不破関と関ヶ原
承前、コハクチョウたちとの再会、さらにクロヅルにも会え午後は歴史探訪。
加賀市と四日市市を結び日本列島を東西に区切るような国道365号、その米原市春照(すいじょう)から見上げた伊吹山、山麓から中腹へ森の切れ込みが見えるのは伊吹山ゴンドラの跡です。4合目付近にあったスキー場はスキー人口の減少で2010年に閉鎖されたそうな。365号で峠を越えると岐阜県関ケ原町、慶長5年の古戦場じゃなくて、それより千年ほど前、壬申の乱の古戦場を見たくてやってきました。
古墳や史跡、博物館を訪ねるだけでなく、最近は読書も古代史ばかりになりました。今読んでいるのは宮脇俊三古代史紀行、宮脇作品はそのほとんどを読んでいたはずも、この作品は未読と気づき早速Kindleでダウンロードしてきた次第。時刻表2万キロなど鉄道モノ同様に、著者ならではコダワリとシニカルな視点での古代史紀行をじっくり楽しんでいるところです。
壬申の乱の項では、大海人皇子の足跡を電車とタクシーで辿る宮脇センセイ。京都から近鉄特急で橿原神宮前に着いて吉野へ向かうものの、近鉄吉野線じゃなくタクシーでつづら折りの芋峠を抜け上市、桜の名所の吉野山じゃなくて吉野川を遡り吉野宮があった宮滝遺跡へ。7ヶ月宮滝に滞在した後美濃へ向かった大海人皇子を追って、タクシーは国道370号で大宇陀を抜け榛原。近鉄電車に乗り換え名張で夏見廃寺をちょっと見て、伊賀神戸で近鉄伊賀線(現伊賀鉄道)に乗り換え伊賀上野。JR関西本線で高市皇子が大海人皇子に合流した柘植を経て、鈴鹿峠が開かれるまで鈴鹿越えのメインルートだった加太越で亀山、名古屋行に乗り換え四日市泊。鸕野皇女を桑名に残して美濃へ向かった大海人皇子の足跡を追って桑名から近鉄養老線(現養老鉄道)で養老。客待ちのタクシーをつかまえ名神高速じゃなくて垂井側から国道21号沿いの行在所が置かれたという野上集落へ。
千三百年も前の行在所の跡があるはずもなく、野上ということに来てみたかっただけ、というセンセイの一文を読んで自分もどうしても野上を訪ねてみたくなりました。Google Mapに大海人皇子野上行宮跡のマーカーが置かれていました。
365号で峠を抜けると視界が広がり高原地帯の関ケ原、「関ケ原古戦場決戦地←」という案内板をやり過ごして国道21号を東へ。Google Mapにマーカーはあるもののカーナビには何もなく、垂井町に入ってしまい行き過ぎたことに気づき引き返すもクルマを止められるような場所も見つけられず、行宮跡から少し西側「徳川家康最初陣地」にクルマを入れたものの、どうやらガソリンスタンドの敷地のようです。ガソリンスタンドに断ってクルマを置かせてもらうこともできたかも知れませんが行宮跡付近へ戻るには1kmほどあるので諦めました。
この「徳川家康最初陣地」が歴史小説でよく登場する「桃配山」と分かったのはウチへ帰ってから。そうと分かっていたらガソリンスタンドに断ってクルマを置かせてもらい、小山に上って関ヶ原がどう見えるかどうか確かめたかったところです。Google Mapにアップされた写真を見ると「決戦地」までしっかり遠望できると分かりました。さらに、桃配山とは大海人皇子が陣を構え兵士に桃を配ったことに因み、家康もその故事からここに最初の陣を敷いたとも分かりました。返す返すも訪ねそびれたのが残念。
壬申の乱
不破関資料館へ向かいます。国道365号との交差点を抜け21号を西へ、「不破関資料館←」を見つけたものの、どこを左折するのか分からず、その先引き返す場所も見つけられず、「戦国ロード」と名付けられた広域農道に左折すると大垣市に入ってしまい、365号から関ケ原インターをくぐり21号に戻り、ぐるっと一周して、さっきの看板のすぐ左手に資料館への道があることに気づきました。思ったより小さい資料館の広い駐車場には1台のクルマも止められていません。
掲げられていた「決戦はいつも岐阜」の幟旗、672年壬申の乱、1600年関ケ原、その間に1221年承久の乱とあります。後鳥羽上皇(鎌倉殿の13人の尾上松也)と執権北条義時(同、小栗旬)の抗争です。
110円を払って入館、広くない展示室に、出土品より説明パネルばかりが目立ち、流されていたビデオもかなり劣化していて、率直なところちょっとガッカリな資料館ですが、この場所が不破関そのものとわかりました。
天智天皇亡きあと大友皇子率いる近江軍に対し、自身の領地のある美濃の豪族を結集すべくこの地へやってきた大海人皇子、さっき訪ねるのを諦めた野上に行宮を構え、安八磨郡(あはちまぐん、現岐阜県安八郡)の湯沐令(ゆのうながし、領地の管理者)であった多品治(おおのほんじ)らが不破道への近江軍の侵入を防ぎ、東国勢が結集されたことで大海人皇子が勝利しています。
不破関は壬申の乱の後、東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発(あらち、敦賀市疋田)関と並ぶ三関(さんげん)のひとつ、東山道の関として整備され、戦が治まった789年の詔で廃止されるも、不破関より東が関東と呼ばれるようになりました。つまり自分の現在地は関東、関ヶ原は一部を除き50Hzだそうです。
さほど貴重な文化財とかがある訳でもないのに展示館内はどうやら撮影禁止ぽいので、外に出て資料館の裏手に回ると藤古川の谷に向かって展望台になっていました。藤古川に架かる橋が東山道、川の向こうから近江軍が攻めてくるところを想像してみます。太陽の左下がその約千年後に小早川秀秋が東西どっちに味方するか悩んでいた松尾山です。
資料館の北側、国道21号に並行して東海道線が走っていて、南側は東海道新幹線が雪で運休になったり徐行したりする区間です。新幹線の向こうに名神高速、狭い谷に日本の動脈が走る、この国の覇権を握るには戦略上極めて重要なポイントであることが景色から伝わってきます。
画面左下が両軍が対峙した藤古川の流れ。ここで勝利した大海人軍は、舎人の村国男依(むらくにのおより)に率いられ近江に進軍し連戦連勝、一方大和では三輪高市、置始菟(おきそめのうさぎ)らが箸墓の戦いに勝利、村国軍は瀬田橋の戦いで勝利し、戦いに決着が付きます。この間大海人皇子はずっと野上から動かずに指揮を取っていたようです。勝利した大海人皇子は飛鳥に戻り飛鳥浄御原宮を造営し天皇に即位。