今城塚古墳
今週も古墳巡り。大阪府には世界遺産の百舌鳥・古市古墳群の他にもうひとつ大きな古墳群があります。淀川北岸、高槻市・茨木市に広がる三島古墳群です。高槻市立今城塚古代歴史館が隣接する、宮内庁の治定は受けていないものの第26代継体天皇陵とされる今城塚古墳へ行ってみます。
淡路駅では乗ってきた堺筋線からの高槻市行と梅田からの北千里行が同時発車も北千里行が少し遅れました。北千里行の後に2号線入線の特急で高槻市へ。
目的地へはJR摂津富田あるいは阪急富田から歩いて行ける距離ですが、高槻市駅で阪急レンタサイクルを借りることにしました。電動アシスト付1日400円はイマドキありがたい。
外濠の堤に咲いた見慣れない紫の花はたぶんムラサキサギゴケ。春の花だそうですが、間違いないかと。
「13: 水をためない濠」と番号の付いた説明板、自転車置き場のマップの1から16の番号と照合できると分かりました。現在地の外堀は最初から空堀だったとのこと。信長がこの古墳を砦とし三好長慶攻めに利用したそうで、火縄銃の弾が出土しているらしい。
前方部の真ん中の現在地に「4: 地震で崩れた墳丘」。
文禄5年(1596年)閏7月13日、マグニチュード7.5、畿内の広範囲で震度6相当の揺れと推計される慶長伏見大地震が発生、Wikipediaでは死者は1000人を超えたとあるものの、45,000人という説が有力らしい。完成間近だった伏見城天守は倒壊、今城塚古墳も地すべりで崩壊も、この一画は地すべりを免れて本来の高さを留めていたそうです。地震発生は文禄ですが、天変地異が多発したことから慶長に改元されています。
被葬者であることがほぼ確実視されている第26代継体天皇の甲冑のレプリカです。Wikipediaの分かりにくい文章を自分なりに読み解いてみました。日本書紀によるとAD450年頃近江国高島郷で誕生、母・振媛の故郷、越前国で育てられ越前を統治していた男大迹王(おほどのおおきみ)が後の継体天皇。
AD506年、大変な暴君だったと伝わる第25代武烈天皇が後嗣を残さず崩御、大連(おおむらじ - 大臣と並ぶ最高官)の大伴金村らが人格者と評判高い5代遡った第15代応神天皇5世の来孫・男大迹王を推戴しようとするも辞退されるたものの、再三の説得を受けて58歳にして樟葉宮で即位。武烈天皇の姉妹である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に迎え、手白香皇女との間に生まれたの第29代欽明天皇により現在の皇室に至るまでその血筋が受け継がれているとのこと。
10親等も隔たりのある皇位継承に、皇位簒奪による王朝交替説まであるものの、例え継体天皇を初代としても現皇室は1500年の歴史を持つ世界最古の王朝であることに変わりないという説明が自分的には理解しやすい。
少し蓋の開いた石棺の向こう側の蓋のない石棺には遺体の人形が置かれていてビックリ。石棺の左手前は石棺を安置する横穴式石室の床となっていた石室基盤工の上を歩いて観察できるようになっています。
今城塚古墳1/100模型でも埴輪まつりのステージが確認できます。
何気なく撮っておいた巨大古墳の変遷の巨大パネルの一部、暗いのでかなりピンボケですが、よく見るとかなり興味深い。大和、山城、摂津、河内、和泉と地域別にy軸、x軸を時代の変遷として前方後円墳の大きさや形状が比較できるようになっています。右側ブロックの下から3段目でスポットライトが当たっているのが今城塚古墳、左側ブロックの上から2段目が先週訪ねたばかりの津堂城山古墳、ピンボケで文字の潰れた中央ブロックの特大サイズは右上が仁徳天皇陵、左下が応神天皇陵です。この写真範囲の左側には古墳時代初期の箸墓古墳等も描かれているはずですが読み取れません。
今城塚古墳の墳丘長は190m、津堂城山古墳は208mと、津堂城山の方が僅かに大きく歩いた実感と逆です。時代が進むに連れ前方部の裾が広がっているという特徴もよくわかります。