唐古・鍵遺跡

田原本の唐古・鍵遺跡へ、古墳時代より前、弥生時代の遺跡です。

三宅町

近鉄橿原線の石見駅に到着、緑のテント屋根は構内踏切のある近鉄駅のデフォルトです。

日本で2番目に小さい町・三宅町の観光案内、町内にもうひとつある駅、但馬駅は4年前に訪ねています。石見、但馬と山陰道両端の旧国名が、2つしかない三宅町の駅名になっているのが面白い。石見も但馬も現存する大字名で、調べてみると石見の北隣には大字三河もあります。4年前も書いたように三宅は屯倉、つまり倉庫ないしは物流拠点を意味します。物流だけじゃなく石見や但馬、三河の人々が古代に移住して居を構えたものと思われます。

石見集落を歩きます。塀の下に咲いたよく見かける花はヒメツルソバ。

そこらじゅうに水路、石見が嵌合修羅だったことが分かります。

パッと見バイカモみたいですが、花の形と色が全然違ってます。散々調べてみたものの不明。

垂れ下がった可憐な紫はデュランタ。キチョウが止まってれました。

新池というため池の公園、正面は竜王山。

在来種のカメではと思ったものの、目の後ろに赤味があり、やはりミシシッピアカミミガメ。

新池の角に石見(玉子)遺跡の案内、隣接するバス停のような小屋に埴輪のレプリカが展示されています。現在地から南東約200mのところに前方後円墳があったそうですが、既に宅地化されてしまい痕跡すらないようです。(玉子)の意味はさんざん調べてみたものの不明です。

「椅子に腰掛けた男」埴輪の実物は橿原考古学研究所に展示されていてイワミンというゆるキャラのモチーフになっているそうですが、実物とレプリカで顔つきや体型がずいぶん違っていて、実物の方が可愛い。

通り道のお宅の門柱に置かれたハニワモドキ、自分はひょっこりひょうたん島のドン・ガバチョを思い出したのですが、左右逆も手は東大寺大仏さんのポーズです。

あまりキレイじゃない寺川を渡ると田原本町、橋を渡って三宅町側を振り返ったところです。

渡ってきた今里橋の南側に問屋場のある川湊があったそうです。寺川は大和川に合流し、明治に鉄道が開通するまで大坂との物資の交流が盛んだったようです。

杵築神社境内のエノキの大木に藁がぐるぐる撒かれています。端午の節句の蛇巻き(じゃまき)と呼ばれる行事のものだそうです。

唐古・鍵遺跡 史跡公園

唐古・鍵遺跡 史跡公園に到着。公園のシンボルとなる復元楼閣です。遺跡の北半分が田原本町大字唐古、南半分が大字鍵で唐古・鍵遺跡です。

立ち並ぶ柱は2200年前に建っていた大型建物跡。地面に下りてきたのはリスアカネ。

環壕集落を象徴する何本もの濠が復元されています。

公園から国道24号を渡ったところに道の駅レスティ唐古・鍵、遺跡見学の前に腹ごしらえ。

酒井藍ちゃんは田原本町の出身、いつもよりお化粧薄めです。

1階にカギベーカリー、2階にからこカフェがあります。カフェのおにぎりセットにしました。にぎりたてのホカホカ特大おにぎりに具だくさんの味噌汁と茄子の煮浸し、ちりめん山椒を選んだら、おにぎりの上にのっているだけでなく、中にびっしり詰まっていて満足。

公園に戻り遺構展示情報館兼公園事務所に入ると、室内に大型建物跡の発掘現場が再現されています。表の大型建物跡より古く紀元前3〜4世紀のもの。

何重にも張り巡らされた濠に囲まれた近畿地方最大の弥生時代のムラ、紀元前6世紀から紀元3世紀までの700年も栄えていたそうです。

まつりの風景のジオラマ、こんな高床式の建物が大型建物跡に建っていたようです。

楼閣が描かれた絵画土器、土器片に刻まれた線画を元に、渦巻きの棟端飾りついた2階建楼閣が再現されています。

唐古池の隅っこに復元された楼閣。池は江戸時代に造られた農業用のため池です。

楼閣は池の土手から離れていて入ることはできません。

唐古池東側からの眺めです。周囲は桜並木になってます。

黒い部分のないスズメ、久しぶりのニュウナイスズメ、何と9年ぶりです。

池のぐるりで唐古・鍵遺跡から出土した岡山県や愛知県の土器が紹介されています。全国から人やモノが集まるほどの賑わいがあったと伝わってきます。池にはカイツブリ。

池の東側には環濠群、環濠にイネ。

タニシかと思ったら黒いカタツムリとまだら模様のカタツムリ。

歩く道をしきりに飛び交っているのはトノサマバッタ。

唐古・鍵遺跡史跡公園の東側にコスモス畑、正面は三輪山、ここから纏向遺跡まで直線距離で5kmもありません。コスモス畑の隣はヒマワリ畑。

若草山もよく見えます。ここから約15km。

唐古・鍵考古学ミュージアムへ向かいます。遺跡公園から結構離れていて2kmほどの道のりです。

池の堤防で寛ぐマガモたち。道端にはイヌタデ。

真横の山は龍王山、山頂と現在地の中間辺りに長岳寺があります。

唐古・鍵遺跡から歩くこと30分、田んぼの向こうに突如出現した巨大建物、あそこが目的地のようです。

唐古・鍵考古学ミュージアム

巨大建物は田原本青垣生涯学習センターです。800席もある弥生の里ホール、音楽スタジオや視聴覚室、調理室など設備を完備した公民館、田原本町立図書館、それと唐古・鍵考古学ミュージアムの複合施設、なぜか駐車場への出入りするクルマや集まった人がえらく多く、ちょうど田原本町文化祭開催中と分かりました。

華道の作品展示やお茶会のコーナーを抜け2階の唐古・鍵考古学ミュージアム、田原本町文化祭のため無料。

入ってすぐ左手は田原本町の偉い人の銅像ではなく、唐古・鍵遺跡から発掘された頭蓋骨から復元された紀元前4世紀の弥生人の顔です。30代前半くらいの男性、身長162cm。

「唐古・鍵ムラの四季」のパネルではほぼ完全な姿で出土した農機具と併せてムラ人の生活を紹介、米作りだけでなく、出土した種子や骨から、マメやウリ、ヒョウタン、モモなどが栽培され、ニワトリやイヌが飼われ、キジやイノシシ、シカの狩猟、川ではドジョウやウナギ、スッポンなどの漁猟も行われています。

ここでクニ、ムラ、イエ、とカタカナが使われるのは、現在の国、村、家の概念と異なる集団を意味するためのようです。

「ムラの周囲に棲む動物たち」です。遺跡公園からここまでの30分の道のりで、キジに会えるかもと期待していたのですが、ニュウナイスズメを含むスズメ、それにマガモだけでした。

一般の人々は竪穴住居に暮らし、偉い人は高床建物に住んでいたようです。

唐古・鍵遺跡全体像のジオラマ、ど真ん中が復元楼閣の位置です。画面下の黒いモノは自分が首からぶら下げているカメラのレンズです。18mmから300mmと広角から望遠までカバーしているのでずっとこのレンズ1本を着けたままです。

唐古・鍵遺跡から出土した絵画土器の欠片多数、復元楼閣の渦巻きも見えます。

シャーマンフィギュアの衣装や武具がカッコいい。女性シャーマンの衣装には簡略化された鹿の絵、絵画土器に刻まれた絵が簡略化して象形文字のような役割を果たしていたのかも知れません。

弥生時代には既に機織りの技術が確立していて、動物の皮を剥いで作った衣服じゃなくて植物繊維の柔らかい衣服が普及していたと分かります。鋳造の技術は大陸からもたらされ銅鐸などが造られていました。

上町のおっさん(自分)は集団行動が大の苦手、農耕社会の村落共同体だったであろう弥生時代だと早々に村八分にされていたかも、と不安を感じたものの、機織り職人や鋳造職人には偏屈なおっさんもいたはず、であれば自分も生活して行けそうと感じた次第。

目をつぶってキスを待っているような人形土製品。反対側にはヒスイ製勾玉。いずれも手前の部屋と奥の部屋をつなぐ狭い場所にひとつずつ大切に陳列された出土品です。

唐古・鍵バーチャルミュージアムで確認してみてください。

ムンクの叫びを彷彿とさせる困ったさんの絵画土器。弥生時代も何かと悩みが尽きなかったようです。

「近畿地方以遠との交流」のパネル、江戸時代に寺川を利用した問屋場があった今里村のように弥生時代は唐古・鍵も大和川を利用した港として機能していたと紹介されています。吉備や讃岐を越えて遠く筑前や対馬とも交流、まだ文字の無い世界での交易で、絵画土器のような絵が証文として使われていたのではないかと推測してみます。さっきのヒスイ製勾玉は糸魚川の姫川で採れたもののようです。

魏志倭人伝に2世紀後半に倭国乱れるとあり、唐古・鍵遺跡から出土の石鏃も弥生時代前期は1gほどの狩猟用ものだったのが中期後半には6gもの武器として大型化しているそうです。

奈良盆地南部の主な弥生遺跡の航空写真、実にたくさん点在しています。石見(玉子)遺跡は古墳時代なのでこれだけある遺跡に含まれていません。

さらにもうひとつの小部屋は弥生時代を過ぎた古墳時代の展示室。近つ飛鳥博物館などと比べるとずっと小さな博物館ですが、展示品や説明がびっしりでかなり見応えがあります。

羽子田古墳群から出土の盾持ち人埴輪。羽子田遺跡は田原本町中心部にある田原本幼稚園の隣接地らしい。石見遺跡の南西にある笹鉾山2号墳から出土の馬と馬曳きの埴輪。

唐古・鍵遺跡出土の蓋形埴輪、蓋(きぬがさ)とは貴人にさしかける傘のこと。

羽子田1号墳の牛形埴輪、出土したのは明治30年で牛形埴輪は類例が少なく国の重要文化財に指定されており、当館開館に際して国立奈良博物館から返還され当館の目玉となっているそうです。馬同様に牛は大陸から運ばれて来た動物らしい。

「唐古・鍵遺跡から纏向遺跡」のパネルです。700年もの間、何度も水害で壊滅的な被害を受けても環濠を再構築し復活した唐古・鍵ムラも弥生時代後期末から古墳時代初頭(紀元2世紀)には環濠が埋没し、その規模を縮小しています。唐古・鍵の規模縮小と4kmしか離れていたい纏向の出現がリンクし密接な関係があったことは間違いないとのパネルの一言は衝撃的です。つまり邪馬台国であった(かもしれない)纏向に唐古・鍵の人々が移動し、邪馬台国を作った可能性が高い、と暗示しているようです。

唐古・鍵遺跡のすぐ北側にある清水風遺跡から出土の前漢鏡、紀元1世紀頃から唐古・鍵遺跡には西方からの遺物が流入していたそうで、唐古・鍵の人々が単なる農業のムラではなく邪馬台国建国を支えるほどの政治力や生産力を持っていたのかも知れません。

田原本

巨大な田原本青垣生涯学習センター、超広角でも全体が収まらず2枚で撮ってます。右手は町立図書館。なかなか財政力がありそうな田原本町です。

田原本青垣生涯学習センターからまっすぐ西へ、田原本駅まで20分ほどあります。さっき撮らなかった寺川を撮っておきます。やはりあまりキレイじゃないです。水深も浅く水運を復活させるには相当浚渫する必要があります。

古い町並みに入ってきました。

田原町本陣屋町・寺内町 寺向通り(内町通り)家並み連続立面図という精緻なイラスト入り案内板が立てられています。

歩いている通りの名前が寺向通り(内町通り)のようです。突き当りに見えるのは浄照寺の太鼓楼。江戸時代の田原本は賤ヶ岳七本槍のひとり平野長泰の領地で、その2代目領主長勝が建立した寺院だそうです。現在の田原本町役場の場所に陣屋があったものの、田原本藩が置かれていたのは幕末から明治初年の僅かな期間だったらしい。

平野長勝が町割整備した際に雨水や生活排水のために構築された田原本陣屋町・背割水路。

明治10年明治天皇の神武天皇陵への行幸があり、浄照寺はその時の行在所になっています。

田原本駅前の商店街、見た限りで営業していたのは角の花屋さんだけ。背中側に踏切があり渡ったところにローソン。踏切の東側に上り線の駅舎があり、下り線側の駅前より整備されてロータリーになっていて、その向こう側に田原本線西田原本駅があるものの人影は僅か。

田原本から上本町へは八木経由の方が早いようですが、本数が多い西大寺経由で帰ります。駅前は寂れていても電車は結構混んでいました。

APPENDIX

唐古・鍵ムラが邪馬台国の礎となった可能性があると確認できたことにはかなりテンションが上がりました。古墳めぐり同様に弥生時代もかなり面白い。弥生時代の遺跡というと子供の時に学んだ静岡の登呂遺跡(訪ねたことがあるような記憶がうっすらあります)、それに佐賀の吉野ケ里遺跡(大授搦を訪ねた時に前を素通りしたことがあります)が代表的ですが、大阪府にもあると分かりました。訪ねたい場所が増えすぎて困ってます。

実は若一調査隊が訪ねていたのを見て自分も唐古・鍵遺跡を訪ねたくなった次第。改めてもういちど見てみると、まだ発掘調査は全体の1割り程度でしかなく、まだまだ新しい発見があるはずとのコメントにもテンションがあがります。