津堂城山古墳

近つ飛鳥博物館で見た水鳥埴輪、その発掘現場の藤井寺へ、南大阪線ではなく谷町線で向かいます。

沿線住民なのに谷町線の終点、八尾南駅に初めてやってきました。地下じゃなくて地上駅、谷町線の22系や30000系を太陽の下で見るのは初めて。駅の奥には車両基地。

上空を行くヘリの機体番号はJA100F、大阪市消防航空隊のEurocopter AS365N3 Dauphin 2。八尾空港は八尾南駅のすぐ東側です。

当初の計画では車庫のみ設置する予定だったらしい八尾南駅、駅ビルは商業ビルではなく大阪メトロの事務所だけのようです。八尾南到着前に他の駅では聞かないものの、聞いたことのあるようなメロディが鳴っていたのは河内音頭と分かりました。エンヤコラセ〜ドッコイセ♪

とても八尾を感じさせない八尾南駅周辺、コンビニとモスバーガーくらいしかない駅前にドドーンとあるのはミキハウス本社。

調べてきたお店でランチ、ビーフシチューハンバーグ(レギューラー)で、これに前菜の唐揚げがついて1,815円はちょっと予算オーバー。デミグラスソースの代わりにビーフシチューがある感じで黒い石でジューっと焼きながらいただきます。

ハンバーグ屋さん近くのバス停へ着くと次のバスまで15分くらいあります。道路を渡って自販機で水を買っているとあじゃー、バスがやってきました。1本前が遅れてやってきたようです。マップをチェックすると大和川がすぐ近く、目的地まで30分もかからないと分かり土手を歩くことにしました。

正面に二上山も見ながら大和川右岸土手を歩きます。この付近は江戸時代初期の大和川付け替えまでは広大な平原に小さな村が点在していたものと思われます。

セスナが到着、ジェット旅客機と違って機種を下げて着陸するようです。

二上山がさらに近づいた大正橋で大和川を渡り、八尾市から藤井寺市へ。中河内から南河内へ歩いて来たことになります。マンホールに描かれた消防士のイラストの周りのひと形は埴輪をイメージしているかも。

まほらしろやま

津堂城山古墳に到着。かなり萎びてしまっているもののまだヒガンバナが並んでます。

応神天皇陵や仁徳天皇陵より古く大王墳の起源とされる4世紀後半築造の前方後円墳、現在地はバス道に面した墳丘の北東側、反時計回りに回ってみることにします。

スイレンがまだ咲いてます。スイレンの葉っぱをピョンピョンとハクセキレイ。

薄紫の花は葉っぱの形からするとヨメナじゃなくてノコンギクのようです。アオモンイトトンボ登場。

後円部を囲む津堂草花園にはコスモス、右上の建物は津堂城山古墳について学べる施設「まほらしろやま」。

コスモスはまだつぼみが多くピークはこれからのようです。

「まほらしろやま」前にドーンと石棺、津堂城山古墳後円部頂から出土した長持形石棺の実物大レプリカです。手前のパネルに紹介されているように、重さ16トン、何と全体が真っ赤に染色されていたそうな。

石棺の横に黒ずんだ石板が並べられています。「まほらしろやま」内のパネルで、石棺を納めた竪穴式石槨の天井石と分かりました。

「まほら」とは「素晴らしい場所」という意味の古語、「大和は国のまほろば」の「まほろば」と同意です。

まほらしろやまの管理人さんらしき女性と目が合い、コスモスはまだこれからですか?と訊いてみると、今年は天候不順でよくわからないようです。近つ飛鳥博物館でみた水鳥埴輪の発掘現場を見たくてやってきました、ビデオご覧になりますか、ぜひ。

ところがビデオは英語モードから日本語に変えることができず、英語のままでいいです、とじっくり鑑賞。前方後円墳の英訳はKeyholeと分かりました。

かつては二重の濠で囲まれていた前方後円墳も、南北朝時代、楠木正成の武将、志貴右衛門の小山城が築かれ、その後の開墾で大きく変形していたのが最近の調査研究成果により復元されているそうです。足利方ではなく楠木方の武将が大王のものと思われる大型古墳に城を築いていたのは興味深い。

水鳥形埴輪の1/2レプリカが飾られていました。管理人さんからご主人(大阪での年配男性に対する一般的二人称)持って行ってくださいというパンフをいっぱいもらってきました。

後円部に沿った内堀跡のコスモス畑、ベンチに腰を下ろしてひと休み。

少ししか咲いてないけどコスモス畑の向こうに「まほらしろやま」と石棺のレプリカ。「まほらしろやま」のさらに外側を外堀が囲んでいたようです。

開ききっていない白いコスモスがチャーミング。

前方後円墳に登る

どうやらここが正面らしき墳丘北側の入口には近所の子どもたちや親子連れの自転車。前方後円墳の正面は普通前方部に面しているのにここでは後円部に面しています。それに宮内庁管理だと立ち入り禁止ですが、ここでは中に入ることができます。

草花園を横切る道を進むと後円の一画に津堂八幡神社。鳥居の左に立てられた「津堂八幡神社由緒略記」によると、永禄9年(1566年)に三好康長が祈願所として勧進、現在地より6丁西北に位置していたものの宝永元年(1704年)の大和川付け替え後の享保元年(1716年)新大和川氾濫で社殿浸水崩壊、享保5年(1720年)現在の社地に移されたとまで読みにくい文章から何とか理解できました。

三好康長は、南大阪線古市駅南側にある第27代安閑天皇陵高屋築山古墳にあった河内高屋城城主、生没年不詳も三好氏の出、昨日の味方は今日の敵のように乱世をくぐり抜け、信長に仕え重宝され、秀吉の時代まで生きて長命を全うしたようです。その名も知らなかった戦国武将ですが、詳しくその生涯を探ってみたくなりました。

萎びているもののがんばってるヒガンバナ、黄色いのは上から落ちてきた葉っぱです。

八幡神社を右手に抜けると広場、子どもたちが遊んでいます。

墳丘の前方部と後円部の間のくびれた部分のちょっとした崖を登ると墳丘の上に出ます。左手は八幡神社裏手の後円部で頂の僅かな区画だけ柵に囲まれて立入禁止、宮内庁により陵墓参考地に治定されているためです。被葬候補者は第19代允恭天皇ですが、第14代仲哀天皇という説、さらにはヤマトタケルとする説もあるようです。

右手に進むと墳丘前方部。

後円部の西側と東側、ゆるすぎずキツすぎず転んでも怪我をしないくらいの傾斜で、子どもたちには絶好の遊び場かと。Googleストリートビューの人も墳丘の上を楽しげに歩き回っています。

最初にやってきたヒガンバナの並ぶ入口の方へ墳丘を下ります。シロバナマンジュシャゲはまだ綺麗。

センダンの実がいっぱいなってます。まだ小さいけどカキも。

島状遺構

ヒガンバナは株によってはまだ鮮やか。前方後円墳の右下に位置しているはずの水鳥形埴輪が出土した「島状遺構」を探しているのですが、見つかりません。

須磨一の谷の砂浜で須磨ベルトコンベヤの銘板を探した時同様、叢の中でさんざん島状遺構を探し回ったものの見つからず、いつのまにか前方後円墳右じゃなくて下側に出ていることに気付きました。

ヒガンバナの並ぶバス道沿いの入口近くまでやってきました。同じアオモンイトトンボなのに脚の色が全然違ってます。

見つけました!島状遺構の案内板。水鳥形埴輪2号・1号・3号、出土当時の写真、島状遺構の全体像と図面、その構築作業の想像図が紹介されています。

案内板のQRコードの上あたりに止まっていたショウリョウバッタがのっそり動き出し、右の柱に張られていた蜘蛛の巣に絡めとられてしまいました。柱の陰からクモが出てきてショウリョウバッタは危機一髪、もがけばもがくほど蜘蛛の巣に包まれていきます。見過ごせないので細長い葉っぱで蜘蛛の巣にからまったショウリョウバッタ救出に成功、ショウリョウバッタは翔んで行きました。メデタシメデタシ

案内板の下から出てきたのは黒いイトトンボ、萎びているもののこの子もアオモンイトトンボのようです。

島状遺構はお花畑になっていて肥料が撒かれています。元は内堀だった場所に、墳丘から離れた島を墳丘の両側に設け、そこに水鳥形埴輪を埋設したのはなぜか、前方後円墳左側にも島状遺構があったらしく、そちらの発掘調査は行われたのか、また今度訪ねた時に管理人の女性に訊いてみたいと思います。

来る前は前方後円墳の周囲をぐるっと回ってみるだけのつもりだったのですが、予想を遥かに超えて楽しく、心地よく、学べる津堂城山古墳です。被葬者には諸説あるものの、ここはやはり白鳥伝説のあるヤマトタケル説を採りたい。

島状遺構から200mほど南側に小山バス停、ベンチに腰を下ろし、空を見上げコハクチョウたちの姿を思い浮かべ、思わずウーウーウーと叫んでいた自分です。あとからやって来た高齢女性が、いつまでも暑いですね、と日差しの強いベンチじゃなくて日陰で立ってバスを待ってます。10月半ばでこの暑さ、それでも湖北のコハクチョウは10月10日に第一陣が到着済みでほぼ例年通りです。

藤井寺行でも、近鉄八尾駅行(八尾南駅経由)のどちらでも1時間ほどで帰れるのですが、藤井寺行が先にやってきたのであべの橋経由で帰ります。今はコスモスの草花園は早春には菜の花畑になるらしく、一画には菖蒲園もあります。季節を変えて何度も訪ねたい古墳です。