土塔と狭山池

先月堺市博物館を訪ねた時にボランティアガイドさんから教えてもらった土塔の特別公開へ。

やってきた区間準急難波行は登場したばかりの8A系、初乗りだけじゃなく初めてお目にかかります。日曜日なので奈良線のL/Cカーはクロスシートモードのはずがなぜかロングシートモード、と思いきや半分だけクロスシートになってました。8A系で初めて導入された機能です。

古い8000系の置き換えが導入の目的らしく8A系の阪神乗り入れはまだ先のことになりそうです。

南海難波2番線の和泉中央行準急に座っていると、南海グリーンツートン復刻塗装の7100系がチラッと見え、次の和泉中央行に遅らせることにして5番線で撮り鉄。自分的には8A系より7100系の方がずっとカッコよく見えます。

2番線に戻ると次の和泉中央行は準急じゃなくて区間急行。準急と違って三国ヶ丘、百舌鳥八幡、中百舌鳥を通過、つまり阪和線や御堂筋線との連絡をシカトするイジワルな列車ですが、こんな列車があっていいと思います。御堂筋線については泉北高速線内ピストン運転の各停でカバーしているようです。

2番線の泉北高速7000系区間急行和泉中央行、4番線は6300系区間急行林間田園都市行、5番線の南海グリーンツートン7100系サザン、6番線は9000系空港急行。

中百舌鳥を通過して深井駅に到着。来年4月に南海電鉄に吸収合併されることが決まっているので、たぶんこの7000系が橋本行急行にも運用されることもあるかと。

目的地の史跡土塔まで950m、15分ほどです。

土塔

一部だけ土塀で囲まれた公園の門から土塔が覗いて見えます。

「堺のピラミッド」こと土塔(どとう)、特別公開で通常は入れないてっぺんに人が集まっています。

土塔5つ分くらいの広さがある土塔町公園、南側は元々池だったと思われる凹んだ空地が広がっています。国土地理院地図で1979年〜1983年の航空写真と標準地図を見比べるとやはり池です。

美しい瓦がびっしり。土塔は奈良時代に行基が建立した十三重の塔、神亀4年(727年)着工から2年で完成したとのこと。

土塔を囲むフェンスの周りで関連するいくつかの団体がブースを構えプレゼンテーション。まずは行基が改修した狭山池の狭山池博物館紹介。この後訪ねてみるつもりです。

お次は行基の活動紹介のパネル。行基さんが堺の出身とは知りませんでした。生家の家原寺は津久野駅近から10分ほどのところに現存。

狭山北条藩紹介のパンフレットをもらい、行基さんのスタンプを押しておきました。後北条氏は秀吉の小田原攻めで断絶していなくて、明治維新まで続いた1万1千石狭山藩の藩主となっています。

この他に堺行基の会の会報をバックナンバーも含め3冊をもらったので勉強します。東大寺大仏造立の責任者だったことから近鉄奈良駅前に像が立つ行基さんですが、奈良以上に堺でこんなに大人気とはちょっとびっくり。

土塔の発掘から整備の様子を紹介したパネルが並んでます。

行基の開発関連地図は宗教施設ではなく、布施屋(救護・宿泊施設)、池、堀川、船息(ふなすえ、波止場)、橋、樋(かけひ)の一覧。行基が大輪田船息を築き、平清盛が大修築して大輪田泊に発展、現在の神戸港の基礎をなしているようです。大輪田を含め摂播五泊と呼ばれ、尼崎、魚住、飾磨、室津も行基です。

岸和田育ちとしては馴染み深い久米田池も行基により造られたもの。

奈良のピラミッド、頭塔紹介のパネルも。頭塔は行基じゃなくて神護景雲元年(767年)東大寺の僧・実忠が造営。

堺市設置の石碑パネル、昭和40年代の写真でも方墳のようなこんもりした丘が広がっているだけですが、土塔は古墳ではありません。

土塔の裏側は瓦が葺かれておらず笹に覆われた段々の山。柵の中に入り登ってみます。

土塔てっぺんからの眺めです。泉北高速7000系の向こうの2本煙突はENEOS堺製油所。

金剛山が大きく見えます。北側にはあべのハルカス。

正面に広がる森はニサンザイ古墳、その向こうに少し霞んで見えるのが仁徳天皇陵、少し左に離れた森が履中天皇陵、てっぺんで来場者の案内をしていた堺市の学芸員さん(たぶん)に確認しました。

復元された瓦の微妙な色の違いが美しい。木造の五重塔等と同じ役割の仏塔を土で構築したのがこの塔という学芸員さん(たぶん)の説明がとても分かりやすい。つまりパゴダです。ここ土塔と奈良の頭塔の他にもあるのか訊いてみたこところ岡山にもあるらしい。

帰宅後調べてみたところ、岡山県東備の山の中にある熊山遺跡と分かりました。Google Mapにアップされた写真を見るとまるでメキシコかカンボジア辺りの遺跡のよう。土塔や頭塔と異なり奈良時代の実物が残されており迫力が違いますが、対向車が来るとあたふたしそうな細い山道の奥からさらに山道を歩いたところだそうで訪ねる機会があるかどうか。

土塔てっぺんの足元には円を描いた石が埋め込まれています。数え直してみると土塔は十三重塔のはずが12層しかありません。この上に木造建物が立っていたそうで、その塔と合わせて13層になります。

道路を挟んだ向かいが大野寺、行基が建立した寺で、土塔はその伽藍のひとつだったそうです。今は江戸時代の本堂と庫裏、門を残すのみも、かつては巨刹だったと推測されます。

行基の開発関連地図や久米田池のパネルが掲げられていたところに土塔の模型が置かれていると気付きました。てっぺんに13層目の木造建物が再現されています。木造建物には経典とか大野寺の大切なものが保管されていたと思われます。

土塔の復元模型、てっぺんに立つ木造建物は、発掘調査に基づく推測で法隆寺夢殿などを参考に八角堂が置かれているそうです。低めの位置から八角堂が土塔の上に立っていた頃をイメージしてみます。

ふと、この復元模型には四方に階段がないことに気付きました。復元するには資料が無さすぎたためと思われますが、外から地下をくぐりエレベーターで上がるようになっていたと想像してみます。

大野寺は扉が閉じられていました。もういちど土塔を正面から。まさにピラミッドですが、てっぺんに八角堂が立っていればもっとカッコいいはず。

狭山池まで歩くとかなりありそうなので、深井駅へ戻ります。住所としても今も残る土塔です。ランタナにチャバネセセリ。

アベリアにオオスカシバ。

深井駅前の回転寿司でランチ。あまり期待しないで入ったものの、130円の赤だしがとても美味しく、フロア係のお嬢さんに、美味しいと告げたらかなり喜んでくれました。こういう素朴なお店は居心地がいい。

駅ナカにドムドムハンバーガー、ホームページをチェックすると大阪府内に4店舗しか残っていなかったところ、6月に千船駅前店がオープン、東京でも新店舗をオープンとあり、2018年にダイエーグループからも離れているとは知りませんでした。

狭山池博物館

かなり遠回りですが、深井から中百舌鳥で乗り換え大阪狭山駅に到着、以前は狭山遊園前駅でした。

狭山池へはいかにも街道ぽい下高野街道を500mほど。

「さやまはし」と刻まれた道標、下を流れるのは東除川、この付近の川幅は3mも無い程ですが、川幅を広げつつ堺市美原区、羽曳野市西部をくねくねしながら流れ、平野区瓜生南(大和川の南にも大阪市がある)で大和川に合流しています。

「1400年の歴史を今に伝える、日本最古のため池」とあります。あれ?1400年前というと620年頃で行基さんが生まれる前です。それに11月1日から12月16日まで狭山池博物館は臨時休館との貼紙、ぎりぎり間に合ったようです。

狭山池です。バードウォッチングにハマりはじめた10年くらい前、対岸に見える泉北丘陵の狭山市と堺市を跨ぐ尾根道の遊歩道を河内長野まで歩いたことがあり、その時のブログを探してみたものの見つからず。鳥果が少なく書かなかったのかも。

真っ直ぐな堤防の道の右手に狭山池博物館、コンクリート打ちっぱなしのパッと見てそれと分かる安藤忠雄氏の作品です。

エレベーターで下に降りると水庭、奥へ進むと今度は階段かスロープで上に戻る経路になっています。

入館するとだだっ広い空間、いかにも安藤忠雄な空間の取り方です。チケットを買おうとしたら無料ですとのこと。

巨大な土の壁は狭山池の堤の断面スライスです。

推古天皇、行基、重源、片桐且元、と狭山池の築造や改修に携わった4人をアニメで紹介。行基は狭山池を築造したのではなく天平3年(731年)に改修しています。平成の改修で出土した木樋(給水のための管)の木材が推古天皇24年(616年)の伐採と判明したとのことで、上述の「1400年の歴史」をナットク。しかしながら推古天皇がこの4人に加えられているのはちょっとギモン。推古天皇が実際に築造を計画したり指揮したとは考えにくいです。

推古天皇は甥の聖徳太子を摂政として国政を委ねています。冠位十二階や十七条憲法を定め、四天王寺や法隆寺を建立しただけでなく、高市池(どこにあるのか不明)、藤原池(あやめ池駅の大和文華館が面する蟇股池)、肩岡池(王寺町)、菅原池(香芝市の籏尾池)、掖上池(御所市)、畝傍池(橿原市の深田池)、和珥池(わにいけ - 帯解の広大寺池)などの池を造り、竹ノ内街道なども整備しています。狭山池も聖徳太子が造ったのではないか、百済や新羅から技術者を招聘してつくったのではないか、と十分推測できそうです。アニメを親しみやすくすべく女性を加えたかったという制作意図は理解できるものの、やはり聖徳太子にすべきだったかも。

狭山池ができるまでのパネルで、東側の狭山丘陵と西側の泉北丘陵に挟まれた谷を流れる西除川を堰き止めて造られたことが分かります。西除川は現在も狭山池の西側から流出し、東除川と並行するように北へ流れ浅香駅の西側で大和川に合流しており、狭山池の南側へは上流が天野川と名前を変える西除川が流入しています。

今歩いて来た狭山池の北側がその堤防で一直線になっています。ため池とは言うものの実質的にダムですね。堤高が15m以上のものをダム、それ未満が池と定義されているらしく、現在の堤高は18.5mあるので狭山池ダムとも呼ばれているようです。

堤体断面の変化では、行基の改修で堤の高さはそれ以前より少し高くなっただけですが、天平宝字の改修で現在の6割くらいの高さに巨大化しています。天平宝字の改修は国家事業で行われており、おそらく行基の事業を国家として引き継いだものと思われます。天平宝字は孝謙天皇の頃、藤原仲麻呂の乱等政争が続いていいた頃ですが、政争に明け暮れるばかりじゃなくて、しっかり公共事業も行っていたと分かりました。

黒い炭のようなものは飛鳥時代の東樋、これを炭素年代測定して狭山池が造られた年代を特定しているようです。東樋とは堤の下に埋められた下流に放水するための樋で、東樋、中樋、西樋の3箇所にあります。

行基坐像です。隣には訪ねて来たばかりの土塔のカットモデルが紹介されています。行基による狭山池改修は731年、土塔が完成してまだ2年くらい、そこでの経験が活かされたはずです。

鎌倉時代に狭山池を改修した重源の坐像です。木樋ではなく当時付近の古墳から出土した石棺を利用して石で樋を設置したそうです。お坊さんが石棺まで利用して土木工事という現代以上の合理的思考がすごいです。坐像手前の巨石はこの時の事績を石棺に刻んだ重源狭山池改修碑(国指定重要文化財)、摂津・河内・和泉の人々の要請によって重源が狭山池を改修したこと、非人も含む老若男女あらゆる人々が工事に協力したこと等が刻まれているそうで、強制徴用とかによるものではないと分かります。

重源の開発と別所(事業拠点)のパネル、行基に敗けず劣らず、かなり広範かつ活発に活動していた重源、行基が造立も、平重衡に焼き討ちされた東大寺大仏や大仏殿を再興したのも重源です。

近世のゾーンの広い空間。中央に立てかけられているのは堤を固めるための木製の枠だそうです。自分に先行して見学している若い女性たち、どこかの大学のゼミか何かのようですが、ずっと説明を熱心に聴いていました。歴史に興味を持つのは年配者だけじゃないです。

近世のゾーン脇の一室で「交差する技術」という特別展、今日が最終日です。

土師器と須恵器の違いの説明から始まって朝鮮半島からもたらされた技術がどのように受け入れられ、変容していったかがテーマですが、もうかなりくたびれてきて展示室のソファで休むばかりで殆ど頭に入って来ませんでした。

それでも津堂遺跡から出土の須恵器はしっかりチェック。津堂城山古墳ではなく、その西側、大和川南岸に広がるエリアからの出土品です。大和川が付け替えられる前から狭山池からの灌漑で農業が発展していたエリアです。

手前は重源が新設、片桐且元が全面的に改修した石棺等を利用した中樋、片桐且元による改修は豊臣秀頼の命によるもので、豊臣家滅亡の直前であっても、奈良時代同様に公共事業はしっかり行われていたようです。奥の塔は大正・昭和の取水塔を移設したもの。現在は平成の取水塔が稼働中。 

狭山池の灌漑範囲を示す巨大ジオラマです。時代ごとの灌漑範囲をボタン操作で表示するようになっていて、写真は江戸時代中頃の最も広範囲だった頃の様子です。狭山池北堤の中樋と東樋、それに西除川から青い光のラインが伸びて、大和川付け替え前は平野郷辺りまで狭山池の水が届いていたことが分かります。 

狭山池のすぐ北側にある池は現存する太満池で奈良時代に造られた狭山下池だそうです。下流にはたくさんの子池、孫池が広範に点在し、南河内をいかに豊かな土地にしていたかが伝わってきます。今は殆どが住宅地ですが、何度かアマサギを撮りに行ったことのある今も広い田園が広がる大泉緑地の西側辺りに当時の様子が伺えます。 青く光る灌漑範囲は何と仁徳天皇陵のお濠まで続いています。

外へ出ると来た時と違って水庭では盛大に滝が流れていました。狭山池の水の大切さを体感できるようにしているようです。

北堤のベンチに腰を下ろしてだいぶ日が陰ってきた狭山池を眺めます。真っ直ぐ伸びる道は堤そのもの。左端に大和葛城山、続いて金剛山。その手前が現役の取水塔。高層の住宅がいささか目障りですが、あそこが狭山遊園があった場所、それ以前は狭山藩の陣屋があったそうです。

もう1枚の正面は岩湧山、その右手は槇尾山、遠くが和泉葛城山、建物以外は古代から変わっていないと思われる景色です。今や堺市や大阪狭山市の水道は淀川から取水しているそうで、狭山池は平成の改修で灌漑より治水がメインに変えられたものの、今も1400年来現役で地域の生活に密着した水利施設、例えば今も現役の古代ローマの水道橋にも匹敵するもので世界遺産に登録されるほどの価値があるはずです。

高野線6000系

大阪狭山市駅に戻るとやってきたのは6000系6023編成で疲れが吹っ飛びました、無塗装復刻の6001編成の他、青と黄色のラインで残る6000系最後の4両編成です(後ろに2連繋いでいるのは未確認)。

北野田と堺東で急行や準急に抜かれるもの、このまま難波まで各駅停車で帰ります。

片開きドアのガッシャーン、ガラガラ。

堺東を過ぎて南海アプリをチェックすると無塗装復刻6001編成がこちらへ向かっていると分かりかぶりつきスタンバイ。1本前の特急りんかんはワイパーにピントが合ってしまいましたが、6001編成銀の列車はバッチリ。

難波駅1番線に到着。やっぱり青と黄色のラインは無い方がずっとカッコいい。

APPENDIX

土塔はともかくも1400年もの間改修が繰り返されてきた狭山池についてはかなり奥深く、ブログをまとめるのにかなり手こずりました。それでも新しい発見や驚きは少なくなく楽しい作業ではあります。

狭山池の歴史については多くのサイトで紹介されているものの、特に大阪学院大学・三輪信哉教授の狭山池 永遠に残すべき生きた遺跡は狭山池を最初に造ったのは聖徳太子ではないか、という上述の自分なりの見解に繋がりました。また大阪狭山市教育委員会による史跡狭山池保存活用計画書の第3章史跡狭山池の本質的価値(PDF26ページ)で現在につながるその価値を理解することができた次第。