纒向の古墳めぐり

承前、桜井駅が見えてきたところで時刻表アプリをチェックすると万葉まほろば線の奈良行が5分後、走ります。

楽しみにしていた安倍文殊院近くの食堂が閉まっていたので、柳本の駅ナカ食堂へと思ったのですが、227系車内でチェックするとランチタイムだけの営業と分かり巻向で下車、線路脇に纏向遺跡辻地区の杭が並んでいます。

古墳めぐりを続けます。空地の向こうに箸墓古墳と音羽山。

纒向石塚古墳

田んぼの向こうの小学校の隣に見えるのが纒向石塚古墳。まきむくで変換すると纒向、纏向と両方でてきます。拡大しないと分かりませんが「纒」はつくりの中が厂(がんだれ)、「纏」は广(まだれ)。意味としては同じで、まだれの方が正字でがんだれの方は俗字らしいのですが、ネットでは殆どがんだれが使われていると分かり、がんだれにします。こういうのは統一しておかないとあとあと検索で困ります。

纒向石塚古墳が近づいてきました。古墳の形じゃなくて平たい台地状、元々前方後円墳だったのが太平洋戦争時に削平され高射砲台が設置されていたらしい。築造は弥生時代終末期から古墳時代前期初頭、箸墓古墳よりずっと古く、日本最古の古墳の可能性があるとのことです。

後円部の丘にやってきました。樹木の名前は苦手ですが、常緑樹の方はカシ、落葉樹の方はケヤキかと。

ケヤキの木の根本に何やら白いものが…

ありゃ、何かの動物の頭蓋骨です。埋もれていたとしては綺麗すぎる感じで、誰かが置いていったようにも見えます。イタチかなと画像検索してみたところ、どうやらネコの頭蓋骨のようです。確かに鼻筋のところがネコっぽい。

さらに何と浜辺で見るような巻貝、只々驚くばかりです。

纒向石塚古墳北東角に何やら遺構。削平された前方部は後円部から南西方向に伸びているので、この遺構は前方部ではなく、周濠の土手と思われます。

説明板によると、纒向石塚古墳は後円部径と前方部長の比率が2:1となる典型的な「纒向形古墳」、箸墓古墳などの定型化した前方後円墳が出現する前の3世紀前半〜中頃の築造と考えられるとのこと。

定型化した前方後円墳に必須の葺石や埴輪は出土していない一方、大和の古墳チャンネルさんの1989年の発掘調査時の動画で紹介されえちるように周濠からおびただしい数の土器や農耕用木製品が出土しており、弥生時代から古墳時代への変化の過程を示す古墳です。

縁石の並ぶ盛り上がった部分は周濠の土手、右手の緑の残る部分が前方部と思われます。

ネコの頭蓋骨や巻貝が転がっていた後円部、手前が周濠跡です。

勝山古墳

纒向石塚古墳から100mほど西に勝山古墳。周濠を拡幅したと思われるため池は水が抜かれていました。

池の向こう直線距離で4km先に弥生時代の大都市、唐古・鍵遺跡があります。

纒向石塚古墳と同じく定型化した前方後円墳出現より前に築造された纒向形前方後円墳です。

土手のホトケノザを撮ってみるとパッと見ピンボケも花びらにビタッとピントが合っていました。花びらがびっしり毛に覆われているところがバッチリ。

ツグミたち。

北西側からの勝山古墳後円部です。南西方向に耳成山と畝傍山がビタッと重なっていました。

勝山古墳のすぐ南側に矢塚古墳、これも纒向形前方後円墳だそうです。

石塚古墳から県道を渡ったところにローソン、その先に県営纏向団地。毎日古墳めぐりや山の辺の道の里山歩きを楽しむには絶好のロケーション、1階か2階に空きがあれば考えてみたいところです。

遺跡ネコ

団地の東側が纒向遺跡辻地区、卑弥呼の宮殿だったかも知れない大型建物群跡です。遠景は左から三輪山、音羽山、箸墓古墳。

三輪山と音羽山は自然が作ったものですが、箸墓古墳は古代の人々が築いたもの。当時は葺石に覆われた姿だったはずですが、この空間に出現した大王墓に周辺地域の豪族たちも畏敬を覚えたことは想像に難くありません。葺石の姿が木々に覆われてっしまったものの前方後円墳の形がくっきりと確認できる美しい姿は女王卑弥呼を思い起こさせ、それが21世紀の今も遮るもののない空間に浮かんでいるのは奇跡的とも感じます。

大坂に 継ぎ登れる 石群を 手ごしに越さば 越しかてむかもと日本書紀でどのように築造されたかを記された箸墓古墳、その土木技術力やそれに携わる人材、統率力、財力を誇示しヤマト王権の権威の象徴となる前方後円墳が「定型化」、西殿塚、桜井茶臼山、メスリ山、そして百舌鳥・古市古墳群の大王墓へと受け継がれこの国の礎が確立されてきた、と頭の中が整理できてきました。

とそこへ、垣根の下からキジネコとクロネコ、キジネコは去年9月に会ったマキちゃんかな?

大型建物群の柱の位置を示す杭で爪を研ぐクロネコ。

クロネコは珠城宮跡にいたムクちゃんなのかな?見較べてもよくわからないのでムクちゃんと決めつけておきます。

キジネコはマキちゃんと比べてしっぽがずっと短くてズングリしていてマキちゃんではないと確認でき、マキちゃん2号とします。

垣根の下からさらにキジネコが出て来ました。この子もしっぽが短くマキちゃん3号です。

自分の眼の前で寛ぐムクちゃんとマキちゃん3号。

ムクちゃんとマキちゃん3号を見守っているマキちゃん2号。

ネコの頭蓋骨を見たばかりのせいか、とても愛おしく感じられる遺跡ネコたちです。

ちなみに橿原市博物館に掲げられていた縄文時代の生活風景のパネルに犬が描かれているように、犬は狩猟のためかなり古くから人間の友となっていたようです。一方、猫は古くとも穀物をネズミから守るため農耕が始まった頃と思われます。

帰り道に柿本人麻呂屋敷跡の石碑が建ってました。調べてみるとここに妻の家があったらしい。通い婚だった時代、飛鳥宮に住んでいたはずも山の辺の道にたくさん歌碑が建っていて、柿本人麻呂は頻繁に妻を訪ねていた愛妻家だったようです。

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む

百人一首の柿本人麻呂の歌、この地を訪ねられない時の独り寝のさびしさを詠んだものかと。

巻向駅のベンチに腰を下ろすと真正面に夕日。iPhoneで撮ったらなぜか太陽がふたつ。

天理の餃子

天理で近鉄に乗り換え。その前に布留を訪ねた時に気になったお店へ。JR天理駅高架下の天理ステーションストアの隅っこにある天雅という餃子やさんです。

以前は焼売や豚饅なども販売されていたようですが、現在は餃子だけ。天串とは何か、ググってみると2014年に投稿されたブログで牛串カツと判明しました。

誰もいないところを狙って撮った写真ですが、かなりの人気店らしく、頻繁に4人前、5人前とテイクアウト。自分はカウンター席、熱燗を頼んだらワンカップをチンしてくれました。

何とブラウン管テレビが現役。愛想のいいお店の人によると、画面の端の字幕は読めないそうです。

ステーションストアの外から天雅さんを撮ったところです。だだっ広い空間のほんと隅っこにお店があってパーティションで囲まれたところがイートインコーナー。2件となりでは中華料理屋さんも営業中、こんどはこちらも試してみたい。

このだだっ広いステーションストアなる空間はどうやら天理駅ならではの団体列車待合室だったものと思われます。

8600系の京都行急行で帰ります。

今日も仕上げは西大寺駅ナカの豊祝、ええ塩梅になって展望デッキからビスタカー。