邪馬台国を歩く

漸く秋が始まりました。外へ出ると空気が気持ちいい。ヒガンバナを見たくなって最初に思いつく山の辺の道へ。

名張行急行の前から3両目、トイレ前のボックス席に腰を下ろしました。トイレのドアには「化粧室 - Rest room」とあります。以前は「便所 - Lavatory」だったはず。「便所」が死語になったのしょうがないとして、「化粧室」も今や車内で平気でお化粧する人も多いので適切じゃないです。「雪隠」がいいと思います。

1972年製の2610系2765、シートモケットは黒ずみ薄汚い車内ですが、昭和の旅気分を味わえます。転換式クロスシートの5200系が登場する前は急行用としてトイレ前だけじゃなく全体がボックスシートだった車両です。

ボックス席だと耳成山がいつもより近くに感じられます。

桜井に到着、南口の喫茶店で茶粥モーニング。周りのお客さんたちの大声で、せっかくの美味しい茶粥を落ち着いて味わえなかったのが残念。

山の辺の道をいつもと逆に北から南へ歩くことにして桜井線で巻向駅へ。JR桜井駅の奈良方面はほぼ30分ヘッドなのに、高田方面は1時間ヘッドは不思議。奈良方面のホームに下りると2番線と3番線が使い分けられているのも不思議です。

纏向遺跡辻地区

227系1000番台で巻向に到着。

あれー? 巻向駅の時刻表を見ると奈良方面、高田方面とも2本ずつです。よく見ると土日日中の高田方面行の半数は桜井止まり、桜井駅で高田方面が奈良方面の半分しかない道理です。平日日中は土日日中から半減してほぼ1時間ヘッドになっていて、桜井線が観光客を重視していると分かります。桜井線を万葉まほろば線という愛称で呼ぶのは好きではないのですが、観光客重視を評価して自分も愛称で呼ぶことにします。

反対方向の桜井行が到着。近鉄と並行する櫻井-高田間の利用者は少ないと分かります。小さな駅舎の半分以上はトイレです。

踏切のすぐ西側に巨大トイレ。これがあるなら駅にトイレは要らないかと。

実った稲穂の向こうに石の杭が並んでいるのが見えます。今日最初の目的地、纏向遺跡辻地区です。

畑の脇に咲いているのはアオバナフジバカマ。

細い葉が特徴的なヤナギバヒマワリです。

道案内の向こうの鬱蒼とした木立の中に神社、何ら案内が見つからず、マップを見ても何もなく、マップをぐーっと拡大すると他田坐天照御魂神社(おさだにますあまてるみたまじんじゃ)とありました。村の鎮守といった趣ですが、延喜式神名帳に記載された式内社の社格を持つ神社で6世紀末の第30代敏達天皇の頃の創建らしい。

ソバ畑かと見まごう白い花はニラです。その上をセセリチョウがいっぱい舞ってます。

間近に止まってくれたのはキマダラセセリ。

イチモンジセセリもいます。

アンテナの上でモズが高鳴き、秋です。猛暑が続いていた夏の間、モズやんたちはどうしていたんでしょう。

纏向遺跡辻地区建物群です。に纏向遺跡の山の辺の道沿い付近を歩いたばかり、読売テレビの若一調査隊(その日の番組のYouTube)を見て、纏向遺跡は巻向駅を中心とした広い範囲と分かりその中心部となる辻地区を訪ねてみたくなった次第です。並ぶ石の杭は1800年前の建物の位置を示すもので出雲大社本殿や伊勢神宮本殿の原型に近いといわれる建物を復元CGで確認できます。復元CGのページには、卑弥呼の祈りの宮殿か、とあります。

若一調査隊やJ:COMの泉秀樹の歴史を行くが大好きでよく見ています。何でも知っていてとても分かりやすく歴史を説明してくれる、いつも優しげな若一さんとちょっとコワオモテの泉さん、どちらも憧れの存在です。

画面左端に音羽山を遠望できる遺跡の南側、石の杭真向のひょうたん島のような森は箸墓古墳、前方後円墳を真横から見た様子がよく分かります。5年前に箸墓古墳の周囲を歩いて宮内庁の大市墓の立札も見ており、少なからず記録があるはずと思い今日はパスしてしまったのですが、廃止直前だった105系や103系電車ばかりで箸墓古墳や箸中大池は殆ど写真を撮っていませんでした。

被葬者と治定される倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)=卑弥呼とする説がある箸墓古墳です。もしその説の通りだとすると卑弥呼は陰部に箸が突き刺さって亡くなったことになります。ずいぶん長い名前なのでモモちゃんと呼ばれていたかも。

遺跡のすぐ脇を行く227系1000番台を撮っていたら足元にニャンコ。自分の足に体を擦り付けてくれた時の気持ちいい感触が今も足に残っています。

ニャンコは隣家の垣根の下に潜り込んでしまいました。マキムクなのでマキちゃんと呼ぶことにします。

巻向駅のホームが遺跡近くまで伸びてきています。殆どは227系1000番台2連の短い編成ですが、221系6連も運転され、1日1本だけ高田経由のJR難波行快速もあります。若一さんによると纏向遺跡の中心が巻向駅だそうです。遺跡は纏向、駅は巻向と字が違っていて、かつての自治体名は纏向村、三輪山の東に位置する567mの山は巻向山、そこを源流にする川は巻向川ですが、「纏」という字は「まとい」、「まといつく」という意味なので、「巻」とほぼ同意です。

日陰に佇むキジネコのマキちゃん。

線路を渡って趣のある街道の角に鳥居だけ、社殿はありません。石碑には「正一位穴師大明神」とあります。

穴師大明神とは春に訪ねた相撲神社のまだ谷奥、ここから1.5km真東の谷に鎮座する穴師坐兵主神社のことらしく、これはたぶんその一の鳥居。相撲神社はその摂社になるそうです。やはり式内社の社格を持つものの、一の鳥居の石碑の正一位とだと大神神社(三輪明神)と並ぶことになりちょっと眉唾です。WikiPediaでは正五位上となっています。

穴師坐兵主神社の創建は不明も伊勢神宮斎宮の起源とされる倭姫命(やまとひめのみこと)によると伝わるらしい。

ヒャクニチソウにイチモンジセセリ。ハナトラノオも綺麗。

穴師地区

垂仁天皇纒向珠城宮(たまきのみや)跡の碑と白いコスモス。第11代垂仁天皇は第10代崇神天皇の皇子。垂仁天皇の皇女が上述の倭姫命で、倭姫命=卑弥呼説もあるようです。第11代垂仁天皇皇女の倭姫命と第7代孝靈天皇息女の倭迹迹日百襲姫命が同一人物であるはずがなく、どちらかあるいは両方の説が史実と異なることになります。

さらに崇神天皇=卑弥呼説もあり、邪馬台国がここなのか北九州なのかと同様に、卑弥呼とは誰だったのかも謎が深まるばかりです。

毛艶のいいクロネコと目が会いました。今度はマキムクからムクちゃんと呼ぶことにします。

キバナコスモスにナミアゲハ、キバナコスモスに三輪山。

足元にウラギンシジミ、開翅しないか待ってみたものの開かず。

道中に敷かれた桜井市のタイル、キャラクターは桜井市のゆるキャラのひみこちゃんでは無いようです。

階段があって道標は拡大すると珠城山1・2号墳と案内されています。

巻向珠城宮伝承地とあるものの案内看板は劣化して読み取れません。桜井市観光協会サイトの風化する前の案内看板の写真で、読み取れないのは、垂仁天皇の前で野見宿禰と当麻蹴速が相撲をとった相撲発祥の物語と分かりました。

西から東へ歩いているのですが南北方向の坂道をちょっと上ってみると遠くに大峰山系。

キウイがたわわに実っていました。

小さな花畑のチェリーセージにオオスカシバ。

艶やかな朱色はフヨウの一種、ブッソウゲと思われます。ハイビスカスの一種といっても間違いではなさそうです。

ガウラとツルハマナス、細長いつぼみはセイヨウフウチョウソウ。

大きな土蔵や土塀の民家が密集する穴師集落の火の見櫓です。櫓の上に半鐘が置かれているのが見えます。砲筒のようなものはたぶん放水銃。

穴師とは穴を掘り採鉱に従事していた人々だったらしい。どうやら川から採取した砂鉄と採掘した石英を溶融剤としてタタラ製鉄が行われていたようです。司馬遼太郎の街道をゆく「砂鉄のみち」で出雲や吉備でタタラ製鉄が古代の国の礎を築いてきたことを読んでいるので少しだけ知識があります。

集落を抜けると見覚えのある無人販売所のある三叉路に出て来ました。山の辺の道です。春に訪ねた相撲神社の方へ行きたかったのにひとつ南側の谷にいることに気づき、山の辺の道の急な坂道を北へ向かいます。

いくらかまとまって咲いているヒガンバナ、まだつぼみがいっぱいで、田んぼの周囲が真っ赤に彩られるまでまだ1週間以上かかりそうです。こんな感じで咲いているヒガンバナを期待していたのですが、今年の夏は暑すぎました。

ヒャクニチソウにチャバネセセリ。

穴師は垂仁天皇の求めた「やまとたちばな」に始まるみかん栽培発祥の地でもあります。

道端に一輪だけのヒガンバナにクロアゲハ。

景行天皇纒向日代宮伝承地に到着、垂仁天皇皇子の第12代天皇で倭建令(やまとたけるのみこと)の父。

2枚の案内板があって1枚は景行天皇纒向日代宮伝承地の案内も劣化して全く読めません。Google Mapにアップされた写真で、倭建令が九州の熊襲や出雲、東国へと遠征しその帰途に「大和は國のまほろば たたなずく青垣 山ごもれる 大和し美し」と詠んだことが紹介されています。右手のイラストは大和を愛でる倭建令の後ろ姿と分かりました。アップされているのが去年の12月なので案内板は劣化じゃなくて汚れているだけのようです。

もう1枚は「初期ヤマト王権の発祥の地 - 纏向遺跡」の案内、若一調査隊でも紹介されていたように、九州から関東にいたるまでのさまざまな地域の土器が全体の15%前後も出土していること、農機具がほとんど出土せず土木工事用の工具が圧倒的に多いことに触れられており、この地こそが邪馬台国であると主張しているようです。その土木工事用工具を作っていたのが穴師の人たちです。

景行天皇纒向日代宮伝承地からの眺め、向こうの山並みは矢田丘陵で間に広がる盆地に点在する小さな緑は殆どが古墳と思われます。左手の穴師集落の中心部や巻向駅は丘に遮られ見えませんが、現在地から巻向駅までの約1.5kmを半径として広大な邪馬台国の首都が広がっていたと想像してみます。

少し奥に相撲神社、さらに300mほど歩くと穴師坐兵主神社があると分かったのは帰宅後ブログを書き始めてからなので、いずれ改めて。穴師坐兵主神社からさらに東へ、穴師山410mまでハイキングコースが続いているようです。オレンジのボディに白いルーフのハスラーを見るといつも関西電力のクルマと間違ってしまいます。

今日3匹目のネコ、マキとムクを使ってしまったので、穴師のアナとでも呼びましょう。目の下を怪我しているみたい。

タマネギのような形の真っ赤な実がなっている花はフヨウの仲間のローゼル、つまりハイビスカスなわけで、花や果実がハイビスカスティー(ハーブティー)に利用されるそうです。

小さな花畑にカラフルなヒャクニチソウが満開。オオスカシバやツマグロヒョウモンが舞ってます。

花びらにラインが入っているのかとクローズアップしてみると花びらが巻かれていました。ヒャクニチソウの色や形はとても面白い。

水草がびっしりの池にカルガモとカイツブリ。この池の向こうがもう穴師坐兵主神社です。ウラギンシジミはここでも翅を開いてくれませんでした。

翅が黄色っぽくキアゲハかと思いきや、ナミアゲハです。翅の付け根の上の部分が線なのがナミアゲハ、ベタ塗りなのがキアゲハです。

畝傍山を覆う金剛山と耳成山を覆う葛城山の絶妙なレイアウト。

水路が沿った広めの道路に出て来ました。この付近の山の辺の道は県道と重なりそこそこクルマの通行が多いです。調べてみるとそば畑で知られる笠地区を経て名阪国道の針インターにつながっていると分かりました。水路にハグロトンボ。

満開の花は遠くからだとフジバカマに見え、ひょっとして、としばらく観察していたもののやってきたのはナミアゲハだけ、花はシオンのようです。

山の辺の道

県道を離れ山道の山の辺の道に戻ります。有刺鉄線に止まったアキアカネとコノシメトンボ。

ヒメウラナミジャノメは翅の両側を見せてくれました。

桧原御休処でしばし休憩。井寺下池は殆ど水が抜かれ、池底が緑に覆われていました。期待していた鳥やトンボは現れなかったものの、川端康成揮毫の大和し美しが、いつもより心に響く気がします。

モンキアゲハが現れた。アジサイに似るも見たことのないちょっと毒毒しい花はボタンクサギ。

大美和の杜でやっと会えた鳥はコゲラ。ヌマガエルがじっとしてました。

大美和の杜から坂道を上った久延彦神社からの眺めです。すでに日はかなり低くなってます。

三輪駅に到着、駅前のクスノキがかっこいい。桜井市埋蔵文化財センターへ行こうと思っていたのにすっかり忘れていました。それにもう4時半です。

桜井駅を通過するアーバンライナー。大和高田より乗降客数が多いのに特急が1本も止まらない桜井駅です。邪馬台国だったかどうかに関わらず、日本の首都だったことは間違いない桜井に特急が停まってしかるべきかと。

西日を受ける急行で帰ります。秋になった途端ずいぶん日が短くなってしまいました。

APPENDIX

纏向遺跡の里山歩き、見たものについて調べれば調べるほど諸説が出てきて何度も書き直しました。それでも的外れな理解を書いているかも知れません。明日香に都が置かれるより300年も前、文字もまだ殆ど普及しておらず、日本語が成立する以前だったであろう邪馬台国の時代に思いを馳せるのはなかなか楽しいとも分かってきました。

大学の必須科目だった考古学のフィールドワークで里山歩きをした記憶がうっすらとあります。纏向遺跡じゃなくて葛城の方だったかと。授業の内容は全然覚えていないのですが、もうちょっとしっかり学んでおくべきだったと40年経って後悔しています。