平城京の住民気分
平日しか見学できない奈良の博物館へ。
奈良市埋蔵文化財調査センター
最初の目的地、奈良市埋蔵文化財調査センターに到着。ドアを開けて建物に入るも受付とかなくて、通りかかったスタッフさんに見学できますかと訊ねると、どうぞどうぞと案内されました。通路に面したガラス張りのオフィスにはお役所風に事務机が島状に並んでいて、ちょうど昼休みなので弁当をつかっている人、まだ仕事を続けている人。吹き抜けの二階には発掘品を保管しているクレートがたくさん積み上げられていて、通路の反対側では発掘品の洗浄作業中でした。
まさに埋蔵文化財調査分析や復元作業の最前線に踏み込んでしまった感じです。平成6年度春季発掘調査速報展を開催中も、特別の展示室じゃなくて通路の両側を使っての展示。
平城京左京五条四坊七坪からの出土の籌木(ちゅうぎ、古代のトイレットペーパー)、何やら臭ってきそうな展示品です。調べてみるとJR奈良駅の南東750m辺り、条は東西の道路、坊は南北の道路、条坊に囲まれた区画を16等分した区画の七坪目(たぶん坪=町)の小区画東端に位置するトイレ関連遺構から出土したものです。
トイレ関連遺構に溜まっていた土の理化学分析が実施され、人間が食べて排泄されたものに含まれていた寄生虫卵や花粉、ブタに寄生する条虫の卵を確認、当時の人々が多彩な食生活を送っていただけでなく、ブタを食べるという渡来人の食文化も普及していたと分かります。左側のパネルは発掘現場のトイレ関連遺構で見つかった寄生虫卵や花粉、右側のパネルは籌木を使って用をたしている痩せ細った子供とそれを欲しがってている餓鬼が描かれた食糞餓鬼図(平安時代末期頃の絵巻物の部分)。
3月1日に奈良市教育委員会が発表したばかりの佐紀池ノ尻古墳が早速パネルになってました。バードウォッチングで馴染み深いコナベ古墳のすぐ南側に位置する全長200mもの大型前方後円墳です。
佐紀池ノ尻古墳の大溝から出土した鰭付盾形埴輪や円筒埴輪の破片、気の遠くなるような分析や復元作業の最初の一歩となる出土品です。隣接する、仁徳天皇皇后の磐之媛命陵墓に治定されるコナベ古墳(古墳時代中期初頭)や、同じく八田皇女に治定されるウワナベ古墳(古墳時代中期前葉)に対し、佐紀池ノ尻の埴輪破片は古墳時代前期末(4世紀後葉)と紹介されており、倭の五王の時代の大王墓の可能性がありそうです。
縄文時代と弥生時代をざっと見て、杉山古墳と菅原東遺跡から出土の円筒埴輪。杉山古墳は現在地から真東1kmに位置する前方後円墳。菅原東遺跡は近鉄西大寺車庫の南端付近に隣接する埴輪窯跡、つまり高槻の新池のようなハニワ工場で、高槻より規模は小さいながらやはり公園になっていると分かりました。
馬具と雲珠はベンショ塚古墳からの出土品、名前が気になっていずれ訪ねようと思っていた、帯解古墳群にある5世紀前半の前方後円墳、「ジ」ではなく「シ」です。
二彩の大安寺垂木先瓦と「大寺」「大安寺左右酒」と書かれた土器。
大安寺は上述の杉山古墳南側に位置するさして大きくないお寺ですが、東大寺や興福寺と並ぶ南都七大寺のひとつ。現在も大安寺という7丁目まである住所が残りかつては巨刹だったことを偲ばせます。聖徳太子創建の熊凝精舎(くまごりしょうじゃ、仏教の修行道場)が百済大寺、高市大寺、大官大寺と名と所を変え、平城宮に移され大安寺となったそうです。
明日香の広〜い田園地帯にポツンと石碑が建っている、大官大寺が平城京に移され大安寺となったと分かりビックリ。さらに百済大寺はこの前書いたばかりの磐余の吉備池廃寺跡が百済大寺とも分かりビックリ。訪ねてみたい場所が芋づる式にでてくるのも奈良の古代史探訪の醍醐味です。
平城宮跡へ向います。両岸がソメイヨシノに囲まれた佐保川左岸(写真右手)を進むと川が分岐していて平城宮跡へはちょっと遠回り。分岐した川は菩提川、奈良市内中心部は暗渠で、その先は猿沢池南側の率川(いさかわ)。
菩提川の右岸に出るとカンヒザクラ(オカメザクラかも)が満開、自転車を止め花見しているとメジロ。
三条通を渡るとNHK奈良放送局と奈良県コンベンションセンター、奈良にこんな巨大モダン建築があるとは全然知りませんでした。2020年開業らしい。
ランチする場所を求めて、元そごう、元イトーヨーカドー、元コーヨーで奈良時代は長屋王邸だったミ・ナーラ。食指が動くお店は見つからなかったものの、キーテナントがロピアになり、かなり賑わっていました。バブリーなそごう時代のエントランスホールなどはそのままも、他にラウンドワン、西松屋、それに自分の古巣とよりすぐったと分かるテナント戦略です。今やGMSではキーテナントになりえなくなっているようです。
大宮通沿いに並ぶチェーン店レストランのひとつでランチは済ませておきました。
役人の通勤風景が描かれた廊下を抜けると「平城宮のようす~1300年前の平城宮にタイムスリップ」展示室、1/200の平城宮ジオラマ、前期平城宮と後期平城宮の両方をミックスしたジオラマです。
平城京の住民は5〜10万人、ウチ1万人が役人、六位以下の中下級役人が600人ほど、五位以上の貴族は150人ほどだったらしい(参考)。
続いて「往時のいとなみ~平城宮の匠の技や役人の仕事を体験」展示室。中央にどーんと展示されているのは第一次大極殿復原の際に制作された構造模型。
材料となる木材だけでなく、継手・仕口など実際と同じ工法で製作された模型です。その継手・仕口についてパネルとサンプルで紹介。
パネルでは「復元」ではなく「復原」という言葉が使われているのが気になり、調べてみると奈文研自身のブログで「復元」と「復原」の違いが紹介されていたのですが、この大極殿は「復元」の方が適切なように思えます。
復元(ここは「復元」でOKかと)食膳大公開の展示、左端は籌木(おしりをふく木切れと注記)。その後ろのパネルには「ウンチが語る人々の食と健康」、ウンチから見つかった寄生虫の卵の顕微鏡写真、さらにゴミ穴から発掘された魚介類や動物の骨、ウンチに混じって腐らずに1300年残った植物の種、水色に光っているのはいろんな種類の植物の種。同じ籌木の展示でも臭ってくるような埋蔵文化財センターと違ってなんとも洗練された展示、いかにも子どもたちの興味を引きそうな工夫が凝らされています。
そして庶民の食事と貴族の食事の紹介。出土した土器や木簡の墨書から塩、酢、醤、末醤(まっしょう・味噌)、豉(くき・たまりしょうゆ?)、糖などが調味料として使われていたと分かります。右端は竈と甑、箸やしゃもじ等の調理器具。芥川龍之介の「芋粥」で平安時代の下級役人の主人公が芋粥をこよなく愛していたように、平城京の庶民も必ずしも毎日同じ粗食だけだったわけではないと思います。
今はミ・ナーラが立つ長屋王邸跡から出土した須恵器の甕や壺。長屋王は母方の祖父が天智天皇、父方の祖父が天皇天皇で時の政府の重鎮も、藤原不比等息子四兄弟の陰謀で悲運の死を遂げています。奈良そごうやイトーヨーカドーが上手くいかなかったのは長屋王の呪いと囁かれていたのですが、ロピアの盛況ぶりを見た限り、どうやらその呪いも漸く静まったのかも。
長屋王邸から出土の木簡の展示、殆どは荷物の送り状です。4年前に平城宮跡資料館の企画展示「地下の正倉院展 -重要文化財 長屋王家木簡-」で見学した木簡がここに移されているものと思われます。
6時半まではまだ2時間ほどあるので、埋蔵文化財調査センターで紹介されていた発見されてまもない佐紀池ノ尻古墳を探してみました。コナベ古墳から南側の住宅地を回ってみるもののそれらしき場所は見つけられず。水上池南側の2年前にキジに出会った草原の向こうに見える住宅地が佐紀池ノ尻古墳跡のはずですが、すでにビッシリ住宅が立ち並んでいて大々的な発掘調査は難しそうです。佐紀池ノ尻古墳について分かりやすい奈良テレビの動画がアップされていました。
西大寺駅に戻りレンタサイクルを返却、事件を偲ぶものが何もない安倍元首相暗殺現場からほど近い「立ち飲み。宴(なぜか店名に"。")」で暗くなるのを待ちます。ここの串カツがなかなか美味い。
初めて見る二月堂修二会のお松明です。若草山焼の時はそこそこギャラリーがいたのですが、さすがにこんなに遠くからお松明を見ているモノ好きは自分ひとり。でも平城京の住民たちが眺めた修二会のお松明もこんな感じだったはず。
ちなみにお松明を担いでいるのは練行衆ではなく、世話係の童子と呼ばれる人たちだそうです。それにしても国宝の上でお松明を掲げ駆け回るとはなんとも大胆な法会ですが、修二会のために二月堂があると捉えるとこともできそうです。ひょっとしたら平城京の住民からも見えるようにお松明を掲げることにしたのかも知れません。