牽牛子塚古墳

今週も古墳めぐり、ずっと明日香と決めていました。明日香でも石舞台や飛鳥寺じゃなくて行ったことのないエリアへ。明日の方が天気が良さげですが理由あって今日にします。

橿原神宮前に到着すると狭軌の0番線にも電車。

0番線は1968年製の6020系、塗装がとても鮮やかなので、五位堂での検査を終え出場してきたもののようです。標準軌の1、2番線と見較べると0番線の線路はずいぶんか細く見えます。

駅ナカのドトールでミラノサンドBをお腹に入れておいて、吉野線の普通に乗り換えひとつ目の岡寺で下車。

築堤を登って行くさくらライナー。どん曇りだったのが少し晴れ間が広がってきました。

益田岩船

最初の目的地、益田岩船(古代石造物)へ向います。岡寺駅から高取川をはさんだ古社は5世紀半ばの創建と伝わる牟佐坐(むさにます)神社、第8代孝元天皇の軽境原宮(かるのさかいはらのみや)があった場所らしい。孝元天皇は箸墓古墳被葬者に治定される倭迹迹日百襲姫命や吉備津彦命(桃太郎)の異母きょうだい。

南側からの畝傍山の眺めです。

道路の左手は橿原ニュータウン、昭和な団地が広がっています。

左手は沼山古墳、直進が益田岩船0.2km。

沼山古墳を含む白橿近隣公園です。沼山古墳は6世紀中〜後半の円墳でドーム状天井の横穴式石室が遺され、副葬品が多数出土、橿考研展示品にも含まれていると分かったのは帰ってから。

白橿近隣公園には益田岩船をモチーフにしていると思われるモニュメント。

直進方向に益田岩船への山道があるはずもその入口が見つからず、周辺を歩いている人もいなくて散々探して、漸く山から下りて来た人を見つけ、10分ほどでもかなり急な坂道ですよと教えてもらいました。

急な階段を登ると崖っぷちの道。

狭い切り通しの道を抜けると、イチヤクソウの柵。6月頃に可憐な花を咲かせるようです。

尾根道らしき竹林を進むと、巨大な岩が姿を表しました。

益田岩船、東西11m、南北8m、高さ4.7mだそうです。

裏側の丘に登ると上部に四角い孔があけられているのがよく見えます。

上部にふたつの孔がくり抜かれ側面に続いています。重さは160tから600tと諸説ある花崗岩の石造物、600tは違うだろうとは思うものの、岡山から運ばれてきた大阪城最大の蛸石(同じく花崗岩)の108tより重いのは間違い無さそうです。

超広角で竹林の中の岩船を上からと下から。上半分は平滑に仕上げられているものの下半分は粗削りのままで格子状に線が掘られています。

江戸時代から存在が知られ観光名所になっていたそうで、岩の加工法から7世紀頃の築造と推定されています。用途については上部のふたつの孔のうち西側の孔に水が貯まらないことからひびが入っていると分かり、このあと訪ねる牽牛子塚古墳の石槨を作ろうとして失敗したものが放棄されたものとの説が有力です。上部の孔は石槨で岩全体を横に倒して使う計画だったとして、ここで加工してどうやって搬出するつもりだったのか。

岩の後ろに牽牛子塚古墳への道が示され、竹藪に道が続いているものの、藪漕ぎすることになりそうな気がするので来た道を引き返すことにしました。

かなり苦労して下りてきました。やはり上りより下りの方がずっとキツく膝はガクガク、太ももがパンパンでこのあと駅の階段ではずいぶん苦労するハメに。入口の案内板のQRコードを読み取ると静止画+映画監督河瀨直美さんナレーション、数年前までは竹林で覆われていなかったようです。

説明板に益田岩船がこの地にあった益田池の碑の礎石説が紹介されています。益田池は平安時代初期に高取川を堰き止め、空海の弟子・真円らにより満濃池の技法を用いて築かれたため池で、橿原ニュータウンはその跡地と分かりました。橿原ニュータウン造成で池を埋めたということではなさそうで、いつまで池があったのかは調べた限りでは不明。現在地から1km以上北、もう新沢千塚古墳群に近い高取川左岸に益田池堤が一部遺されていると分かり、こんど新沢へ行く時には訪ねてみたい。

白橿近隣公園でジョウビタキ。

牽牛子塚古墳へ向います。白橿中学辺りでマップをチェックすると道が表示されないものの、牽牛子塚古墳まで直線距離で200mほどです。通りがかった男性に訊ねてみると、そこを左へ曲がってまっすぐ、イノシシよけのフェンスを開けて竹藪と抜けたところですよ、と教えてくれました。

中学校の向こうになにやら造成されたような台地(あとから台地は橿原市の配水場と判明)があって石段が続いているのが見え、あれかなと、中学校校庭裏の道を行くと間違って校庭に入り込んでしまったようで、先へ進むことができず引き返しました。途中で分岐していた山道らしきがそれっぽかったのですが、もうここは急がば回れと腹をくくり、200mの直線距離を2kmもあるGoogle Map上にある道を歩くことにしました。

住宅街に戻ると高取城下町家のひな祭りのポスター、町家の雛めぐりは去年で最後と聞いていたのですが、町家のひな祭りと変えて継続されることになったようです。

高取川の小さな上路式ガーダー橋を渡る16600系特急。橿原市と明日香村の境界線で左側が橿原市、右側が明日香村、マップを見ると見事なまでに住宅地の橿原市と田園地帯の明日香村が区切られています。

線路の向こうの国道と違ってこちらはのどかな道、オオイヌノフグリやホトケノザを見つけ、竹藪の藪漕ぎじゃなくて遠回りしてきて良かったと思います。

岩屋山古墳

ぽっこりした小山、明らかに古墳です。樹上はたぶんカラスの巣。

小さな田んぼに黄色い花がいっぱい。

ツヤツヤのヒメリュウキンカ、今の時期の花です。

飛鳥駅の裏側に出て来ました。

飛鳥駅から徒歩2分の岩戸山古墳、河瀨直美さんの説明によると7世紀前半の築造。

石段を上ると石室に入れるようになってました。こんもりした墳丘の盛り土はていねいに版築(板枠の中に土を入れて突固めそれを積み重ねる工法)で築かれているそうです。

表面を磨いた切石を積み上げ天井石を載せた石室、同じ構造の石室を持つ古墳が岩屋山式と呼ばれ、聖徳太子墓とされる叡福寺北古墳もそのひとつらしい。隙間を埋める漆喰は後年のものとのこと。

方墳とされるものの飛鳥時代の大王墓にみられる八角墳ではないかという説もあり、駅前古墳でありながら歴史的価値の高い古墳です。

仏像のレリーフのある道標、右面に左おかてら(岡寺)はせ(長谷)、とふのみね(多武峰)いせ(伊勢)、左面に右ちわら(茅原 - 玉手駅周辺)ごせ(御所)、こんこうさん(金剛山)、と読めます。安政五戊午年八月吉日建立。

道をブロックしていたシロネコ、何気に威嚇ポーズですが、ちょっと近づいただけで退散して行きました。

牽牛子塚古墳と越塚御門古墳

10分足らずで丘の上にピラミッドが見えてきました。牽牛子塚古墳です。

牽牛子塚古墳だけじゃなくて越塚御門古墳が隣接しています。

右手の丘が越塚御門古墳かと思ったら、ジオラマが置かれた丘。越塚御門古墳は牽牛子塚古墳の真下です。

階段を上っているとナナホシテントウ、通常ナナホシテントウの出現は4月頃からなので、かなり早い。

階段を上り切ると待ってましたという感じでボランティアガイドさんに越塚御門古墳の石室に案内され石室内で動画鑑賞。

動画が終わって石室を見学、牽牛子塚古墳発掘調査の際に見つかった古墳で、1枚岩をくり抜いた牽牛子塚古墳とは違って、蓋石と床石で構成されています。

越塚御門古墳から階段を上がったところに牽牛子塚古墳の石室。格子の隙間から二室の墓室を区切る間仕切り壁と棺台が確認できます。

牽牛子塚古墳の裏側に回ると益田岩船へ800mとの案内、藪漕ぎしなければならいとしたら800mは長い。

牽牛子塚古墳裏側からの全体像です。ここからの眺めの説明板には、牽牛子とはアサガオの意で、現在地は万葉集で越智岡(おちのおか)と詠まれ、日本書紀には斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬した小市岡上陵(おいちのおかのうえのみささぎ)の前に大田皇女が葬られたと記されていると紹介されています。

つまり、牽牛子塚古墳の被葬者は天智天皇や天武天皇の母、皇極天皇(重祚して斉明天皇)とその娘の間人皇女、越塚御門古墳の被葬者は天智天皇娘、斉明天皇孫の大田皇女であることが確実なようです。

谷の向こうの緑の丘は高松塚古墳、鉄塔の立つ山の左手の山が高取山、高取城に登ると牽牛子塚古墳が見えるはずです。

牽牛子塚古墳・越塚御門古墳のジオラマと説明板です。2基の古墳の位置関係や、以前は今の姿ではなく土で覆われ木が生えていたこと、牽牛子塚古墳は八角墳で2つの墓室が間仕切り壁で仕切られた1枚岩をくり抜いた石室、越塚御門古墳は方形墳で蓋石と床石で構成されており、棺のまわりの排水溝が今も遺されていることが確認できました。

三角柱状に削った白色凝灰岩をピラミッド状に積み上げた姿が復元されたのは2022年です。薄葬令が出され簡素化した中でも繊細な工夫を凝らした飛鳥時代の古墳に、パワーを誇示する古墳時代の前方後円墳とは異なるたおやかな魅力を感じます。

このブログを書いている途中で、若一調査隊が益田岩船と牽牛子塚古墳を調査しているのを見つけました。益田岩船や牽牛子塚古墳のドローン空撮も交えられ、江戸時代の益田岩船の絵図まで紹介、ブログを書いていて不明だった益田岩船をどのように運ぶつもりだったかではなく、益田岩船の場所に古墳を造るつもりだったと分かりました。自分が見逃した牽牛子塚古墳石槨の詳しい内部も紹介されていたりして、大好きな若市調査隊ですが、いささか悔しさを感じてしまいました。益田岩船から牽牛子塚古墳へはショートカットではなく若一さんたちも自分同様に遠回りされたようです。

ライトアップ

ただ若一調査隊では紹介されていない牽牛子塚古墳の魅力を今日の自分は紹介できます。実はここへやってくる前日、SNSで牽牛子塚古墳のライトアップが実施されていて今日がその最終日と分かり、曇り空でもやってきた次第です。でもライトアップは6時から、暗くなるまで2時間以上どこかで時間をつぶさなければなりません。

駅へ戻る道に宇宙服を着た飛び出し坊や。飛鳥駅に橿原神宮前行普通が到着。

飛鳥駅前の「飛鳥を翔けた女性たち」、持統女帝、斉明女帝、推古女帝、善心尼(日本最初の尼僧)、額田王、の前に腰を下ろしてしばし休憩。

国道を渡ったところに喫茶店を見つけるもコーヒーだけでは30分しか時間が潰せず、一旦橿原神宮前まで往復して駅ナカでいっぱいひっかけてくることにしました。

錚々たる名所旧跡が並ぶ飛鳥駅の観光案内、自分が訪ねたことがあるのは今日を含めてまだ1/3。

橿原神宮前から古市行普通に変身する橿原神宮前行普通です。なぜ最初から古市行じゃないのかは謎。

橿原神宮前駅ナカのみよきくの熱燗、アテは柿の葉寿司にしてみました。お向いに店を構えるゐざさ中谷本舗の柿の葉寿司だそうです。平宗は吉野上市、たなかは五条、ゐざさは上北山村が発祥らしい。これ知ってる?とSNSの牽牛子塚古墳ライトアップの写真をお店の人に自慢して出発。

このままだと吉野駅の改札を出られなくなるはずなので一旦改札を出て入って、吉野行急行で飛鳥駅へ。

5:50牽牛子塚古墳に戻ってきました。まだ明るい。さっきより少し人が多くなってます。

5:58点灯、暗くなるのを待ちます。近くにいた夫婦連れからスマホの自分が見つけた同じ写真を見せられ、他にももの好きがいるのかやってきた、とのこと。自分ももの好きのひとりです。

暗くなってきました。正面からと裏側から。

暗くなるのを待ちきれなくて少し露出を落としてみました。

iPhoneで正面から。

耳の中で未知との遭遇のあの5音メロディが聞こえてきます。

麓に下りてきました。レミド(1オクターブ下げて)ドソ♪

飛鳥駅に吉野行さくらライナーが到着。橿原神宮前の引込線にはスーパーくろしおならぬミジュマルライナー。

久しぶりの2万4千歩、16.8km。太ももの筋肉痛が残ります。