尼崎の博物館(前編)

連日の猛暑日でさすがに古墳めぐりはお休みにして博物館めぐり。尼崎の博物館が面白そう、阪神尼崎駅から徒歩10分圏内です。

伝法駅を出ると正面に巨大な組み立て済み橋梁が迫ってきました。線路の奥に見える現役橋梁の何倍もありかなりの威圧感。津波対策が架替えの目的なので致し方ないものの、色っぽくはないです。

タイガースファームの練習を覗き見て尼崎到着前に車内放送を録音、英語でアマガァサキと発音するのを録りたかったのですが、なぜか今日は車掌さんの地声でガッカリ。

尼崎市中小企業センター内のまだ開店前らしきレストランに入れてもらいミックス定食。ふつうのトンカツ一人前にエビフライと生姜焼きが付いていてお腹パンパン。

アマゴッタという薄暗いショッピングモールに見つけたホリーズカフェ、アイスコーヒー飲みながらタバコが吸える喫煙ルームがあります。ここは大阪府じゃなくて兵庫県の尼崎市。

阪神電車の線路をくぐると尼崎城天守、平成30年に復元されたばかりです。

阪神尼崎車庫は工事用の塀に囲まれ、レンガ倉庫が消えて無くなっていてビックリ。その先に尼崎車庫正門から赤胴車がチラッと見えます。

10年くらい前に阪神尼崎車庫で開催されたイベントで尼崎車庫内を見学した記憶があるもののブログが見つかりません。さんざん探して2013年10月の「阪神てつどうまつり」と分かりました。どうやら撮影禁止の部分もあってブログアップしていなかったようですが、問題なさそうな解体される前のレンガ倉庫外観と、いつも車庫の端っぽに停められていた201-202型電動貨車の写真です(2013/10/13撮影)。レンガ倉庫も201-202型電動貨車も去年末から今年はじめ頃に解体されてしまったようです。

尼崎市歴史博物館

3階建て鉄筋コンクリートの古い建物は旧尼崎警察署、大正15年竣工で昭和45年に新庁舎へ移転、震災後は耐震性の問題で閉鎖されたままだそうです。

旧尼崎警察署の正面が今日最初の目的地の尼崎市立歴史博物館、学校の校舎だったものとすぐ分かります。

右手には体育館。正面に建つ像は鉄鋼戦士像、「躍進する工都尼崎の姿…」と刻まれています。手袋をはめた手にヤットコ、足は安全靴、逆だった髪、縄文時代の土偶を彷彿とさせるパワフルさです。

去年6月まで阪神尼崎駅北口の中央公園(セントラルパークと呼ばれるらしい)に設置されていたものが移設されてきたらしい。

中に入ると廊下も学校のまんま。無料で見学でき、受付も見当たらず。

2階に上がると「尼崎城本丸から歴史博物館へ」のパネル。尼崎城本丸にあった天守は明治維新早々に取り壊され、大正2年本丸跡に尼崎町立実科高等女学校(後、市立高等女学校→市立尼崎高校)の木造校舎が建てられ、昭和13年に鉄筋コンクリート3階建に建て替えられ、昭和41年市立尼崎高校に代わり市立城内中学が移転してきて、平成19年まで校舎として使われ、令和2年に市立歴史博物館として再スタートしたとのこと。

尼崎車庫にあったレンガ倉庫、元阪神電鉄尼崎発電所の紹介。元は明治33年阪神電車開業時に電車だけじゃなく周辺地域にも給電していた火力発電所、大正8年の発電終了後は倉庫となり、尼崎市内に残る貴重な煉瓦造り建築として地域のランドマークとなっていたものの令和6年に解体されたとのこと。左下の倉庫内の写真で中を見学したことを思い出しました。

ガラスケースに保存されたレンガと令和6年12月5日から6日のレンガ倉庫解体工事の様子。なぜレンガ倉庫が保存できなかったのか、博物館の人たちの残念な思いが伝わってきます。

「凡天堂病院」としてこの建物がALWAYS三丁目の夕日'64のロケ地になったそうです。ALWAYSはしっかり見ていたはずが記憶にありません。予告編を見ると見逃していたようです。

「約10000年前、現尼崎市域の多くは海であった」で始まる尼崎の年表、「1185年、源義経が大物から船出するも嵐に遭遇した」は新・平家物語を読んで自分も知っている唯一の項目です。

最初の展示はガイダンス室の「価値の手直し展」。

ガイダンス室は教室のまんま。いまいちピンと来なかったのですが、どうやらこの歴史博物館のコンセプトづくりのBehind the sceneのようです。

廊下にでると歴史博物館全体のイラスト。現在地は2階に上がり、右から少し進んだところです。

①待たずに乗れる阪神電車のはじまり、②西宮市域でも尼崎市民には欠かせない甲子園の紹介、③梅田三宮を25分で結ぶ特急や人気の赤胴車、加速の青胴車が登場。

いずれも上述の尼崎市の年表と逆に左から右へ年代順になっているのが分かりにくい。どうやら阪神電鉄制作のパネルを博物館が譲り受けたものと推測。

1.原始・古代(縄文時代から古墳時代)の展示室です。尼崎市内の遺跡から出土した縄文時代の石斧や石包丁から始まります。

自分以外誰もいなにのにどの展示室も冷房が心地よく効いていて申し訳ない感じです。

弥生時代中期の大型遺跡、武庫庄遺跡出土の大型掘立柱建物柱根、その伐採年は紀元前168年頃と推定されるらしい。紀元前1世紀に始まるとされていた弥生時代中期の概念を崩すかなり貴重な出土品です。

古墳時代に入り、市内水堂古墳出土の三角縁神獣鏡。4世紀後半築造の前方後円墳で、後円部粘土槨の割竹形木棺に納められていたらしい。JR立花駅に近い現地で粘土槨が保存され見学できるようです。ヤマト政権から三角縁神獣鏡を贈られるような豪族が尼崎にいたことになります。

園田競馬場に近い猪名川流域の東園田遺跡から490個も見つかった約2000年前のイイダコ壺。

鹿の絵が描かれた描かれたタコ壺をさがしてみよう、とあったのでがんばって探して見つけました!鹿に鹿の子模様も描かれています。破片が接合されてはいるものの、とても2000年前のものとは思えない保存状態です。

続いて2.古代・中世(飛鳥時代〜安土桃山時代)の尼崎。

飛鳥時代後期白鳳時代創建の猪名寺の鴟尾、金堂や五重塔を回廊が囲む法隆寺式伽藍配置だったようですが、荒木村重と織田信長の戦いで焼失し廃寺となったらしい。

奈良時代末期、長岡京への遷都翌年に三国川と呼ばれていた神崎川と淀川をつなぐ水路が開かれ、都と水運でつながった神崎川河口の川尻に平安時代以降、神崎や大物などの港湾が生まれ、平安時代末期に大物の南の砂州が陸地化して「尼崎」と呼ばれるようになったらしい。「海士(あま)の住む岬」が語源のようです。鎌倉時代以降、尼崎は京都・奈良と西日本を結ぶ水上交通の中継地として栄え瀬戸内海有数の港湾都市として発展。パネルの手前にはそれを証する古文書の数々。

左下は平安後期から鎌倉初期の公家、中山忠親の日記「山槐記」の写本で、福原遷都が行われた際、高倉上皇から福原へ来るように命じられ淀川を下り大物に着いたことが記されており、福原の新都整備が不十分なままで、新都に家がない公家は京都と福原を頻繁に行き来し神崎や大物がその中継地となっていたとのこと。

太平記巻三十六の神崎合戦の叙述部分と元禄13年刊行挿絵入り太平記の神崎合戦の叙述部分。神崎合戦は何度もあったらしく、ここで叙述されている神崎合戦は南朝方和田正武・楠木正儀(まさつら、正成三男)と北朝方摂津守護佐々木京極氏軍の戦い。

他にも古文書を多数陳列、じっくり見るといくら時間があっても足りない感じです。

3.近世Ⅰ(江戸時代)は尼崎城関連の展示。

尼崎城ジオラマと鯱瓦。元和元年(1617年)、戸田氏鉄が築城。弘化3年(1846年)本丸女中部屋付近より出火し本丸御殿が全焼、領民の協力の下、翌年には再建。明治6年の廃城令で一部を除き取り壊されています。

4.近世Ⅱは尼崎藩とその交易や産業の紹介。

戸田氏時代の尼崎藩領図と松平氏時代の尼崎藩領図です。尼崎から兵庫まで続いていた藩領が、明和6年の上知令で西宮や兵庫が幕府に召し上げられ、播磨の村々が与えられたものの、藩財政を支えていた商工業を失い領国経営が分断され藩政が傾いていった尼崎藩です。

近松門左衛門の狂言本と絵入浄瑠璃本。近松は後半生を尼崎市内の広済寺に身を寄せ創作活動に励んでいたそうで、ウチの近所(谷町8丁目)にもある近松門左衛門墓が広済寺にもあるとのこと。

5.近代(幕末〜太平洋戦争)展示室、中央には幕末にプチャーチン乗艦ディアナ号復元模型。

6.現代(戦後〜現在)では阪神工業地帯で急速に経済成長した尼崎とそれにより公害等で苦しんだ尼崎の紹介。尼崎港駅の駅名標が置かれていました。昭和59年に廃線になった福知山線尼崎港支線の駅で、現在地からすぐ南側、国道43号と阪神高速を越えた南城内緑地辺りにあったようです。

ようやく2階の展示を見終えました。出土品や古文書など豊富な資料と分かりやすい説明が縄文時代から現代まで欠けることなく、一気通貫で尼崎の歴史を学ぶことができて大満足、見ごたえがありました。紹介すべき資料もまだまだあるものの常設展はいつでも見ることができるので割愛し企画展へ。

企画展「すごろくで時代めぐり」

3階に上がると元は職員室だったと思われる地域研究資料室、ちょうど出てきた学芸員らしき女性に訊ねると、このさきに企画展示室があるとのこと。

企画展示室では「すごろくで時代めぐり」開催中。これがめちゃ面白かったのでじっくりご紹介。

まずは「絵すごろく 明治〜大正〜昭和 女性のくらし」のショーケース。

「当世をんな雙六」は雑誌「文芸倶楽部」大正3年正月号の付録。振り出しは芸妓で、訪問記者(レポーター?)、土方、娘義太夫、十二階下(私娼窟のこと)、娼妓、看護婦、店員、書家、髪結、モデル、女医、判任官、女優、と様々な職業を経て、上りは奥様。浮世絵風の細目美人です。

雑誌「婦人世界」明治43年正月号付録の「明治婦人雙六」。四隅に女工・女中・令嬢・女学生の振り出しがあって、女教師、女絵師、乳母、電話交換手、女事務員、女髪結などの職業を経て、料理、洗濯、掃除、(生花やお琴の)稽古、裁縫、結婚、出産、育児の出来事があって、上りは一家団欒。「当世をんな雙六」よりぽっちゃり系の女性です。

「婦人生ひ立ち双六」は「婦人世界」大正7年正月号の付録。幼児を振り出しに左側は慈愛、規律、従順、克己、深切、敬老、勉強、信仰などの美徳が並び、上りは結婚。右側は盲愛、我儘、贅澤、ひがみ、女中任せ、軽率、邪険、高慢、怠惰、煩悶などの悪徳が並び、やはり上がれるのかどうかは不明です。描かれた女性は竹久夢二風の大きな目。

江戸時代に刊行された木版本の日本書紀、その朱鳥3年の条に「禁断雙六」と記されています。この「雙六」は盤すごろくで、2個のさいころを振り12ずつのマス目のコマを進めて競うボードゲーム、賭け事に結びつくため時の政府から禁止されていたと分かります。

健保2年(けんぽう、1214年)の職人たちによる歌合の会を描いた「健保職人歌合(江戸時代の写本)」、盤すごろくの前でうなだれた裸の人物は双六の博打で負けて身ぐるみ剥がれたひとと思われます。

賽筒・白黒各15個の駒・駒を入れる袋が揃った江戸時代中期の橘蒔絵雙六盤。盤双六のルールのページを見つけました。どうやらバックギャモンに似ているようです。白河上皇の「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」を思い出しました。

文化8年の盤すごろく独習書です。サイコロ賭博の普及や絵すごろくの人気で、盤すごろくは衰退し遊び方を知る人がすくなっていたため、発刊されたもののようです。

安政3年出版の歌川芳員「義経一代勲功双六」、右下が五条橋の牛若vs弁慶、上から2段目右から2番目が「大物浦」その左に「一の谷」「八艘飛」、上りは壇ノ浦です。

歌川芳員「源義経 平知盛ノ霊ニ逢図」は大物の浦の義経伝説を描いた錦絵。大物を出港した義経に平知盛らの幽霊が迫る場面ですが、平知盛が自害したのは壇ノ浦で安徳天皇と二位尼が入水したのを見届けてからだったはずなので、脚色が強すぎるようです。

「新版義経壹代記廻双六」右下に「ふりはじめ」のときわごぜん、右のくらま山から時計回りにぐるぐるまわって、19番目のコマが大物浦、真ん中の上りは「蝦夷國義経大王」、義経は平泉で討たれておらず北海道の王様になっています。

「豊国三代 義経千本桜渡海屋・大物浦の段」は歌川国貞の芝居絵、義経千本桜二段目「渡海屋・大物浦の段」の一場面、左は敗れた平知盛、中央は安徳天皇を抱く源義経、右は安徳天皇の行く末を義経に託して自害する典侍局。平家物語がかなり荒唐無稽なお芝居になってしまっています。

義経だけじゃなく太閤記も双六の大スター。幕末大坂の絵師国計の「日吉丸出世の鑑」、右下のふりはじめから、矢はぎのはし、小六やかた、藤吉うゐじん、すの又一夜城、桶はざま合戦、本のうじ、中國引き返し、山崎大合戦、清州大評定、賤ヶ岳合戦、と続き上りは「真柴久吉四海を納めその名異国までもとどろかす」、真柴久吉は歌舞伎絵本太閤記で秀吉を指す役名。

慶応2年刊行の歌川芳虎「大巧記出世双六」、17番目のコマ(右上方)には尼ヶ崎合戦。秀吉(真柴久吉)が本能寺の変を知り出陣先から中国大返し途中の尼崎が舞台。

幕末の浮世絵師国員作画「木下諸将中国江出陣道中の図」、京をふり出しに、伏見、よど、枚方、守口、大坂、十三、尼ヶ崎、西の宮、兵庫、明石、かこ川…と道中すごろくになってます。

明治初め刊行の歌川豊宣「太閤記新撰壽語録」、一騎駆のマス(右上角)は中国大返しの秀吉が単騎で尼崎に駆け込む場面。

明治36年に大阪天王寺で開催された第5回内国産業博覧会を記念して発行された廻り双六、明治元年の王政復古をふり出しに、第5回内国産業博覧会が上り。

「大尼崎繁栄双六」は昭和12年のもの、広告ばかりであまり欲しいと思わせません。

陸軍少年飛行兵募集のポスターと日支事変陣中双六、手前は国防婦人団団扇と慰問袋。

「戦時こどもぬり絵」に描かれたこどもたちに表情がなくなっています。

江戸時代のさまざまな遊びを描いた「難波世態略画巻」。「十六むさし」は当時人気のボードゲーム、ダイヤモンドゲームのようなものかな。

写真撮影OK、いっぱい撮らせてもらいました。予想を遥かに超えて見応えのある尼崎市立歴史博物館に大満足。古文書などの膨大な資料を保有し、優秀な学芸員さんが集まって分かりやすくセンスのいい展示が行われている博物館です。

尼崎の博物館(後編)へ続きます。後編では虹も登場します!