堺市博物館
ちょっと過熱してきた自分的古代史フィーバー、大仙公園にある堺市博物館を訪ねてみることにしました。
5世紀前半のいたすけ古墳と出土品の埴輪です。こちらも宅地造成のため破壊寸前だったものの、市民運動で保護されることになった古墳です。
展示されている衝角付冑形埴輪は堺市の文化財保護のシンボルとなり、来る時には気づかなかったものの、博物館の入口にレプリカが飾られているそうです。
住宅街に囲まれた中に森が残されたいたすけ古墳はタヌキの絶好の棲家になっているそうな。いたすけ古墳の名前に聞き覚えがあります。ブログをチェックすると2016年1月に、履中天皇陵、仁徳天皇陵、それにいたすけ古墳を巡っていました。Amazon Photoのアーカイブをチェックしても、カワセミやミコアイサ、オシドリ、百舌鳥のモズやん、それに103系電車の写真ばかりで、古墳の写真は1枚も撮っていなかったものの、いたすけ古墳のお濠りの周りをぐるっと一周歩き、お濠に架かる殆ど壊れた橋があったことを思い出しました。
展示室の中央にどかーんと石棺の模型が置かれています。明治5年に仁徳天皇陵前方部に発見された石棺が安置された石槨(石の部屋)の復元です。発見した際に絵図が描かれ、石棺は開けることなく埋め戻されたとのことですが、果たして明治5年の調査隊が開けずにガマンできたのかどうか。
仁徳天皇の石棺は後円部の中心に位置しているはずでこの石棺ではありません。さてこの石棺の被葬者は誰なのかということになり、Mさんと大いに話しが盛り上がりました。皇妃の磐之媛命の陵墓は、何度も訪ねたことのある奈良市佐紀町の水上池北側のヒシアゲ古墳に治定されていて、磐之媛命は嫉妬深くて夫婦仲が円満ではなかったと伝えられています。また民の竈の逸話のように仁政で知られる仁徳天皇が、好色だったことは記紀にも描かれており、この石棺の被葬者は皇妃でない別の女性という可能性がありそうです。
同じ形の甑(米などを蒸す土器)、手前の黒いのは須恵器、後ろの白いのが土師器です。どうみても須恵器の方が頑丈そうです。土師器は弥生土器の流れを汲むもので埴輪も土師器、須恵器は登り窯で1000℃以上の高温で焼かれたもの、受験用に覚えた記憶がある土師器、須恵器の違いが漸く頭に入りました。
須恵器の大甕を何に使ったか質問すると、Mさんは、たぶんお酒と即答。泉北ニュータウンを中心に岸和田や狭山辺りまで広がる泉北丘陵で大規模に焼かれた須恵器は全国に普及、有田焼や備前焼などのルーツになったそうです。泉北ニュータウンの開発で日本最大の須恵器生産地が姿を現したとのこと、刃物や自転車だけじゃなくて実にいろんなもののルーツの堺です。
時は移り7世紀後半から8世紀。仏教の伝来以降、古墳の規模は小さくなり、瓦葺きの寺院が多く建てられます。この頃から文字も発達して歴史の記録は正確になったものの、これ以前は諸説紛々で理解するのが大変だけどそこが古代史の面白さ、ということでMさんと意気投合。諸説ある中で自分が気に入った説で想像をふくらませるのが楽しい古代史です。
この時期に行基により建立された瓦と土で築かれた土塔と呼ばれる仏塔の遺跡が現存するそうで、Mさんのファイルブックを撮らせもらいました。奈良で見つけた頭塔そっくりでビックリ。普段公開されていない土塔の頂上部が10月27日に特別公開されるとのこと、泉北高速深井駅から歩いて行ける場所でこれは訪ねてみたい。
巨大古墳ができるまでの大型パネルの前に並べられた円筒埴輪は明石海峡大橋の近くにある五色塚古墳で似た形のものがたくさん並べられていたのを見たことがあります。この円筒埴輪は聖域と外部を区切る結界を示すものだそうです。鬱蒼とした木々が茂る仁徳天皇陵ですが、造られた当時は五色塚古墳のように葺石が敷き詰められた墳丘がむき出しだったそうです。
仁徳天皇陵を現代人が建設した場合の工程表と見積を紹介している大林組のページを見つけました。古代工法だと16年で796億円、大型重機などを使った現代工法だと30ヶ月で20億円と試算。古代工法だと後備えも含め6,000人もの要員が集まってきたと想定されるそうです。このページの元になる1985年頃のリーフレットにその計算方法等が詳しく紹介されています。当時の生産力を現代に換算すると関空埋め立て工事を上回る土木工事だったとのことです。
全国から動員されここに集まって来た6,000人もの人々がどのようにコミュニケーションしていたかということも気になります。明治時代に全国一律の教育が始まるまで、幕末の薩摩と長州ですらコミュニケーションがままならなかった訳で、その1500年も前の日本語の存在自体がおぼろげだった頃、陵墓の設計図をみて理解し、マニュアル通りに作業を進めることができたのか、突っ込んで調べてみる価値が高そうです。
特大パネルの前に置かれた犬型埴輪、自分には仔牛に見えました。ここでMさんとお別れ、小一時間も付きっきりで解説していただき、楽しく学ぶことが多く、おかげで古代史に対する興味がますます深まりました。Mさんに教えてもらったことと帰宅後ネットで調べたことを交えてこのブログを書いています。
何と祇園祭のような山鉾がどーんと。堺の祭りはふとん太鼓とだんじりですが、昭和初期まで開口(あぐち)神社の八朔祭りで巡行していた祭礼鉾の実物大復元、大小路鉾がモデルで、幡(ばん)は実物とのこと。柵に囲まれているのは鉾頭。
16世紀末の日本地図、テイセラ/オルテリウスとありますが、イエズス会士の情報網から集めた情報によりイエズス会士のテイセラが作成、メルカトルの協力によりオランダ人オルテリウスが1595年に刊行した地図で、行基図が元になっているようです(参考)。Sacay(堺)、Hizumi(和泉)、Cavachi(河内)、MEACO(京)、Quinocuni(紀の国)、Hiamato(大和)、Xima(志摩)、Hixe(伊勢)、Vlloari(尾張)Farima(播磨)…と読み取れます。Vlluomyは近江かな。MEACOの前の湖は琵琶湖ではなく巨椋池のようです。
興味深い展示がいっぱいなのですが、今日はここまでにして次回に取っておきます。さらに「仁徳天皇陵と近代の堺」という企画展を開催していたのですが、もう頭の中に入りそうもないので殆どスルーしてしまいました。
最後に百舌鳥古墳群シアターでゆっくり腰掛けて大画面動画を鑑賞。平安京創成館と同様、あるいはそれ以上に満足度の高い博物館です。Mさんのようなボランティアガイドさんが数人待機してくれていて、展示品にヘッドホンアイコンがあるように多言語音声ガイドもあり、展示品だけでなく膨大な資料を保管していて展示品の入れ替えも適宜実施されているようです。
外へ出るとありました、衝角付冑形埴輪。
大仙公園の端っぽに位置する日本庭園にやってきました。足立美術館と同じ中根金作による作庭。
思ったよりかなり広いものの咲いている花はハギくらい。ハギの蜜を吸うツバメシジミ。