飛ぶ鳥の明日香(前編)
先週の平城京から飛鳥時代へ戻ります。今日は明日香村中心部へ。
真正面に畝傍山が聳える橿原神宮への参道、左端が喫茶店サンド、すぐ先に3ヶ月前にオムライスを食べた津田食堂があります。
庫裏の手間に格子戸があるもののお庭の向こうに抜けていけるのか微妙です。迷っていると庫裏の縁側の奥にご住職の奥さんが見えもう一度訊ねると、本堂に上がってその縁側から遺構を見学でき、階段を下りてサンダルを借りて近づくこともできると分かりました。
本堂縁側からの豊浦宮講堂の遺構です。石積の下は版築になっているようです。チャンネル登録している梅前佐紀子さんの飛鳥古代史チャンネルの2年前の動画では塀の外から遺構を覗いてみるだけだったので、偶然ご住職に会えた自分はラッキーだったようです。遺構の上にロープが掛けられているのは遺構に蓋をするためのものです。
70mほど先に推古天皇豊浦宮跡の碑、向原寺は豊浦宮跡のごく一部だったと分かります。
帰宅後、上述の動画の1年ほど後、しっかりアポをとって向原寺を再訪している梅前佐紀子さんの動画を見つけ、ご住職の詳しいお話を聞くことができました。蘇我稲目が百済渡来の仏像を自邸、向原の家に祀ったのが向原寺の始まり、592年に蘇我稲目の孫にあたる推古天皇が即位、向原家を豊浦宮とし、603年に小墾田宮へ遷宮の後、この地は豊浦寺となったようです。推古天皇豊浦宮跡の碑の脇に置かれた石は豊浦寺の塔の心礎だったとの説明もありました。1400年前には巨刹で伽藍が立ち並んでいた向原寺です。
向原の家が豊浦宮となるまで、飛鳥を翔けた5人の女性のひとりで日本最初の留学生であり、蘇我氏の庇護を受けていた善信尼が住んでいた桜井道場、桜井寺だったとも分かりました。かなり複雑な変遷でなかなか頭に入って来ないものの、1400年もの複雑な変遷を紐解くことが歴史探訪の醍醐味かも。
訪ねてみたかった名張の夏見廃寺跡に復元された遷仏壁がここにも。廃寺から出土した遷仏で川原寺や山田寺でも同様の壁があったと考えられるとのことです。飛鳥を翔けた女性たちは5人のはずですが、ここでは推古天皇、斉明天皇、持統天皇だけで、額田王と善信尼が不在。
手が空いたボランティアガイドさんとしばしおしゃべり。向原寺を訪ねて来たばかりと話すと、難波池に投げ込まれた仏像は長野の善光寺に運ばれその本尊となったとのこと。20年くらい前に長野への出張の際、パートナー氏(南アジア系の香港人)と一寸先も見えない真っ暗闇の善光寺本堂下を巡るお戒壇めぐりを体験したことを思い出しました。あんな真っ暗は初めての経験で自分はとても怖かったのですが、パートナー氏はへっちゃらだったのが懐かしい。
善光寺本尊、一光三尊阿弥陀如来は絶対秘仏も本尊と全く同じ姿の前立(まえだち)本尊が7年に1度公開されており、ネットにアップされたその写真をみると梅前さんの動画で紹介されていた難波池から発見された向原寺の仏像とよく似ているものの違ってます。物部尾輿に捨てられた仏像は2体だったのか、真相はそれこそ闇の中。
牽牛子塚古墳ジオラマの前でボランティアガイドさんにライトアップされた牽牛子塚古墳の写真を自慢させてもらいました。ジオラマ下のパネルはその下にある古墳ですよねと問いかけると、すぐさま大田皇女ですね、と返してくれたのが嬉しかった。
飛鳥寺へ向います。広大な田園地帯が広がっていますが1400年前には外国使節を饗応するための建物が立ち並んでいたとイメージを膨らませてみます。この付近の現住所は明日香村大字飛鳥、向原寺周辺は大字豊浦、大字飛鳥も豊浦も元飛鳥村。飛鳥宮跡や岡寺周辺の大字岡、石舞台周辺は大字島庄、棚田や案山子の大字稲渕などの明日香村東部は元高市村。飛鳥駅や牽牛子塚古墳のある大字越や高松塚古墳のある大字平田などの明日香村南部は阪合村。飛鳥村、高市村、阪合村が1956年に合併してできたのが明日香村です。
以前、記紀では飛鳥、万葉集では明日香と表記することが多く、叙事的には飛鳥、叙情的には明日香と表記されると理解して良さそうと書いたのですが、言葉としては飛鳥を「あすか」と読むのは「飛ぶ鳥の」が「あすか」枕詞の枕詞になったことによるので、元々は明日香が正しいということになるはずです。しかし「飛鳥時代」と書いても「明日香時代」とは書かないので日本の発祥の地の表現としては「飛鳥」が正しいということになります。叙事的叙情的両方の意味を含めて「飛ぶ鳥の明日香」とすればオールマイティかも。
飛鳥寺に着きました。ここまでで区切り後編に続けます。