近つ飛鳥博物館

古代史のイロハのイを学ぶには最適な全国こども考古学教室というサイトを見つけました。惜しむらくは右クリックができないように設定されていて、サイト内の文字からさらに検索することができないのがとても残念ですが、ブラウザの拡張機能インストールで解除できました。このサイトの行ってみようというページで全国の主な遺跡や関連する博物館が網羅されていて、近つ飛鳥博物館が良さげなので、早速訪ねてみることにしました。

河内長野行準急6020系6073の運転台、定位置に置かれた懐中時計がカッコいい。

土師ノ里の手前で澤田八幡神社境内の踏切。踏切側から電車を見るとこんな感じです。土師ノ里の地名は埴輪を発明し垂仁天皇から土師職(はじのつかさ)を賜ったと日本書紀にある土師氏の本拠地がこの周辺に位置していたことに由来。

貴志駅に到着。駅近くの喫茶店でモーニングを頼もうとしたら11時で終わりとのこと、まだ11時5分です。もうええわ、と出ようと思ったものの、トイレにも行きたいし、バスの発車まで30分ほどあるので、我慢してホットコーヒーとチーズトーストを注文。喫茶店の窓の正面にすっぽり金剛山が見え、お勘定するとセット料金で少し安くなっていたことで機嫌を直した自分です。

喜志駅から20分ほどで近つ飛鳥博物館前に到着、新興住宅地の一番奥で、その先に広がる森が大阪府立近つ飛鳥風土記の丘、麓に広がる住宅地が拡大されあやうく古墳群が破壊される寸前に大阪府が土地を買収したものらしい。

風土記の丘(「ふうどき」ではなく「ふどき」)ははるか昔に訪ねた記憶があります。でも近つ飛鳥風土記の丘は1986年の開設で自分は関西にいません。風土記の丘は全国に16箇所あって、どうやら和歌山市の紀伊風土記の丘だったようです。房総風土記の丘は柏から成田空港へ通っていた頃の通り道だったので、クルマを停めて歩いてみたことがあったはず。

近つ飛鳥風土記の丘に入ると早速古墳、一須賀古墳群B支群7号墳です。

森の中の道を5分ほど歩き、階段を下りると園路の舗装が覆いかぶさったI支群5号墳。

近つ飛鳥博物館に到着、おやっ、「本日入館無料」とあります。なぜ無料なのかは分からなかったものの嬉しい。

広い空間の隅っこの隅っこで喫茶コーナーが営業していました。

近つ飛鳥の紹介パネル、古事記の神話をイラストにして近つ飛鳥の由来を紹介しているのですが、原文混じりでよく理解できませんでした。

二上山の西麓が近つ飛鳥、明日香村が遠つ飛鳥です。その位置関係を示した地図では河内湖からの川の流れが示されています。今も遠つ飛鳥と近つ飛鳥のいずれにも飛鳥川という名前の別の川が流れていて、藤原京付近から明日香への遠つ明日香の飛鳥川沿いをレンタサイクルで、駒ヶ谷から上ノ太子へ近つ飛鳥の飛鳥川沿いは徒歩で歩いたことがあります。地図の右端にある布留(ふる)はパネルの神話に登場する石上神社のある場所です。

埴輪とジオラマ

近つ飛鳥風土記の丘に広がる一須賀古墳群からの出土品の数々。明らかにレプリカと分かる金銅製沓の本物はどこかに大切に保管されていて、こんな感じのはずです。

ミニチュア炊飯具は多数出土しているようです。被葬者がひもじい思いをしないための心遣いと思われます。

聖徳太子の時代コーナー。聖徳太子墓は近つ飛鳥博物館から2.5kmほど北、上ノ太子駅との中間地点辺りの磯長谷叡福寺にあり、考古学的にも厩戸皇子の墓の可能性が高いそうです。

明治時代に内部調査した時の記録を元に再現された横穴式石室には聖徳太子本人と、母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)、妃の膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)の棺が合葬されています(横向きの棺がお母さん)。ビデオでは文楽人形の聖徳太子が自身の生涯を紹介。

文字や貨幣が大陸からもたらされ急速に普及したことは分かるのですが、それが普及するための前提として、この頃の日本語がどんなものだったかが知りたい。

安藤忠雄氏が自ら代表作とする近つ飛鳥博物館、さすが空間の取り方が感動的です。

これが見たかった水鳥形埴輪、藤井寺市津堂城山古墳から出土した4世紀の埴輪の複製。原品は国重要文化財だそうです。展示台の脇にコハクチョウとハクガン(たぶん)の写真が掲げられていました。現在より寒冷な気候で、今は湖北までしかやってこないコハクチョウたちも4世紀には藤井寺までやってきていたようです。

津堂城山古墳を調べてみると谷町線八尾南駅からバスで10分ほどの大和川左岸、ウチから1時間かからないところです。コハクチョウがいた頃に思い馳せるべく訪ねてみたいと思います。

よく名前を聞く三角縁神獣鏡が多数、何が三角かというと鏡の縁が三角形に盛り上がっています。

家型埴輪と巨大な円筒埴輪、よほど大きな窯で焼いたものかと。

堺市博物館でも見た仁徳天皇陵のお濠から出土の犬(鹿?)型埴輪の複製。動物型埴輪は豚、それとも猪か。

実に様々な表情、衣装、ポーズの人物埴輪。

一須賀O5号墳出土状況再現の展示、強化ガラスが張られて真上を歩いて詳しく見ることができます。

ホールの中央にどーんと設置された仁徳天皇陵のジオラマ、葺石で覆われたままの完成間もない頃の姿です。真横からも撮ってみました。後円部の高さ35.8mが25cmほどで1/150スケール、つまりNゲージです。

仁徳天皇陵だけじゃなくて同時期のいろんな要素を組み込まれていて、法円坂遺跡の16棟の大倉庫群が。

そのとなりに「居館」、大王の居館でしょうか、何やら儀式が行われているようです。

iPhoneからカメラに持ち替えてクローズアップしてみると登り窯に薪をくべています。焼いているのは円筒埴輪です。

集落では茣蓙を敷いて物々交換のビジネスが行われています。身長1cmほどの古墳時代の人々、ジオラマ全体で3000体あるそうです。

墳丘のカットアウトです。葺石が敷き詰められた墳丘にはびっしりと隙間なく円筒埴輪が並べられています。堺市博物館で教えてもらったように円筒埴輪は聖域と外界を仕切る結界を現すものなので、びっしり並べることにこだわっていると分かります。

墳丘の造成場面と石棺の搬入場面です。

円墳に棺を納めに向かう葬列と、前方後円墳に円筒埴輪を並べている場面です。

鹿狩の様子と大陸からの使節の行列。

平安京創生館の平安時代末期の平安京同様にいつまでも見飽きないジオラマ。1/1000のジオラマでは表現できない息吹が感じられる1/150スケールです。

最後のコーナーは特別展でタイミングよく学芸員さんの解説が始まり30人ほどが集まって見学。北海道余市町大川遺跡の出土品です。北海道の時代区分は本州と異なり、弥生時代と古墳時代に相当するのが続縄文時代、飛鳥時代から平安時代は擦文(さつぶん)時代となるそうです。

外へ出ると青空が広がっていました。

一須賀古墳群

地図の近つ飛鳥博物館の上に続く階段の道を、古墳が密集している一須賀古墳群J支群へ歩いてみることにします。

かなり急な階段に躊躇したものの勇気をふるって上ってみます。地図の歩いたルートに幅の狭い等高線が描かれていることに気付いたのは帰ってから。

どこまでも続く階段、どこまで続くのか分からず、よほど引き返そうかと思ったものの、とりあえず先へ進みます。

平坦になったところに出ると古墳の石室。

さっきより大きい岩が並べられた石室。

J支群に立てられていた案内、なかなかおどろおどろしい物語が紹介されています。

まだ続く坂道と古墳の石室。このこんな急坂でこんな巨石をどうやって運んで来たのか、想像がつきません。

ようやく坂道のピークに到達したようです。ここにも石室。坂を登り始めて15分ほどしか経っていないものの、ずいぶん長く感じられました。この先は下り坂。

黄色い光線が目の前をよぎり、枝に止まってくれました。

虫や花も見つからなかった古墳の道で久々のキビタキは嬉しい。尾羽を立てたポーズがなんともチャーミング。

誰もやってこない古墳を訪ねたことに、ようきてくれました、という古代の人たちからのご褒美のような気がします。ずっと土色ばかり見ていたせいか、ひときわ鮮やかな黄色です。

道は緩やかな舗装された下り坂で栗のいががいっぱい落ちてます。どれも中が空っぽなのはなぜなのか。近くに展望台があるようですが、また急坂があったらと思うと足が引けました。

舗装された下り坂沿いにも石室、B支群と思われます。こちらは横穴式石室の上に土が覆いかぶさったままです。

さらに横穴式石室。一須賀古墳群に260基ほどの古墳が分布、博物館で見たばかりの金銅製沓やミニチュア炊飯具の埴輪とかが多数出土しています。ひとつの石室に複数の遺体が埋葬されていたらしく、だとすると貴族だけじゃなく一般人も含まれていたのではないかと推測。

帰り道

15:34のバスに乗り遅れると1時間待ちになってしまうので先を急いだものの近つ飛鳥博物館前バス停に着いたらまだ20分以上あります。喉が乾き自販機を探し住宅街のバス道を下っていると地面にセスジスズメの幼虫。

ヤクルトのお店で水をゲット。その先、近つ飛鳥博物館前から2つ目の大宝2丁目バス停のベンチに腰を下ろしているとほどなくバスがやってきました。バスの車窓は石川の向こうに金剛山と葛城山。

喜志駅に到着。去年までは金剛バスだった路線です。富田林市、太子町、河南町、千早赤阪村の4市町村によるコミュニティバスが近鉄バスに運行委託でバス路線は存続も、金剛バスの頃は概ね45分ヘッドだったので運行本数は3/4ほどに減っていて(参考)。金剛バスがいかにがんばっていたかということを再認識させられます。

真正面に二上山の鞍部、二上山真向の香芝市千股池から二上山鞍落ち(日没)を見ているので、逆にここから春分の日と秋分の日に「二上山鞍上り(日の出)」を見ることができるはずです。

あべの橋に到着、プファーはあべのWalkの赤柿屋、1年ぶりに栗焼酎が入荷していました。一須賀古墳群で落ちていたイガに入っていなかった栗の実が入ってます。

下半分だけ夕陽を浴びたハルカス。ヘルスケアをチェックすると今日上った階数は25階、ハルカスの夕陽を浴びた部分全体くらいを上ったころになります。