吉備のみち(後編)
承前、造山(つくりやま)古墳ビジターセンターにいます。
造山古墳の立体模型、陪塚が6基もあります。被葬者の名は不明ですが、大和王権に拮抗する勢力を持っていた吉備国の大王と推定されます。
古墳時代中期(5世紀前半)の築造、仁徳天皇陵より少し前で、築造時は全国最大規模だったことになります。案内板のQRコードでドローン撮影の造山古墳の空からの様子を見ることができます。
北東方向へ視線を移すと、遠くの山のてっぺんに建物。見たかった鬼ノ城(きのじょう)西門(復元)です。
現在地の造山古墳後円部墳頂から7kmほどで標高397m、7世紀後半に白村江の戦いに敗れた大和王権が唐・新羅連合軍の侵攻に備えて築いた山城で日本百名城のひとつ。大和王権が山城を築く前は、吉備津彦(桃太郎)と戦った温羅(鬼)が棲んでいたとも伝わります。
鬼ノ城へ至る山道の入口にビジターセンターがあり、そこまでクルマで行けるものの、対向車があればビビるような道で、慣れないレンタカーではヤバそうなので、訪ねるのは端から諦めていたものの、せめて遠望できればと思っていたのがバッチリ確認、それも造山古墳の墳頂から確認できたのは感動です。
復元された西門の他、多くの遺跡が出土していて、山上を周遊できるようになっています。若一調査隊が吉備津神社を訪ねた後、鬼ノ城山山上の険しい道を歩いてレポートしてくれていて、1400年も前によくぞこんな鉄壁の要塞が築かれたものと驚かされます。いずれチャレンジしてみたい。
前方部の説明板に詳細な地形図。前方部の裾が広がっておらず、今城塚古代歴史館で学んだ古墳時代初期から中期の特徴と合致しています。
前方部に立つ荒神社、神社なのになぜか鐘楼があります。
吉備の中山をバックに吉備津神社の本殿。手前に見える銅像は当地出身で五一五事件の凶弾に倒れた第29代内閣総理大臣・犬養毅。その遠祖は吉備津彦命に従った犬飼健命、やはり桃太郎伝説に関連しているようです。吉備津神社の社号標は犬養毅の揮毫。
コサギが道をとうせんぼしてました。
岡山駅前商店街にショッピングモールが新しくできていました。
商店街のアーケードを抜けると西川緑道、この辺りでコウモリに会ったのを思い出しました。
カバヤ・オハヨー本社ビルの上にムクドリの大集団がまるでひとつの生物のように舞ってました。同じような景色を6年前に広島駅前で見ています。
お土産はもちろんきびだんご。
APPENDIX
古代史を存分に体感できる吉備のみちサイクリングでした。
吉備津神社や吉備津彦神社に祀られ、桃太郎のモデルとされる吉備津彦命は第7代孝霊天皇の皇子、同母姉妹が箸墓古墳の被葬者に比定され倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、=卑弥呼との説も有力です。つまり卑弥呼と桃太郎は姉弟だったということになります。これぞ存分に想像をふくらませることのできる古代史探訪の真髄かと。
吉備津彦命や温羅は造山古墳から遡ること200年も前の物語です。そして1600年前の造山古墳から眺めた1400年前の鬼ノ城、いささか頭が混乱したものの5世紀を基点としたタイムトラベルを堪能できました。
もうひとつ、桃太郎の鬼とされる温羅は、大学の後輩で大相撲入門時からずっと応援している宇良と読みが同じ、宇良といえばピンクのまわしがシンボル、風貌も桃太郎ぽいので何か関係するのかと調べてみたものの、宇良という姓は沖縄発祥らしく、特段関係はなさそうです。