葛城の道

前から行ってみたいと思っていた御所市高天にある高天山草園へ。たぶん民間運営の植物園で、ご自慢のエビネランの季節は終わってしまったものの、2年前や3年前のツィートを見ると、杉の深い森に咲くアジサイが魅力的です。

南大阪線の吉野行急行は殆どが橿原神宮前行区間急行に置き換えられたと聞いていたものの阿倍野橋9時台はまだ吉野行急行。

30分で尺土に到着、途中古市一駅しか停まらないのでなかなか快適です。左手上り3番線に停車中は橿原神宮前発の準急、その向こう4番線に御所からの2連が到着。

御所線も減便され日中はなんと30分ヘッド、でも9時台までは15分ヘッド、その最終便に間に合いました。

御所線の電車が引き込み線に入ると、3番線に準急を待たせたまま4番線に16400系2連の特急が到着、特急が出ていくと引き込み線から御所行が下り2番線に入線、遠景は二上山。周辺にコンビニもないものの退屈しない尺土駅です。

尺土から新庄の車窓、向かいに誰もいないので動画を撮ってみました。「しんじょう」は日ハムのビッグボスのように「しん」ではなく、「じょう」にアクセントがあります。

近鉄御所駅に着くと駅前にコミュニティバスのひまわり号が止まっていました。これに乗れば目的地近くまで行けるはずですが、やはり事前に調べてきた和菓子屋さんあけぼ乃でレンタサイクルを借りることにしました。ホームページでは1500円とある電チャリが1200円でした。涼しげな和菓子がいっぱい並んでいて帰りに買って帰りたいと思います。

まずは腹ごしらえ、近鉄御所駅裏のライフにマクドナルド、かつてダイエーでよく見たドムドムの雰囲気で、営業しているのか不安になったものの、営業していました。朝マックはやっていなくて、ダブルチーズバーガーのセット。マクドナルドといえばどこも若い客が中心ですが、殆ど高齢者の集会所状態、やはりドムドムの雰囲気が漂ってました。

目的地に到達せず

わかりやすい道を行くことにします。葛城山へ向かってまっすぐ進み、県道30号山麓線を南へ。最初は快適だったものの、だんだん急坂になってきて、電チャリのパワーモードでも登りきれなくなってきました。しかたなく自転車を下りて手で押して登ります。こうなると電チャリは重いだけです。以前近くを歩いた時はさほどの急坂とは感じなかったなかったせいで、事前にルートの勾配をチェックするのを完全に忘れてました。よほど引っ返そうかと思ったのですが、悔しいのでもう少し先へ進みます。

とても写真を撮るような余裕もなくなって30分も経ったところでサイロのある農産物直売所にたどり着き、以前ここに来たことがあることに気づきました。11年も前です。滝のように汗が流れてきます。水を買ってベンチで休憩しても息が整うまでかなり時間がかかりました。

先へ進みます。もうピーク近くまで来ているのではと期待しても、新しい視界が広がる度にまだ急な上り坂が続いていることにゲッソリ、を繰り返しました。写真の箇所には歩道があるものの概ね歩道はなく、あっても雑草で覆われています。サイクリングロードとの道路標識も立っていても、そこそこ通行量が多く自転車向きの道路とは思えません。ずっと自転車を漕がずに押していたのですが、電チャリは急坂で漕ぐより押した方がずっとキツイと気づいたのはもっと先に行ってからでした。

道路脇の田んぼにカブトエビ、まだ小さめです。カブトエビは今日の目的のひとつなので、これで満足して引き返そうかと思ったのですが、もう少し行ってみます。空にはハンググライダー。

山麓線から高天への分岐点に到達、ここで念の為Google Mapでルート検索してみると800mで112mもの上り坂と判明。平均斜度8°、この辺が潮時と判断しました。目的地に到達できなかったのはタンチョウを目指して出発するも飛行機が欠航した時以来です。

引き返し地点の写真を撮っておきます。もう葛城山の麓ではなく金剛山の麓です。正面は金剛山ではなくその手前に位置する白雲岳694m、古事記に伝わる高天原はこの辺りだそうです。

もう少しだけ山麓線を登り、前から行ってみたかった伏見池、ここを今日の折返し地点とします。9月にはヒガンバナが周囲を縁取る池で、その頃の景色はGoogle Mapでご確認を。歩道の無い山麓線のガードレール下、秋にまた来たくなるかはちょっと微妙です。

南郷、名柄

棚田に囲まれた坂道を下ります。田植えが終わった棚田も今日の目的です。ここからはほぼずっと電チャリの電源をオフにしてブレーキをかけるばかりです。

ヒバリが登場、ポーズをとるように冠羽を立て道路をひょこひょこ横断。

その様子を草陰からチェックしているのは冠羽のない♀。

今日の相棒、ヤマハのミナちゃんです。三角錐の山が白雲岳。足元の池ではギンヤンマが交尾中。

もう少し南、高鴨神社や細井の森湧水まで行ってみようかと思ったら下り坂が続いていて帰りが大変そう、やはり北へ引き返すことにしました。山麓線の山裾側を並行し所々葛城の道の案内板が立つ道を進みます。山麓線より通行量はずっと少なく勾配も緩やか、来る時もこっちの道を選ぶべきだったようです。

葛城の道を北上、見晴らしがいい場所に出てきました。道路脇に南郷遺跡群という案内板、周辺に葛城氏の遺跡が点々と存在していることが紹介されています。5世紀頃、難波宮と並ぶ日本の中心地だったのがこの辺りと言えそうですが、1500年以上この景色に大きな変化はなかったはず、とも感じさせます。

遠くに畝傍山が見えます。ほぼ北東の眺めです。畝傍山の南の方に飛鳥京が、その東側に藤原京が開かれる200年くらい前の様子に思いを馳せます。曇り空で良かったです。ドピーカンだと自分が完全に干上がってました。

案内板の下、舗装の隙間から伸びたセンニチコウ、ここではセンネンコウと呼びたくなります。

葛城の道は古い大きな民家が並ぶ集落に入りました。葛城の道と水越街道のジャンクションとして栄えた名柄村です。重要文化財の中村邸は見逃してしまったものの、樹齢数百年とおぼしきクスノキ(たぶん)の巨木が屹立した住宅に圧倒されました。この辺りでも勾配がかなり急なのがこの写真で確認できます。

葛城氏の始祖、葛城襲津彦が居を構えたのがここ名柄だったそうです。ここから水越峠を越え、当時の都、仁徳天皇の難波宮まで約40km、ということは水越街道は日本最古の官道とされる竹ノ内街道よりもさらに古い道だったといえそうです。集落を抜けた先の水草の繁茂した四角い用水池にショウジョウトンボがいっぱい。全然止まってくれなかったけど何とか写ってました。

一言主神社

一言主神社への参道です。日光のそれを彷彿とさせる杉並木の道に続くのですが、さっき通って来た山麓線の道路が杉並木の真ん中をぶった切っていました。司馬遼太郎街道をゆく第1巻では司馬先生、何を勘違いしたかこの杉並木を松並木と紹介しています。

司馬先生がここを訪ねたのは1970年。

ごく近い将来、建設省がやっている何とか国道がこれを途中でぶち切ってしまうよし。
二上山のほうからここを通って和歌山へゆく新産業道路ができるそうで、その道路ができれば葛城山麓の古色はまったくなくなってしまうであろう。

と司馬先生が懸念した何とか国道、あるいは新産業道路は奈良県道30号山麓線として完成してしまったものの、古色がまったくなくなったほどではないです。ところが今や京奈和道が開通してしまいました。ここ葛城付近の多くはトンネルになってそれなりに景観は保たれたものの、御所より北側は巨大な蛇のような高架道路が延々と奈良盆地を南北に貫いてしまいました。無論京奈和道で沿線がかなり便利になったことは間違いないかと。でもそれで失ったモノと比較して地域は豊かになったのかどうか。司馬先生が存命ならどんなに嘆いていたことかと。

杉並木外側の田んぼにオオシオカラトンボ。この田んぼの田植えはまだこれからです。

杉並木を抜けると2番目の鳥居、遠景は大和葛城山山頂付近です。鳥居の脇に蜘蛛塚とあります。2番目の鳥居から先もストリートビューで確認するとやはり松ではなく杉並木です。

石段を登ると本殿、その右手にも蜘蛛塚。蜘蛛塚とは蜘蛛の姿をした妖怪、土蜘蛛の棲み家とされるのですが、土蜘蛛とはヤマト王権に恭順しなかった土豪たちを意味しています。

社務所の前に立つ巨木は樹齢650年のムクロジ。

その奥、稲荷社の前に立つのは一言主命のライバルともいえる雄略天皇像、令和2年9月建立と最近立てられたばかりです。考古学的に実在がほぼ確定している最初の天皇とされるものの、日本書紀でも大悪天皇とされ、葛城氏を滅ぼし、葛城国をヤマト王権に臣従させてしまいます。葛城の人たちにとって賛否両論あった像かも知れません。

一言主命とともに狩猟を楽しむなど仲よさげにみえたものの結局大げんかの末に一言主命は葛城国から土佐に流されてしまいます。つまり葛城氏が滅ぼされ、多くの人々が土佐へ移住せざるを得なかったということを意味しているようです。現に土佐一宮の土佐神社の祭神は一言主命、司馬先生は一言主命に象徴される葛城氏の反骨精神が「土佐のいごっそう」として受け継がれ幕末明治の反幕運動や自由民権運動として花開いたといいたげです。とうとう坂本龍馬と葛城氏が結びつきました。

8世紀になって、この地方の政治を司っていた葛城氏に対し、祭祀を司っていた鴨氏の懇願により一言主命は、葛城氏の宮殿があったと思われるこの高台に戻ってきたものの、鴨氏の係累であるにも関わらず土俗の神々を否定し、新しい思想である仏教に傾倒していた役小角(役行者)にいじめぬかれ、たまりかねた一言主命が藤原宮の天皇に訴え出て、699年、役小角は伊豆へ流されます。その時に役小角は富士山に登り最初の登頂者になったそうですが、3年で許されて戻ってきた役小角に、一言主命は谷底へ蹴落とされてしまいます。

本殿の高台から一旦下りてきて、樹齢1500年の銀杏の巨樹があると街道をゆくで紹介されていたのを思い出し見上げるとそれらしき巨樹。

もういちど上がってみると樹齢約1200年と立て札があります。乳房のように垂れ下がった気根(空中に伸びた根)の姿から乳銀杏と呼ばれるそうです。司馬先生の1500年と300年の誤差は大きいです。1500年だと葛城氏を知っている可能性が高くなりますが、1200年だと平安時代になってしまいます。杉と松同様に司馬先生の勘違いか、あるいは司馬先生訪問時以降科学的に修正された可能性も考えられます。

九品寺、御所

一言主神社の北側から九品寺へのルートが案内されています。山道ですが、電チャリのコツが分かってきたので、チャレンジしてみます。

ハンゲショウです。田んぼを覗くと骨まで透き通ってみえるメダカたち、稚魚でしょうね。

ベニシジミです。どうやら道を間違って行き止まりになってしまいました。広めの道と狭い道の分岐点まで戻り狭い道を進むと普通にあぜ道、これも葛城の道です。

カブトエビです。イノシシよけの柵の紐を外して通り抜け、元に戻します。

空を旋回中はトビじゃないタカですが、何なのか分かりません。

畝傍山がかなり近くなってきました。画面を端から端まで京奈和道が横切っています。やはり醜悪です。

いまもう一度一言主命が奮い立ってこの道路計画をぶっこわしてくれれば大和の一角はかろうじて守れるのだが、そうはいかないであろう。建設省が役小角のごとき魔力をもっているのである。

街道をゆくで司馬先生が懸念した姿が現出してしまってます。

見覚えのある棚田に出てきました。この向こうが九品寺です。里山に似合うトラックは圧倒的にクロネコ、飛脚だとこんな長閑な雰囲気は出せません。

九品寺です。前回、ボーッと生きていいんだよというパンチの効いた標語が掲げられていた掲示板には何も標語はなく、山門左手に十徳園という回遊式庭園があるものの、殆ど手入れされていない様子。それでも金ピカの錦鯉が元気に泳いでいました。境内には人っ子一人いませんでした。

もちろんヒガンバナはまだまだ先ですが、コスモスがいっぱい咲いていてビックリ。

休耕田に大嫌いなソーラーパネルが並べられていました。京奈和道よりさらに醜悪ですが、最近漸く地主さんの心の隙につけ込むようなビジネスモデルが詳らかになってきたようです。

葛城川に沿って御所の町に入ると、とても趣のある町並みにビックリ、でも全然人がいません。自転車を返却するも、涼しげな和菓子を買うのを完全に忘れてしまっていました。駅周辺で営業中はこの和菓子屋さんの他には駅前のパン屋さんだけでコンビニもなく、プファーはできずグレープジュースで渇きを癒やしました。