飛鳥京から藤原京

何度も行ったことがあるものの、日本の首都めぐりとして飛鳥と藤原京へ。

五十鈴川行ロングシート急行は五位堂で待避、通過した名古屋行特急の前2両はまだ12200系でした。

大和八木で橿原線ホームに下りると12200系4連、駅撮りの鉄ちゃんが数人。今やしまかぜやひのとりより人気、来春にはいなくなる近鉄特急色です。

飛鳥への道

かしはらナビプラザで電動アシスト付を借りて出発。国道沿いの空地にコスモス畑。

藤原京跡への案内板があるものの、飛鳥→藤原京、と時代通り進みたいので先へ進むと、景色が広がり、池の向こう右手に何やら遺跡らしき柱列、左手に耳成山。

池にはコガモ、田んぼにはケリ。

飛鳥を先に見たかったけど、綺麗に整備された遺跡は藤原宮西面大垣跡、ここに高さ5.5m、幅20cmの瓦葺きの塀が続いていたそうです。

その少し南側に直角の土盛、藤原宮の西南隅です。塀の内外は堀に囲まれていたようです。

飛鳥川の土手をさかのぼります。ハナカタバミは日向では花を開き、日陰では閉じています。

川に小魚がたくさん見えます。黒い側線がくっきり、タモロコかモツゴ、体型からたぶんモツゴかと。

以前もアップした古墳らしき小丘の西側からの眺めです。いつの間にかGoogle Mapにマーカーがプロットされていました。古墳じゃなくて、雷ギヲン城という応仁の乱の頃の砦と分かりました。現住所も雷なのでイカヅチと分かるものの、なぜワ行のヲなのかは不明です。中世の砦だったとしても小丘の形は自然のものとは考えにくく、やはり元は古墳だったと思われます。

このオッサン何やってるの、と小首をかしげたセグロセキレイ。

オレンジ色の畑、近づいてみるとキバナコスモス。振り返ると雷ギヲン城、左手は畝傍山です。この先真っ直ぐちょっと行ったところに水落遺跡があるのですが、今日は東へ向かいます。

キバナじゃないコスモス畑も。手前はホソバヒャクニチソウ。

ヒメアカタテハと黄色いホソバヒャクニチソウ、キタテハとオレンジのホソバヒャクニチソウ、完全に保護色になってます。

コスモス畑の向こうを飛んでいるのはひょっとして…。やはりチョウゲンボウです。

ほどなく飛んでいってしまいました。別の電柱に尾羽をピンと立てたモズやん。

ローソンの駐車場で一服していると上空をこちらに向かってくる飛行機、右旋回して伊丹の方へ向かって行きました。JA846Jと機体番号がくっきり読み取れます。

しばらくするとまたこちらに向かってくる飛行機が右旋回。どうやら同一機体のようです。

Flight Radarをチェックしてみると生駒から田原本辺りの上空をグルグルと2周、大きく旋回していました。伊丹空港はかなり混雑していたようです。

飛鳥資料館

漸く今日の最初の目的地、飛鳥資料館に到着。できごとと人びとと遺跡を1枚にまとめた年表がとても分かりやすい。

馬鈴は蘇我馬子が飛鳥寺の塔(鎌倉時代に焼失)の心柱に埋めたものだそうです。

水落遺跡の漏刻のジオラマ、遺跡を訪ねただけだと分からない全体像です。

日本最古の貨幣、富本銭です。ランナー部分と一緒に枝銭の状態で並べられています。

この富本銭を造幣していたのが飛鳥池工房で、飛鳥寺の東側に隣接していたようです。貨幣だけじゃなく、鉄、銅、金、銀、ガラス製品などの製造が行われていました。

照明を落とした部屋にキトラ古墳壁画天文図(陶板複製)、石室天井に描かれた中国式の天文図で、世界最古の星図だそうです。

さらに照明を落として陶板に描かれた星々をプラネタリウムのように説明してくれます。ベガに右下にオリオン座が見えます。

川原寺の1/100ジオラマ、黒い壁が建物を美しく見せています。

火の鳥がいました。近鉄特急より手塚治虫に近いです。壺阪寺(南法華寺)の鳳凰塼(複製)、塼(せん)とは煉瓦やタイルのように壁面に用いる瓦です。

近江大津宮から遷都された飛鳥京最後の都、飛鳥浄御原宮の1/500ジオラマです。南から俯瞰して手前に橘寺、飛鳥川の右岸に飛鳥浄御原宮、その向こうが飛鳥寺。宮殿、寺院、工房、役人の住居が狭い谷にびっしり。人口が増え、経済が成長しても、これ以上首都機能を広げようがなく、ほどなく藤原宮へ遷都せざるを得なくなったと理解できます。

ジオラマの飛鳥寺周辺です。水落遺跡の漏刻に飛鳥川から水が引かれていることまできっちり再現されています。

ジオラマは足元の航空写真と連続しています。工夫を凝らした極めてよくできた古代の首都の紹介だと思います。

ロビーのジオラマ前に置かれた、男性の肩に女性が抱きついている石人像、内部に孔が貫通していて噴水になっているそうです。白雪姫の七人の小人を彷彿とさせる風貌、シルクロードの終点だった飛鳥です。

飛鳥の遺跡の分布図、こんなにたくさん行ってみたい場所がまだまだあるとは。資料館全体に照明も絶妙に設定されていて、古代を体感できるとても素敵な博物館です。飛鳥資料館は平城宮跡資料館ともども奈良文化財研究所の運営、つまり国営です。久しぶりに税金を払う価値を感じることができました。

藤原宮への道

道端のコスモス、栽培されたのではなく野生っぽいです。上の1/500ジオラマの上辺の道辺りに立っていることになります。正面に畝傍山、その向こうに二上山。左へ葛城山の稜線が続き、左端のこんもりした小丘は雷丘、推古朝の小墾田宮があの辺りです。

見上げると立派なジョロウグモ。

チョウゲンボウに会ったコスモス畑が見えます。その向こうは天香久山、左奥に耳成山、その左の2つの小丘は小山城跡、やはり中世の城郭跡です。画面が切れた左に雷ギヲン城があります。

焼かれた田んぼにタヒバリ。歩く姿がとても可愛い鳥です。

大官大寺跡の碑が2つあることに気づきました。1300年前はこの広い空間にびっしり建物が立ち並んでいた訳です。

明日香の観光の中心は石舞台で、近鉄飛鳥駅が起点となることが多いですが、古代を偲び、時代の変化を実感するには、この天香久山南側の広大な空間が欠かせないと思います。大和八木あるいは橿原神宮前を起点にすれば、電チャリでなくても大丈夫かと。

藤原京と2つの資料室

天香久山の麓にある藤原宮跡資料室、ここも奈良文化財研究所の運営ですが入場無料、飛鳥の資料館に対してこちらは資料室で規模を表しているようです。

藤原宮建設のパネルです。近江田上山で切り出した木材を筏に組んで、宇治川を下り、木津川を遡り、木津で陸揚げして、奈良山を越えて、佐保川、寺川(奈良盆地を南北に流れる大和川の支流)の水運を利用、さらには運河を掘って運んだそうです。田上山の近くで可愛いイタチに会ったことを思い出しました。

瓦工場のジオラマ、先週榿木原遺跡で見たような登り窯が並んでます。

中央集権が確立してきたことを示す全国の物産と税のパネル、木曽が美濃に入っていたり、薩摩より日向の方がずっと広かったり、後年の地図とかなり違ってます。よくみると我が故郷の和泉国がありません。書き忘れたんでしょうか。調べてみると、和泉国ができたのは奈良時代で、藤原京の時にはまだ河内国の一部だったと分かりました。

市のにぎわいのパネル、単なる宮ではなく京、都市としての日本で最初の首都だった藤原京です。

白鳳時代ではなく中世の食器の展示、家族でしょうか、人物の描かれたお皿が楽しい。奈良文化財研究所のPDFによると橿原神宮前駅東側辺りから出土したもののようです。中世の食器が発掘されているということは、藤原京が廃都されてからも、周辺はそれなりに賑わっていたということのようです。その後の今井町の発展とも関係がありそうです。

ファミマで一服しているとイソヒヨドリがやってきました。

この辺り南北に何本も水路が通っていて、青い光がビューンと目の前を通過しました。久々のカワセミですが、左手の池の草むらに隠れてしまいました。この池が藤原京跡南側の高所寺池かと思ったらほぼ全面草が茂っています。3年ほどでこんなに変化するものなのかなぁ。

自転車の前にいるハクセキレイは、必ずといっていいほど、左右じゃなくて自分の進行方向へ逃げます。なので、同じことを何度も繰り返すことになります。

耳成山の前を桜井線の227系、ここまで来て高所寺池も藤原京跡もとっくに通り過ぎてしまっていたことにやっと気づきました。

橿原市藤原京資料室の1/1000ジオラマ、日本初の本格的条坊制都市である藤原京を北からみたところです。耳成山の北側から甘樫丘の麓まで町並みが広がっていたことが分かります。わずか16年だけの都だったものの、建設自体は天武天皇の頃から始まっていたようです。

ジオラマの東側からの眺め、左手前は山田寺、画面から切れかけているのが飛鳥寺、その右手は奥山久米寺、九重塔は大官大寺、もう飛鳥京と藤原京は連続していると言ってよさそうです。遷都というより都が拡大されたと言っていいのかも知れません。飛鳥宮から藤原宮への移転は、平安京の千本丸太町から現在の京都御所への御座所の移転くらいの感覚だったような気がします。

ジオラマ以外の展示はイマイチで、奈良文化財研究所の藤原京資料室に任せた方が良さげです。橿原市のゆるきゃら、こだいちゃんとさららちゃんが紹介されていました。こだいちゃんはちょっと論外な感じですが、さららちゃんはインパクトがあります。でも持統天皇をモチーフにしているとしたら、藤原京遷都の時にはもう50歳近いので、藤原京を走り回っていたであろう活発ではつらつとした女の子、という設定はかなり無理があります。

藤原宮跡です。期待していたコスモスは全然ありません。去年より1ヶ月ほど遅いのでもう終わってしまった、にしては変です。

コロナ禍で植栽中止だそうです。ところどころ短いコスモスが残っていてこれはこれでめったに見られない光景ではあります。

朝堂院東門跡の柱列と自分の長い影。藤原京とは後世の命名で日本書紀では「新益京(あらましのみやこ)」と記されています。新たに益された都、拡張した都という意味であり、やはり遷都というより飛鳥京の拡張と捉えて良さそうです。誰がいつ、なぜ藤原京と命名したのかは調べた限りでは不明です。

高所寺池は全然変わっていませんでした。奈良文化財研究所藤原京資料室から北へ向かったのが間違い、まっすぐ西です。飛鳥京と藤原京は離れているという思い込みが間違いの元でした。

イカルチドリがいました。おやっ、左足に赤、右足に黄色のリングを嵌めています。イカルチドリは留鳥で標識を付ける必要はないはず。

イカルチドリは池の向こう側へ。リング付きは冬羽、その前にいつのは夏羽です。池の手前にはセグロセキレイ。

まだ4時にもなっていないのにだいぶ日が傾き、金剛山と葛城山の間あたりに沈みそうです。

八木駅を出たところで日は葛城山の稜線に沈みました、4時31分。一日を大切に使わなければと思わせる秋の夕暮れ。