邪馬台国を歩く
漸く秋が始まりました。外へ出ると空気が気持ちいい。ヒガンバナを見たくなって最初に思いつく山の辺の道へ。
纏向遺跡辻地区建物群です。春に纏向遺跡の山の辺の道沿い付近を歩いたばかり、読売テレビの若一調査隊(その日の番組のYouTube)を見て、纏向遺跡は巻向駅を中心とした広い範囲と分かりその中心部となる辻地区を訪ねてみたくなった次第です。並ぶ石の杭は1800年前の建物の位置を示すもので出雲大社本殿や伊勢神宮本殿の原型に近いといわれる建物を復元CGで確認できます。復元CGのページには、卑弥呼の祈りの宮殿か、とあります。
若一調査隊やJ:COMの泉秀樹の歴史を行くが大好きでよく見ています。何でも知っていてとても分かりやすく歴史を説明してくれる、いつも優しげな若一さんとちょっとコワオモテの泉さん、どちらも憧れの存在です。
画面左端に音羽山を遠望できる遺跡の南側、石の杭真向のひょうたん島のような森は箸墓古墳、前方後円墳を真横から見た様子がよく分かります。5年前に箸墓古墳の周囲を歩いて宮内庁の大市墓の立札も見ており、少なからず記録があるはずと思い今日はパスしてしまったのですが、廃止直前だった105系や103系電車ばかりで箸墓古墳や箸中大池は殆ど写真を撮っていませんでした。
被葬者と治定される倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)=卑弥呼とする説がある箸墓古墳です。もしその説の通りだとすると卑弥呼は陰部に箸が突き刺さって亡くなったことになります。ずいぶん長い名前なのでモモちゃんと呼ばれていたかも。
階段があって道標は拡大すると珠城山1・2号墳と案内されています。
巻向珠城宮伝承地とあるものの案内看板は劣化して読み取れません。桜井市観光協会サイトの風化する前の案内看板の写真で、読み取れないのは、垂仁天皇の前で野見宿禰と当麻蹴速が相撲をとった相撲発祥の物語と分かりました。
いくらかまとまって咲いているヒガンバナ、まだつぼみがいっぱいで、田んぼの周囲が真っ赤に彩られるまでまだ1週間以上かかりそうです。こんな感じで咲いているヒガンバナを期待していたのですが、今年の夏は暑すぎました。
ヒャクニチソウにチャバネセセリ。
景行天皇纒向日代宮伝承地に到着、垂仁天皇皇子の第12代天皇で倭建令(やまとたけるのみこと)の父。
2枚の案内板があって1枚は景行天皇纒向日代宮伝承地の案内も劣化して全く読めません。Google Mapにアップされた写真で、倭建令が九州の熊襲や出雲、東国へと遠征しその帰途に「大和は國のまほろば たたなずく青垣 山ごもれる 大和し美し」と詠んだことが紹介されています。右手のイラストは大和を愛でる倭建令の後ろ姿と分かりました。アップされているのが去年の12月なので案内板は劣化じゃなくて汚れているだけのようです。
もう1枚は「初期ヤマト王権の発祥の地 - 纏向遺跡」の案内、若一調査隊でも紹介されていたように、九州から関東にいたるまでのさまざまな地域の土器が全体の15%前後も出土していること、農機具がほとんど出土せず土木工事用の工具が圧倒的に多いことに触れられており、この地こそが邪馬台国であると主張しているようです。その土木工事用工具を作っていたのが穴師の人たちです。
APPENDIX
纏向遺跡の里山歩き、見たものについて調べれば調べるほど諸説が出てきて何度も書き直しました。それでも的外れな理解を書いているかも知れません。明日香に都が置かれるより300年も前、文字もまだ殆ど普及しておらず、日本語が成立する以前だったであろう邪馬台国の時代に思いを馳せるのはなかなか楽しいとも分かってきました。
大学の必須科目だった考古学のフィールドワークで里山歩きをした記憶がうっすらとあります。纏向遺跡じゃなくて葛城の方だったかと。授業の内容は全然覚えていないのですが、もうちょっとしっかり学んでおくべきだったと40年経って後悔しています。