ギリシャ 1981

いわゆる卒業旅行、1981年春です。

周りの景色から成田空港と分かります。東京の会社に就職は決まっていたものの、この時点ではまだ大阪に住んでいたのに、伊丹からじゃなくて成田からだったのはこの方が格安だったため。タキシングしている三発機はJALのDC-10、写真の左端に懐かしいPAN-AM機の尾翼が写ってます。

搭乗機はDC-10ではなくて、二周りくらい小さいDC-8、窓から見える機体番号から1968年就航の機体と分かります。エンピツのような細長い機体で通路は1本、エコノミークラスは両側に3席ずつ並んでいました。当時、モスクワ経由以外のヨーロッパ線はソ連上空を飛べなかったので、アンカレッジ経由の北回り便と、アジア各地で寄港する南回り便があり、北回りだと17時間くらい、南回りだと約24時間かかりました。その分南回りの方がぐっと格安だったものの、それでも物価上昇率や為替変動に関係なく現代よりずっと高くて往復15万くらいだったかと。

確か香港、バンコク、ボンベイと何度も寄港、その都度降機できて、入国はできないもののトランジットルームでわずかながらも色んな国の雰囲気に触れることができました。タイ語かヒンズー語ボトルのコカ・コーラを飲んだことを覚えています。

前回はアンカレッジ経由でKLMのB747でした。アンカレッジで降機して日系のおばちゃんたちがやっている立ち食いうどんを食べたことくらいしか覚えておらず、時間はかかっても南回りの方がずっと旅を味わえました。その後、シベリア上空をノンストップでパリやフランクフルトへ行けるようになり、ヨーロッパへの空路が線の旅から点の旅にすっかり変わってしまいました。

砂漠の中に石油プラントらしきが見えます。その向うはペルシャ湾。クェートに寄港すると、ターミナルビルの豪壮さにビックリ。

ダマスカスの街が見えますとのアナウンスを聞いた記憶があるので、2本の平行する白い山並みの手前はアンチレバノン山脈、奥はレバノン山脈のようです。

アテネ

24時間近いフライトを経てアテネに到着、さらに西へ向かうDC-8を降機、ギリシャに入国。

自分は寝台列車でも夜行バスでもほとんど眠れないのは今も変わっていません。ホテルにチェックイン後、時差ボケとフライト疲れで、アテネ中心部にあるシンタグマ広場でボーッと座っていたら、アラブ系のおっちゃんが、具合が悪いのか、と声をかけてきました。アスピリンをやるから付いてこいと言われ、人の良さげな感じがしたので、ふらふらと付いていったら、何やら怪しげなバーに案内されました。ここでやっとこれは怪しいと気付き、慌てて逃げ出したのがアテネの最初の思い出です。

アクロポリスの丘のパルテノン神殿です。

尖塔は、さんざんググってロシア正教会の鐘楼と分かりました。宿泊したホテルの窓から撮ったものと思われます。

街のおもちゃやさんのショウウィンドウ右下にリカちゃんが見えます。この旅から帰ったら勤務することになる会社の製品です。世界中で流通するおもちゃの多くがMade in Japanで、ギリシャの通貨はドラクマだった時代です。

カストリア

ギリシャ北部の町、カストリアへ向います。搭乗機はオリンピア航空のYS-11、日本の純国産機YS-11に乗ったのは後にも先にもこの時だけです。従妹のペンパルがギリシャにいて、せっかくだから訪ねてくれば、となったのがギリシャへやってきた話の発端です。

カストリア空港に到着、滑走路の外れにあるとてもターミナルビルとは思えない小さな建物まで、リアカーに載せられた受託荷物の後を付いて行き、空港から町までのアクセスはタクシーしかなくて、料金メーターの無いタクシーにドキドキしながら町へ着きました。

コブハクチョウが寛ぐオレスティアダ湖に囲まれたカストリアの町(地図)、紀元前200年頃にはもう存在していた町で、西へ約20kmでアルバニアとの国境、北へ約40kmで北マケドニア(訪問時はユーゴスラビアの一部)との国境です。つまり、まだ東西冷戦時代、西側の一番端っこだった地域です。

従妹のペンパルのお宅です。お伺いした際には、ペンパルさんは不在、英語が分かる人が誰もいなくて大変だったですが、それでも従妹がちゃんと連絡してくれていたようで、何とかなりました。失礼ながらお名前も覚えていないのですが、お父さんが古代から続くギリシャ人の誇りについて話してくれたことをうっすら思い出しました。

確か女性ばかりの四人姉妹で、翌日長女のペンパルさんと次女さんとのデートシーンです。お伺いした日はお母さんの手料理、翌日ランチを町のレストランでごちそうになったこと、40度の蒸留酒ウーゾを振る舞ってもらったこと、デミタスカップのエスプレッソをどろどろにしたようなギリシャコーヒーも記憶に残ります。

ギリシャではこういう祠のようなのをよく見かけます。「AΓ. KYPIAKH」は「聖なる日曜日」の意味のようです。現代ギリシャ語でも、Γ(ガンマ)のようにギリシャ文字が使われています。

オレスティアダ湖畔の自分、この当時いつも着ていたle coq sportifのダウンジャケット、元々スキーウェアです。

お世話になったペンパルさん宅を辞去、バスでテサロニキへ向います。聖書テサロニケ人への手紙のテサロニキ、ギリシャ第2の都市です。

写真の門はガレニウスの凱旋門、4世紀初頭のものです。若い人が多い大学町のテサロニキ、円筒形の建物は白い塔とよばれる町のランドマークで15世紀のもの。

エーゲ海

テサロニキからアテネへは鉄道で移動、ギリシャ国鉄の写真は1枚もありません。若い人たちがドカドカっと入ってきて、6人用のコンパートメントに8人でぎゅうぎゅうずめ、6時間ほどの旅がずいぶん窮屈でした。

アテネに戻りエーゲ海が一望できるスニオン岬まで出かけたようです。アッティカ半島の先端にポセイドン神殿。

翌日は待望のエーゲ海クルーズ、ミコノス島やサントリーニ島とか行ってみたかったけど、予算も無いので、近場のエギナ島、ポロス島、イドラ島を回る1dayクルーズ。

ピレウス港を出港、カモメ(カモメ科カモメ)が追いかけてきます。この頃から先々鳥見人になる兆しはあったようです。Wind is blowing from the Aegean 女は海〜♪と歌っていたはずです。

エギナ島の港の岸壁の上に建つ聖ニコラス礼拝堂です。もう1枚はどこか散々調べてみたら、同じ聖ニコラス礼拝堂の側面と分かりました。

2つ目の島はポロス島。丘の上の時計塔まで上ってきました。

時計塔近くにあるAgios Ioannis教会。丘の上から見下ろした船は乗ってきたクルーズ船かと。

ペロポネソス半島と狭い水路で挟まれているだけのポロス島、島の南端の小さな白い建物はTimos Stavros教会。

ポロス島の南端です。その沖に城壁だけのの小さな無人島が見えます。Bourtzi島と分かりました。ギリシャ語サイトですが、ページ翻訳すると、19世紀の城壁のようです。最近のGoogle翻訳はちょっと前と比べ物にならないくらいよくできてます。

3つ目の島、イドラ島です。自動車が禁止されていて、主要交通機関はロバ。

イドラ島の風車を間近からと、海から。

この項続く