上町のオッサンの鳥鉄日記
承前、芝運動公園の一画にある桜井市埋蔵文化財センターにやってきました。
右側の建物が展示室、左側はたぶん研究所。入口を入ると、事務室から学芸員さんらしきが出てきてチケットを販売してくれます。
展示室に入ったところです。手前の箱には大福遺跡出土の弥生時代中期の18〜25歳の小柄な女性と思われる仰臥屈葬された人骨が眠っています。
桜井市内の遺跡から出土の縄文時代の品々には纏向遺跡からの出土品も。
纏向遺跡の石鏃は縄文時代前期、つまり弥生時代から古墳時代の遺跡として知られる纏向には、1万年前頃から人が住んでいたことになります。
弥生時代にもアパレル産業があったとわかる紡錘車。
弥生時代の末期、弥生社会に大きな変化が起こり、それ以前の環壕集落は衰退、青銅器祭祀のマツリから前方後円墳祭祀へと変化、マツリのシンボルの銅鐸はその役目を終え、埋納されてしまった銅鐸の様子が再現されていました。
(唐古・鍵遺跡のような)弥生時代の環壕集落では2世紀末ころから環壕が埋め立てられ、集落は小さくなり、入れ替わるように出現したのが纏向の「マチ」、それ以前の自然発生的な農耕社会ではなく、政治的意図のもとにつくり上げられたマチが環壕ではなく扇状地に広がってのが分かります。
山陰、東海、河内、近江等全国から集められた土器、そして外来系の土器の数々。纏向がマチからさらにクニへと変貌を遂げつつあったことを感じさせます。
当資料館のシンボル的存在の木製仮面(纏向遺跡)とその制作工程のパネル。
祭祀的な意味合いを持つと説明されていますが、3世紀の人たちにも遊びはたくさんあったはず。この鍬で作ったお面をつけて仮装パーティーしていたのかも。
纏向遺跡辻地区から出土した2世紀末から3世紀前半頃の2769個の桃の種の一部。中国原産で神仙思想では不老長寿を叶えるものとして大切にされていた桃の種の大量出土は邪馬台国畿内説を強く裏付ける存在になったようです。
また纏向遺跡では3世紀中頃の溝からベニバナの花粉が大量に出土、染料の廃液に含まれていたものの可能性が高いと推測され、染色などの最新技術を持った渡来人が伝えたもののようです。
もうひとつの当館のシンボル、茅原大墓古墳(4世紀末)から出土の盾持人埴輪。表情が豊かですが、人物の顔を表現する日本最古の埴輪らしい。
珠城山古墳(6世紀)出土の盾持人物埴輪はムッツリしています。
小立古墳から出土の馬形埴輪と鶏形埴輪。小立古墳は5世紀前半頃の桜井市山田の埋没古墳。
大型古墳群分布図で西殿塚古墳が箸墓古墳に次ぐ2番目に古い大型前方後円墳と確認。パネルに大仙古墳が大山とあるのは誤字かと思いきや大山と表記することもあるようです。
実にカラフルな玉類。コバルト、銅、鉄などの金属化合物を混ぜて発色させていると分かりました。
時代は古墳時代から飛鳥時代へ。7世紀から8世紀初頭のガラス玉鋳型、その手前のミニチュアの靴が可愛い。
桜井市内にある山田寺跡や安倍寺跡から出土の飛鳥時代の塼仏。
隣の展示室では「実はこんなものもあります〜学芸員のおすすめしたい遺物たち〜」を開催中。出土品それぞれに学芸員さんたちの生のコメントが添えられていました。
剣菱形杏葉(ぎょうよう、馬の胸や尻に下げる装飾品)、5世紀末築造の赤尾崩谷古墳群(桜井市赤尾)から1万点以上見つかった玉類のひとつらしい。馬が急速に普及したことを伺わせます。
大神神社の大鳥居は三輪山と直線上に無いと気づきました。渋滞で遅れていたバスで桜井駅へ、こんども貸し切りで先行きが心配な路線です。
桜井駅に戻って来ました。伊勢志摩ライナーが通過。
「パタパタ」が現役の桜井駅です。このまままっすぐ帰るには惜しい。
今日は若草山焼きの日、8年ぶりに行ってみることにして大和八木で橿原線に乗り換えます。橿原線がJR大和路線と交差する辺りから若草山がよく見えます。
奈良ファミリーの屋上がいいのではと調べてみると、どうやら工事中で閉鎖されているもよう。さあどうするかと悩んでいるウチに西大寺駅に着くと奈良行の電車は超満員、山焼き見物の人たちで間違いなさそうです。
とりあえず西大寺駅ナカの豊祝で温まり、平城宮跡から山焼きに決めました。
安倍元首相銃撃事件現場の西大寺駅北口、まだ2年半しか経っていませんがこの事件で日本が失ったものはあまりに大きい。事件後バスターミナルが整備されました。
西大寺駅1号線出発信号は橿原線が開通。
平城宮跡に着くと大極殿西側に数十人のギャラリー。iPhoneで撮ってみると真っ暗な夜空が青くこれは違うやろという発色、ZV-E10にします。
花火が始まりました。
ZV-E10でももっとキレイに花火を撮れるはずですが、マニュアル設定とかはよく分からないでAUTOのまま、お恥ずかしい限りの花火写真です。
山焼きが始まりました。聖武天皇や孝謙天皇も大極殿から山焼きを見たのかというとそれはないです。お水取りが始められたのは聖武天皇崩御以前の天平勝宝4年ですが、若草山焼きの起源は江戸時代中頃。
まだ火が広がるはずですが、体が冷えてきたので帰ります。