阪神5001形で神戸歴史歩き
不破関の項で紹介した宮脇俊三古代史紀行を読み終え、その続編となる平安鎌倉史紀行を読んでます。歴史の現場を丹念に時系列で訪ねる著者ならではの視点の旅行記、桓武天皇の平安京遷都から始まって、紫式部や清少納言は時代祭の行列にちょっと登場する程度も、将門の乱で茨城県、純友の乱は愛媛県の日振島、前九年後三年の役で岩手県と秋田県、そして平清盛の項では福原(神戸)を訪ねる宮脇センセイ。新開地から清盛邸の「雪見御所」を訪ねるべくその石碑の写真を手に坂道を歩いて行きます。公園で野球をやっている少年のひとりに石碑の写真を見せると、
「おじさん、ぼくがつれてってあげるよ、でも、ちょっと待ってて。この次がぼくの打順だから」とバットを持った。少年の打った球はピッチャーゴロ。が、一塁手が落球してセーフ。しかし少年は「ぼくは帰るよ」と私のところに駆けてきた。それを機に野球はドロンゲームになった。(中略)すぐそこかと思ったが、六、七分は歩いた。上り坂なので息切れがした。湊山小学校の校門を入ると、少年は「あれだよ」と指差し、礼を言う私に目もくれず、いま来た道を戻っていった。
湊山小学校を調べてみると、なんと2015年に閉校、現在は水族館になっていると分かり訪ねてみたくなりました。
クラゲの展示は靴を脱いで上がるカーペットの敷かれた部屋、その隅っこにトビハゼ、和歌浦のトビハゼとは別の奄美のマングローブに生息するミナミトビハゼ。
他に皮膚の角質を食べるドクターフィッシュの水槽、屋外にコイの餌やりの水槽、水族館なのにヒメウズラなどの小鳥とゾウガメがいる部屋とかがあります。コツメカワウソがいるらしいのですがご不在。
魚の名前や生態の紹介などは限定的で全体的に学術的なイメージはほぼ皆無、将来さかなクンみたいになりたいという子どもたちには物足りないかと。室戸にある廃校水族館のようなところかと期待していたのですが、外観以外に学校であった面影はあまり感じられませんでした。
神戸市立湊山小学校の銘板が残されていました。校舎全体が複合施設になっていて、フードコートやハーブショップがあり、西側では高齢者向けデイサービスやレストランを増設する工事中。
もういちど雪見御所旧跡の石碑。宮脇センセイがここへやってきたのは1992年6月、親切な野球少年は今40代前半のはず。
市バス7系統は日中も10分おき、待つことなくやってきたバスで三宮へ戻ります。高頻度にバスが運行されていて、乗客も多いのに、なぜ湊山小学校が閉校されたのか不思議で調べてみると、少子化を理由に平成27年3月に兵庫区の4校が統合されたと分かりました。ホームページがまだ残されていて、明治6年開校の歴史ある小学校で閉校時の全校児童数124名とあり、1学年1クラス維持するのがやっとだったと分かります。三宮からも近い便利で閑静な住宅地なのにビックリです。
18世紀初頭の拾箇国絵図、西を上にした大坂の地図です。大和川が既に付け替えられ一直線に大阪湾につながっています。大和川の南は和泉国、堺・高石は大鳥郡、泉大津・忠岡は泉郡、岸和田・貝塚は南郡、と区分されています。白く塗られた堺の町から海沿いの紀州街道の赤い線を辿ると大津、忠岡村、磯上村、春木村、野村、そして白く塗られた岸和田城下と読み取れます。この野村は自分のご先祖様が庄屋を務めていた村と聞かされていたことを思い出しちょっと感動。
もう1枚は大明地理之図、明代の地図を江戸時代中期に模写したものと思われ、日本列島の南に描かれた大きな島は台湾じゃなくて琉球国、拡大すると「中山王城」の城郭が描かれています。琉球王国ができる前の中山王国の名前が琉球王国成立後も用いられていたらしい。
14口で最大の6号銅鐸64.5cm、14.1kg。描かれた文様は同心円じゃなくて渦巻き、とても繊細で美しい。
5号銅鐸39.2cm、2.62kgには道具を待つ人、交尾するトンボ、サギとスッポン、杵をついて脱穀作業が描かれています。反対側にもヘビやカエル、鹿狩りの様子などが描かれていて、弥生人の観察力や表現力の高さを感じさせます。
いずれも後年巨大化して実用性がなくなる前の銅鐸で、ぶら下げて音を鳴らす役割があった頃のものと思われます。古墳時代になって銅鐸はその役割を終え、山中などに埋められてしまったと桜井市埋蔵文化財センターで学んだばかり、遺跡ではなく六甲山中から出土した理由が分かります。
銅鐸の隣の部屋は聖フランシスコ・ザビエル像(江戸時代初期の重要文化財、作者不詳)の複製。実物は特別展とかで展示されるらしい。ザビエルが聖人に列せられたのは1622年で、その知らせが日本のキリシタンの間に伝えられ描かれたものらしい。
びいどろ・ぎやまん・ガラス展示コーナーのぎやまん彫り梅枝文緑色ガラス手つき水注(江戸時代中期)、5cmほどの小さなガラス器に梅の枝が描かれています。器の大きさや形状からすると今際の際の病人に水を与える水注と思われます。水注に描かれた梅を見せながら、春になったら一緒に梅見しましょうね、と声をかけながら水を与える看病人の姿が浮かびます。上述の銅版画といい、ずっと遡って銅鐸といい、こういう繊細細密なものは太古から日本人の得意技ですね。
無料で見学できる1階の神戸の歴史展示室に入ると、訪ねたことのある五色塚古墳のジオラマ。ショーケースに並べられた円筒埴輪は現地にびっしり並べられていたレプリカの実物のようです。
大輪田泊から兵庫津へのパネルに平清盛を描いた月岡芳年の浮世絵、福原京から海へ向かって扇を振る姿がかっこいい。ちなみに大輪田泊を修築したのは行基さんです。
摂州一の谷鵯越ヨリ義経平家ヲ攻ル図、弁慶の前に自分の足が写り込んでしまっていますが歌川芳藤の錦絵です。電車やバスの中で平安鎌倉紀行を読み進み、宮脇センセイは新幹線の新富士を通過する辺りで水鳥の飛び立つ音に驚いて敗走した平家の大軍を偲び、「木曾殿と背中合わせの寒さかな」と句碑のある義仲と芭蕉の墓の並ぶ膳所を訪ねた後、神戸三宮へ。鉄拐山か鉢伏山あたりのハイキングコースを歩いて鵯越の逆落としを体感するには寒すぎるので一の谷へ直行、鉢伏山をロープウェイで往復して、須磨浦公園で敦盛と熊谷直実を偲んでいます。この辺のくだりは自分も地図を参照しつつ吉川英治の新・平家物語をじっくり読んだのでしっかり頭に入っています。
神戸大阪1時間13分
5001形の運用をチェックして三宮から乗車。ヘッドマークはまるでペイントされたように見えるのですが、よく見ると円板の影があるので、やはりフックに掛けられているようです。
このまま梅田まで乗り通してみます。10年前に三宮から淀川駅まで乗り通して以来かと。乗り鉄さんたちが前を通るたびに旗を撮ってます。
10秒ほどジェットカーならではの加速で後ろに引っ張られるような体感ができるのですが、駅間距離が短いので早々に制動がかかってしまいます。5001形ならではの走りかと。
御影、西宮、尼崎、さらに千舟で待避があり、3本あとの直通特急の方が梅田先着です。