飛ぶ鳥の明日香(前編)

先週の平城京から飛鳥時代へ戻ります。今日は明日香村中心部へ。

近大の卒業式で長瀬に臨時停車した名張行急行から橿原線に乗り換え橿原神宮前到着が10:41。左に標準軌の仮台車に履き替えた南大阪線車両を五位堂車庫へ回送するためのモト90形を見て2番線に入線。正面奥を横切るのは吉野線。

中央口を出てチェックしておいたタバコが吸える喫茶店へ向かうと吉野行青のシンフォニーが到着、続いてあべの橋行さくらライナーが。青シンとさくらライナーが並ぶシーンを撮れたかも。

真正面に畝傍山が聳える橿原神宮への参道、左端が喫茶店サンド、すぐ先に3ヶ月前にオムライスを食べた津田食堂があります。

モーニングに間に合いました。壁にイラストが描かれた色紙がいっぱい。「境界の彼方」「鳥居なごむ」とありググってみると京都アニメーション制作の2013年のTVアニメで、鳥居なごむ氏は原作者、アニメやゲームの世界は何も分からないのですが、この周辺が物語の舞台、ここ喫茶サンドはそのファンが集う聖地と分かりました。

訪問時、ファンらしき姿は見当たらなかったものの地元の人たちでほぼ満席。2015年に劇場版が公開されていてその時のポスターも掲げられていました。

Y字形の橿原神宮前駅、中央口から東口へは駅構内を通らずに地下道で抜けられるようになっているものの通行量は多くなく、広告は橿原市自前のものばかりです。東口へ抜けるとインパクトのある石像、古代中国に伝わる邪悪を避けるという想像上の動物、辟邪(へきじゃ)だそうです。

今日はレンタサイクルじゃなくてバスで明日香へ向います。この時期、橿原神宮前駅東口から明日香村の主要スポットを巡って飛鳥駅までを結ぶ赤かめバスが30分ヘッドと便利です。赤かめと名乗るので赤いバスかと思いきやふつうの奈良交通のバスでした。

橿原神宮前駅東口から5分ほどで市街地を抜け明日香村に入ると一気に田園地帯が広がります。飛鳥川沿いの豊浦バス停で下車。出迎えてくれたのはセグロセキレイ。

豊浦宮

今日最初の目的地、向原寺(こうげんじ)です。推古天皇の豊浦宮があった場所でその遺構が遺されているとの情報でやってきました。

観光寺じゃなく勝手に入って構わないのか逡巡していると、ちょうど庫裏から出てきた墨染めの法衣のご住職にお断りして入らせてさせていただきました。本堂左手に遺構があるようですが、そこへどうやって近づけるのか分かりません。ご住職に訊ねると庫裏の手前から抜けて行けるとのこと。

庫裏の手間に格子戸があるもののお庭の向こうに抜けていけるのか微妙です。迷っていると庫裏の縁側の奥にご住職の奥さんが見えもう一度訊ねると、本堂に上がってその縁側から遺構を見学でき、階段を下りてサンダルを借りて近づくこともできると分かりました。

本堂縁側からの豊浦宮講堂の遺構です。石積の下は版築になっているようです。チャンネル登録している梅前佐紀子さんの飛鳥古代史チャンネルの2年前の動画では塀の外から遺構を覗いてみるだけだったので、偶然ご住職に会えた自分はラッキーだったようです。遺構の上にロープが掛けられているのは遺構に蓋をするためのものです。

遺構の奥に「文様石」と掲げられた曰くありげな石が。石の上面に何やら模様が掘られています。猿石や亀石同様、飛鳥のミステリーストーンのひとつらしい。

本堂の障子は締め切られていたのですが、お断りすれば入ることができたのかも知れません。風に飛ばされないように重しが置かれた向原寺縁起は1枚しか残っていなかったので、後でじっくり読むべく写真を撮るだけにしておきました。

向原寺門前の奈文研解説とある推古天皇豊浦宮跡豊浦寺説明板、593年推古天皇がこの地で即位、603年にすぐ近くの小墾田宮へ遷るまで日本の首都であったことは間違いありません。奈文研お墨付きです。ちなみに小墾田宮は現在地から200mほど北側で現在は広い田んぼに木が一本立っているだけのようです。

向原寺の南側に隣接する難波池、552年仏教公伝の際、廃仏派の物部尾輿が仏像を投げ込んだ池らしい。

70mほど先に推古天皇豊浦宮跡の碑、向原寺は豊浦宮跡のごく一部だったと分かります。

帰宅後、上述の動画の1年ほど後、しっかりアポをとって向原寺を再訪している梅前佐紀子さんの動画を見つけ、ご住職の詳しいお話を聞くことができました。蘇我稲目が百済渡来の仏像を自邸、向原の家に祀ったのが向原寺の始まり、592年に蘇我稲目の孫にあたる推古天皇が即位、向原家を豊浦宮とし、603年に小墾田宮へ遷宮の後、この地は豊浦寺となったようです。推古天皇豊浦宮跡の碑の脇に置かれた石は豊浦寺の塔の心礎だったとの説明もありました。1400年前には巨刹で伽藍が立ち並んでいた向原寺です。

向原の家が豊浦宮となるまで、飛鳥を翔けた5人の女性のひとりで日本最初の留学生であり、蘇我氏の庇護を受けていた善信尼が住んでいた桜井道場、桜井寺だったとも分かりました。かなり複雑な変遷でなかなか頭に入って来ないものの、1400年もの複雑な変遷を紐解くことが歴史探訪の醍醐味かも。

推古天皇豊浦宮跡の碑から東へ向かうといかにも飛鳥な景色がパコッと広がりました。

ポカポカ陽気のルンルン気分で美しいカーブを描いた小道を歩きます。右手の森は甘樫丘。

美しいカーブの小道にオオイヌノフグリがいっぱい。

オオイヌノフグリ、ホトケノザ、そしてコハコベ。どれもいい感じで接写できました。

明日香村埋蔵文化財展示室

今日2箇所目の目的地、明日香村埋蔵文化財展示室、農産物直売所のある道の駅のような場所の一角です。この牽牛子塚古墳ジオラマが見たくてやって来ました。

ジオラマの四方八方どちらにも石室が無いのがちょっと残念。

牽牛子塚古墳ジオラマの下のパネルは越塚御門古墳の石棺、石室に覆われていない状態です。

牽牛子塚古墳の閉塞石、玄室への羨道を閉じる石です。

その隣に都塚古墳のジオラマと復元図、石舞台古墳の南400mほどに位置する蘇我稲目の墓と言われるピラミッド型の方墳で、牽牛子塚古墳のようにむき出しの石積での復元ではなく土に覆われた状態で墳丘にも上れるようです。

ここでも縄文土器の紹介から始まっているものの、弥生時代や古墳時代はあっさり。

日本国誕生〜飛鳥から始まった主な制度の紹介のパネルで、「日本」や「天皇」の呼称、時計・暦(漏刻)、貨幣経済(富本銭・和同開珎)、歴史書・文学(記紀・万葉集)とアピール、めちゃ説得力があります。

仏教伝来、中大兄皇子と中臣鎌足の蹴鞠での出会い、遣隋使、乙巳の変、白村江の戦い、斉明天皇の土木工事、キトラ古墳の壁画制作と美しく分かりやすいイラストで紹介されていました。

イラストパネルだけでなくそれを裏付ける資料も多数展示。

石神遺跡から出土の石人像と吉備姫王墓内の猿石の複製。複製であってもプロの石工が彫ったと思われるかなりの力作です。

さまざまな形の古墳が点在する飛鳥と藤原京のようす、中央に牽牛子塚古墳、遠くに条坊制の藤原京と耳成山、左手の前方後円墳がよく分からないのですが、手前は高松塚とキトラ古墳のようです。作者の早川和子さんは考古復元イラストレーターの第一人者、上掲のイラストも早川さんの作品のようです。

7世紀中頃登場の大王墓の八角墳は機内に5基のみで、牽牛子塚古墳の他に野口王墓古墳(天武天皇・持統天皇陵墓に治定)と中尾山古墳(文武天皇陵説が有力)が明日香村にあります。飛鳥ではかなり早い段階から渡来人が活動していたらしいとも。

訪ねてみたかった名張の夏見廃寺跡に復元された遷仏壁がここにも。廃寺から出土した遷仏で川原寺や山田寺でも同様の壁があったと考えられるとのことです。飛鳥を翔けた女性たちは5人のはずですが、ここでは推古天皇、斉明天皇、持統天皇だけで、額田王と善信尼が不在。

手が空いたボランティアガイドさんとしばしおしゃべり。向原寺を訪ねて来たばかりと話すと、難波池に投げ込まれた仏像は長野の善光寺に運ばれその本尊となったとのこと。20年くらい前に長野への出張の際、パートナー氏(南アジア系の香港人)と一寸先も見えない真っ暗闇の善光寺本堂下を巡るお戒壇めぐりを体験したことを思い出しました。あんな真っ暗は初めての経験で自分はとても怖かったのですが、パートナー氏はへっちゃらだったのが懐かしい。

善光寺本尊、一光三尊阿弥陀如来は絶対秘仏も本尊と全く同じ姿の前立(まえだち)本尊が7年に1度公開されており、ネットにアップされたその写真をみると梅前さんの動画で紹介されていた難波池から発見された向原寺の仏像とよく似ているものの違ってます。物部尾輿に捨てられた仏像は2体だったのか、真相はそれこそ闇の中。

牽牛子塚古墳ジオラマの前でボランティアガイドさんにライトアップされた牽牛子塚古墳の写真を自慢させてもらいました。ジオラマ下のパネルはその下にある古墳ですよねと問いかけると、すぐさま大田皇女ですね、と返してくれたのが嬉しかった。

明日香村埋蔵文化財展示室を出ると駐車場の隅っこに石神遺跡の説明板。何と自分が立っている現在地は石神遺跡のど真ん中です。

右手に杭が並んでいるのは水落遺跡、即位する前の中大兄皇子が築いた水時計があった場所、日本の時刻の発祥です。

飛鳥寺へ向います。広大な田園地帯が広がっていますが1400年前には外国使節を饗応するための建物が立ち並んでいたとイメージを膨らませてみます。この付近の現住所は明日香村大字飛鳥、向原寺周辺は大字豊浦、大字飛鳥も豊浦も元飛鳥村。飛鳥宮跡や岡寺周辺の大字岡、石舞台周辺は大字島庄、棚田や案山子の大字稲渕などの明日香村東部は元高市村。飛鳥駅や牽牛子塚古墳のある大字越や高松塚古墳のある大字平田などの明日香村南部は阪合村。飛鳥村、高市村、阪合村が1956年に合併してできたのが明日香村です。

以前、記紀では飛鳥、万葉集では明日香と表記することが多く、叙事的には飛鳥、叙情的には明日香と表記されると理解して良さそうと書いたのですが、言葉としては飛鳥を「あすか」と読むのは「飛ぶ鳥の」が「あすか」枕詞の枕詞になったことによるので、元々は明日香が正しいということになるはずです。しかし「飛鳥時代」と書いても「明日香時代」とは書かないので日本の発祥の地の表現としては「飛鳥」が正しいということになります。叙事的叙情的両方の意味を含めて「飛ぶ鳥の明日香」とすればオールマイティかも。

飛鳥寺に着きました。ここまでで区切り後編に続けます。