橿考研
先週末行きそびれた橿原考古学研究所附属博物館へ。
奈良県には有力考古学研究機関が2つあります。ひとつはこれから向かう奈良県立橿原考古学研究所、愛称は橿考研。もうひとつは奈文研と呼ばれる国立奈良文化財研究所、国立文化財機構の傘下で平城宮跡の西大寺駅側に本庁舎があり、平城宮跡資料館の他に藤原宮跡資料館、飛鳥資料館を運営しています。橿考研は昭和13年、奈文研は昭和27年の設立、良いライバル関係にあるようです。
弥生時代
紀元前6,000年頃、中国長江下流域で始まった稲作は紀元前10世紀頃に九州北部に伝わり、その後本州北端にまで広がり、奈良盆地では紀元前500年頃の水田が見つかっています。縄文人と弥生人が交流する中、縄文ムラは弥生ムラへと変化していきます。
唐古・鍵遺跡から出土の農耕具と土木具です。
南郷遺跡群の木製品や土器、韓式系土器も見えます。南郷って聞き覚えあると思ったら、2年前の夏に訪ねてました。
南郷の集落のパネルでは金剛山の麓に広がった賑わいのある集落、2年前のブログでも書いたように1500年の変化は大きくないと感じさせられます。描かれた村人は皆わらじのような履物を履いていて、葛城が豊かなムラ(あるいはクニ)だったと伝わってきます。
さらに同じ葛城地方の寺口和田古墳群から出土の舟形埴輪、とても大和川を行き来する舟じゃなくて、遠洋航海用の形態です。葛城氏の広範な国際交流を伺わせます。
藤ノ木古墳
「速報陳列 国宝藤ノ木古墳出土品修理事業 修理完了遺物 特別公開」コーナー、法隆寺からほど近い藤ノ木古墳は2年前に訪ねています。古墳時代末期(6世紀第4四半期)の円墳、もう飛鳥時代が始まっているとも言えそうです。
被葬者はふたりで聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と宣化天皇皇子の宅部皇子の可能性が高いとされています。まずは藤ノ木古墳出土の国宝神獣鏡。
さらに国宝金銅製馬具。
国宝金銅製履(くつ)、近つ飛鳥博物館で見た金銅製沓レプリカの本物と言えそうです。これだけの国宝をひとりじめして間近で見られること自体に圧倒されます。
新沢千塚古墳群323号墳や272号墳の玉類、312号墳の六獣形鏡、178号墳から出土の鉄地金銅張馬具など、新沢千塚古墳群の出土品の数々。
5世紀は倭の五王の時代、横穴式石室、須恵器の生産、乗馬の風習、金属器の生産など多くの文物がこの国に流入、社会の仕組みが大きく変わり群集墳の出現もそのひとつ。群集墳は前方後円墳より小規模な円墳も、副葬品ではは引けを取らず、それまで古墳を作ることの許されなかった人々が新しい文化や文物を取り入れた結果である。6世紀に多く造られた群集墳は古墳としての個性には乏しいものの、木棺直葬だけでなく横穴式石室で構成される群集墳もあり、武器武具の副葬が多いもの、農具が多いものも見られ、群集墳の多様性理解が6世紀の社会を知るポイント。しかし6世紀末から7世紀初頭には群集墳は衰退、律令体制の確立を図るヤマト王権の意図の反映されている。と4枚のパネルで紹介されていました。
奈良時代の木製人形(複製)は歴史に憩う橿原市博物館で展示されていた籌木(ちゅうぎ、くそべら)と同じものではないかと。
奈良時代の絵馬の複製と復元、ようやく写実的で芸術的な絵画になってきました。
奈良三彩の器です。
重要文化財、古事記の編纂者である太安万侶の墓誌、1979年に奈良市内のお茶農家さんによる世紀の大発見です。休憩所で流されていた動画のダイジェスト版がYouTubeにアップされていました。
特別陳列「ミステリー小説のなかに考古学が登場する件」を見学、インディー・ジョーンズに始まって、松本清張の「万葉翡翠」「内海の輪」「笛壺」「火の路」を資料展示を交えて紹介しています。ちょうど松本清張古代史私注を読み終わったばかりで、次に何を読むか迷っていたところだったのでとてもタイムリーです。
さらに池澤夏樹の「キトラボックス」、和久峻三「大和路 鬼の雪隠殺人事件」、アガサ・クリスティ「メソポタミアの殺人」、秋月達郎「奈良橿原殺人物語、内田康夫「箸墓幻想」、有栖川有栖「海のある奈良に死す」、万城目学「鹿男あをによし」などを紹介。「鹿男」は読んだことがあります。早速Kindle版の「箸墓幻想」を購入、楽しみです。
神武天皇陵、橿原神宮
松本清張「古代史私注」で紹介されていた西域からシルクロードを経て平城京へ伝わった仮面舞踏、伎楽面の特別陳列が奈良国立博物館で22日までと分かり行ってみようかと思っていたのですが、もう今日の博物館は満足なので、神武天皇陵へ行ってみることにしました。
橿原神宮の南側にヒドリガモがいっぱいの深田池、推古天皇が作ったと伝わるそうです。狭山池でも推古天皇説がありました。意外と聖徳太子じゃなくて推古天皇自身が治水に関わっていたのかも知れません。
池の対岸を南大阪線の特急が通過。