吉備のみち(後編)

承前、造山(つくりやま)古墳ビジターセンターにいます。

造山古墳に登る

ビジターセンターのベンチに座って造山古墳を眺めています。電柱の向こうの木立が墳丘の後円部。

足元のタイルで造山古墳の紹介、全国4番目に大きい前方後円墳で、墳丘に自由に立ち入ることができる全国最大の古墳です。この墳丘に登れる最大の古墳というキャッチフレーズに惹かれてここまでやってきた次第。

造山古墳の立体模型、陪塚が6基もあります。被葬者の名は不明ですが、大和王権に拮抗する勢力を持っていた吉備国の大王と推定されます。

古墳時代中期(5世紀前半)の築造、仁徳天皇陵より少し前で、築造時は全国最大規模だったことになります。案内板のQRコードでドローン撮影の造山古墳の空からの様子を見ることができます。

大切に育てられているダリアを見て墳丘への道をたどります。

階段を登り、前方部にたどり着くと、墳丘上を後円部へ道が続いていました。

前方部の林には神社。後円部へ向かって墳丘が縊れているはずが意外と幅広です。

後円部斜面は発掘調査中。急な階段を登り後円部墳頂にたどり着くと発掘調査の人たちがお昼休み中でした。造山古墳の発掘調査は2015年頃から本格化したばかりで、石室の主の遺体や副葬品が手つかずで残っている可能性もあるらしい。

墳丘の向こうは海のような田園が広がっています。

北東方向へ視線を移すと、遠くの山のてっぺんに建物。見たかった鬼ノ城(きのじょう)西門(復元)です。

現在地の造山古墳後円部墳頂から7kmほどで標高397m、7世紀後半に白村江の戦いに敗れた大和王権が唐・新羅連合軍の侵攻に備えて築いた山城で日本百名城のひとつ。大和王権が山城を築く前は、吉備津彦(桃太郎)と戦った温羅(鬼)が棲んでいたとも伝わります。

鬼ノ城へ至る山道の入口にビジターセンターがあり、そこまでクルマで行けるものの、対向車があればビビるような道で、慣れないレンタカーではヤバそうなので、訪ねるのは端から諦めていたものの、せめて遠望できればと思っていたのがバッチリ確認、それも造山古墳の墳頂から確認できたのは感動です。

復元された西門の他、多くの遺跡が出土していて、山上を周遊できるようになっています。若一調査隊が吉備津神社を訪ねた後、鬼ノ城山山上の険しい道を歩いてレポートしてくれていて、1400年も前によくぞこんな鉄壁の要塞が築かれたものと驚かされます。いずれチャレンジしてみたい。

後円部墳頂から前方部の眺めです。稜線から両側に同一角度で傾斜していて自然の山ではないことが分かり、墳頂に円筒埴輪がびっしり並べられていた様子を想像してみます。

墳丘からビジターセンターを見下ろすと、水色の看板の右手に今日の相棒のレンタサイクルが見えます。

前方部の説明板に詳細な地形図。前方部の裾が広がっておらず、今城塚古代歴史館で学んだ古墳時代初期から中期の特徴と合致しています。

前方部に立つ荒神社、神社なのになぜか鐘楼があります。

近くの別の古墳から運ばれてきたとも造山古墳前方部から出土したとも伝わる刳りぬき式舟形石棺が置かれています。阿蘇溶結凝灰岩製で九州とも交流があったことを証明しています。九州だけじゃなくて中国や朝鮮半島とも交流があったことは間違いなく、大和王権よりも地理的に有利、その繁栄ぶりが感じられます。

荒神社の石積の上にロープで囲まれた四角や円の出っ張りのある巨石が2つ。石棺の蓋も置かれているとの情報があったものの蓋には気付かず、この巨石についての情報は得られませんでした。

荒神社の後ろには本殿らしき祠。神社の由緒はわかりませんが、せいぜい江戸時代後期か明治かと。でも当時も太古の吉備の王が眠る場所として知られていて、そこに住む村人の素朴な誇りが感じられます。

前方部南側へは登ってきた道とは別の石段が続いていたのですが、手すりがないので来た道を辿ります。

ビジターセンターに戻ってきました。金色の像は造山古墳の被葬者と推定される吉備の大王をイメージして設置されたもの。古代吉備の象徴として造山古墳(5世紀前半)を大切に思う地域の人々がここに建立する、とのプレートが取り付けられていました。

ビジターセンターの中に入ってみます。

小さな建物で館内は出土品とかの展示は無いものの、パネル展示がとても充実、1.吉備ができるまで、2.弥生時代の吉備の実力、3.吉備と邪馬台国、4.吉備の古墳時代、5.造山古墳の時代、6.吉備の名は、7.桃太郎伝説と造山古墳、と知りたいことが簡潔に分かりやすくまとめられていました。特に3で吉備は、大和の邪馬台国次ぐ大国であった、(魏志倭人伝に記述された)投馬国ではないかという考察はとても興味深い。全体に地元愛に溢れたパネルです。

ほぼ同時期に築かれた造山古墳と履中天皇陵の比較と、「岡山市説」造山古墳に眠る王者の正体のパネル。大和と匹敵する勢力があるものの大和と融和する立場だったいう説を採っています。

しかしながら日本書紀に吉備の反乱が記述されており、結局吉備は大和王権に敗れ、その結果分国されたはず。大和王権が同等の勢力に対して融和策をとったとは考えにくいです。

「やっと出会えた、桃太郎」のパネルには知らかなかった見どころがいっぱい。特に9番の弥生時代の楯築遺跡は吉備津彦以前の吉備が感じられるはずで訪ねてみたい。パネルの下隅には「鬼は本当に悪者?」とあります。

チョウゲンボウ

上空を東から西へしきりに飛行機が通過して行きます。そのウチの1機を撮ってみると見たことのない小型機、国土交通省セスナ525サイテーションジェットと分かりました。

満足して引き上げます。来る前に鬼ノ城の見える血吸川(吉備津彦の矢が当たり温羅の目から吹き出した血で染まったことに由来する川、血の色は酸化鉄で、弥生時代から吉備で鉄器が普及し栄えていたことを連想させる)のポイントにマーカーを付けていたのですが、墳丘の上から鬼ノ城をしっかり見ることができたので、このまま来た道を引き返すことにします。

足守川の土手を走っていると倉敷市に入ったものの数百メートルだけで岡山市に戻っていました。

広大な田園地帯のサイクリングロードも真っ直ぐな一本道だけではないものの、分岐やカーブの度に「吉備路」と舗装に案内されているので迷うことはありません。

吉備の中山をバックに吉備津神社の本殿。手前に見える銅像は当地出身で五一五事件の凶弾に倒れた第29代内閣総理大臣・犬養毅。その遠祖は吉備津彦命に従った犬飼健命、やはり桃太郎伝説に関連しているようです。吉備津神社の社号標は犬養毅の揮毫。

コサギが道をとうせんぼしてました。

細谷川というか細い流れに架かった両国橋という小さな橋、ここが備中と備前の国境です。現在の市境は概ね足守川に沿っていて、この両国橋ではありませんが、岡山の人に備前岡山と備中倉敷は仲が悪いの聞いたことがあります。駿河の静岡、遠江の浜松と同じかと。

踏切の音が聞こえ振り返ると、来る時に自転車を押して登ってきた坂道の下にキハ。

自転車に向かって小さめの猛禽が飛んで来ました。自分の頭上を通り過ぎて振り返ると電柱の上に止まってくれたもののあっちを向いたまま。

飛び立ったもののぐるっと辺りを旋回して近くの電線に止まってくれました。ノスリかと思ったらチョウゲンボウです。

踏切が鳴り出しました。キハが通ると逃げるかと思ったら電線にじっとしたまま。実に久々の鳥鉄成立です。

田んぼの向こう側の線路際の道路に移動してもう1枚。

備前一宮→岡山

吉備津彦神社まで戻ってきました。男子トイレの「彦」は男子に対する美称、女子トイレは「姫」。

もう1箇所、岡山県古代吉備文化財センターを訪ねたかったのですが、吉備津彦神社じゃなくて吉備津神社に近く、行き過ぎていると気付き諦めました。後で調べると吉備の中山山中にあって、吉備津神社から1kmも10%の勾配が続く道と分かり、サドルのお尻が痛くなった体力では無理だったようです。

次のキハまで30分以上あるもののレンタサイクルを返却、今日の相棒だった3段変速ママチャリを撮っておきます。

吉備の中山観光案内図には遺跡や古墳など観光地がびっしり、宮内庁により吉備津彦の墓に治定されている中山茶臼山古墳もありますが、レンタサイクルではしんどいかと。

まずまずの本数が運行されている桃太郎線です。

ICOCA対応の自動改札機が設置されていてチャージもできます。

駅のホーム脇には何と石棺の蓋、石棺がある駅は全国でここだけかと。吉備の中山山中にある石舟古墳からの出土、この説明板にも6世紀には吉備の中山の周囲は海に囲まれていたと記されています。石舟古墳は中世には温羅の墓と考えられていた古墳で、右隅に温羅らしきイラスト。桃太郎だけじゃなく鬼も人気の岡山です。

棒線駅ですが、向こう側にもホームが残されていて、かつては行き違い可能駅だったことが分かります。

前照灯を光らせた岡山行のキハがやってきました。

発車と到着の度にも〜もたろせん、ももたろせん、のジングル。観光客にはいいけど地元の人たちにはちょっとうざいかも。

両端の2ドアの間は超ロングシート、座れたけど満席でした。こちらが到着するや否や津山行のキハ120の2連が発車。

キハ40を真横から。

東口の工事は岡山駅前広場への路面電車乗り入れ整備工事、高知駅のように駅ビルの真ん前まで延長され、工事が終わると桃太郎像は戻ってくるらしい。

岡電MOMOが広告電車になっていました。

朝ドトールのモーニングの小さなサンドイッチを食べただけで、田んぼの中のサイクリングロードではコンビニも蕎麦屋もなかったので、さすがにお腹ペコペコ、お店を探します。出張の時、よく回数券のバラ売りを買っていた金券屋さんがあったあたりは完全に更地になって巨大クレーンが立ってます。

岡山駅前商店街にショッピングモールが新しくできていました。

商店街のアーケードを抜けると西川緑道、この辺りでコウモリに会ったのを思い出しました。

新しいモールで見つけた焼肉やさんに決めました。「ちょうどいい定食(200g)」にすると何種類の肉なのかもよく分からない色んな肉の盛り合わせ、後ろの列は豚ロースとか豚肉、前列は牛肉で左端は牛丼のバラ肉のみたい、とても200gとは思えないボリュームです。

牛バラ肉のような焼肉は初めてですが、意外と美味い。生たまごがついてきてそれに浸けるとすき焼き風になります。岡山式焼肉の食べ方なのかこの店独自なのかは不明です。

カバヤ・オハヨー本社ビルの上にムクドリの大集団がまるでひとつの生物のように舞ってました。同じような景色を6年前に広島駅前で見ています。

お土産はもちろんきびだんご。

APPENDIX

古代史を存分に体感できる吉備のみちサイクリングでした。

吉備津神社や吉備津彦神社に祀られ、桃太郎のモデルとされる吉備津彦命は第7代孝霊天皇の皇子、同母姉妹が箸墓古墳の被葬者に比定され倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)、=卑弥呼との説も有力です。つまり卑弥呼と桃太郎は姉弟だったということになります。これぞ存分に想像をふくらませることのできる古代史探訪の真髄かと。

吉備津彦命や温羅は造山古墳から遡ること200年も前の物語です。そして1600年前の造山古墳から眺めた1400年前の鬼ノ城、いささか頭が混乱したものの5世紀を基点としたタイムトラベルを堪能できました。

もうひとつ、桃太郎の鬼とされる温羅は、大学の後輩で大相撲入門時からずっと応援している宇良と読みが同じ、宇良といえばピンクのまわしがシンボル、風貌も桃太郎ぽいので何か関係するのかと調べてみたものの、宇良という姓は沖縄発祥らしく、特段関係はなさそうです。