長岡京は向日市にある
久々に日本の首都めぐり、まだ訪ねていない首都のウチ大所で長岡京へ。
この時期、何を着ていくかが微妙です。厚手のシャツに薄手のダウンベストを着てウチを出ると、ちょっとひんやり。歩いている人たちはちゃんとジャケットを着ているのを見てウチに引き返し、薄手のシャツとブルゾンに着替えて再出発。
トントントントン…
駅へ戻る道のデュランタにホシホウジャク。
「長岡京ガラシャ祭」という幟、調べてみると、長岡京市内にある勝龍寺城に嫁いできた細川ガラシャのお輿入れの行列を再現する祭だそうで、次の日曜日の開催と分かりました。ウェブサイトを見ると、明智光秀や細川忠興はもちろん、長岡京ゆかりの人物として、継体天皇、清少納言、熊谷直実、桂昌院らも登場するらしい。行ってみようかな。
延暦3年(784年)に平城京からここ山城国乙訓郡長岡村に遷され、延暦13年(794年)に平安京に遷されるまでの10年間「日本の首都」だったと明記されています。
長岡京の宮域が長岡宮、ほぼ全域が向日市域に含まれると自慢気な一文。但し京域は東西4.3km南北5.3kmと西山天王山駅付近まで広がっていて、桓武天皇の詔に「水陸の便ありて、都を長岡に建つ」とあるので、長岡京市が長岡宮市ではなく長岡京市と名乗ることに不都合なさそうですが、釈然としない気がしないでもないです。
現在地は国会議事堂に相当する施設だった朝堂院西第四堂の前、これで自分的に残す日本の首都めぐりは、推古天皇以降で概ね聖武天皇の紫香楽宮と東京(江戸は幕府で首都ではない)だけとなります。
長岡宮のジオラマ。一枚目は南側からのアングルですが、朝堂院公園案内書のCGや説明板で案内されていた応天門から両翼に伸びていたはずの楼閣(翔鸞楼、栖鳳楼)がありません。発掘調査で楼閣が確認される前に作られたジオラマなのかも。
南東側からのアングルです。
軽間嶋枌(かるまのしますき)は出土木簡に名前が残る長岡京の下級役人(史生、書記)。長岡京左京三条二坊八・九町にあった太政官厨家で、地子(税・貢進物)として各地から運ばれてきた米・塩等を、木札(木簡)による送り状・記録と照合し、記録に残す業務を行っていたらしい(ChatGPT談)。展示パネルには妻の浄女との恋愛は物語ともなって有名とあったのですが、ChatGPTに詳しく調べてもらっても分かりませんでした。何とか生活できる年収180万円だったらしい。
百済王明信(くだらのこにきしめいしん)は若き日の桓武天皇の初恋の女性で660年日本に亡命した百済王の一族。年収は高級官僚と同等だったらしい。平安京遷都後に、宮中の宴で59歳の桓武天皇は56歳の明信への想いを歌に詠んでいるそうな。
いにしへの野中古道あらためば改むらむや野中古道