磐余の古墳めぐり
古代ヤマト王権の中心地だった磐余(いわれ、桜井市の安倍文殊院周辺)の古墳めぐりへ。
桜井駅南口の絵都蘭世、茶粥モーニングに間に合わず茶粥ブランチ。お値段はモーニングの倍近いのですがおかずがかなり多くて、おかゆの量も多いような気がします。食後のコーヒーはブレンドじゃなくてストレートコーヒー。今日の豆はパプアニューギニア、初めての味ですが、口に含んだ時の独特の香りが素晴らしい。ふだんコーヒーにはお砂糖とミルクも入れるのですが、ブラックで。ほんのりとした甘さを味わいました。
空地からだと三輪山が巨大前方後円墳のような形に見えます。
くびれ部のフェンスが空いていてここから墳丘へ登れるようですが藪漕ぎは必須と思われやめておきます。大和の古墳チャンネルさんの動画で見学通路が確保された時に、ここから墳丘へ登った様子が紹介されていました。同じ動画で2009年に実施された発掘調査の現地見学会の様子も紹介されています。「めったと見れない、巨大前方後円墳の埋葬部を目の前にして、例えようもない感動を覚えました。」とコメントされた後円部の竪穴式石室は埋め戻されており、熊笹が生い茂り近づけないとのこと。
前方部に出ると奈良県教育委員会の説明板、後円部の説明板より詳しく、王様の象徴のような玉杖も出土しているとのこと。検索すると王杖は橿考研じゃなくて国立歴史民俗博物館蔵らしい、万博公園のみんぱくかと思いきや千葉県佐倉市です。橿考研ではここから出土の木棺が付属博物館中庭に面したところに展示されていたのを見た記憶があるものの写真を撮っていませんでした。
説明板には4世紀前半を下らない時期の造営とあり、橿考研のページによると、どうやら3世紀後半で、箸墓古墳の後、西殿塚より前あるいは同時期と見られているようです。
さらに2023年11月の橿考研の講演では桜井茶臼山古墳から103面以上の銅鏡が発見されたことで「邪馬台国が北部九州か畿内かといわれているが、3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった」と衝撃的なコメントが述べられています。その王権とは誰なのか、初代神武天皇(磐余彦尊 - いわえびこのみこと)のモデルとなった王の可能性があるらしい。
前方部から国道165号を東へ100mほどのところに外山バス停、Tobiとローマ字表記されていて、1日3〜4本大宇陀行が運行されているものの次は16:39の最終です。桜井茶臼山は外山茶臼山とも呼ばれていて、磐余同様に曰く有りげな地名です。能や猿楽に関連するとまでは分かったものの古代史との関連はよく分かりませんでした。
後円部の東側を回ると奈良県教育委員会の説明板が倒れていました。一見サビサビのようで錆色に白抜き文字でよく読めみとれます。全長230m、後円部高21m、高さは無いものの全長は桜井茶臼山古墳と大差なく、やはり3世紀末〜4世紀後の築造。後円部頂に矩形にめぐる埴輪列が検出され、この方形区画内に竪穴式石室が存在、と説明されていて。橿原考古学研究所付属博物館のパネルで紹介されていた通りです。この矩形にめぐる円筒埴輪列で最大のものは2.4mもあり、現在九州国立博物館の「特別展はにわ」に出張中です。
円筒埴輪に囲まれていた石室の8石の天井石は後円部墳丘に登ると確認できるらしい。さっき前方部から後円部へは進めなかったものの、後円部東側から藪漕ぎすれば登れそうな道があるようです。
錆色の説明板には桜井茶臼山古墳同様に玉杖も出土とあります。初期ヤマト王権の大王墓と見られる大型前方後円墳はいずれも3世紀後半頃、箸墓→西殿塚→桜井茶臼山→メスリ山の順の築かれたようです。
間近に見える美しい山は音羽山852m、中腹にある音羽山観音寺を舞台とした「やまと尼寺精進日記」は慈瞳副住職と手伝いのまっちゃんが下山したことにより2024年に終了してしまったものの、YouTubeに公式チャンネルが開設され毎月2〜3本の動画が配信されていると分かりました。密榮住職はテレビの頃と全く変わらず元気なご様子で何より。
石舞台ならぬ土舞台の道標、次の目的地も同じ方向です。
国道165号沿いの食堂を楽しみにしていたのですが残念、「しばらくの間休業します」と掲げられていました。Google Mapにアップされた写真を見てみるとよだれが出てきます。
趣きある街道に出て来ました。奈良盆地を東西に貫く古代からの街道の横大路です。桜井駅に戻ってくると、やはり三輪山が巨大前方後円墳に見えます。
もう3時半を回っているのですが、もう少し古墳めぐりを続けます。目的地は磐余ではなくなるので項を改めます。