正倉院と平城宮

正倉院展が開催中、正倉院THE SHOWを見て、写真がNGでも行ってみようと思ったもののまだ迷っていたのですが、正倉院正倉が普段とは違って間近まで入ることができる特別公開が今日までの3日間だけと知り、行ってみることにしました。

快速急行の車内でXをチェックすると特別公開は大人気で500人くらいの行列とあり、やっぱり止めておこうと思ったのですが、ランチして吉城園だけでもいいやと奈良へ。

近鉄奈良駅は大混雑でビックリ。1番線に観光特急あをによしが到着。「あおによし」じゃなくて「あをによし」です。まだ乗ったことがありません。

車内テーブルのランプは正倉院瑠璃杯がモチーフですね。ドア後の絵柄は螺鈿箱、もしくは螺鈿紫檀五絃琵琶がモチーフかと。

ごはんのあいだでランチと思っていたのですが店頭に行列、なら久家でカツ丼と入ってみるとほぼ満席もテーブルに付けたもののカツ丼は売り切れで他人丼にしました。

駐車場が2,000円にもなっていてビックリ、この駐車場だけじゃなくて周辺駐車場も同じで協定価格っぽい。それでもどこも満車、県外ナンバーが大半で特に関東ナンバーが目立ちます。川口ナンバーとか市原ナンバーとか初めて見ました。民間だけでなく近くの公営駐車場も2,000円でした。ここまで来たら、せっかくなので転害門から大仏池へ回ってみることにします。

他人丼から1kmも歩いて国宝転害門、東大寺境内に残る唯一の天平時代の遺構で、天平宝宇年間(760年頃)の建立。

立派な角の牡鹿と目が合いました。大仏池に到着。

正倉院正倉特別公開

ここまできたら正倉院にどれくらい並んでいるか見に行ってみることにしました。左手は正倉院事務所、正面は正倉院正門。

意外や意外、さほど並んでいなくて、長くない行列はすっすと進んでいました。普段(平日のみ公開、正倉院展開催期間は土日祝も)はこの門から少し入ったところまでしかはいれないところ、正倉院正倉を取り囲むように人人人。3年前の正倉院展開催中の時の写真です。

明治以降初、今年だけ11月1日から3日までの3日間だけの特別公開です。意外や意外、ほぼ100%日本人ばかり、特別公開の情報が発信されたのは10月15日のことで、たぶん情報を得た人が限られていたためと思われます。

天平勝宝8年(756年)頃、光明皇后が東大寺に奉献した聖武天皇の遺愛品を収蔵するために建造された校倉造りの正倉院正倉を間近から。右から室町時代からの勅封倉の北倉、北倉に準ずる勅許倉の中倉、明治に勅許倉になった南倉。

扉の封印です。但し宝物は西宝庫、東宝庫に移されていて、正倉院正倉は現在空っぽで唐櫃のみが残されているらしい。

iPhoneの超広角でも近すぎて大きすぎるので入り切りません。

今日しか見ることのできない正倉院正倉の南側です。

東宝庫は昭和28年築の鉄骨鉄筋コンクリート造り。

ミニサイズの校倉造りは聖語蔵、中国随や唐代の経典、奈良時代から鎌倉時代の古写経等約5千巻を収容していた転害門内(現鼓坂小学校地)にあった経蔵を明治時代にここに移築されてきたとのこと。経典は東宝庫に収容。

クチナシの実やわぁ、と後を歩いている植物好きらしいおばさんの声。この赤い実な何と自分に訊いてこられてものの、こっちが教えて欲しいです、と答える他ありませんでした。調べてみるとモッコクの実と分かりました。品格を感じさせる樹形の美しさから庭木の王と呼ばれるそうです。

正門の内側です。

正倉に代わって整理済みの宝物を収蔵している勅封倉となっている昭和37年築の西宝庫。右手は持仏堂、持仏堂ではあるものの仏壇はなく、明治期は宝物観覧車の控室になり、現在は倉庫とのこと。

天平から平成までの瓦を展示。

慶長瓦と鎌倉瓦。天平瓦は今も330枚が現役だそうです。

急に雨が降り出しました。北側からの正倉です。

正倉の北東、鬼門の位置に建てられている杉本神社、かつては杉の大木の下に建っていたらしい。

正倉と西宝庫、新旧の勅封倉です。皇室御一家カレンダー令和8年版が販売中。

やはり建物だけじゃなくて中身の宝物を見たくなります。帰ってから正倉院展の予約をしようと思っていたのですが、結局気づいた時には全日程予約いっぱいになってました。複製ばかりでも写真OKだった正倉院 THE SHOWに行っておいてよかったです。でも瑠璃杯はテレビの日曜美術館で見た本物と色味がかなり違っています。本物はもっと明るい瑠璃色、上掲のあをによしのテーブルランプの色に近いです。

正倉院正倉特別公開に満足して大仏殿の方へ引き上げる人たちです。バンビが近づいてきてくれました。

吉城園

今日も吉城園、雨は止んで青空が広がってきました。ツワブキの季節です。

スギゴケにモミジの落ち葉、美しい。

紅葉はこんな感じ。

茶花の庭のフジバカマ、それと今年も一輪だけ咲いてました秋のアジサイ。この時期に咲いているはずのホトトギスは見つからず。

シュウメイギクがきれい。紫の花はクコ、杏仁豆腐にのってる赤い実のなる花です。

おぎの美術館

バスで朱雀門ひろば。その南側も整備中、復元建物ができる計画はなくて広場になるようです。

朱雀門です。昨日長岡宮朝堂院公園を訪ねたばかり、長岡宮朝堂院南門あるいは平安宮応天門に相当する平城宮の正門、昨日見たジオラマやCGの実物が目の前に聳える感じがします。

朱雀門を抜けると直線上に大極門、右手に姿を現したばかりの東楼、東楼を覆っていた工事用の素屋根が大極門の左に移動し西楼の工事が始まっています。さらに直線上の向こうに大極殿がちらり。

約100haの内、一部歪な形で一部のみが公園になって柱跡ばかりの長岡宮に対し、約130haのほぼ全体が公園になりいくつもの巨大建築物が復元されている平城宮、よくぞ宅地開発されなかったものと、改めて感嘆を禁じえません。

朱雀門を入ってすぐ右手に今日もうひとつの目的地、おぎの美術館本館がありました。

奈良女子大と平城宮歴史公園による自然と人が共存する新感覚アートプロジェクト、「一歩ふみだすと、もうそこはおぎの世界」。

入ってみると茅の輪くぐり。「カヤネズミの共に」とはあるものの会える可能性は極めて低いかと。 

振り返ると淡い日差しを受けたオギの穂が美しい。ススキじゃなくてオギ、違いは小穂(しょうすい)から長い針状の毛が伸びているのがススキ、それがないのがオギとのことですが、遠目には微妙です。さらに水辺にヨシ原を形成するヨシも似ていますが、穂はボサボサで茶色く区別できます。

ちなみに茅の輪くぐりの茅は茅葺き屋根などに使われるイネ科の植物の総称なので、ススキもオギも茅です。

モズが高鳴き。ところどころにオギのオブジェ。

おぎの美術館から朱雀門、額縁の朱雀門です。

鏡の中の朱雀門と自分。小さめの額縁の朱雀門。

あをによしと8A系。

おぎの美術館はもう一箇所あるはず、踏切を越えて朱雀門を振り返ると、それらしきが。

額縁だけが立てられていて、額縁の中に大極門と東楼、それに西楼の工事覆い。大極殿は大極門とぴったり重なって見えません。

おぎの美術館そそや館がありました。オギとヨシの違いを学習。

こちらは本館と違って足元がぬかるんでいて踏み潰された茅の道を進むと「おぎの見晴し台」。

見晴し台に上ると電車の架線にモズ、電車が通過する直前までじっとしてました。

見晴し台から急行電車と朱雀門。向こうの白い穂はオギ、手前の茶色い穂がはヨシです。夕日に輝くオギ。

おぎの美術館、12月7日までです。もう1箇所ある「そよ館」はCLOSEされてました。

夕焼け空に鳥の編隊、シルエットからカワウで間違いなさそうです。コハクチョウやガンと違ってバラバラ編隊。

若草山に月。長岡京が廃都されたのは早良親王の怨霊の祟りを恐れたためというだけでなく、やはり丘陵地に都を構えようとしたことに限界を感じたではないか、やはり都づくりには広大は平地が必要なはず。現に平安京も平地です。向日市の坂道を歩き回った翌日に広々とした平城宮に来て直感しました。

大極門西門の工事用素屋根の中を覗いてみるとまだガランドウ。

近鉄電車からは見えにくくなった大極殿です。西大寺駅へ歩いていると後を歩いていたファミリーが、あっ虹。

いっぱい引っ掛けて帰るつもりだった立ち呑み屋さんはビル自体がなくなっていました。大和西大寺駅北口で夕焼け。しばし安倍元首相を偲びます。高市首相誕生をさぞかし喜んでいるはず。

APPENDIX

藤原種継が造長岡宮使として遷都を推進した長岡京遷都に対して、平安京では誰がその推進役だったのか。平安京遷都時には和気清麻呂の存在が知られているものの、その構想立案者であり、太政大臣・左大臣・右大臣の三公職はいずれも空位で桓武天皇自身が主導していたらしい。10年で失敗した長岡京に対し、平安京千年の繁栄の礎が気づかれています。

桓武天皇にはアテルイ処刑のようにヒールの印象を持っていたのですが、稀代の名君だったと分かってきました。優柔不断で何度も遷都を繰り返したものの、とても優しい人だったという印象の強い聖武天皇にシンパシーを感じていたのですが、歴史はシンパシーだけじゃ片付けられない、と長岡宮、平城宮を訪ねて気付いた次第。