こもりくの初瀬
籠口の 初瀬の山の山際に いざよふ雲は 妹にかもあらぬ
私本太平記みなかみ帖、旅の法師が長谷寺の門前市で扇を商う雨露次、卯木夫婦と出会います。旅の法師は吉田兼好、北面の武士だった兼好法師はこの柿本人麻呂の歌を扇に記し、ふたりの素性を知っていることを明かします。雨露次は申楽師の服部元就、卯木は皇后の雑仕で実は楠木正成の妹、意気投合した三人は初瀬川の川原でお互いの身の上を語り明かし、翌日も初瀬から三輪の追分まで一緒に歩きます。
兼好法師は京へ、雨露次夫婦は河内へと別れを惜しむ、その道を自分も辿ってみたくなりました。こもりくとは山に囲まれた場所の意で初瀬の枕詞、そのクリスピーな響きに惹かれます。長谷寺は何度も訪ねていますが、さらに初瀬街道を大和朝倉駅まで歩いてみることにしました。
名張行急行から長谷寺駅で下りたのは何と自分ひとりだけでした。丁度正午、谷の向こう長谷寺から鐘の音を聞きながら急な石段を下ります。
長谷寺駅から長谷寺への谷底を流れる初瀬川です。兼好法師たちが語り合ったような川原は見当たらず、参道を歩く人も殆ど見当たりません。
杉玉を掲げた酒屋さんに「長谷の地酒 こもりくの里」と看板がありますがシャッターが下りたままです。
参道に人影は稀なものの、イマドキの商店街としてはシャッター下りてる率は低いと思います。
花の長谷寺
登廊の第1セクション下登廊です。いつも遠くからもそれと分かる本堂の五色旗がなぜか今日は掲げられていません。
枝垂れ梅が見事。
花の寺の長谷寺、この時期一番のアトラクションは笠をかぶった寒牡丹。
ひと株ひと株大切に育てられている寒牡丹、雪の日に来てみたいものです。
誰もいなくなった登廊の第2セクション中登廊を上り、下登廊を見下ろします。
紀貫之故郷の梅があります。
人はいさ 心もしらず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほいける
百人一首の35番、普通桜を指す「花」がここでは梅、自分の好みと同じです。ちなみに紀貫之の出身地は初瀬ではなく京のはず。
お地蔵さんのよだれかけには生駒市のめいちゃんの切なる願いが。
家族が長生きできますように コロナでみんながうつりませんように
登廊の第3セクション上登廊を上ります。399段の登廊を登り切ると2基の歌碑と句碑。
隠国乃 始瀬山者 色附奴 鐘禮乃雨者 零尓家良思母
万葉集の大伴坂上郎女の歌です。初瀬じゃなくて始瀬という字が当てられています。今や「初め」は物事の最初、「始め」は物事の開始と定義されていますが、古代はもっとフレキシブルに使われていたようです。
春の夜や 籠り人床し 堂のすみ
もう1基は芭蕉の句、笈の小文の旅で芭蕉がここを訪ねた時に詠まれています。自らを「はせ越」と名乗り、初瀬を越えると掛けて洒落ています。
本堂の舞台は水平じゃないことに気づきました。端っぽまでちょっとおっかないです。
舞台からの見下ろすと、登廊は直角に繋がっている訳じゃないことも分かりました。
本堂真裏の梅にヤマガラ、思いっきり枝被り、どこにいるか分かります? 艶やかに咲き始めているのは河津桜かと。
本長谷寺の裏手の高台にある一切経蔵に上ってみると、五重塔の九輪が目の前。五重塔は(昭和の)戦後のものです。
蓮華谷のツバキとサザンカ。ツバキは花全体がボトッと落ち、サザンカは花びら1枚ずつ落ちるので見分けがつくのですが、ツバキは葉っぱのギザギザが強く、花も葉も全体的に作りががっしりしている感じです。
この辺り大昔からのお坊さんたちの苔むしたお墓がびっしり並んでいてお経の唱和が聞こえて来そうです。
アトリが数羽、この冬初めて会いました。
竹林から石段を下りて本坊へ。本坊の寒牡丹と本堂です。
境内を出て初瀬川をチェック、この付近ではまだ渓流の趣です。河川法上は大和川で、佐保川と合流する辺りから上流が初瀬川と呼ばれています。
長谷寺本堂が見えるこの川原だと兼好法師たちが語り明かしたとしてもおかしくはなさそうです。
前回と同じお店で鍋焼きうどん、誰もいないお店に入ると、前回同様、自分につられたようにカップルが入ってきました。店番の人は前回とは違うものの、自分がお客さんを引き込んだんだよ、と暗にほのめかしておいたら、帰り際にわざとらしい大きな声で、またのご来店をお待ちしています! 洒落の通じるお店です。お店の左側の赤い橋の向こうに與喜天満神社の紅梅が見えるものの、これ以上石段を上るのはきついので先へ進みます。
往きに見た酒屋さんはまだシャッターが下りたままも、よく見ると店頭の自動販売機にワンカップの「こもりくの里」を見つけ無事ゲット。自分の様子を見てか、続いて若いニイチャンがやってきて同様にゲットしてました。
参道の花屋さん、52年間、大変おつかれさまでした。その隣のカフェの水瓶が窓の中のお坊さんフィギュアと相まっていい雰囲気ですが、本日休業。
初瀬街道
長谷寺駅へ戻る道を曲がらず、まっすぐ初瀬街道を西へ。
長谷寺駅に榛原行準急が到着。人気店らしきうどん屋さんは麺が完売、与喜は與喜天満神社に因むと思われますが、神去なあなあ日常で主人公を厳しく指導する樵の兄さんが飯田与喜だったと思い出しました。喜びを与えるいい名前です。
ウメジロ発見。こんなところに参道の入口があるとは意外でした。
初瀬観光センターのバス停、桜井市のコミュニティバスを奈良交通が運営受託しているらしく、そこそこ本数があります。近鉄に沿った谷の与喜浦という集落を経て、吉隠柳口というバス停まで通じています。調べてみるとその先さらに榛原駅までの路線もあるものの、こちらは土曜日午前中に1本だけ、ローカル路線バスvs鉄道だとすると、村井美樹チームは電車で一駅に対し、太川陽介チームは大いに苦労しそうです。
ちなみに観光センターは火曜日のせいか祝日でも休業でした。山肌の竹林が美しい。
初瀬川は田園の小川の風情になってきました。
33.3‰の勾配を行く近鉄電車が森の間から時々顔を見せてくれます。ホーホケキョ、今年初めてのウグイスのさえずりが。
中学校の校庭裏に根性の木。
22000系特急がめちゃグッドタイミングで撮れました。
この辺りは桜井市出雲という地名、古代大和出雲族に関わる曰くありげです。後で調べて分かったのですが、集落の中に十二柱神社があり、第25代武烈天皇の泊瀬列城宮の伝承地で野見宿禰に因む相撲の発祥地でもあるそうです。さらに隣接する黒崎地区には白山比咩神社があり、第21代雄略天皇の泊瀬朝倉宮の伝承地で、万葉集発祥の地だそうです。つまり5世紀後半頃は日本の首都だったここ初瀬の谷です。しかし、この時点でトイレ(小)を我慢していて、もっと周辺を訪ねてみる余裕は無くなっていました。
伊勢海老ライナーが築堤を行きます。
周囲が広がり初瀬川の表情がまた変わりました。コガモがのんびり泳いでます。トンボや蝶の舞う頃に出直して来たいと思います。
振り返ると三方が山に囲まれたこもりくの里です。紅梅と伊勢海老ライナー。
上本町行急行が坂を下って行きます。あれに乗れば50分ほどでウチに帰れてしまうのが不思議に思える景色です。古い家並みの残る初瀬街道へ戻ります。
それぞれの玄関にしゃもじが何枚も掲げられていることに気づきました。しゃもじには「八十八」、柄には名前が書かれているようです。この地域独特の風習で、米寿を祝うもののようです。表札の左右でしゃもじの色が違っているので、おじいちゃん、おばあちゃんそれぞれが米寿になった時に親戚や友人が贈ったものではないでしょうか。
街道の裏を難波行ひのとりが走り抜けて行きました。
近鉄大阪線が初瀬川を渡る鉄橋で名古屋行ひのとり、さらに京都行しまかぜが。時刻表をチェックしていた訳じゃないのでびっくり。
朝倉駅に近づいてきたものの期待していたコンビニは見つかりません。
今日の最終目的地、初瀬街道が二股に分かれる慈眼寺追分です。私本太平記の三輪の追分で、兼好法師は右手の道を京の吉田山へ、雨露次と卯木は左手の道から當麻を越えて河内の水分へと別れて行ったポイントです。
飄々とした生き方を続けた兼好法師は徒然草を残し、一方の雨露次と卯木は能楽の祖となる観阿弥の親となり、足利尊氏の従兄弟の覚一(明石検校)ともども、凄惨な戦乱な世でも日本の文化の礎を築いてきたことが、私本太平記で作者が訴えたかった大きなポイントであることは間違いないと思います。
正面の自民党のポスターが貼られた家の壁際にふたつに折れてしまった道標がありました。
字がかすれてしまった説明板があります。ググって読み取れました。
この道標は江戸時代初期延宝年間1673年-80年に建てられた碑で この地は大和国追分と称し伊勢街道の大阪奈良を経て伊勢まいりの宿場町をして繁栄したところである 建立者は不明 慈恩寺追分町
大和朝倉駅です。初瀬川は色気がなくなってます。トイレに駆け込んで漸くすっきり、勾配を下ってきたサニーカーを撮って今日はお開き。