土塔と狭山池
先月堺市博物館を訪ねた時にボランティアガイドさんから教えてもらった土塔の特別公開へ。
土塔5つ分くらいの広さがある土塔町公園、南側は元々池だったと思われる凹んだ空地が広がっています。国土地理院地図で1979年〜1983年の航空写真と標準地図を見比べるとやはり池です。
美しい瓦がびっしり。土塔は奈良時代に行基が建立した十三重の塔、神亀4年(727年)着工から2年で完成したとのこと。
行基の開発関連地図は宗教施設ではなく、布施屋(救護・宿泊施設)、池、堀川、船息(ふなすえ、波止場)、橋、樋(かけひ)の一覧。行基が大輪田船息を築き、平清盛が大修築して大輪田泊に発展、現在の神戸港の基礎をなしているようです。大輪田を含め摂播五泊と呼ばれ、尼崎、魚住、飾磨、室津も行基です。
岸和田育ちとしては馴染み深い久米田池も行基により造られたもの。
奈良のピラミッド、頭塔紹介のパネルも。頭塔は行基じゃなくて神護景雲元年(767年)東大寺の僧・実忠が造営。
堺市設置の石碑パネル、昭和40年代の写真でも方墳のようなこんもりした丘が広がっているだけですが、土塔は古墳ではありません。
復元された瓦の微妙な色の違いが美しい。木造の五重塔等と同じ役割の仏塔を土で構築したのがこの塔という学芸員さん(たぶん)の説明がとても分かりやすい。つまりパゴダです。ここ土塔と奈良の頭塔の他にもあるのか訊いてみたこところ岡山にもあるらしい。
帰宅後調べてみたところ、岡山県東備の山の中にある熊山遺跡と分かりました。Google Mapにアップされた写真を見るとまるでメキシコかカンボジア辺りの遺跡のよう。土塔や頭塔と異なり奈良時代の実物が残されており迫力が違いますが、対向車が来るとあたふたしそうな細い山道の奥からさらに山道を歩いたところだそうで訪ねる機会があるかどうか。
土塔てっぺんの足元には円を描いた石が埋め込まれています。数え直してみると土塔は十三重塔のはずが12層しかありません。この上に木造建物が立っていたそうで、その塔と合わせて13層になります。
推古天皇、行基、重源、片桐且元、と狭山池の築造や改修に携わった4人をアニメで紹介。行基は狭山池を築造したのではなく天平3年(731年)に改修しています。平成の改修で出土した木樋(給水のための管)の木材が推古天皇24年(616年)の伐採と判明したとのことで、上述の「1400年の歴史」をナットク。しかしながら推古天皇がこの4人に加えられているのはちょっとギモン。推古天皇が実際に築造を計画したり指揮したとは考えにくいです。
推古天皇は甥の聖徳太子を摂政として国政を委ねています。冠位十二階や十七条憲法を定め、四天王寺や法隆寺を建立しただけでなく、高市池(どこにあるのか不明)、藤原池(あやめ池駅の大和文華館が面する蟇股池)、肩岡池(王寺町)、菅原池(香芝市の籏尾池)、掖上池(御所市)、畝傍池(橿原市の深田池)、和珥池(わにいけ - 帯解の広大寺池)などの池を造り、竹ノ内街道なども整備しています。狭山池も聖徳太子が造ったのではないか、百済や新羅から技術者を招聘してつくったのではないか、と十分推測できそうです。アニメを親しみやすくすべく女性を加えたかったという制作意図は理解できるものの、やはり聖徳太子にすべきだったかも。
狭山池ができるまでのパネルで、東側の狭山丘陵と西側の泉北丘陵に挟まれた谷を流れる西除川を堰き止めて造られたことが分かります。西除川は現在も狭山池の西側から流出し、東除川と並行するように北へ流れ浅香駅の西側で大和川に合流しており、狭山池の南側へは上流が天野川と名前を変える西除川が流入しています。
今歩いて来た狭山池の北側がその堤防で一直線になっています。ため池とは言うものの実質的にダムですね。堤高が15m以上のものをダム、それ未満が池と定義されているらしく、現在の堤高は18.5mあるので狭山池ダムとも呼ばれているようです。
鎌倉時代に狭山池を改修した重源の坐像です。木樋ではなく当時付近の古墳から出土した石棺を利用して石で樋を設置したそうです。お坊さんが石棺まで利用して土木工事という現代以上の合理的思考がすごいです。坐像手前の巨石はこの時の事績を石棺に刻んだ重源狭山池改修碑(国指定重要文化財)、摂津・河内・和泉の人々の要請によって重源が狭山池を改修したこと、非人も含む老若男女あらゆる人々が工事に協力したこと等が刻まれているそうで、強制徴用とかによるものではないと分かります。
重源の開発と別所(事業拠点)のパネル、行基に敗けず劣らず、かなり広範かつ活発に活動していた重源、行基が造立も、平重衡に焼き討ちされた東大寺大仏や大仏殿を再興したのも重源です。
手前は重源が新設、片桐且元が全面的に改修した石棺等を利用した中樋、片桐且元による改修は豊臣秀頼の命によるもので、豊臣家滅亡の直前であっても、奈良時代同様に公共事業はしっかり行われていたようです。奥の塔は大正・昭和の取水塔を移設したもの。現在は平成の取水塔が稼働中。
狭山池の灌漑範囲を示す巨大ジオラマです。時代ごとの灌漑範囲をボタン操作で表示するようになっていて、写真は江戸時代中頃の最も広範囲だった頃の様子です。狭山池北堤の中樋と東樋、それに西除川から青い光のラインが伸びて、大和川付け替え前は平野郷辺りまで狭山池の水が届いていたことが分かります。
狭山池のすぐ北側にある池は現存する太満池で奈良時代に造られた狭山下池だそうです。下流にはたくさんの子池、孫池が広範に点在し、南河内をいかに豊かな土地にしていたかが伝わってきます。今は殆どが住宅地ですが、何度かアマサギを撮りに行ったことのある今も広い田園が広がる大泉緑地の西側辺りに当時の様子が伺えます。 青く光る灌漑範囲は何と仁徳天皇陵のお濠まで続いています。
外へ出ると来た時と違って水庭では盛大に滝が流れていました。狭山池の水の大切さを体感できるようにしているようです。
北堤のベンチに腰を下ろしてだいぶ日が陰ってきた狭山池を眺めます。真っ直ぐ伸びる道は堤そのもの。左端に大和葛城山、続いて金剛山。その手前が現役の取水塔。高層の住宅がいささか目障りですが、あそこが狭山遊園があった場所、それ以前は狭山藩の陣屋があったそうです。
もう1枚の正面は岩湧山、その右手は槇尾山、遠くが和泉葛城山、建物以外は古代から変わっていないと思われる景色です。今や堺市や大阪狭山市の水道は淀川から取水しているそうで、狭山池は平成の改修で灌漑より治水がメインに変えられたものの、今も1400年来現役で地域の生活に密着した水利施設、例えば今も現役の古代ローマの水道橋にも匹敵するもので世界遺産に登録されるほどの価値があるはずです。
片開きドアのガッシャーン、ガラガラ。
APPENDIX
土塔はともかくも1400年もの間改修が繰り返されてきた狭山池についてはかなり奥深く、ブログをまとめるのにかなり手こずりました。それでも新しい発見や驚きは少なくなく楽しい作業ではあります。
狭山池の歴史については多くのサイトで紹介されているものの、特に大阪学院大学・三輪信哉教授の狭山池 永遠に残すべき生きた遺跡は狭山池を最初に造ったのは聖徳太子ではないか、という上述の自分なりの見解に繋がりました。また大阪狭山市教育委員会による史跡狭山池保存活用計画書の第3章史跡狭山池の本質的価値(PDF26ページ)で現在につながるその価値を理解することができた次第。