ちちんぷいぷい

今日のおでかけはあまり乗る機会のない藤井寺行各駅停車。阿倍野橋から3つ目の今川で早速待避、橿原神宮前行準急と阿倍野橋行特急が並びました。ずいぶん背の高さが違ってます。

布忍駅で初めて下車、駅前の駐輪場でもずふるレンタサイクルを借ります。百舌鳥古市古墳群の世界遺産めぐりのために関連自治体共同で企画されたもらしく、古市、土師ノ里、河内松原、布忍の各駅と大仙公園で借りて別の場所で返すことができます。

ブリジストンのがっしりしたフレームの電動アシスト車です。大泉緑地から石川大和川合流地点まで、途中色々寄り道して20kmほどの道のりを行く予定です。

大泉緑地から岡ミサンザイ古墳

阪和線の103系がまだ元気だった頃は足繁く通っていたのに、過去ログをチェックしてみると何と4年半ぶりの大泉緑地です。

ヒガンザクラ(たぶん)にメジロ。大泉緑地へは中百舌鳥や新金岡よりも、布忍から電動チャリがずっと楽勝と分かったので、またじっくり出直してくることにして、今日は先へ急ぎます。

堺市北区野遠町に広がる田園地帯の菜の花。

れんげも咲いてます。陸に上っていたオオバンたちが柵をくぐって池に戻るところです。

あら、お久しぶりのハッカチョウ。淀川右岸ではよく会えるのですが、淀川左岸が工事で入れなくなって右岸へも足が遠のいてしまってます。

あいかわらず態度が横柄なやつです。この横柄さがハッカチョウの魅力でもあります。

東へ東へと交通量の少ない道を進んでいると、いつの間にか羽曳野市に入ってました。顔をあたってもらうと気持ちの良さそうなバーバーです。狭い街道に美しい古民家が並びます。

藤井寺市に入り、岡ミサンザイ古墳に到着。青紫の鈴なりの花はムスカリだと思います。

葛井寺

藤井寺の中心部に入ってきました。「葛井寺」とあるお寺を通り過ぎると藤井寺一番街のアーケードに入り、通り過ぎた「葛井寺」が今日の第2チェックポイント「ふじいでら」と分かり引き返します。

「葛」はクズ、あるいはカズラと読み、フジとはマメ科マメ亜科という以外に共通点はなく、花の色や形も季節も異なり、藤棚にして花を愛でるフジに対して、クズは葛湯とか葛餅とか食用がメインです。

葛井寺をなぜ「ふじいでら」と読むのか、門前の由緒書に、11世紀初頭に藤井安基という人が復興したことに因み藤井寺とも称す、とありますが、お寺が創建された8世紀には「くずいでら」と呼ばれていたのか、どうも釈然としません。

心の乱れを意味する「葛藤」という言葉でクズとフジが一緒になっています。葛も藤も植物の蔓草で、葛と藤が絡み合ってなかなか解けないことから葛藤の語がうまれたとされると見つけたものの、ツル性の植物の組み合わせなど無限にあるはずでやはり釈然としません。葛井寺本堂の左手に藤棚が見えます。藤の名所になっているようですが、葛湯や葛餅は名物にはなっていないようです。

私本太平記にも葛井寺(文中では藤井寺)が登場、初瀬で兼好法師と出会う直前、雨露次・卯木夫婦が合戦の中匿われていたのが藤井寺の藁葺御堂で、ここで夫婦は赤子を亡くすものの、旅薬と間違えて渡された毒薬を飲まずに済んだり、期せずして六波羅方が撤退と吉事が重なったことで、心中を図ることをやめ猿楽師として生きることを誓い、後年能楽の祖になるという粗筋です。

お寺の小僧さんのようなシジュウカラです。

楠公史跡河南八勝第八蹟の石碑が建てられていました。ググると第一蹟天野山金剛寺、第二蹟楠妣庵観音寺、第三蹟観心寺、第四蹟千早城址、第五蹟金剛山、第六蹟建水分神社、第七蹟楠公誕生地、第八蹟葛井寺と分かりました。この第八蹟は、後年、楠木正成亡き後、息子の正行が幕府軍を破った藤井寺の合戦を偲ぶものと思われます。

近鉄が横切る神社

今日の第3チェックポイント、仲津山古墳に面した澤田八幡神社です。鳥居と拝殿の間を近鉄南大阪線の踏切が横切っています。先週とうとう放送が終了してしまったMBSちちんぷいぷいの「とびだせ!えほん」で、長谷川画伯が以前ここを訪ねていたのが記憶に残っていてやってた次第です。

画伯のツイートが見つかりました。ロケは2019年6月も、自分が見たのは去年の緊急事態宣言時に再放送されたものです。番組ディレクターさんが撮影したと思われるカットは、長谷川画伯の背中と踏切と拝殿への石段に準急電車が全部入り、さすがです。「とびだせ!えほん」おっかけ鳥鉄も、和歌浦大原吉田山に続いて4箇所目ということになります。

拝殿脇に見事なクスノキの大木。石段を上り拝殿の格子窓の隙間の奥に本殿が見え、振り返ると近鉄電車、右手の新しい建物はだんじり小屋です。

境内に神社の由緒書きとかは見当たらないものの、警察の巡回で地域の安全安心が守られていることへの感謝を掲示、いかにも村の鎮守っぽいです。

雑賀崎の時と同じ様にこの石段に長谷川画伯が近所の子供達と腰を下ろしていたかと。

土師ノ里駅前にこんもりとした小さな丘があります。鍋塚古墳で仲津山古墳の陪塚です。上に登るとちらっとだけ近鉄電車が見えます。分かりにくいですが、さくらライナーが通過するところです。

土師ノ里から古市への45km/h制限の急カーブで撮り鉄。長野行準急の背景は二上山雌岳。

6両編成がきれいに収まる撮り鉄ポイントで2両編成はちょっと残念。

石川大和川合流地点

石川の土手にやってきました。近鉄道明寺線のレールが真っ直ぐ伸びて先っちょでカーブ。

大和葛城山と金剛山が間近、橋の左手の小山にはかつて近鉄直営だった玉手山遊園がありました。なんと南大阪線の前身河南鉄道により明治41年開園、平成10年に閉園されています。

土手に腰を下ろして野球見物じゃなくて、川向うの近鉄大阪線を狙います。

近鉄と関西線電車が並走するとことが見えました。「とびだせ!えほん」冒頭で毎回、「大阪府藤井寺市出身の絵本作家、長谷川義史さん60歳」と紹介されているように、ご当地の長谷川画伯も、何度もこの土手に腰を下ろしてスケッチしていたはずです。

上本町急行です。大阪線らしい列車を待っていたらアーバンライナーがやってきました。

私本太平記で雨露次・卯木夫婦が藤井寺で匿われる直前、後醍醐天皇の綸旨を携えた日野俊基と出会った葦原が広がっています。俊基はここから雨露次に教えてもらった抜け道を辿り粉河から高野山へ向かっています。

大和川付け替えの案内板です。宝永元年(1704年)の竣工以前の大和川はここから北へ向かっていました。柏原行の電車がトコトコと渡って行きます。

橋をくぐって順光側へ。同じ場所に6年ほど前に来ています。ん?ファインダー右上に鳥の一団が。

ヒドリガモたちが着水するところでした。

レンズを元に戻すと道明寺行はまだ橋を渡り始めたところでした。

土師ノ里駅でレンタサイクルを返却して帰ります。子供の頃からこの駅名が気になっていたのですが、弥生時代からの土師器を作るクラフトマンたち、土師氏がこの辺に居を構えていたということのようです。

APPENDIX

ちちんぷいぷいステッカーです。実は先週、ちちんぷいぷいの最終週に期せずして自分が登場、その時にいただいたもので、手元にある長谷川先生の絵本おかあちゃんがつくったるの扉紙に貼ってみました。

最終週として復活した「昨夜のシンデレラ」というコーナーで、いつもの飲み屋でええ塩梅になって帰りかけたところでインタビューを受けました。ちょろっと映る程度かなと思いきや、ほぼインタビューで話した内容が殆どカットされずに放映されていてびっくり。長谷川先生の大ファンだということもしっかり入ってました。

なぜか湖北のコハクチョウたちの話になって、コハクチョウファミリーに入りたいと、思わずウーウーとコハクチョウたちの鳴き真似までしている自分がテレビの中にいました。ちょっとええ塩梅で口がなめらかだったこともあるものの、ディレクターさんのリードがとても上手く、自分の知らない自分を見た思いです。

21年半放映されていた関西ローカルの人気番組が終了してしまいました。自分はずっと関西エリア外だったし、戻って来てからも昼間のテレビを見るという習慣は無かったのですが、この1年くらいラジオをかけながら仕事をするように、ちちんぷいぷいを見るようになっていました。

最終回大団円でのMC河田アナや山中アナの涙はちょっと忘れられないです。なんちゅうヘタレやと見ていた「昔の人は偉かった」のくっすんにもすっかりファンになってしまっていました。関西発の情報番組にはまだまだ需要があるはず、いつか復活を楽しみにしたいと思います。

そんなちちんぷいぷいのことをブログに書いておきたくて、出かけた藤井寺への鳥鉄でした。