牽牛子塚古墳
今週も古墳めぐり、ずっと明日香と決めていました。明日香でも石舞台や飛鳥寺じゃなくて行ったことのないエリアへ。明日の方が天気が良さげですが理由あって今日にします。
かなり苦労して下りてきました。やはり上りより下りの方がずっとキツく膝はガクガク、太ももがパンパンでこのあと駅の階段ではずいぶん苦労するハメに。入口の案内板のQRコードを読み取ると静止画+映画監督河瀨直美さんナレーション、数年前までは竹林で覆われていなかったようです。
説明板に益田岩船がこの地にあった益田池の碑の礎石説が紹介されています。益田池は平安時代初期に高取川を堰き止め、空海の弟子・真円らにより満濃池の技法を用いて築かれたため池で、橿原ニュータウンはその跡地と分かりました。橿原ニュータウン造成で池を埋めたということではなさそうで、いつまで池があったのかは調べた限りでは不明。現在地から1km以上北、もう新沢千塚古墳群に近い高取川左岸に益田池堤が一部遺されていると分かり、こんど新沢へ行く時には訪ねてみたい。
白橿近隣公園でジョウビタキ。
牽牛子塚古墳へ向います。白橿中学辺りでマップをチェックすると道が表示されないものの、牽牛子塚古墳まで直線距離で200mほどです。通りがかった男性に訊ねてみると、そこを左へ曲がってまっすぐ、イノシシよけのフェンスを開けて竹藪と抜けたところですよ、と教えてくれました。
中学校の向こうになにやら造成されたような台地(あとから台地は橿原市の配水場と判明)があって石段が続いているのが見え、あれかなと、中学校校庭裏の道を行くと間違って校庭に入り込んでしまったようで、先へ進むことができず引き返しました。途中で分岐していた山道らしきがそれっぽかったのですが、もうここは急がば回れと腹をくくり、200mの直線距離を2kmもあるGoogle Map上にある道を歩くことにしました。
住宅街に戻ると高取城下町家のひな祭りのポスター、町家の雛めぐりは去年で最後と聞いていたのですが、町家のひな祭りと変えて継続されることになったようです。
高取川の小さな上路式ガーダー橋を渡る16600系特急。橿原市と明日香村の境界線で左側が橿原市、右側が明日香村、マップを見ると見事なまでに住宅地の橿原市と田園地帯の明日香村が区切られています。
線路の向こうの国道と違ってこちらはのどかな道、オオイヌノフグリやホトケノザを見つけ、竹藪の藪漕ぎじゃなくて遠回りしてきて良かったと思います。
飛鳥駅から徒歩2分の岩戸山古墳、河瀨直美さんの説明によると7世紀前半の築造。
石段を上ると石室に入れるようになってました。こんもりした墳丘の盛り土はていねいに版築(板枠の中に土を入れて突固めそれを積み重ねる工法)で築かれているそうです。
牽牛子塚古墳・越塚御門古墳のジオラマと説明板です。2基の古墳の位置関係や、以前は今の姿ではなく土で覆われ木が生えていたこと、牽牛子塚古墳は八角墳で2つの墓室が間仕切り壁で仕切られた1枚岩をくり抜いた石室、越塚御門古墳は方形墳で蓋石と床石で構成されており、棺のまわりの排水溝が今も遺されていることが確認できました。
三角柱状に削った白色凝灰岩をピラミッド状に積み上げた姿が復元されたのは2022年です。薄葬令が出され簡素化した中でも繊細な工夫を凝らした飛鳥時代の古墳に、パワーを誇示する古墳時代の前方後円墳とは異なるたおやかな魅力を感じます。
このブログを書いている途中で、若一調査隊が益田岩船と牽牛子塚古墳を調査しているのを見つけました。益田岩船や牽牛子塚古墳のドローン空撮も交えられ、江戸時代の益田岩船の絵図まで紹介、ブログを書いていて不明だった益田岩船をどのように運ぶつもりだったかではなく、益田岩船の場所に古墳を造るつもりだったと分かりました。自分が見逃した牽牛子塚古墳石槨の詳しい内部も紹介されていたりして、大好きな若市調査隊ですが、いささか悔しさを感じてしまいました。益田岩船から牽牛子塚古墳へはショートカットではなく若一さんたちも自分同様に遠回りされたようです。
ライトアップ
ただ若一調査隊では紹介されていない牽牛子塚古墳の魅力を今日の自分は紹介できます。実はここへやってくる前日、SNSで牽牛子塚古墳のライトアップが実施されていて今日がその最終日と分かり、曇り空でもやってきた次第です。でもライトアップは6時から、暗くなるまで2時間以上どこかで時間をつぶさなければなりません。