長岡京は向日市にある

久々に日本の首都めぐり、まだ訪ねていない首都のウチ大所で長岡京へ。

この時期、何を着ていくかが微妙です。厚手のシャツに薄手のダウンベストを着てウチを出ると、ちょっとひんやり。歩いている人たちはちゃんとジャケットを着ているのを見てウチに引き返し、薄手のシャツとブルゾンに着替えて再出発。

阪神スナックパークで何か食べていこうと思っていたものの、気が変わって阪神バルチカでインディアンカレーにしようとしたらまだ開店前、新梅田食道街のおおさかぐりるでボルガライスにしようとしたら臨時休業、タバコが吸える喫茶店、ドリヤードにしました。ミックスサンドのたまごサンドは自分の好きなゆで卵をすりつぶしたのじゃなくて大阪風のオムレツをはさんだやつ、でもこれが焼いたばかりで温かくてとても美味しく、食わず嫌いだったと分かりました。

えらく混雑の3号線に京とれいん雅洛が入線してきたところだったけど、長岡天神には停まらないことを思い出し1号線から発車寸前の特急に飛び乗り、長岡天神まで立ちん坊。

長岡天満宮

駅から西へ500mほどで八条ヶ池、寛永15年(1638)には八条宮智忠親王によって築造された灌漑用溜め池なので八条ヶ池らしい。

池の南側の対岸に茅葺き屋根の建物が数棟。あとで近くまで行ったところ、自分にはご縁のなさそうな料亭の離れらしいと分かりました。

八条ヶ池に架かる石橋の参道前に正面大鳥居。参道両側の垣根はキリシマツツジ、春には真っ赤な参道になるらしい。

八条ヶ池に架かる木橋。池には50cmサイズのコイがウヨウヨいました。

石橋を渡って左へ曲がると2つ目の鳥居。少しだけ紅葉。

二番目の鳥居の先に二の鳥居、元禄5年(1692年)に寄進された鳥居が平成30年の台風21号で倒壊、復旧困難でそのまま残されているそうです。

さらに3番目の鳥居、4番目の鳥居。

拝殿前には七五三のファミリーがいっぱい。

拝殿の奥に本殿、創立は不明とのことですが、主祭神の菅原道真が平安時代の人なので、長岡京の時代には存在していなかった神社です。本殿は平安神宮から昭和16年に拝領移築したとあります。平安神宮は明治28年の内国産業博覧会に合わせて平安京朝堂院を5/8サイズで復元したもの、この本殿は5/8にしては大きく見えます。

トントントントン…

アキアカネがいっぱい舞ってました。木橋の東屋でひと休み。

八条ヶ池の一部は蓮池になっていてその池畔でフジバカマが満開。チョウを待っていたものの現れたのはオオハナアブとナミハナアブ。

蓮池は八条ヶ池水生植物園になっていて、アヤメ、カキツバタ、ハナショウブにコウホネも。これは来年5月下旬に来なければ。アキアカネを間近から、後ろを歩いていたおっちゃんの指の先に止まっていました。

駅へ戻る道のデュランタにホシホウジャク。

「長岡京ガラシャ祭」という幟、調べてみると、長岡京市内にある勝龍寺城に嫁いできた細川ガラシャのお輿入れの行列を再現する祭だそうで、次の日曜日の開催と分かりました。ウェブサイトを見ると、明智光秀や細川忠興はもちろん、長岡京ゆかりの人物として、継体天皇、清少納言、熊谷直実、桂昌院らも登場するらしい。行ってみようかな。

歩道脇にベンチがあってひと休みすると後に土塁が続いていました。

15世紀後半〜16世紀に活躍した国衆の中小路氏の居館、開田城跡らしい。上掲の壊れた二の鳥居の説明板にもあったのですが、長岡天満宮の宮司は代々中小路氏、現在の長岡京市長も3期目の中小路氏と分かりビックリ。

長岡天神駅に特急が停車するようになったのは平成13年、急行が停車するようになったのは昭和54年からなので、自分が大好きだった2800系の特急は停まらなかった駅です。

駅スタンプとか御朱印とかを集める趣味は全く無いのですが、こうやって写真を撮っておいてデジタルスタンプ帳とか始めると面白いかも。

長岡宮跡

長岡天神からひと駅の西向日で下車。東向日と違って馴染みのない西向日駅です。

西向日駅から150mで長岡宮跡朝堂院公園。

右側の建物は長岡宮朝堂院公園案内所、草むしりしている青いジャンパーの人は職員さんです。

延暦3年(784年)に平城京からここ山城国乙訓郡長岡村に遷され、延暦13年(794年)に平安京に遷されるまでの10年間「日本の首都」だったと明記されています。

長岡京の宮域が長岡宮、ほぼ全域が向日市域に含まれると自慢気な一文。但し京域は東西4.3km南北5.3kmと西山天王山駅付近まで広がっていて、桓武天皇の詔に「水陸の便ありて、都を長岡に建つ」とあるので、長岡京市が長岡宮市ではなく長岡京市と名乗ることに不都合なさそうですが、釈然としない気がしないでもないです。

現在地は国会議事堂に相当する施設だった朝堂院西第四堂の前、これで自分的に残す日本の首都めぐりは、推古天皇以降で概ね聖武天皇の紫香楽宮と東京(江戸は幕府で首都ではない)だけとなります。

公園事務所に入ってみると長岡宮のCG、手前が朝堂院です。

朝堂院発掘出土の土師器の展示、ショーケースの下に突っ込まれたクレートには修復前の出土品が入っているのかも。

朝堂院の模型です。復元衣装や発掘時の様子のパネルも展示、左端の指差し棒は係の人の説明用ですね。

朝堂院西第四堂跡の基壇だったと思われる台地を歩いてます。ヨメナが咲いてました。

公園の南端からの眺め、楼閣があった場所です。

平安宮朝堂院正門の応天門両翼に西の翔鸞楼(しょうらんろう)と東の栖鳳楼(せいほうろう)が建っていて、貞観6年(866年)の応天門の変により応天門と両翼の楼門もろとも炎上、その様子が国宝伴大納言絵詞に描かれているらしい(調べて見た限りよく分かりませんでした)。その平安宮翔鸞楼に相当する長岡宮の楼閣があった場所がここです。

鸞は中国神話伝説の霊鳥で、東の栖鳳楼の鳳と対になってます。平安神宮に応天門は再現されているものの、翔鸞楼や栖鳳楼は再現されていません。

朝堂院公園案内所でもらってきた向日市教育委員会発行のパンフレットです。向日市内で行って見たくなる場所がいっぱい出て来ました。

朝堂院公園を出て大極殿跡へ向かいます。少し北へ歩くと大極殿交差点。

交差点のすぐ北側に空き地、閣門(こうもん)跡とあります。大極殿の正門があった場所らしい。まだ発掘調査が終わっておらず整備中のようです。

大極殿公園に着きました。こちらの方がメインのはずですが、朝堂院公園のような案内所はありません。

公園は北の方へ伸びているもののずいぶん歪な形、市が買収して発掘調査が終わった範囲をそのまま公園として整備したと分かります。

目の前をオレンジ色の光が横切り、フェンスの陰に止まりました。今季お初のジョウビタキです。

長岡宮跡大極殿遺址之碑は明治28年に建立されたものを、戦後の発掘調査で大極殿の位置が確定し昭和39年に現在地に移設されたらしい。

長岡京を大解剖という詳しい説明板、長岡宮付近を見ると、西向日駅から東向日駅へ向かって阪急京都線が長岡京のど真ん中を縦断しています。

説明板下部にフィルム風に描かれた、造営開始、早良親王を幽閉、役人の怠慢を叱責、造営使が酒宴、洪水を視察、宮殿を解体まで長岡京10年物語です。

長岡宮後堂跡、この辺が大極殿の北端になるようですが、さらに公園は北に伸びていて朱塗りの建物。復元建物ではなく休憩所のようです。

さらに大極殿公園と続く新しい公園を抜け左へ、府道67号に出ると向かい側に向日神社。鳥居の奥に延々と坂道が伸びています。主祭神は向日神で、続日本紀に長岡京遷都の際「向日神を新京の鎮めとした」という記述があり、少なくとも奈良時代前半、あるいは飛鳥時代に既に存在していた古社で、長岡天満宮よりずっと古い。

府道67号に沿って北へ歩くと三叉路、真ん中の「あたごみち」を進もうとしたら向かいに昭和な趣の喫茶店。

喫煙可のステッカーを見つけひと休み。

コーヒーとタバコでエネルギー充填して府道67号をさらに北へ。向日町競輪場を通り過ぎた先を左に曲がると向日市文化資料館。

向日市文化資料館

長岡京市にも長岡京埋蔵文化財センターがあるものの、Google Mapにアップされた写真を見る限り、向日市の方が充実してそうなのでこちらにやってきた次第。

左手は向日市立図書館で、右手の入口が文化資料館、入館は無料でした。入ると長岡宮のイラストと向日市のジオラマ。

奈良時代の衣装(万葉衣装)の展示、正倉院に残された宝物などをもとに再現されたものだそう。冠はこれをかぶってはいチーズ、用です。

ところで長岡京は奈良時代なのか、平安時代なのか。文化や政治の流れを区切る時代区分としては、桓武天皇が長岡京を造ったのは律令国家の延長線上にあり、奈良時代です。但し平安時代前夜です。

物集女車塚古墳の模型です。今日訪ねたかったのですが、たぶん時間がなさそうです。

上の階に上がると企画展「古代のくらし」開催中、旧石器時代からの出土品が多数展示されていたのですが、多くは舞鶴とか与謝野町とか丹波のものなので、今日は割愛。でも一点だけ、ビックリしたのは福知山市稚児野遺跡(後期旧石器時代)の二上山のサヌカイトと隠岐の島の黒曜石、海を越え山を越え石を運んでいた三万年前の人たちの行動力に仰天。

京都府埋蔵文化財調査センターのパンフをいっぱいもらってきました。中には20ページ以上のものもあってバッグがずっしり。京都府埋蔵文化財調査センターはこの資料館と同じビルに所在していると分かりました。

常設展示場に入ると旧石器時代からの向日市通史と出土品の展示。

長岡宮のジオラマ。一枚目は南側からのアングルですが、朝堂院公園案内書のCGや説明板で案内されていた応天門から両翼に伸びていたはずの楼閣(翔鸞楼、栖鳳楼)がありません。発掘調査で楼閣が確認される前に作られたジオラマなのかも。

南東側からのアングルです。

桓武天皇はパネルだけですが、長岡宮の3人の詳しい人物紹介がこの資料館のウリです。

まずは藤原種継、桓武天皇の信頼が厚かった長岡京造営の実務責任者(造長岡宮使)、年収7000〜8000万円で長岡京右京二条三坊の高台の豪邸に住む。その強引な手法が反発を受け、延暦4年(785年)に暗殺されます。桓武天皇の弟の早良親王がその首謀者と疑われ、廃太子され、淡路へ流罪となり自死。その後、天災・疫病・洪水などが続いたため早良親王の怨霊の祟りと恐れられたことが、わずか10年で長岡京が廃都となり平安京へ遷都される原因だったらしい。

軽間嶋枌(かるまのしますき)は出土木簡に名前が残る長岡京の下級役人(史生、書記)。長岡京左京三条二坊八・九町にあった太政官厨家で、地子(税・貢進物)として各地から運ばれてきた米・塩等を、木札(木簡)による送り状・記録と照合し、記録に残す業務を行っていたらしい(ChatGPT談)。展示パネルには妻の浄女との恋愛は物語ともなって有名とあったのですが、ChatGPTに詳しく調べてもらっても分かりませんでした。何とか生活できる年収180万円だったらしい。

百済王明信(くだらのこにきしめいしん)は若き日の桓武天皇の初恋の女性で660年日本に亡命した百済王の一族。年収は高級官僚と同等だったらしい。平安京遷都後に、宮中の宴で59歳の桓武天皇は56歳の明信への想いを歌に詠んでいるそうな。

いにしへの野中古道あらためば改むらむや野中古道

長岡宮とは直接関係ないものの常設展示室に見つけた向日市森本遺跡出土の人面付壷形土器(弥生時代中期)と与謝野町温江遺跡出土の人面付土器(弥生時代前期)、縄文時代の土偶を彷彿とさせる土器が弥生時代にも造られていたようです。

資料館を出てきました。高台にあるので見晴らしが良く、向こうの山並みは音羽山あたりです。

1kmほど先の物集女車塚古墳へ行ってみたいもののもう日が暮れてきました。資料館のすぐ裏手にある池と五塚原古墳へ行ってみます。いかにも西山らしい竹林に挟まれた坂道を登り、はり湖池。

周辺略図が立てられていて2つの池の間から五塚原古墳への道があるものの立入禁止になってました。池の西側から古墳へ登れそうですが、まだ4時を回ったばかりなのに、もう暗くなってきたので機会を改めることにします。

桓武天皇や藤原種継は、平地の平城宮や平安京と違って、なぜこんな丘陵地に都を造ったのかと考えながら坂道をどんどん下って駅へ向かって歩いてます。途中のセブンから見上げた青空です。

フジバカマが咲いてました。秋の七草のひとつでもあります。

東向日駅にたどり着きました。西向日と違ってワケあって馴染みがあります。

駅前の向日市観光史跡案内板です。人面付壷形土器が出土した森本遺跡も掲載されています。物集女車塚古墳、五塚原古墳の他にも寺戸大塚古墳、元稲荷古墳などの古墳も。

朝からサンドイッチだけなので駅前の王将、いつものジャストサイズニラレバ、ジャストサイズカニ玉、ジャストサイズ餃子です。

ウチの近所の王将と違ってテイクアウトやデリバリーの人が多く、生餃子6人前とかの人も多くてビックリ。