ホケノ山古墳
毎年孤独のグルメで年越し、今回は去年(2023年)と比較にならないくらい上出来でした。毎年無理な依頼を受けて年末に旅を強いられる五郎さん、今回は映写機と映画フィルムをミニクーパーの屋根に積み上げて信州飯田、そして能登七尾へ。去年元旦の震災から丸一年、避けられないテーマをまだ倒壊したままの家屋も紹介しつつ、能登の公民館での映画上映会というプロットで暗くならないようにまとめ上げた脚本、演出、それに泉谷しげるら俳優さんたちの演技も素晴らしかった。映画上映会で何を上映したのか分からなくしていたのもグッド、お腹いっぱいで見ているのに、飯田の焼肉も能登のちゃんこ鍋も本当に美味しそうでした。
元旦の旅
2016年、2017年、2018年は湖北のコハクチョウ、2019年は遠出せず、2020年は伊勢湾初日の出、2021年、2022年は雪の高野山、2023年、2024年も伊勢湾初日の出でした(上掲3枚はいずれも再掲)。暮れが押し詰まるまで仕事の目処がなかなか立たず、2025年はどうすっぺと散々悩んで纏向に決めました。バードウォッチングや山野草探しと違ってハズレがないのが古墳めぐり、古代史探訪。古墳めぐりの途中で鳥たちや花たちにたまたま会えるだけで十分という思いに変わった自分です。
一昨年は「らんまん」に刺激されてどっぷり植物にハマった自分ですが、去年は突然古墳めぐり、古代史探訪に思いっきりハマりました。それも9月以降のことで「若一調査隊」を見て纏向遺跡を訪ねたことに始まり、大仙古墳(仁徳天皇陵)、一須賀古墳群、津堂城山古墳、今城塚古墳、唐古・鍵遺跡、池上曽根遺跡、岡山まで出かけ造山古墳、新沢千塚古墳群とほぼ毎週欠かすことなく古墳や古代史博物館を訪ねるほどハマりました。
以前から歴史にはかなり興味を持っていたものの、せいぜい奈良時代、飛鳥時代までだったのが、一挙に古墳時代、弥生時代、さらには縄文時代、石器時代にも惹かれました。
クリスマス前に橿原考古学研究所付属博物館を訪ねた時に紹介されていた内田康夫「箸墓幻想」を一気に読了、物語の舞台は箸墓古墳とそこから遠くないホケノ山古墳、そして「畝傍考古学研究所」として登場する橿考研そのもの、どうしても纏向を訪ねたくさせてくれる一冊でした。特に度々山の辺の道を歩きすぐ近くまで行っているのに存在すら知らなかったホケノ山には行ってみたくてたまらなくなりました。
大坂に 継ぎ登れる 石群を 手ごしに越さば 越しかてむかも
池の土手に建てられた日本書紀にある読み人知らずの歌碑、最近古代史本を読んでいるので、箸墓古墳を造営した時に人々が手渡しで石を運んでいた様子を歌ったものと分かります。大坂とは二上山のことで、運んでいた石はサヌカイトと思われます。
揮毫は元橿考研所長の樋口隆康氏、「箸墓幻想」で畝傍考古学研究所所長として登場する広瀬所長は樋口先生がモデルかと。作品は平成12年(2000年)頃の執筆、サスペンスドラマでおなじみの浅見光彦がソアラに乗って自動車電話をかけていて20年の変化を感じさせます。
池の向こうを行くのは221系「お茶の京都トレイン」。水の抜かれたため池には鳥たちが集まることが多いのですが、アオサギ1羽がいつものギャーという大声上げて飛んできただけでした。
前方部正面に箸墓古墳の拝所。宮内庁により倭迹迹日百襲姫命大市墓と治定されています。とても長くて読みづらい名前ですが、やまと・ととひ・ももそひめ、と区切ると読みやすくなります。
箸墓古墳の築造は3世紀なかばと見られ邪馬台国畿内説の立場から倭迹迹日百襲姫を卑弥呼と比定する説があり、第7代孝霊天皇皇女である百襲姫の実の弟が温羅と呼ばれる鬼を退治し桃太郎のモデルとなった吉備津彦命、ということは卑弥呼と桃太郎は姉弟だったと吉備を訪ねた時のブログに書いています。
しかしながら箸墓古墳被葬者については百花繚乱、WikiPediaですら上手くまとめきれていないように見受けます。ただ吉備系土器が出土しており、卑弥呼と桃太郎姉弟説は捨てきれないところです。
ホケノ山古墳てっぺんで一周してみました。
「お茶の京都トレイン」が心地よいレールジョイント音を響かせて行きます。
ホケノ山古墳の墳頂です。ここにも発掘現場跡があるはずと思っていたのですが、草原が広がっているだけ。とすると後方部の木棺直葬墓はこの墳頂から移設されたのか、いや墳頂部中央から石囲い木槨が出土しているのは間違いなく、どうやらホケノ山古墳には少なくともふたりが埋葬されていたようです。墳頂の石囲い木槨は発掘調査後埋め戻されたものと思われます。
さらに、上掲の案内板の図面には石囲い木槨の隣に石室があることも記されています。これはホケノ山古墳が築かれて300年以上経った6世紀末頃に造られたものだそうで、ここには少なくとも3人が埋葬されていたことになります。
墳頂部に埋め戻された石囲い木槨の被葬者ですが、第10代崇神天皇皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと )説の他、卑弥呼の後継者として邪馬台国を治めた女王、台与(とよ)説があります。発掘調査が許されていない箸墓古墳に対し、ホケノ山古墳は発掘調査が進んでいて、3世紀なかば(弥生時代末期)築造の最古の前方後円墳とされ、箸墓古墳より古いことは間違いなさそうです。ということは、卑弥呼→台与、あるいは倭迹迹日百襲姫→豊鍬入姫命という時代の流れと、ホケノ山→箸墓という築造年代が矛盾します。
標準色の221系が走り抜けていきました。
円墳部の北側に石が2つずつほぼ等間隔で四角形に並んでいます。曰くありげですが不明。北側からホケノ山古墳を眺めると、3段の段築が鏡餅のように重なった形状を確認できます。ホケノ山を漢字ではどう書くのかは不明です。
「箸墓幻想」に続いて読み終えた黒岩重吾「古代浪漫紀行 邪馬台国から大和王権への道」では邪馬台国北九州説を採りつつも邪馬台国東遷説が唱えられていました。248年頃卑弥呼が亡くなり、男王が立てられるも邪馬台国連合は治まらず内乱に陥り、卑弥呼の宗女(一族の女性)である13歳の台与が立てられやっと治まったらしい。祭政一致の社会で政治より祭祀の方が重要視されたためと思われます。その台与が266年頃、卑弥呼が魏に送ったと同様に魏に代わる西晋に使者を送るも冷遇され、内では狗奴国との争いが激しくなったことに危機感を募らせ、都が内地にある中国に倣い近畿地方への遷都を考えたらしい。
吉備国の協力を得ながら台与により邪馬台国が北九州からヤマトへ東遷したとする、平易でありながらわかりにくい黒岩先生の文章を読んでナットクした気分になっているものの、モヤモヤはやはり残ります。ひとことでは表現しようもないこのモヤモヤが古代史探求の面白さなんでしょうね。ちなみに箸墓の名も、倭迹迹日百襲姫が女性器に箸が刺さって亡くなったことに由来するというのが定説ですが、箸の普及は7世紀頃で3世紀はまだ手づかみで食事していたらしい。黒岩説ではハシは巫女の役割である神と人の間(ハシ)の意だそうです。
段築の側面では葺石がむき出しになっていました。1800年も前の人たちが積み上げたであろう葺石です。
「箸墓幻想」では平成12年に行われたその発掘調査の様子が描かれ、出土した画文帯神獣鏡が殺人事件のプロットになっていました。その画文帯神獣鏡は橿考研付属博物館で実物を見ています(リンク先写真左)。因みに「箸墓幻想」では平成12年に世間を騒がせた旧石器捏造事件もプロットになっているのですが、これ以上はネタバレになるので控えます。
井寺池下池の土手にやってきました。箸墓古墳の右手にホケノ山古墳が見え、その向こう側を奈良駅から折り返してきた221系が走っています。手前のビニールハウスの骨組みがうざいといばうざいですが、21世紀の人間の営みに囲まれた古代の遺跡に息吹が感じられます。アクロポリスなどには無い巻向の魅力とも言えそうです。
ぐっと引いたカット、中央に箸墓古墳、左手に二上山、右手のホケノ山古墳墳頂に人影が見えます。
そうめん屋さんが営業しているはずと巻向駅じゃなくて三輪駅に戻って来たのですが、ものすごい人出なのを忘れていました。営業しているお店は何軒もあったものの、まっすぐ駅へたどり着くと切符の自販機前に長い行列、普段電車を利用することが少なくICカードも持っていない人が多いようです。やってきたのは221系、さほどの混雑ではなく、ひと駅だけクロスシートに腰掛けて桜井駅に到着。
急行が行ったばかりでほぼ各駅停車と変わらない区間準急に乗車、2430系の何ともレトロな運転台です。このまま上本町まで帰ってもお店はほとんど休業なのが分かっているので、某駅で途中下車して、元旦でも営業していることが間違いないショッピングモールへ。悩んで選んだお店は大ハズレ、元旦から久しぶりに不味いメシとなりました。