唐古・鍵遺跡
田原本の唐古・鍵遺跡へ、古墳時代より前、弥生時代の遺跡です。
三宅町
近鉄橿原線の石見駅に到着、緑のテント屋根は構内踏切のある近鉄駅のデフォルトです。
日本で2番目に小さい町・三宅町の観光案内、町内にもうひとつある駅、但馬駅は4年前に訪ねています。石見、但馬と山陰道両端の旧国名が、2つしかない三宅町の駅名になっているのが面白い。石見も但馬も現存する大字名で、調べてみると石見の北隣には大字三河もあります。4年前も書いたように三宅は屯倉、つまり倉庫ないしは物流拠点を意味します。物流だけじゃなく石見や但馬、三河の人々が古代に移住して居を構えたものと思われます。
新池の角に石見(玉子)遺跡の案内、隣接するバス停のような小屋に埴輪のレプリカが展示されています。現在地から南東約200mのところに前方後円墳があったそうですが、既に宅地化されてしまい痕跡すらないようです。(玉子)の意味はさんざん調べてみたものの不明です。
「椅子に腰掛けた男」埴輪の実物は橿原考古学研究所に展示されていてイワミンというゆるキャラのモチーフになっているそうですが、実物とレプリカで顔つきや体型がずいぶん違っていて、実物の方が可愛い。
唐古池東側からの眺めです。周囲は桜並木になってます。
黒い部分のないスズメ、久しぶりのニュウナイスズメ、何と9年ぶりです。
真横の山は龍王山、山頂と現在地の中間辺りに長岳寺があります。
唐古・鍵遺跡から歩くこと30分、田んぼの向こうに突如出現した巨大建物、あそこが目的地のようです。
目をつぶってキスを待っているような人形土製品。反対側にはヒスイ製勾玉。いずれも手前の部屋と奥の部屋をつなぐ狭い場所にひとつずつ大切に陳列された出土品です。
唐古・鍵バーチャルミュージアムで確認してみてください。
「唐古・鍵遺跡から纏向遺跡」のパネルです。700年もの間、何度も水害で壊滅的な被害を受けても環濠を再構築し復活した唐古・鍵ムラも弥生時代後期末から古墳時代初頭(紀元2世紀)には環濠が埋没し、その規模を縮小しています。唐古・鍵の規模縮小と4kmしか離れていたい纏向の出現がリンクし密接な関係があったことは間違いないとのパネルの一言は衝撃的です。つまり邪馬台国であった(かもしれない)纏向に唐古・鍵の人々が移動し、邪馬台国を作った可能性が高い、と暗示しているようです。
唐古・鍵遺跡のすぐ北側にある清水風遺跡から出土の前漢鏡、紀元1世紀頃から唐古・鍵遺跡には西方からの遺物が流入していたそうで、唐古・鍵の人々が単なる農業のムラではなく邪馬台国建国を支えるほどの政治力や生産力を持っていたのかも知れません。
APPENDIX
唐古・鍵ムラが邪馬台国の礎となった可能性があると確認できたことにはかなりテンションが上がりました。古墳めぐり同様に弥生時代もかなり面白い。弥生時代の遺跡というと子供の時に学んだ静岡の登呂遺跡(訪ねたことがあるような記憶がうっすらあります)、それに佐賀の吉野ケ里遺跡(大授搦を訪ねた時に前を素通りしたことがあります)が代表的ですが、大阪府にもあると分かりました。訪ねたい場所が増えすぎて困ってます。
実は若一調査隊が訪ねていたのを見て自分も唐古・鍵遺跡を訪ねたくなった次第。改めてもういちど見てみると、まだ発掘調査は全体の1割り程度でしかなく、まだまだ新しい発見があるはずとのコメントにもテンションがあがります。