阪神5001形で神戸歴史歩き

不破関の項で紹介した宮脇俊三古代史紀行を読み終え、その続編となる平安鎌倉史紀行を読んでます。歴史の現場を丹念に時系列で訪ねる著者ならではの視点の旅行記、桓武天皇の平安京遷都から始まって、紫式部や清少納言は時代祭の行列にちょっと登場する程度も、将門の乱で茨城県、純友の乱は愛媛県の日振島、前九年後三年の役で岩手県と秋田県、そして平清盛の項では福原(神戸)を訪ねる宮脇センセイ。新開地から清盛邸の「雪見御所」を訪ねるべくその石碑の写真を手に坂道を歩いて行きます。公園で野球をやっている少年のひとりに石碑の写真を見せると、

「おじさん、ぼくがつれてってあげるよ、でも、ちょっと待ってて。この次がぼくの打順だから」とバットを持った。少年の打った球はピッチャーゴロ。が、一塁手が落球してセーフ。しかし少年は「ぼくは帰るよ」と私のところに駆けてきた。それを機に野球はドロンゲームになった。(中略)すぐそこかと思ったが、六、七分は歩いた。上り坂なので息切れがした。湊山小学校の校門を入ると、少年は「あれだよ」と指差し、礼を言う私に目もくれず、いま来た道を戻っていった。

湊山小学校を調べてみると、なんと2015年に閉校、現在は水族館になっていると分かり訪ねてみたくなりました。

今月で引退する阪神5001形の運行スケジュールをチェックしておいたので御影で乗り換えます。車内の旗立になんと5001形の旗。

元町に到着、少年鉄ちゃんだけじゃなくて鉄子さんも。

長田本庄軒のぼっかけやきそばはまだ11時なのに長蛇の列、近くの天ぷらまきのも行列。別のぼっかけやきそばのお店に入ってみました。美味しいのは美味しいのですが、長田本庄軒とは全然別の味でした。タバコの吸える喫茶店を見つけいっぷくして三宮町一丁目からバス、前の席の中国人少年のジャケットになぜか鏡が付いていました。

雪見御所の水族館

宮脇センセイは新開地から歩いて坂道を上っていましたが、今日の自分は元町から市バス7系統で坂道を上ります。

山裾の山麓線を進むと諏訪山公園下、ここから金星台を抜け大師道を登り再度山まで歩いたのはもう7年も前。石井橋バス停で下車、10年も前に鈴蘭台から石井ダムを抜けて下りてきた烏原貯水池はすぐそこです。

宮脇センセイが探していた石碑は石井橋バス停からすぐの所に見つかりました。平清盛が孫の安徳天皇を奉じて福原京を築き、清盛が日宋貿易拡大の拠点としたのが雪見御所、現住所も神戸市兵庫区雪御所町です。石碑の石は校庭から発掘された御所の庭に使用されていたと思われるものだそうです。

平安末期の神戸ではよく雪が積もったのか、調べた限り不明。

廃校になった湊山小学校をリノベして2022年7月オープンしたみなとやま水族館。写真には人が写っていませんが、家族連れでかなり賑わっていました。

前庭の池はニジマス釣りで、釣りをしない人は立入禁止になってました。

カクレクマノミとガンガゼ(ウニの一種)。

水槽が低い位置に設置されていて、小さな子どもたちに配慮されているのはいいものの、規模的に水族館というよりも大型の熱帯魚店といった感じです。

クラゲの展示は靴を脱いで上がるカーペットの敷かれた部屋、その隅っこにトビハゼ、和歌浦のトビハゼとは別の奄美のマングローブに生息するミナミトビハゼ。

他に皮膚の角質を食べるドクターフィッシュの水槽、屋外にコイの餌やりの水槽、水族館なのにヒメウズラなどの小鳥とゾウガメがいる部屋とかがあります。コツメカワウソがいるらしいのですがご不在。

魚の名前や生態の紹介などは限定的で全体的に学術的なイメージはほぼ皆無、将来さかなクンみたいになりたいという子どもたちには物足りないかと。室戸にある廃校水族館のようなところかと期待していたのですが、外観以外に学校であった面影はあまり感じられませんでした。

神戸市立湊山小学校の銘板が残されていました。校舎全体が複合施設になっていて、フードコートやハーブショップがあり、西側では高齢者向けデイサービスやレストランを増設する工事中。

もういちど雪見御所旧跡の石碑。宮脇センセイがここへやってきたのは1992年6月、親切な野球少年は今40代前半のはず。

市バス7系統は日中も10分おき、待つことなくやってきたバスで三宮へ戻ります。高頻度にバスが運行されていて、乗客も多いのに、なぜ湊山小学校が閉校されたのか不思議で調べてみると、少子化を理由に平成27年3月に兵庫区の4校が統合されたと分かりました。ホームページがまだ残されていて、明治6年開校の歴史ある小学校で閉校時の全校児童数124名とあり、1学年1クラス維持するのがやっとだったと分かります。三宮からも近い便利で閑静な住宅地なのにビックリです。

神戸市立博物館

前から行って見たかった神戸市立博物館へ、自分には縁のない高級ブランドショップが居並ぶ旧居留地にあります。

特別展「古地図から広がる世界」と「日本銅版画 30の極み」を開催中で、せっかくなので特別展も入ってみます。特別展は1400円、常設展は300円が特別展と同時だと割引、さらになぜかマイナンバーカード提示でもう少し割引。ところがPaypayが使えるのはなぜか常設展だけと典型的なお役所仕事。

18世紀初頭の拾箇国絵図、西を上にした大坂の地図です。大和川が既に付け替えられ一直線に大阪湾につながっています。大和川の南は和泉国、堺・高石は大鳥郡、泉大津・忠岡は泉郡、岸和田・貝塚は南郡、と区分されています。白く塗られた堺の町から海沿いの紀州街道の赤い線を辿ると大津、忠岡村、磯上村、春木村、野村、そして白く塗られた岸和田城下と読み取れます。この野村は自分のご先祖様が庄屋を務めていた村と聞かされていたことを思い出しちょっと感動。

もう1枚は大明地理之図、明代の地図を江戸時代中期に模写したものと思われ、日本列島の南に描かれた大きな島は台湾じゃなくて琉球国、拡大すると「中山王城」の城郭が描かれています。琉球王国ができる前の中山王国の名前が琉球王国成立後も用いられていたらしい。

2階は特別展「日本銅版画 30の極み」、精密銅版画の展示です。

江戸時代後期の長崎丸山遊郭で遊ぶオランダ商人の様子です。刷られた版画は高さ10cmもないくらいで、拡大写真を見ると着物の柄、シャンデリア、盆栽の枝ぶりまで実に細密。「KUWAGETOEROO」は「花月楼」です。

常設展のコレクション展示室に入ると銅鐸がずらり、とても美しい展示です。

警備の人が巡回してくる以外は誰もやって来ず灘区桜ヶ丘町から出土した銅鐸の数々をゆっくりじっくり鑑賞。弥生時代中期、2000年前の銅鐸14口,銅戈8口(刀剣や器具は口と数えるらしい)が鶴甲団地東側の六甲山中から出土して国宝に指定されています。

14口で最大の6号銅鐸64.5cm、14.1kg。描かれた文様は同心円じゃなくて渦巻き、とても繊細で美しい。

5号銅鐸39.2cm、2.62kgには道具を待つ人、交尾するトンボ、サギとスッポン、杵をついて脱穀作業が描かれています。反対側にもヘビやカエル、鹿狩りの様子などが描かれていて、弥生人の観察力や表現力の高さを感じさせます。

いずれも後年巨大化して実用性がなくなる前の銅鐸で、ぶら下げて音を鳴らす役割があった頃のものと思われます。古墳時代になって銅鐸はその役割を終え、山中などに埋められてしまったと桜井市埋蔵文化財センターで学んだばかり、遺跡ではなく六甲山中から出土した理由が分かります。

銅鐸の隣の部屋は聖フランシスコ・ザビエル像(江戸時代初期の重要文化財、作者不詳)の複製。実物は特別展とかで展示されるらしい。ザビエルが聖人に列せられたのは1622年で、その知らせが日本のキリシタンの間に伝えられ描かれたものらしい。

びいどろ・ぎやまん・ガラス展示コーナーのぎやまん彫り梅枝文緑色ガラス手つき水注(江戸時代中期)、5cmほどの小さなガラス器に梅の枝が描かれています。器の大きさや形状からすると今際の際の病人に水を与える水注と思われます。水注に描かれた梅を見せながら、春になったら一緒に梅見しましょうね、と声をかけながら水を与える看病人の姿が浮かびます。上述の銅版画といい、ずっと遡って銅鐸といい、こういう繊細細密なものは太古から日本人の得意技ですね。

印籠時計、懐中時計の一種でケースには歯車がびっしり詰まっているようです。

平清盛坐像はポートピア博で展示されていた昭和56年の作。

無料で見学できる1階の神戸の歴史展示室に入ると、訪ねたことのある五色塚古墳のジオラマ。ショーケースに並べられた円筒埴輪は現地にびっしり並べられていたレプリカの実物のようです。

大輪田泊から兵庫津へのパネルに平清盛を描いた月岡芳年の浮世絵、福原京から海へ向かって扇を振る姿がかっこいい。ちなみに大輪田泊を修築したのは行基さんです。

摂州一の谷鵯越ヨリ義経平家ヲ攻ル図、弁慶の前に自分の足が写り込んでしまっていますが歌川芳藤の錦絵です。電車やバスの中で平安鎌倉紀行を読み進み、宮脇センセイは新幹線の新富士を通過する辺りで水鳥の飛び立つ音に驚いて敗走した平家の大軍を偲び、「木曾殿と背中合わせの寒さかな」と句碑のある義仲と芭蕉の墓の並ぶ膳所を訪ねた後、神戸三宮へ。鉄拐山か鉢伏山あたりのハイキングコースを歩いて鵯越の逆落としを体感するには寒すぎるので一の谷へ直行、鉢伏山をロープウェイで往復して、須磨浦公園で敦盛と熊谷直実を偲んでいます。この辺のくだりは自分も地図を参照しつつ吉川英治の新・平家物語をじっくり読んだのでしっかり頭に入っています。

兵庫津のジオラマです。浜辺ではまだ港の拡張工事が行われているようです。

嘉永7年頃大阪湾にやってきたロシア軍艦ディアナ号、向こうに見えるのは天保山、現在は標高4.53mの日本一低い山ですが、天保の頃に安治川の浚渫で作られた時には20mもあって、入港する船の目印山と呼ぼれ、ディアナ号が大阪湾に来航し艦長プチャーチンが威圧的態度で親善通商条約締結を求めてきたことを契機として天保山に砲台が築かれ明治時代の標高は7.2mになったそうです。

一方江戸時代の海運を支えていたのが弁才船(べざいせん)、1700石積み(積載量250トン)の樽廻船の模型です。灘の酒を江戸に運んでいました。

慶応3年兵庫は開港され明治4年神戸港に改称。

昭和初期の神戸港、今の居留地の姿が出来上がりつつあります。

明治7年開業の大阪神戸間鉄道の官許汽車発着時刻表仝運賃表。大阪神戸間に1日8往復、1時間10分で走破しています。

チケットブースの脇に平清盛立像、仙台の伊達政宗、岐阜の織田信長、奈良の行基、大阪は太閤、神戸は平相国です。

いつもの三宮センタープラザ西館B1タルショウです。右からモモミ、ボンジリ、シイタケ、ピーマン、フランクフルト、それに麦ロックとチェイサー、インパクトワンに代わって新発売のストロングワンです。

神戸大阪1時間13分

5001形の運用をチェックして三宮から乗車。ヘッドマークはまるでペイントされたように見えるのですが、よく見ると円板の影があるので、やはりフックに掛けられているようです。

このまま梅田まで乗り通してみます。10年前に三宮から淀川駅まで乗り通して以来かと。乗り鉄さんたちが前を通るたびに旗を撮ってます。

10秒ほどジェットカーならではの加速で後ろに引っ張られるような体感ができるのですが、駅間距離が短いので早々に制動がかかってしまいます。5001形ならではの走りかと。

御影、西宮、尼崎、さらに千舟で待避があり、3本あとの直通特急の方が梅田先着です。

だいぶ暗くなってきました。ドア脇のポスターは村上投手。

KANSAI MaaSワンデーパスの中吊りは南海8300系がセンターを張ってます。ググってみるとアプリの切符で、利用できる範囲は10年ほど前によく利用したスルッとKANSAI 3dayきっぷと比較にならないくらいショボい。せっかくセンターを張っているのに南海は堺、中百舌鳥までなのは何ととも残念。JR西日本も参加しているものの大阪環状線と桜島線、大阪新大阪間だけ。5000円ほどのスルッとKANSAI 3dayきっぷで大原、粟生、姫路、極楽橋、和歌山市まで行けたのは今や昔。それだけ鉄道会社の経営も厳しくなっているということのようです。

淀川駅付近、阪神高速左岸線がかなり出来上がっているようです。万博に合わせて新大阪駅からのシャトルバスの専用路線として暫定利用するものの、開業は2032年らしい。自分的には阪神高速の開業自体はどうでもよくて、淀川駅から海老江干潟への徒歩ルートがいつ再開されるかがポイントです。

梅田に到着。三宮から1時間13分、明治7年より時間がかかってしまいました。

4番線の降車側はいつの間にか使われなくなっていて、誰もいない側から5001形。

高速神戸に向けて折り返していきました。2月10日で運行終了だそうです。サヨナラ、ありがとう。

4番線の向こう側に阪神バル横丁、3年も前にオープンしているのに全然気づきませんでした。全体的にスナックパークと較べてあまり人が入っていないのがちょっと気になります。

インディアンカレーがあるのを見つけました。向こう側に座ったファミリーの妹ちゃんがハヤシライスなのに、お兄ちゃんは自分と同じ卵入りインディアンカレー、卵ですこし和らぐものの舌が痺れるほどの激辛に変わりはありません。特にここのカレーの特徴は食べたあとも口の中に辛さが残ること。大丈夫かと心配したのですが、顔をしかめながらがんばって食べていました。おとなの味どうだったかな。