磐余の古墳めぐり

古代ヤマト王権の中心地だった磐余(いわれ、桜井市の安倍文殊院周辺)の古墳めぐりへ。

伊勢中川行急行2両目トイレ前のボックス席をゲット。1972年製の2610系、かなりボロいですが、昔ながらの旅気分を楽しめる6両編成で1箇所だけの席です。河内国分で前の席に女性ふたりが腰掛けると肩がくっついてました。おそらく国鉄急行型キハ58系や近郊型113系などのボックス席より狭く、同様に裾絞りのない車体のキハ20系同等ではないかと。

イマドキのバリアフリートイレの半分くらいしかないトイレ、和式のままかと思いきや、洋式に改造されていました。

奈良行急行と並走、最後尾は車番は1234です。スナックカー12000系が現役だった頃、12345を見つけたたものの撮りそびれ再会できないまま廃車されてしまったことを思い出しました。

桜井駅南口の絵都蘭世、茶粥モーニングに間に合わず茶粥ブランチ。お値段はモーニングの倍近いのですがおかずがかなり多くて、おかゆの量も多いような気がします。食後のコーヒーはブレンドじゃなくてストレートコーヒー。今日の豆はパプアニューギニア、初めての味ですが、口に含んだ時の独特の香りが素晴らしい。ふだんコーヒーにはお砂糖とミルクも入れるのですが、ブラックで。ほんのりとした甘さを味わいました。

趣のある古い町並み、かつて商店街だった様子が残るものの営業しているお店は僅か。

商店か民家だったはずの駐車場の向こうをアーバンライナーが走り抜けて行きました。

桜井茶臼山古墳

最初の目的地、桜井茶臼山古墳の後円部です。フェンスに囲まれているもののフェンスの切れ目から内側を歩けるようになっていて、桜井市教育委員会の説明板にたどり着きました。全長207m、後円部高さ19m、後円部径110mに対して前方部幅61mと前方部幅が狭い典型的な古墳時代前期の形状です。

ちょっと広いスペースに出て来ると正面に三輪山、ちょっとだけよという感じで箸墓古墳が見えます(矢印のところ)。

後円部の西側に回ると、イノシシの罠が置かれていて、さらに回ると空地が広がっていました。

空地からだと三輪山が巨大前方後円墳のような形に見えます。

くびれ部のフェンスが空いていてここから墳丘へ登れるようですが藪漕ぎは必須と思われやめておきます。大和の古墳チャンネルさんの動画で見学通路が確保された時に、ここから墳丘へ登った様子が紹介されていました。同じ動画で2009年に実施された発掘調査の現地見学会の様子も紹介されています。「めったと見れない、巨大前方後円墳の埋葬部を目の前にして、例えようもない感動を覚えました。」とコメントされた後円部の竪穴式石室は埋め戻されており、熊笹が生い茂り近づけないとのこと。

前方部に出ると奈良県教育委員会の説明板、後円部の説明板より詳しく、王様の象徴のような玉杖も出土しているとのこと。検索すると王杖は橿考研じゃなくて国立歴史民俗博物館蔵らしい、万博公園のみんぱくかと思いきや千葉県佐倉市です。橿考研ではここから出土の木棺が付属博物館中庭に面したところに展示されていたのを見た記憶があるものの写真を撮っていませんでした。

説明板には4世紀前半を下らない時期の造営とあり、橿考研のページによると、どうやら3世紀後半で、箸墓古墳の後、西殿塚より前あるいは同時期と見られているようです。

さらに2023年11月の橿考研の講演では桜井茶臼山古墳から103面以上の銅鏡が発見されたことで「邪馬台国が北部九州か畿内かといわれているが、3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった」と衝撃的なコメントが述べられています。その王権とは誰なのか、初代神武天皇(磐余彦尊 - いわえびこのみこと)のモデルとなった王の可能性があるらしい。

前方部から国道165号を東へ100mほどのところに外山バス停、Tobiとローマ字表記されていて、1日3〜4本大宇陀行が運行されているものの次は16:39の最終です。桜井茶臼山は外山茶臼山とも呼ばれていて、磐余同様に曰く有りげな地名です。能や猿楽に関連するとまでは分かったものの古代史との関連はよく分かりませんでした。

外山バス停前の谷に宗像神社、日本三代実録(平安時代の歴史書)に北九州の世界文化遺産、宗像大社の同神別社と記されている古社。桜井茶臼山古墳の被葬者と、磐余彦尊が日向を発ち奈良盆地で長髄彦を滅ぼし初代天皇の位についたという神武東征伝説がリンクしていることを伺わせます。

桜井茶臼山前方部に戻ってくるともう1枚サビサビの案内板、「王杖」の文字だけが読み取れます。

桜井茶臼山古墳南西方向からのほぼ全体像です。左手は遠景の三輪山。

次の目的地、メスリ山古墳へ向います。国道の南側に墓地が広がり、国道沿いにはセレモニーホールや石材店が並び、墓地の奥に桜井市の火葬場があると分かりました。墓地の向こうには関西中央高校、調べてみると去年4月に閉校していました。

多武峰へ向かう県道沿いの等彌(とみ)神社です。境内図を見るとかなり広く、背後の鳥見山山上にある霊時まで参道が続いています。霊畤とは「まつりのにわ」という意味で、日本書紀によると神武天皇がヤマトを平定した後、最初に祭祀を行った場所で、大嘗祭の起源だそうです。

ピリッとした空気を感じる参道を進むと杉の木に囲まれた上津尾社、等彌神社の本社です。

メスリ山古墳

メスリ山古墳へ向うと、「二番目にうまい店」とあるお好み焼きやさん。素通りしてしまったものの、あとで口コミをチェックするとえらく評判がいいです。どこが一番うまいかも聞いてみたい。

桜井南小学校を左へ曲がり、寺川の川面を覗くとキセキレイ。

畑の向こうにぽっこりとした小山が見えてきました。メスリ山古墳です。

周囲はきれいに整備されてます。

植栽に囲まれた内側に入ると墳丘への道がありました。登ってみると前方部墳丘は果樹園になっていて、収穫されていない柑橘類がまだ木になっています。立入禁止とかは見なかったものの、歩き回るのは気が引けます。

墳丘から南側の眺めです。足元にはオオイヌノフグリがいっぱい。後円部へは進めそうになく早々に墳丘を下りることにしました。

後円部の東側を回ると奈良県教育委員会の説明板が倒れていました。一見サビサビのようで錆色に白抜き文字でよく読めみとれます。全長230m、後円部高21m、高さは無いものの全長は桜井茶臼山古墳と大差なく、やはり3世紀末〜4世紀後の築造。後円部頂に矩形にめぐる埴輪列が検出され、この方形区画内に竪穴式石室が存在、と説明されていて。橿原考古学研究所付属博物館のパネルで紹介されていた通りです。この矩形にめぐる円筒埴輪列で最大のものは2.4mもあり、現在九州国立博物館の「特別展はにわ」に出張中です。

円筒埴輪に囲まれていた石室の8石の天井石は後円部墳丘に登ると確認できるらしい。さっき前方部から後円部へは進めなかったものの、後円部東側から藪漕ぎすれば登れそうな道があるようです。

錆色の説明板には桜井茶臼山古墳同様に玉杖も出土とあります。初期ヤマト王権の大王墓と見られる大型前方後円墳はいずれも3世紀後半頃、箸墓→西殿塚→桜井茶臼山→メスリ山の順の築かれたようです。

間近に見える美しい山は音羽山852m、中腹にある音羽山観音寺を舞台とした「やまと尼寺精進日記」は慈瞳副住職と手伝いのまっちゃんが下山したことにより2024年に終了してしまったものの、YouTubeに公式チャンネルが開設され毎月2〜3本の動画が配信されていると分かりました。密榮住職はテレビの頃と全く変わらず元気なご様子で何より。

石舞台ならぬ土舞台の道標、次の目的地も同じ方向です。

艸墓古墳

3つ目の目的地、艸墓(くさはか)古墳にたどり着くと「古墳周辺は私有地です、見学者の便宜を図る為、立ち入り可としています、古墳以外への立ち入りは不法侵入とみなします」との案内。

ブロック塀脇の狭い通路が古墳への道です。

ブロック塀の道を抜けるとビックリ、27m x 21mの方墳とあるのですが、雪国のかまくらみたいな古墳、横穴式石室が口を開いていました。

石室手前の石段の前で腰をかがめて羨道の奥を覗いてみると、何やら石板のような物が見えます。

よく見ると石板ではなく石棺です。石室入口より石棺の方が大きく見えます。どうやって中に入れたのか謎ですが、7世紀前半、古墳時代末期築造とのこと。

古墳の周囲にホトケノザがいっぱい。さっき道標にあった土舞台はここから数百mの場所にあると分かったのは帰ってから。聖徳太子が少年たちを集めて伎楽の舞を習わせたことに因む芸能発祥の地とされる場所と分かりました。相撲も芸能も発祥は桜井です。

安倍文殊院

今日最後の目的地は安倍文殊院、境内に2箇所の古墳があるはずです。

境内東側の山の斜面に掘られた西古墳、7世紀前半の築造で、羨道に枯れない泉があったことから閼伽井古墳と呼ばれ、石室はブロックされているものの中に石仏が安置されていました。

陰陽師安倍晴明誕生の地と伝わる安倍文殊院、高台に安倍晴明を祀る晴明堂と安倍晴明公天文観測の地の石碑。

その隣にウォーナー博士報恩供養塔。アメリカの美術史家、ラングドン・ウォーナー博士が太平洋戦争の際、奈良や京都を爆撃対象から外すようにアメリカ政府や軍の高官に進言したことにより古都が守られたことに感動した桜井市民の日雇い労働者、中川伊太郎氏がこつこつ貯めた全財産を出して建立した供養塔だそうです。京都も原爆投下目標に含まれていたらしくウォーナー博士の功績を疑問視する向きもあるようですが、中川さんの思いが大切なことに変わりは無いと思います。

高台から巳年干支ジャンボ花絵。秋には花絵の場所がコスモス迷路になるそうです。

西古墳は7世紀後半築造の円墳、横穴式石室の口が大きく開いており中に入れるようになっています。

頭上注意しながら中にはいると願掛け不動が祀られています。西古墳の注目ポイントは切り揃えられ隙間なく積み上げられた石室の壁、全国で最も精巧な切石石室とされ、石室天井は巨大な一枚岩が被せられています。

被葬者は安倍文殊院を創建した大化の改新時の左大臣、安倍倉梯麻呂説が有力とのこと。大化の改新の薄葬令が出されて間もない時点での大規模な時の宰相の墳墓築造は、薄葬令の実効性に対する疑問や、薄葬令自体後年の後付けだったのではないかという説をもたらしているようです。

西古墳入口から出ると第90代内閣総理大臣 安倍晋三献灯の灯籠。側面に平成22年4月20日来山記念とあり、民主党鳩山政権だった頃と分かります。

右手の歌碑は阿倍仲麻呂 望郷の詩、

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

遣唐使に同行し長安へ留学、科挙に合格し玄宗皇帝に仕え重宝され帰国を願うも叶わず、望郷の思いを詠んだ百人一首にも含まれる超有名な歌ですが、唐の時代の長安で読まれた歌だけが帰国し、500年も後に秀歌として選定され今に伝わることがスゴイと思います。安倍倉橋麻呂、安倍仲麻呂、安倍晴明、安倍晋三、実に多彩な才能を夜に送り出してきた安倍氏です。

大化の改新の年、安倍倉梯麻呂が創建した安倍氏の氏寺、安倍文殊院本堂です。

御本尊の快慶作の国宝文殊菩薩像は通常獅子の上にのっているところ、15年ぶりに獅子から降りた文殊菩薩が公開中ですが、撮影禁止のはず、それに靴を脱ぐのが億劫で上がりませんでした。「知恵の文殊」で受験生の合格祈願の絵馬がびっしり掛けられています。

表山門から出て来ました。

ずっと磐余を歩いてきて、初めて「いわれ」と掲げられているのを見ました。地元の自治会館のようですが、住所は安倍ではなく阿部になっています。マップを見ると阿部に隣接して吉備という大字があり、吉備池廃寺跡(敏達天皇百済大井宮跡・舒明天皇百済宮跡推定地)があると分かりました。古墳時代末期、飛鳥時代初期の日本の首都となるようです。改めて桜井の吉備を訪ねヤマト王権と吉備国の関係を探ってみたいと思います。

国道165号沿いの食堂を楽しみにしていたのですが残念、「しばらくの間休業します」と掲げられていました。Google Mapにアップされた写真を見てみるとよだれが出てきます。

趣きある街道に出て来ました。奈良盆地を東西に貫く古代からの街道の横大路です。桜井駅に戻ってくると、やはり三輪山が巨大前方後円墳に見えます。

もう3時半を回っているのですが、もう少し古墳めぐりを続けます。目的地は磐余ではなくなるので項を改めます。