今城塚古墳

今週も古墳巡り。大阪府には世界遺産の百舌鳥・古市古墳群の他にもうひとつ大きな古墳群があります。淀川北岸、高槻市・茨木市に広がる三島古墳群です。高槻市立今城塚古代歴史館が隣接する、宮内庁の治定は受けていないものの第26代継体天皇陵とされる今城塚古墳へ行ってみます。

淡路駅では乗ってきた堺筋線からの高槻市行と梅田からの北千里行が同時発車も北千里行が少し遅れました。北千里行の後に2号線入線の特急で高槻市へ。

目的地へはJR摂津富田あるいは阪急富田から歩いて行ける距離ですが、高槻市駅で阪急レンタサイクルを借りることにしました。電動アシスト付1日400円はイマドキありがたい。

ちょっと寄り道、新快速車窓から気になっていた巨大板チョコ、明治大阪工場です。線路と工場の間に道が無いので、この角度が目いっぱい。

住宅街に右近灯籠、金沢市の立像寺に今も残されているキリシタン灯籠の原寸大レプリカだそうです。高山右近がいかに高槻市民に愛されているかが伝わってきます。

いましろ大王の杜・史跡今城塚古墳に到着、ひっくり返った前方後円墳の後円部南側に位置する自転車駐輪場に自転車を置いて歩くことにします。階段を上がると一面の芝生。

地図には「だいおうのもり」とふりがながあるものの「おおきみのもり」と読むべきじゃないのかな。

外濠の堤に咲いた見慣れない紫の花はたぶんムラサキサギゴケ。春の花だそうですが、間違いないかと。

「13: 水をためない濠」と番号の付いた説明板、自転車置き場のマップの1から16の番号と照合できると分かりました。現在地の外堀は最初から空堀だったとのこと。信長がこの古墳を砦とし三好長慶攻めに利用したそうで、火縄銃の弾が出土しているらしい。

外濠から堤をトンネルで抜けると内濠、堤を覆う石は残された葺石なのかも。

墳丘から下りてくる人たちがいます。自分もあそこから登ってみることにします。

墳丘を歩く

後円部の森の道を進むと「2: 後円部テラスの施設」

「1: 墳丘盛土を雨水からまもる工夫」と「3: 重い石室を支えた石組」、古代の土木技術を実感できるようになってます。

スマホで現在地をチェックしてみると後円部のど真ん中。後円部から前方部へ墳丘の尾根の道を進みます。

前方部の真ん中の現在地に「4: 地震で崩れた墳丘」。

文禄5年(1596年)閏7月13日、マグニチュード7.5、畿内の広範囲で震度6相当の揺れと推計される慶長伏見大地震が発生、Wikipediaでは死者は1000人を超えたとあるものの、45,000人という説が有力らしい。完成間近だった伏見城天守は倒壊、今城塚古墳も地すべりで崩壊も、この一画は地すべりを免れて本来の高さを留めていたそうです。地震発生は文禄ですが、天変地異が多発したことから慶長に改元されています。

前方部の坂道を下ります。

前方部右隅の平坦部(テラス)の「5: 築造当初の姿を残す南西隅部」、土に埋まった円筒埴輪が多数並んでいた発掘調査時の様子がよく分かります。

茂みの向こうに水を湛えた内濠、古墳を内側から見ていることを実感できます。

前方部の西側に出て来ました。

リスアカネのあっち向きとこっち向き。

墳丘を出て水のない内濠の南側から内濠の堤に登ると円筒埴輪がいっぱい。先を見るとずーっとびーっしり果てしなく円筒埴輪が並べられています。

円筒埴輪は前方部の内濠の堤をびっしり取り囲んでいます。

「12: 内濠をかこむ堤」は内堤と呼ぶようです。案内板によると内濠の水際から5mもの高さで円筒埴輪は二重に張り巡らされていたらしい。

前方部の外濠も整備された遊歩道になってます。内濠にはヒドリガモ。

「11: 聖域をあらわす垣根」、近つ飛鳥博物館でボランティアガイドさんに教えてもらった通りです。コーナーはしっかり朝顔形埴輪が再現されていて街灯の柱になってます。

円筒埴輪はレプリカのはずですが、微妙に大きさや高さも違っていて量産品ではないようです。

埴輪まつりのステージ

圧巻の「10: 埴輪まつりのステージ」、埴輪は古代歴史館の中だとばかり思っていたら内堤一画の出っ張りに想像をはるかに超える数が展示されていました。墳丘をめぐり内濠をぐるっと回ってきた後なのでまさに真打ち登場。

埴輪の背に乗って写真を撮っている人たちがいて、あかんやろ、と思ったのですが、特に禁止されていないというより、馬形埴輪の鞍などまるで乗ってみてねという感じです。

水鳥形埴輪が何と13体。水鳥の背も座りやすくなっていて、かなり頑丈にできているようです。

戦士たちと腕に鳥が止まっているのは鷹匠、戦国武将たちが愛した鷹狩が古墳時代から行われていたとは知りませんでいた。

まわしを締めた力士、相撲の発祥は垂仁天皇の頃なので継体天皇の頃にはかなり普及していたようです。この埴輪の様子からすると、当時の力士の髷は横向きで、タッグマッチもあったのかも知れません。

南側半分はロープで仕切られて近づけないものの、こちらにも水鳥形埴輪が12体。

変なヘアスタイルの巫女さんたち。

円筒埴輪にの中に入る不届き者がいるようです、出られなくなるかもしれないので止めた方がいいです。

なぜかトノサマバッタが登場。鶏形埴輪も置かれています。

外堤の東側のハニワバルコニーに上ると、埴輪まつりのステージ全体が見渡せます。手前には前方後円墳の模型、右手の男の子たちが寝そべっているところはドット絵の「三島の古代地図」。

「15: 大王の埴輪まつり」で4つに区分された埴輪まつりステージのそれぞれの特徴が紹介されています。埴輪まつりのステージは単なる埴輪の展示場ではなく、6世紀の造成時からこの場所に前方後円墳の張出が設けられていて、そこから出土した埴輪のレプリカを出土状況に沿って並べ、古代の姿を現代人にも親しみやすく伝えられるように再現したものと分かってきました。

2007年に石室を支える支える巨大石組み遺構がみつかり継体天皇陵であることがほぼ確実視されるようになったそうです。宮内庁はここから西へ1kmにある三島藍野陵を継体天皇陵に治定しているものの、5世紀半ばの築造と推定され、継体天皇崩御の531年と辻褄が合わないため、今城塚古墳の方が有力です。

今城塚古墳の本格的調査が始まったのは1997年、まだ30年も経っていません。近年古代史研究が急速に進歩してきていることが伝わってきます。

今城塚古代歴史館

ようやく今城塚古代歴史館に到着、入館無料。

最初に巨大円形スクリーンで今城塚古代歴史館紹介のビデオ、この画面で埴輪まつりのステージが現在地から出土した埴輪を並べて当時の様子を再現していると確認できました。

三島古墳群最古の安満宮山(あまみややま)古墳から出土した青龍三年銘方格規矩四神鏡、パネルの説明で、青龍、朱雀、白虎、玄武の四神が刻まれ、青龍三年(中国・魏の年号でAD235年)と刻まれていると分かります。

同じく安満宮山古墳から出土の三角縁獣文帯四神四獣鏡、パネルの縁の断面図で三角縁神獣鏡の意味を理解。

次の部屋で今城塚古墳の土地を区画する、土を積む、葺石を敷く、といった一連の作業を動画と実物大のジオラマで展示。6世紀の日本で、古代ギリシアや古代ローマに引けを取らない土木技術、そのための数学や物理の知識を持っていたと感じさせます。

続いて埴輪の展示。パネルの「2本マストの船」とは円筒埴輪にヘラで描かれた落書きのような船のイラストのこと。内堤に並んだ円筒埴輪に落書きのようなものを見つけ、てっきり最近の誰かのいたずらだとばかり思っていたのですが、これが今城塚古墳の円筒埴輪の特徴で、そのブランドマークにもなっていると分かりました。淀川に近く古代からこの付近の人たちは舟運に慣れ親しんでいたと分かります。

ずらりと並んだ埴輪、屋外の埴輪まつりのステージのレプリカと違って、お手を触れないでくださいアイコンがあるので、出土して修復した本物のようです。

巫女、力士、鷹匠の埴輪、表のレプリカと微妙に違っていて、力士はお腹全体が修復されているようです。

埴輪祭祀場(埴輪まつりのステージ)の詳しい説明です、

被葬者であることがほぼ確実視されている第26代継体天皇の甲冑のレプリカです。Wikipediaの分かりにくい文章を自分なりに読み解いてみました。日本書紀によるとAD450年頃近江国高島郷で誕生、母・振媛の故郷、越前国で育てられ越前を統治していた男大迹王(おほどのおおきみ)が後の継体天皇。

AD506年、大変な暴君だったと伝わる第25代武烈天皇が後嗣を残さず崩御、大連(おおむらじ - 大臣と並ぶ最高官)の大伴金村らが人格者と評判高い5代遡った第15代応神天皇5世の来孫・男大迹王を推戴しようとするも辞退されるたものの、再三の説得を受けて58歳にして樟葉宮で即位。武烈天皇の姉妹である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に迎え、手白香皇女との間に生まれたの第29代欽明天皇により現在の皇室に至るまでその血筋が受け継がれているとのこと。

10親等も隔たりのある皇位継承に、皇位簒奪による王朝交替説まであるものの、例え継体天皇を初代としても現皇室は1500年の歴史を持つ世界最古の王朝であることに変わりないという説明が自分的には理解しやすい。

少し蓋の開いた石棺の向こう側の蓋のない石棺には遺体の人形が置かれていてビックリ。石棺の左手前は石棺を安置する横穴式石室の床となっていた石室基盤工の上を歩いて観察できるようになっています。

今城塚古墳1/100模型でも埴輪まつりのステージが確認できます。

何気なく撮っておいた巨大古墳の変遷の巨大パネルの一部、暗いのでかなりピンボケですが、よく見るとかなり興味深い。大和、山城、摂津、河内、和泉と地域別にy軸、x軸を時代の変遷として前方後円墳の大きさや形状が比較できるようになっています。右側ブロックの下から3段目でスポットライトが当たっているのが今城塚古墳、左側ブロックの上から2段目が先週訪ねたばかりの津堂城山古墳、ピンボケで文字の潰れた中央ブロックの特大サイズは右上が仁徳天皇陵、左下が応神天皇陵です。この写真範囲の左側には古墳時代初期の箸墓古墳等も描かれているはずですが読み取れません。

今城塚古墳の墳丘長は190m、津堂城山古墳は208mと、津堂城山の方が僅かに大きく歩いた実感と逆です。時代が進むに連れ前方部の裾が広がっているという特徴もよくわかります。

古墳時代末期、飛鳥時代とも重複する7世紀中頃につくられた阿武山古墳、高槻市と茨木市にまたがる山中で発見された円墳で、漆喰の塗られた石室に安置された、麻布をを漆で塗り固めた夾紵棺から60歳前後とみられる遺体とともに錦糸の刺繍が施された冠帽が見つかり、被葬者は中臣鎌足説が有力。その冠帽の復元が展示されています。

大化の改新の一貫として薄葬令が発布され墳陵は小型化、古墳時代は終わりを告げています。

さらに律令国家の成立の展示が続き、企画展「旧石器時代を探る」も開催中だったのですが、もう頭に入る余裕はなくなりました。

トイレの表示も埴輪です。

歴史館と今城塚古墳の間の水路にキセキレイ。

もう一度埴輪まつりのステージへ。鷹匠埴輪は歴史館館内展示の鷹匠と表情、衣装、ポーズも、それに鳥も全然違ってます。屋外のこのレプリカの方が可愛く、額のシワがなければヤマガラと遊ぶ少女にも見えます。後ろの力士ののけぞったポーズは土俵で塩を撒いた後の気合を入れているところかと。

戦士たちの後ろ姿、刻まれた甲冑はそれぞれに違っていて近年制作のレプリカでも量産品ではないようです。

ハニワバルコニーを振り返るといつのまにか見学者がびっしり。

内濠から自転車駐輪場へ戻ります。「9: 内濠をかこむ堤」、イラストで監督から指示を受けている作業員さんたち、どんな言葉で話していたんでしょう。

芥川

ちょっと寄り道して芥川の土手を河口へ。271系はるかです。反対側の鉄橋を阪急1300系。

河原にコスモスがいっぱいなのですが、電車と上手く合わせられる角度は見つからず。

芥川に女瀬川(にょぜがわ)が合流する地点の津之江公園、ここで鳥見のつもりだったのですが、レンタサイクル借りたのに今城塚古墳でたっぷり3時間も歩いて日も傾いてきたので帰ることにします。

高槻市駅3号線には令和な最新型2300系の特急、4号線に昭和な5300系の準急。当然準急を選びました。座って帰れて梅田着は5分差。