堺市博物館

ちょっと過熱してきた自分的古代史フィーバー、大仙公園にある堺市博物館を訪ねてみることにしました。

天王寺駅東口で配っていたのはチラシやティシューじゃなくてハリボー・ゴールドベア。ずっと変わらないドイツ語パッケージ、固めの噛み心地、大好きです。

10分ほどで三国ヶ丘到着。JR阪和線と南海高野線が直結、イジワルなくらい歩かされる中百舌鳥の地下鉄と南海の乗り換えよりずっと便利で、高野線の急行は通過も阪和線の快速は停車。マップで見つけた洋食屋さんに向かうと11時を過ぎたばかりなのにかなりの行列で諦め、コンビニを探すとライフがありました。サラダ太巻(小)をゲット。

目的地へ向かって歩くともう百舌鳥駅、仁徳天皇陵は三国ヶ丘から百舌鳥まで続いていて大仙公園は三国ヶ丘じゃなくて百舌鳥が最寄り駅と気づき、その巨大さを実感。225 系関空快速・紀州路快速が通過、種別表示はびっしり過ぎて読み取れず、併結していることをこのスペースに表示することに無理があります。「快速」だけでよろしいかと。

百舌鳥駅の下り線駅舎です。漢字3文字で読みは2文字の駅って他に無いのでは。高校生の頃、付近にあったYMCA予備校の夏休み講習に通っていたことを思い出しました。さっきのライフの辺りではと探してみたものの分からず。

仁徳天皇陵の陪塚のひとつ孫太夫山古墳、トンボがいっぱい舞っていて捕虫網を持った子どもたちが走り回っています。近くのベンチに腰を下ろしてサラダ太巻を食べ終わり、トンボを探しに行くと捕虫網の小さな男の子がてんとう虫をゲット、やったね。変わった名前の古墳ですが、大鳥郡中筋村庄屋南孫太夫さん所有の土地だったことに因むそうです。

堺市博物館です。入口左手には帽子を被った千利休、右手には坊主頭の武野紹鴎の銅像が鎮座しています。

百舌鳥古墳群

縄文時代、弥生時代の堺をパネル1枚だけでさらっと紹介したあと百舌鳥古墳群の展示へ。数々の出土品や復元見本と優れたデザインのパネルが多数、かなり見ごたえがあります。

4世紀後半から6世紀前半にかけて100基以上の古墳がつくられ、大王墓級の前方後円墳3基の他、最大500m級の前方後円墳から最小10m級の円墳・方墳まで多様な形や規模があります。

百舌鳥古墳群で最古、4世紀後半の乳岡(ちのおか)古墳と長山古墳、4世紀末期の大塚山古墳の紹介。手前には大塚山古墳から出土した三角板革綴衝角付冑・三角板革綴襟付短甲、仁徳天皇より前の時代の兵士の鎧兜です。

興味深く展示物を見ていたら、制服の女性がやってきて説明してくれました。錆びている部分が出土品でつるんとしている部分は補修と分かりました。大型の前方後円墳だった大塚山古墳は戦後破壊され、応急調査で副葬品が多数出土も、1985年には完全消滅、住宅地になってしまったそうです。

立て板に水のごとく詳しく分かりやすい説明なのでてっきり学芸員さんかと思いきや、ボランティアガイドさんのMさんです。

大塚山古墳からの出土品の数々、甲冑類等の鉄製品、銅鏡、勾玉、管玉などの玉類。大陸と交流のあった倭の五王の時代の有力豪族のものらしい。

5世紀前半のいたすけ古墳と出土品の埴輪です。こちらも宅地造成のため破壊寸前だったものの、市民運動で保護されることになった古墳です。

展示されている衝角付冑形埴輪は堺市の文化財保護のシンボルとなり、来る時には気づかなかったものの、博物館の入口にレプリカが飾られているそうです。

住宅街に囲まれた中に森が残されたいたすけ古墳はタヌキの絶好の棲家になっているそうな。いたすけ古墳の名前に聞き覚えがあります。ブログをチェックすると2016年1月に、履中天皇陵、仁徳天皇陵、それにいたすけ古墳を巡っていました。Amazon Photoのアーカイブをチェックしても、カワセミやミコアイサ、オシドリ、百舌鳥のモズやん、それに103系電車の写真ばかりで、古墳の写真は1枚も撮っていなかったものの、いたすけ古墳のお濠りの周りをぐるっと一周歩き、お濠に架かる殆ど壊れた橋があったことを思い出しました。

さていよいよ第16代仁徳天皇陵です。時は5世紀中頃、百舌鳥古墳群にある3つの天皇陵のひとつで、日本最大の古墳。クフ王ピラミッド、秦の始皇帝陵と並ぶ世界三大墳墓のひとつ。

明治33年後円部背後の三重濠を掘削して出土した犬形埴輪の頭部の複製、奈良公園のバンビを彷彿とさせる可愛い表情、犬ではなく鹿だとする説もあるそうです。この手前に馬形埴輪の鞍部分も展示されているのですが、本物を宮内庁から借りているそうで撮影禁止になってました。

展示室の中央にどかーんと石棺の模型が置かれています。明治5年に仁徳天皇陵前方部に発見された石棺が安置された石槨(石の部屋)の復元です。発見した際に絵図が描かれ、石棺は開けることなく埋め戻されたとのことですが、果たして明治5年の調査隊が開けずにガマンできたのかどうか。

仁徳天皇の石棺は後円部の中心に位置しているはずでこの石棺ではありません。さてこの石棺の被葬者は誰なのかということになり、Mさんと大いに話しが盛り上がりました。皇妃の磐之媛命の陵墓は、何度も訪ねたことのある奈良市佐紀町の水上池北側のヒシアゲ古墳に治定されていて、磐之媛命は嫉妬深くて夫婦仲が円満ではなかったと伝えられています。また民の竈の逸話のように仁政で知られる仁徳天皇が、好色だったことは記紀にも描かれており、この石棺の被葬者は皇妃でない別の女性という可能性がありそうです。

前方部の石室と石棺の間で発見され詳細な図面が残された甲冑の復元、銅に金メッキされた横矧板鋲留短甲(よこはぎいたびょうどめたんこう)と小札鋲留眉庇付冑(こざねびょうどめまびさしつきかぶと)です。

石棺の周りで発見されたガラス器皿と瑠璃色のガラス器壺の復元、新羅からの貢物だったと思われます。

5世紀の東アジアと倭国の交流のパネルに宋へ入貢していた倭の五王の名、「珍」が仁徳天皇ですよね、と聞きかじったばかりの知識を披露すると、「武」が第21代雄略天皇に比定が有力なものの「珍」は諸説あるらしい。

大陸からもたらされた数々、鉄、馬、調理、須恵器、渡来人について分かりやすく概要を紹介。

同じ形の甑(米などを蒸す土器)、手前の黒いのは須恵器、後ろの白いのが土師器です。どうみても須恵器の方が頑丈そうです。土師器は弥生土器の流れを汲むもので埴輪も土師器、須恵器は登り窯で1000℃以上の高温で焼かれたもの、受験用に覚えた記憶がある土師器、須恵器の違いが漸く頭に入りました。

須恵器の大甕を何に使ったか質問すると、Mさんは、たぶんお酒と即答。泉北ニュータウンを中心に岸和田や狭山辺りまで広がる泉北丘陵で大規模に焼かれた須恵器は全国に普及、有田焼や備前焼などのルーツになったそうです。泉北ニュータウンの開発で日本最大の須恵器生産地が姿を現したとのこと、刃物や自転車だけじゃなくて実にいろんなもののルーツの堺です。

時は移り7世紀後半から8世紀。仏教の伝来以降、古墳の規模は小さくなり、瓦葺きの寺院が多く建てられます。この頃から文字も発達して歴史の記録は正確になったものの、これ以前は諸説紛々で理解するのが大変だけどそこが古代史の面白さ、ということでMさんと意気投合。諸説ある中で自分が気に入った説で想像をふくらませるのが楽しい古代史です。

この時期に行基により建立された瓦と土で築かれた土塔と呼ばれる仏塔の遺跡が現存するそうで、Mさんのファイルブックを撮らせもらいました。奈良で見つけた頭塔そっくりでビックリ。普段公開されていない土塔の頂上部が10月27日に特別公開されるとのこと、泉北高速深井駅から歩いて行ける場所でこれは訪ねてみたい。

隣の部屋の馬形埴輪と人形埴輪。日本書紀によると、第11代垂仁天皇の頃、野見宿禰の提案により殉死を止めるために土で作った人馬を埋めることにしたのが埴輪のはじまり。

巨大古墳ができるまでの大型パネルの前に並べられた円筒埴輪は明石海峡大橋の近くにある五色塚古墳で似た形のものがたくさん並べられていたのを見たことがあります。この円筒埴輪は聖域と外部を区切る結界を示すものだそうです。鬱蒼とした木々が茂る仁徳天皇陵ですが、造られた当時は五色塚古墳のように葺石が敷き詰められた墳丘がむき出しだったそうです。

仁徳天皇陵を現代人が建設した場合の工程表と見積を紹介している大林組のページを見つけました。古代工法だと16年で796億円、大型重機などを使った現代工法だと30ヶ月で20億円と試算。古代工法だと後備えも含め6,000人もの要員が集まってきたと想定されるそうです。このページの元になる1985年頃のリーフレットにその計算方法等が詳しく紹介されています。当時の生産力を現代に換算すると関空埋め立て工事を上回る土木工事だったとのことです。

全国から動員されここに集まって来た6,000人もの人々がどのようにコミュニケーションしていたかということも気になります。明治時代に全国一律の教育が始まるまで、幕末の薩摩と長州ですらコミュニケーションがままならなかった訳で、その1500年も前の日本語の存在自体がおぼろげだった頃、陵墓の設計図をみて理解し、マニュアル通りに作業を進めることができたのか、突っ込んで調べてみる価値が高そうです。

特大パネルの前に置かれた犬型埴輪、自分には仔牛に見えました。ここでMさんとお別れ、小一時間も付きっきりで解説していただき、楽しく学ぶことが多く、おかげで古代史に対する興味がますます深まりました。Mさんに教えてもらったことと帰宅後ネットで調べたことを交えてこのブログを書いています。

中庭のエリア

中庭に面したエリアでも古墳時代の紹介。百舌鳥古墳群に現存する44基の古墳すべてが2枚のパネルになってました。大塚山古墳は無いもののいたすけ古墳は入ってます。陪塚の孫太夫山古墳も入っていてしっかり世界遺産に登録されています。

湯山古墳から出土した6世紀中頃の石棺(復元)です。湯山古墳は現存しないようです。

世界三大墳墓を比較してみようの模型、クフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵、さらに16両編成の新幹線を並べ、仁徳天皇陵の巨大さが実感できます。

中世の堺

今日は古代史がテーマなのですが、ちょこっとだけ中世。南蛮船(カラック船)の模型です。コロンブスのサンタマリア号やマゼランのビクトリア号もカラック船です。

全長3m、現存する日本最長の慶長大火縄銃、ひとりではまず持ち上げられないかと。

何と祇園祭のような山鉾がどーんと。堺の祭りはふとん太鼓とだんじりですが、昭和初期まで開口(あぐち)神社の八朔祭りで巡行していた祭礼鉾の実物大復元、大小路鉾がモデルで、幡(ばん)は実物とのこと。柵に囲まれているのは鉾頭。

16世紀末の日本地図、テイセラ/オルテリウスとありますが、イエズス会士の情報網から集めた情報によりイエズス会士のテイセラが作成、メルカトルの協力によりオランダ人オルテリウスが1595年に刊行した地図で、行基図が元になっているようです(参考)。Sacay(堺)、Hizumi(和泉)、Cavachi(河内)、MEACO(京)、Quinocuni(紀の国)、Hiamato(大和)、Xima(志摩)、Hixe(伊勢)、Vlloari(尾張)Farima(播磨)…と読み取れます。Vlluomyは近江かな。MEACOの前の湖は琵琶湖ではなく巨椋池のようです。

興味深い展示がいっぱいなのですが、今日はここまでにして次回に取っておきます。さらに「仁徳天皇陵と近代の堺」という企画展を開催していたのですが、もう頭の中に入りそうもないので殆どスルーしてしまいました。

最後に百舌鳥古墳群シアターでゆっくり腰掛けて大画面動画を鑑賞。平安京創成館と同様、あるいはそれ以上に満足度の高い博物館です。Mさんのようなボランティアガイドさんが数人待機してくれていて、展示品にヘッドホンアイコンがあるように多言語音声ガイドもあり、展示品だけでなく膨大な資料を保管していて展示品の入れ替えも適宜実施されているようです。

外へ出るとありました、衝角付冑形埴輪。

大仙公園

孫太夫山古墳の西側のもうひとつの陪塚は竜佐山(たつさやま)古墳。孫太夫山も竜佐山も前方後円墳と円墳の中間サイズにあたる帆立貝形古墳です。

堺ブランドの桜「与謝野晶子」とあったのですが、咲いていたのはどう見てもジュウガツザクラ。

大仙公園の端っぽに位置する日本庭園にやってきました。足立美術館と同じ中根金作による作庭。

思ったよりかなり広いものの咲いている花はハギくらい。ハギの蜜を吸うツバメシジミ。

竜佐山古墳の後円部付近で大好きなヤマちゃん登場。芝生の上を歩き回り木の実をゲット。

一つじゃ足りないようでさらに歩き回ってゲット。

まだ木の実を探しています。

飛び立ったものの近くの木の上に止まってくれました。

木の上でもまだ拾ってきた木の実をくわえています。つまりいくつも木の実を拾って、リスのように口の中に蓄え、木の穴に隠して冬に備えているものと思われます。

仁徳天皇百舌鳥耳原中陵拝所です。日の丸が掲揚されています。

百舌鳥夕雲町憩いの広場の狭い花壇にシロバナマンジュシャゲ。まだまだつぼみばかり。赤い実はサンザシ。

センニチコウにヤマトシジミ。ヒガンバナのつぼみから蜜を吸おうとしているナミアゲハ。

百舌鳥駅上り線駅舎です。

百舌鳥は快速、区間快速が通過なので15分ヘッドの普通のみ。快適で空いている225系普通で天王寺まで乗り通そう思ったもののアプリをチェックすると、杉本町と鶴が丘の2回も抜かれると分かり堺市で区間快速に乗り換え、区間快速は天王寺駅阪和線ホームに到着。