新沢千塚古墳群

Google Mapを眺めていたら、でんぼ(おでき)が一面に広がったような不思議な場所を見つけました。新沢千塚(にいざわせんづか)という名前も存在も全く知らなかった古墳群で「歴史に憩う橿原市博物館」が隣接しています。

橿原神宮前駅から2kmくらい、バス便もあると分かり、急激に冷え込みが厳しくなったものの、行ってみることにしました。

大和八木で橿原線ホームに下りるとやってきたのは8A系、2回目の乗車です。

橿原神宮前に到着、22600系特急と並んだところです。

奈良交通運行系統図

バスの時間まで40分くらいあるので、古墳群の前にランチを済ませておくことにします。駅ナカのお店にもそそられたもののGoogle Mapで見つけた高評価な食堂にしました。橿原線と南大阪線に挟まれた橿原神宮前駅中央口を出て橿原神宮へ向かう道路沿いにかなり年季の入ったたたずまいのお店、11時半開店とあったのに、11時半ちょうどで既に男性客ひとりとカップル一組の先客、老夫婦が厨房を切り回しています。

テーブルに着くとやかんのままのお茶が出され、料理ができるまで時間がかかりそうな予感がしたので、早くできそうなオムライス650円にして、ちょっと急いでねと思わず余計なひとことが出てしまいました。

そのひとことを聞きつけた先客の地元の男性、電車の時間ですかと訊かれ、バスです、何時ですか、12時です、どこ行きですか、イオン行です、とかなりツッコまれ、間に合わなかったら私が車で送りますよとまで。正直に千塚古墳群へ行くことを告げざるを得なくなり、さらに自分の年まで訊かれ、自分より少し年上と分かった男性に、髪も黒いし若く見えますねとお世辞を言うと帽子をとってハゲ頭を披露してくれました。京都からというカップルも自分がバスに間に合うか心配してくれるも、心配した通りオムライスはなかなか出てこず、焦る気持ちにまだ卵を溶く音が聞こえてきて、漸く出てきたのは11時50分。

バスの時間は少しサバを読んでいたし、中央口まで戻らなくても、ちょっと先に隣のバス停があるとも分かったので余裕でオムライス完食でした。あと二組も入店して満席、なかなかの人気店です。

南大阪線の踏切を渡って少し歩いたところに久米寺前バス停、路地の奥に久米寺が見えます。昭和15年の皇紀2600年祭の際にそれまでの久米寺駅が大改装されて橿原神宮前駅になっています。

バス停に掲げられていた運行系統図を見ると、33系統のバスは橿原神宮前駅中央口発で久米寺前を経由して橿原神宮前駅西口へ回りイオンモール橿原へ向かっています。久米寺前からは近鉄御所行もあります。

運行系統図の一番下に100ぐらいのバス停がずらりと並んでいます。右端の終点は新宮駅、有名な日本一長距離路線バスの奈良交通301系統ですが、橿原神宮前は経由せず、イオンモール橿原、高田市駅、近鉄御所駅、風の森、五條バスセンター、十津川村役場を経て6時間半を掛け新宮駅です。

やまかぜという観光特急便の紹介も、新宮行3便のうち土日祝日の1便は山中の大半のバス停は通過、他の2便より30分ほど早く着くようです。大淀バスセンターから洞川温泉の路線も見えます。さらに欄外の線の色がかすれてしまった路線は季節運行のイオンモール橿原発の大台ケ原行。広大な奈良県南部のバス路線がびっしり凝縮された見飽きない運行系統図です。

イオンモール橿原行きのバスには余裕で間に合いました。

新沢千塚古墳群公園

シルクの杜バス停で下車、道路の向こうの建物がシルクの杜、ミズノが運営しているスポーツジムで、公園全体の管理をミズノが受託しているらしい。正面は大和葛城山。

道路を渡り公園に入るも人っ子ひとりいません。新沢千塚古墳群公園(PDFマップ)の西の端に位置する173号墳と二上山です。

173号墳の説明板によると、直径14m、高さ3.5mの5世紀後半の円墳で横矧板鋲留短甲や細線文獣帯鏡が出土。

送電線の鉄柱が目障りですが金剛山の上半分は真っ白。

600余りもある墳丘で番号や説明が掲示された古墳はごく一部、殆どは墳丘がびっしり無秩序に並んでいるばかりです。

向きを変えて東(マップの下)へ向かいます。

直径18m、高さ3mの円墳の115号墳、五鈴鏡や二神三獣鏡、甲冑一式や盾、鉄刀が出土し被葬者は武人と推定されるそうです。

日が差して来て畝傍山が美しく輝き出しました。手前に塔のようなものが2本立っているのは、田んぼに塔が立っているのではなく公園の柵らしいと分かるまで結構悩みました。

新沢千塚古墳群の目玉、126号墳です。22m×16mの方墳で高さ1.5と周囲と比べて平べったい古墳も、ペルシャからシルクロードを経て渡来したらしい瑠璃色のガラス皿などの副葬品が多数出土しています。

新沢千塚古墳群は5世紀末から6世紀末までの造営が中心で多くは石室がなく刳り抜き式の木棺がじかに埋められていたようです。6世紀前半から7世紀中頃の一須賀古墳群と時代的には被っているものの多くは石室に棺が収めれていたのとかなり様相が異なっています。和泉山脈を挟んで直線距離で12kmほどしか離れていないのにこの違いが何なのか、調べてみる価値がありそうです。

墳丘を縫うようにクネクネ道が続いています。

動画で360°回してみました。まだカメラを回すのが速すぎるようです。

最東端の139号墳、5世紀後半の方墳です。

ビューポイントのウッドデッキから畝傍山。

正面に音羽山の経ヶ塚山。西へ引き返すと金剛山、寒そうです。

誰もいない古墳に囲まれたクネクネ枯葉道を戻ります。古墳に生えた見目好い大木。

少し青空が広がり紅葉が映えます。左手が126号墳、正面が115号墳、ここを右へ道を取ると麓の池にカモのタケノコ。

航空写真で一面にでんぼが広がっていた場所です。池のカモはハシビロガモでした。

81号墳です。6世紀中頃の前方後円墳だそうですが、発掘調査以前に既に掘り起こされてしまっていて、前方後円墳の形を成していないようです。それでも鉄刀や須恵器が出土しています。

杉林になった古墳の向こうに畝傍山。

石垣に囲まれた道に出て来ました。PDFのマップにも何も案内が無いものの、戦国時代の砦の跡かもと思ったのですが、整備されすぎていてたぶん違っているかと。

最初に歩いた173号墳の下あたりを歩いています。隣接する橿原市クリーンセンター(ごみ処理施設)に沿った道をぐるっと回って歴史に憩う橿原市博物館に到着。1時間ほど新沢千塚古墳群を歩き回って出会ったのは僅かに3人ほどだけでした。

歴史に憩う橿原市博物館

常設展示場に入ると縄文時代の展示から始まります。観音寺本馬遺跡(現在地から南東1km付近)から出土した磨製石斧や曲川遺跡(イオンモール橿原付近)から出土の縄文土器の深鉢、いずれも約3千年前のものです。

壁には縄文時代の生活風景、強力な支配者もいなくて、税金も社会保険もなく、楽しげです。左下は新堂遺跡(浮孔駅付近)から出土した舟を漕ぐ櫂、壁に描かれたコサギやマガモがいる川は曽我川のようです。その右は曲川遺跡出土の土偶や腕輪。

千年が経ち弥生時代です。壁は手斧を使って稲穂を刈り取る収穫風景。右隅に展示された鍬やスコップは余計かと。

弥生土器には須恵器も含まれて厚さも薄くなってます。稲作が普及し人々の定住化が進み生活は安定するものの貧富の差が拡大、ムラの有力者が豪族となり少数の支配階級と大多数の非支配階級に分化、暮らしにくい世界にもなってきたはずです。

さらに5百年が経ち新沢千塚とその時代です。

ほうきのような何か、と思ったらずばり箒、新堂遺跡から出土した5世紀の日本最古の箒だそうです。縄文時代の遺物も出土している新堂遺跡、橿原市新堂町付近では紀元前2000年頃から現在に至るまで人々の暮らしが連綿と営み続けられていると分かります。

四条遺跡(畝傍山の北)から出土の琴と机の一部、南山古墳(橿原市昆虫館付近)から出土の管玉。

新沢千塚272号墳から出土の金環、銀製空玉(うつろだま)、勾玉、管玉、刀子、鎌。

新沢千塚126号墳から出土の熨斗(重要文化財のレプリカ)、フライパンのように見えますが、アイロンです。古代の人も服のシワは気になっていたと分かります。

東京理科大による蛍光X線分析で、ローマ帝国領内で出土したローマンガラスと化学組成が一致することが判明したガラス皿とガラス椀のレプリカ、重要文化財として実物は東京国立博物館蔵。ローマ帝国伝来と裏付けられた初めての日本国内出土品だそうです。

これは夢が膨らみます。もうすぐクリスマスですが、7世紀頃に古代キリスト教の一派ネストリウス派が中央アジア、モンゴル、中国に伝わり、唐代に景教と呼ばれています。ガラス皿だけでなく、旺盛な好奇心と使命感から海外の知識や考え方を吸収しようとしていた遣唐使が景教を知らなかったとは考えにくく、ザビエルより800年も前にキリスト教が日本に伝来していた可能性がありそうです。詳しく勉強したい課題になります。

新沢千塚126号墳の埋葬施設と副葬品の展示、瑠璃色のガラス皿が頭のすぐ横に置かれていて被葬者ににとってとても大切なモノだったことが伝わります。

金製歩揺の復元模造品、やはり重要文化財で東京国立博物館蔵。髪飾りあるいは帽子の飾りのようです。

126号墳出土の金製指輪の復元模造品。精緻な細工が施された116の指輪をクローズアップ。

金製龍文方形板、金製螺旋状髪飾り、金製垂飾付耳飾。115の金製垂飾付耳飾のクローズアップ。

126号墳の被葬者は渡来人とする説が強いようですが、渡来人の女性がやってきていたとは考えにくく、また渡来人よりも豪族の方がずっと裕福だったとはずで、渡来人にルーツのある蘇我氏とかの豪族の女性ではないかという気がします。

新沢千塚古墳群と126号墳紹介のパネル。航空写真上の黄色い点はすべて古墳、新沢千塚の密集度がすごい。すぐ南側には鳥屋ミサンザイ古墳や桝山古墳といった巨大前方後円墳もあります。

新沢千塚古墳群造成の様子、円筒形埴輪を並べているところです。

自分以外だ〜れもいない常設展示場です。

時代は200年経ち飛鳥時代、飛鳥宮や近江大津宮をすっ飛ばして橿原市内にあった藤原宮です。橿原市と明日香村のセクショナリズムを少し感じさせます。

日本最初の都市、藤原京。新沢千塚古墳群が藤原京条坊制の外に位置していたことが分かります。

藤原京から出土した7〜8世紀の碁石です。囲碁の発祥は4000年前の中国で、春秋戦国時代に戦略、政治、人生のシミュレーションゲームとして広まったそうです。

藤原京から出土の高貴な人の籌木(ちゅうぎ)だった銅製人形です。籌木は別名クソベラ、一般の人は木製人形だったそうです。

籌木でこそぎ落としたモノの元となった藤原京の人々の食事です。

さらに奈良時代から江戸時代までがさらっと紹介されていて最後は今井町、さほど広くないスペースで縄文時代から今井町に至るまで、多くの出土品を交え橿原の通史が学べるようになっている秀逸な博物館です。

伊勢の歴史の特別展を開催中もパスしてバス停に戻ると10分ほどで次のバスが来ると分かりました。道路を挟んだ南側にも新沢千塚古墳群が広がっています。暖かくなって花や虫が賑やかな頃にレンタサイクルで再訪したいと思います。

クロスシートで橿原線

橿原神宮前駅に戻ってきました。畝傍御陵前駅から近い橿原考古学研究所附属博物館へも行ってみたかったのですが、もう3時なので機会を改めることにしました。駅ナカに立ち飲みができているのを見つけ入ってみました。

橿原の地酒「御代菊」の日本酒バーです。熱燗を注文するとお銚子に温度計を突っ込んでお燗、ちょっと待たされたものの出てきた熱燗の絶妙な温度にビックリしました。アテはきゅうりの奈良漬。続いて本醸造生原酒とサバのへしこ。

2番線には8A系の京都行急行、後から気がついたのですが1番線の向こう0番線に電車が停まっています。0番線は確か狭軌だったはず、停車中に電車の車番が66で始まっていて南大阪線の車両です。これから標準軌の台車に履き替えてモト90形に挟まれて五位堂へ回送、検査を受けるものと思われます。

3列しかないクロスシートで視界が広がる真ん中の列に腰を下ろすと、3番線にも8A系の大和西大寺行普通が入線してきました。8A系は既に少なくとも7編成が導入され、奈良線よりも京都線橿原線メインで運用されているようです。

クロスシートで橿原線は初めてなので、八木ではなく西大寺経由で帰ることにしました。まだ4時前なのに大和葛城山の向こうに日が沈みます。

郡山の金魚畑です。

郡山城と垂仁天皇陵です。反対側に座っていたら、若草山や薬師寺の東塔西塔、西大寺の車庫が眺められたはず。

西大寺駅ナカの豊祝でハシゴ、アテは粕汁。

ええ塩梅になって久しぶりに展望デッキから撮り鉄。