛染娘さんたちによる愛染祭は大阪の夏祭りのトップバッター。自分の現住所からかつては海も見渡せたと思わせる一服ですが、描かれた山は六甲じゃなくてたぶん天保山、大きすぎます。

ここからは三代歌川広重「大日本物産図会」シリーズ、その「千島国海獺採之図」です。千島国は戊辰戦争直後に制定された日本の地方区分、本作が描かれた明治10年時点では占守島などの北千島までが含まれています。シーカヤックにのった猟師たちの海獺(らっこ)猟の様子。

同じく「北海道函館氷輸出之図」、五稜郭の堀の水が凍った氷を切り出し、東京や横浜へ輸送し販売していたらしい。東京や大阪と違って、北海道では明治10年頃でも皆洋装です。

「下総国醤油製造之図」、積み上げられた醤油樽には「亀甲に万」。

堺刃物店を描いた「泉州境打物見世之図」、柱の向こうで刃物を打っているところからは刃物を打つ光と音が線で描き込まれています。店先には散切り頭の男性もふたりばかり。断髪令(散髪脱刀令)が発布されたのは明治4年、ちょんまげを禁止するものではなく、髪型の自由を布告したもので、この頃もまだ多くはちょんまげです。大坂と大阪、浪花と浪速、生駒と伊駒、安治川と阿治川、堺と境、あまり気にすることもなさそうです。

他にも伊豆国椿油、伊勢国鮑、若狭国鰈、摂津国伊丹酒造、大和国葛粉、和泉国桜鯛、紀伊国蜜柑、大隅国煙草など、三代歌川広重「大日本物産図会」シリーズが惜しげなく展示されていたものの割愛します。散切り頭の民衆や鉄道、洋風建築など文明開化期の世相を描いた三代歌川広重の浮世絵や錦絵は、初代歌川広重のような情緒はあまり感じさせないものの、当時の人々へ新しい時代の到来を知らしめる役割も果たしていたようです。

久保惣本館

シャガールやゴッホ、ルノアールの西洋近代美術の展示は前回と変わっていないようなので、移動します。

中庭のスイレンの池のショウジョウトンボは6月にもいました。ガマの穂にもショウジョウトンボ。

6月はアオモンイトトンボだったのが、今日はクロイトトンボ。

市民ギャラリー前で係の人に浮世絵ワークショップの案内を受けました。ちょっと迷って整理券をもらっておきました。実はワークショップだけじゃなく久保惣記念美術館で文楽とオペラを楽しもうというイベントがあって、入館時に案内されたものの、2時間の観劇はちょっと気が引けてパスしてしまったのですが、改めて見直してみると豊竹若太夫さんという大看板も出演と分かりちょっと後悔しています。

本館の展示室5は少し人が多かったので素通りして一番奥の展示室6、誰もいませんでした。

前回は円山応挙の老松鸚哥図が展示されていたケースはごそっと変更されていて、壺や器が8点、どうやら展示室5の「古美術の中の舶来」の続きと分かりました。。

古代ローマ(紀元前3世紀)の「青銅 パルメット文水注」、パルメットとは扇形に開いた植物文様、器の胴部分をよく見ると文様が見えてきました。

「ガラス瓶(へい)」はヨーロッパもしくは地中海沿岸2~5世紀の説明のみ、とても美しい瓶ですが出自はあまり良く分かっていないものと思われます。

ササン朝ペルシャの「響銅 瓶」と「響銅 七曲把手杯」、響銅は叩くと良い音がする銅80%と錫20%の合金で「さはり(佐波理)」とも呼ばれます。

平常陳列「中国の工芸品」は変わりなし、お気に入りの「円文双耳壺」を上の方から撮ってみました。4千年以上前の美しい幾何学文様です。

「青白磁刻花唐草文水注」を前回と別の角度から。南宋期の景徳鎮です。

鼻煙壺の展示ケースに追加されていた清代の「紅玻璃 碗」、この器では食べ物が美味しく見えないように思います。

展示室5の「古美術の中の舶来」に戻ってきました。後漢の「東王父西王母辟邪車馬画像鏡」、下側に2本の角を持つ魔除けの獣・辟邪、上側には西洋風な馬車、左側は東王父と従者、右側は西王母と従者のようです。国内で出土例がないと思われる見たことのない鏡、とても状態も良いようです。

唐代の「対鳳蓮花文八花鏡」、両側に鳳凰、下側にもう1羽の小鳥。見慣れた青銅鏡と較べ、何も描かれていないスペースが多くて物足りない感じがします。

平安時代仿製(国産)の「唐草鴛鴦文八稜鏡」、古墳時代がとっくに終わっている平安時代にも青銅鏡が作られていたのは意外。

唐代の「海獣葡萄文鏡」、同形の鏡が高松塚古墳から出土しています。

重要文化財の「響銅 水瓶」は奈良時代の倣製品。

重要文化財「響銅 鵲尾形柄香炉」、末広がりに作られた柄を持つ香炉、柄の形が鵲(カササギ)の尾ににることによる名称。

重要文化財「黄瀬戸 立鼓花入 銘旅枕」中国古代の青銅器の觚(こ)の影響がうかがえる桃山時代の侘茶の花入。

その元祖ともなるような鼓の形をした商時代(紀元前13~11世紀)の「饕餮龍文觚」が並べられていました。グロテスクともいえる饕餮文の青銅器から、釉薬ムラが景色と評価される侘び寂びの世界への進化はこの国ならでの美意識かと。

明代龍泉窯の青磁「不遊鐶瓶」、すべすべの淡い緑がなんとも美しい。

本館を出て茶室へ向かおうとすると係の人がやってきて、茶室内の見学は日曜日だけとのこと、とりあえず近くまで行ってみました。槇尾川にかかる橋には「洗塵橋」と名前がついてました。

ワークショップ

なまこ壁の蔵を改造した市民ホールに戻ってきました。なまこ壁をバックにルリマツリ。

市民ホールの浮世絵ワークショップに参加します。クリアファイルに入ったA4の白い紙を2枚渡されました。「うなぎ」と「富士山」がありますとのこと。 それぞれのテーブルに、色別に凸版とスタンプ台、型抜きしたアクリル板が並べられていて、色毎にローラーでスタンプ台のインクを凸版に塗る、凸版に紙をおきアクリル板を被せバランでこする、という工程を繰り返します。

ワークショップというと子どもたちばかりかと思いきや、意外や大人ばかりでした。係の若い人たちが付いてくれてミスのないように丁寧に教えてくれ、さらに面映ゆくなるほどお世辞をくれます。「うなぎ」じゃなくて「ねこ」の間違いかと思いきや、やはり「うなぎ」でした。

できあがった2点、歌川国芳「猫の当て字 うなぎ」と葛飾北斎「冨嶽三十六景 凱風快晴」、摺師はいずれも上町乙傘(おっさん)です。意外ととても楽しかった。乙三、乙参、乙酸、乙餐、乙産、乙算…、色々考えて乙傘にしました。

青銅器以上に浮世絵にハマってきた感じがします。見ていなかった「べらぼう」も、舞台が吉原から日本橋へ変わったあたりから見始めました。中でも蔦重の妻、ていさんがお気に入り。メガネフェチです。

いずみの国歴史館

いずみの国歴史館にやってきました。宮の上公園の入口から坂道を下りたところかと思い込んでいたのですが、入口左手の建物の中と分かりました。

展示室一室だけの博物館ですが、和泉市の歴史が一気通貫で展示されています。

まずは縄文時代以前、岩宿時代という言葉は初めて、縄文時代の前、後期旧石器時代を指す時代区分名で、群馬県岩宿(いわじゅく)の縄文時代より古い関東ローム層から出土した打製石器に因むと分かりました。

眉毛のつながったお面は和泉市仏並遺跡から出土した縄文時代後期の土製仮面のレプリカ。忍者ハットリくんとこち亀の両さんを足して2で割ったような感じです。

続いて弥生時代、目を引いたのは池上曽根遺跡出土の石製分銅。弥生時代に度量衡の概念が存在していたことになります。

尼崎市歴史博物館でも大量展示されていたイイダコ壺です。イイダコ壺の数では負けている分、大型の弥生土器を大量陳列。

古墳時代のコーナーです。手前の赤いマットの上は蓋形埴輪の破片、青いマットは靫形埴輪の破片。

和泉黄金塚古墳出土の景初三年銘画文帯四神四獣鏡(レプリカ)、現品は東京国立博物館で、重要文化財「画文帯同行式神獣鏡」となっていました。

ここ泉北丘陵は古墳時代から平安時代にかけての日本最大の須恵器生産地。窯跡は800基以上あるらしく、その出土する須恵器も膨大な数のようです。下駄箱のような棚に須恵器が無造作なくらいに陳列されています。

奈良時代〜平安時代のコーナーです。奈良時代の始めまでは和泉国は存在せず河内国の一部だったものの、和泉宮、和泉監などの行政機関は河内国とは別に設置されていたようです。天平宝字元年(757年)に大鳥、和泉、日根の三郡で和泉国が成立。

平安時代以降は端折って来ました。ロビーのマガジンラックに「阪和ニュース」、阪和電気鉄道の広報誌です。昭和8年2月1日号には「人気女優入江たか子来る」で浦辺粂子さんの名も。芸能人を呼んでの節分豆まきはこの当時も行われていたと分かります。葛の葉稲荷最寄りの阪和葛葉駅は現在の北信太駅、もず八幡最寄りの仁徳御陵前駅は現在の百舌鳥駅です。おばあちゃん役ばかりのイメージが強い浦辺粂子さんですが、昭和8年では30歳、かなりの美人だったようです。

「城東線電化、2月26日から」は阪和電鉄視点で「和歌山より東京、名古屋、京都、下関、神戸方面への旅は城東線阪和線経由が最短コースであるとともに安易且つ快適」とアピール。南海と熾烈な競争を繰り広げていた頃です。

昭和8年5月1日号では「春木競馬、急行停車、大増発」、春木競馬期間中急行電車を久米田駅に臨時停車する外大増発、駅から競馬場までは5人乗1台50銭の自動車便があるとのこと。昭和49年まで開催されていた春木競馬は南海線春木駅と阪和線久米田駅の中間より少し春木よりで現在は岸和田市中央公園。自分が子ども頃、南海線でも競輪だけでなく競馬開催日も急行の臨時停車や、春木行きの臨時列車も運転されていたのですが、酒臭いおっちゃんが多かったりしてあまり居心地の良くなかったので避けるようにしていた記憶があります。大掃除で見つけた古新聞みたいにキリが無いので、この辺までにしておきます。

ロビーにも須恵器の大甕。

今日の相棒です。白いひもはモバイルバッテリーでスマホを充電中のため。

難波に戻ってくると1番線に無塗装の6000系。1番線は「天空」の後釜となる新しい観光列車運行のため工事中。今日の高島屋前です。