ちゃりんこ太平記

大阪で太平記ゆかりの地といえば当然、千早赤阪村となるのですが、山道をかなり歩くことになるのは必定。山の緑が映えるもう少し季節がいい時においておくとして、ちゃりんこで行ける範囲の住吉へ行ってみます。

足利尊氏の側近として物語全体で重要な役割を果たす一色右馬介が具足師柳斎として潜伏するのが古代から港町として賑わっていた住吉です。

清明丘公園の経塚の説明板です。描かれた寛政8年の摂津名所図会には、阿倍野王子神社が面する熊野街道を外れると田園が広がっていて経塚や大名塚、小町塚がポコッ、ポコッとあります。この大名塚が太平記のヒーローのひとり北畠顕家の墓だそうです。

あべのハルカスをバックに、堺トラムが北畠駅到着。自分には馴染みある駅ですが北畠顕家に因む地名だそうです。

おっと、モ164がやってきました。1年前は水色雲柄だったのがいつのまにかチョコレート色に。重々しいツリカケ音を響かせ目の前を通過。

姫松に停車、レモン色のSmartが帝塚山っぽいです。姫松の地名は伊勢物語・古今集の歌に因むそうです。

我見ても 久しくなりぬ 住の江の 岸の姫松 幾世へぬらむ

姫松駅のWikiPediaでは蜀山人や鯛屋貞柳の狂歌も引用されていて、何百年もの間、松の木が並んでいた住之江の浜辺は、江戸時代の新田開発で大きく変化してしまったことが分かります。

住之江帖

住吉鳥居前を過ぎて紀州街道を進むと霰松原という公園のような神社。何度も前を通っているのに今まで気づきませんでした。

霰打つあられ松原 すみのえの弟日おとめと 見れど飽かぬかも

万葉集の長皇子(天智天皇の第四皇子)の歌碑、弟日おとめ、とは住之江の遊女だそうです。やんごとなき方々の恋も宮中だけとは限らなかったようです。古代はこの辺りに松原が続いていたというイメージが湧いてきますが、2本の大木は松じゃなくてなぜかクスノキ。

自分が高校生の頃まで住之江区は存在せず、住吉区の一部でした。住之江と住吉は元来同じ意味で、住吉と書いて「すみのえ」と読んでいたようです。住之江区じゃなくて西住之江区とか大和川区にすれば良かったかも知れませんが、住之江という響きは心地よく、里や社をイメージさせる住吉に対し、住之江は海を明確にイメージさせ、適切な区名と感じます。

紀州街道の一部にアーケードが掛かり安立町の商店街になります。いつものように、えいちゃんの250円お好み焼きを店内で。ブタ4枚とか、イカ2枚とかテイクアウトするお客さんが絶えません。直径15cmくらいのおやつ感覚のお好み焼きです。

ちなみに安立町の地名は、この地に住み多くの人を助けた江戸時代の医師、半井安立に由来すると霰松原の案内板に紹介されていました。

安立町の商店街を抜けると我孫子道。ちょっと前までモ505と同じ金太郎塗りだったモ166が緑に黄色のラインに塗り替えられ車庫で休んでいます。モ166の隣には最新型の1101形もお休み中。

ちょうどモ164が天王寺駅前から戻ってきました。このチョコレート色、金太郎塗りになる前のモ166がこの色でした。

前から撮りたいと思っていた我孫子道のポイント切り替えシーン、じっと耳を澄ませてポイントのモーター起動音を聞き取り、すばやく動画ボタンを押しました。短すぎるのでモ164が折返し線から本線入線してくるところをつないでます。

我孫子道から南海本線をくぐり、国道26号線を渡ると、同じ住之江でも安立町辺りとずいぶん雰囲気が違って空間が広く、元は海だったと感じさせます。

来る前にググって見つけた加賀屋新田会所にやってきました。住之江の海を干拓して造成した田畑を管理するために、両替商加賀屋甚兵衛が開いた事務所兼別荘兼文化サロンです。母屋の引き戸を開けて入ってみます。

引き戸の中は天井の高い台所の土間でした。釣瓶がぶらさがった井戸、いかにもへっついさんといった趣のかまどがあります。

靴を脱いで座敷を見学できます。

中庭も回遊できるようになっていて池にカルガモがいます。シロハラも登場。

大和川です。ウミネコが200羽くらいいます。大和川は江戸時代初期まで石川と合流する辺りから北へ流れ、上町台地を回り込むようにして、天満橋辺りで淀川(現大川)に合流していたのが、宝永元年に今の流れに付け替えられています。加賀屋新田会所ができた頃には既に付け替えられていた訳ですが、現在も川幅に比してかなり川底が浅く、川原に葦原もなくて大阪と堺は陸続きだった頃をイメージできる気がします。

阪神高速湾岸線の向こう辺りが現在の大和川河口、初瀬川源流から68kmの終着点です。加賀屋新田会所ができた頃の河口は今立っているあたりかと。太平記の頃の現在地は海の中です。

振り返ると金剛山と大和葛城山のシルエットがくっきり。

コサギが、飛び立ちました。

ユリカモメたちは南海本線の鉄橋辺りに集まっていました。その前をマガモが横切ります。

ヒドリガモも着水。

南海8300系が轟音響かせ川を渡ります。この辺りが住吉さんの神輿渡御が行われる場所で、歩いて渡ることができます。

阪堺モ601形はトコトコと橋を渡ります。

我孫子道車庫を裏から覗きます。屋根にシートを被せられているのはモ163の廃車体で、現役のモ161形4両の部品取り用です。右端に元京都市電のモ256とその後ろにモ165の廃車体、その奥に現役のモ161が見えます。

筑豊鉄道カラーのモ162も休んでいます。ということは今日のモ161形運行はモ164だけということが確認できます。

安立町商店街を抜けてもうひとつの目的地へ。シャッター下りてる率は5割程度で留まっているものの、おそらく具足師柳斎が住んでいた頃の方が賑わっていたのではないかと思われます。

正面に通天閣が見える東粉浜駅付近です。太平記の頃の海岸線は概ね阪堺線の辺りだったらしい。

丸山北畠帖

北天下茶屋、目的地は看板の「天下茶屋聖天尊」です。商店街は見事なくらいなシャッター通りになっていて営業中は僅か。カラオケ喫茶から漏れてくるどっかのおっちゃんの歌声だけが響いてきます。

今や24分ヘッドで大阪市内では汐見橋線に次ぐ閑散路線の住吉-恵美須町間です。電車が来ないのをいいことに、ニャンコが線路の真ん中でお昼寝してます。電車が来るのを待つのは諦めました。

正圓寺、通称「天下茶屋の聖天さん」です。仏教寺院なのになぜか石段の入口に鳥居。標高14mの聖天山は大阪五低山のひとつ。

私本太平記に兼好法師の小僕でおねしょが治らない命松丸が登場します。いつも懐に雀を飼っている命松丸は、高砂の浜から讃岐へ流される宗良親王に慰めとなる小雀を渡したり、楮幣(建武の新政で発行された紙幣)の流通に不服を申し立てて投獄された居酒屋の親父たちを佐々木道誉にすがって助け出したりと、とても魅力的な役割を果たしています。そして兼好法師なき後、その古反古を整理翻読して編集したものが「徒然草」となったと私本太平記最終帖で明かされています。

命松丸は実在の人物で、兼好法師は京の吉田山から、命松丸の里、阿倍野丸山に移り住み、藁を打ち、筵を織って、悠々自適の暮らしを営んでいたといわれています。その藁打ち石が聖天さんにあると知り訪ねてきた次第ですが、境内のどこを探しても見当たらず、お寺の人に訪ねると、石段をまっすぐ下りた、ガレージのシャッターの前、と教えてくれました。

鉄柵に囲まれた「兼好法師隠棲庵址」と徒然草序文の石碑を見つけました。藁打ち石は別の石碑の礎石になっていると後で分かったものの見つけられませんでした。

兼好の 午睡さますな 蝉しぐれ - 燦浪

自然石に刻まれた句碑、燦浪とは大正時代の俳人のようです。兼好法師と命松丸が戦乱の世を遁れ、ここでのんびり暮らしていたことへの敬意と憧れが伝わってきます。

正圓寺に隣接した聖天山公園を縁取るくねくねカーブした小道、小さい時の記憶が蘇ってきました。実はこのすぐ近くに母の実家があり、何度も通った小道、母の実家で退屈すると遊びに出かけた聖天さんです。まさかご近所にかつて兼好法師が住んでいたとは。

大阪に戻ってきてすぐの頃、この付近を訪ねたことがあります。その時はまだ昔のままだった煉瓦塀が一部を除き取り払われ駐車場になっていました。丸山通の坂道から右手の路地に入った辺りにあった母の実家は新しい家が立ち並びどこにあったかもよく分かりません。

母の旧姓は一色右馬介と同じ一色で、子供の頃、この姓のため教師にいじめられた、という話を聞かされた記憶があります。一色氏は足利一族で、戦前の皇国史観では南朝が正統で、足利氏は朝敵とされたためです。私本太平記にも登場、三河一色の村人たちが尊氏の隠し子(後の足利直冬)を匿っています。

一色氏の本拠である三河一色(現西尾市)の一色干潟へ鳥見に出かけたことがあります。はるか沖まで干潟が広がる豊かな海辺の里でした。母の実家がこの一色氏と関わりがあるのかどうか、後を継いでいる鉄ちゃんの従弟に確かめてみたいと思います。

丸山通の坂道を上ると、きりたん(大阪キリスト教短期大学)に隣接して、オフクロの母校、丸山小学校があります。

阿倍野筋をちょっと南へ戻り、伝北畠顕家墓を訪ねてみました。冒頭の摂津名所図会にある大名塚です。お墓というより公園で、砂場や遊具も設置されています。

北畠顕家の事績を紹介する案内板がいくつかあり、私本太平記にも登場する七か条の上奏文が掲げられていました。後醍醐天皇の勅命を受けた弱冠21歳の顕家は鎮守府大将軍として赴任先の奥州多賀から出陣、利根川の戦い、安保原の戦いで足利幕府軍を破り鎌倉を陥落させます。さらに西上を続け漸く奈良を占拠。顕家軍は疲弊しきっていたものの、さらに河内、和泉へ転戦、天王寺を占領するも一進一退を繰り返し、摂河泉一帯が火につつまれる中で書き上げ、吉野朝廷へ上奏したのがこの七か条です。

諸国の租税を免じ、倹約を専らにせらるべき事
臨時の行幸及び宴飲を閲かるべき事
政道の益無く寓直の輩を除かるるべき事

人倫を踏みにじるような戦乱の続く世でこの北畠顕家の上奏文は、これに先立つ楠木正成の上奏文と並び、強い正義感と行動力が際立ちます。顕家はこの七か条を上奏した直後、ここ阿倍野の地(異説では石津川付近)で力尽きています。顕家はかなりのイケメンだったことも間違いないらしく、大河ドラマでは何とゴクミ(ジャン・アレジ夫人)が演じていました。

松虫帖

松虫でしばし撮り鉄。今日のモ164は天王寺駅前を毎時00分発の運用です。

モ351は質屋から運送会社のラッピングに変わってました。モ501形と同じ車体もモ351形はツリカケです。

お次はモ505、ハルカスが小さめに上手く収まりました。

モ164が戻って来ました。とても令和の時代じゃなくて南北朝時代からタイムスリップした電車に見えてきました。さしずめパンタグラフは烏帽子、「顕家号」と名付けてもいいかも。

体が冷えてきたので帰ります。