飛ぶ鳥の明日香(後編)

承前、明日香村飛鳥の飛鳥寺に着いたところです。

飛鳥寺西門前はちょっとしたお花畑、ヒメリュウキンカが鮮やか。遠くからだとレンゲに見えたピンクの花はシバザクラ。

飛鳥寺から飛鳥宮へ伸びる道、右手に蘇我入鹿首塚があります。乙巳の変現場の飛鳥宮から、600mも首が飛んできたようです。

飛鳥寺の本堂です。本尊の重要文化財飛鳥大仏の作者、鞍作止利(くらつくりのとり)は善信尼の甥だそうです。善信尼の住まいだった豊浦寺(桜井寺、現・向原寺)が尼寺だったことから、蘇我馬子が創建した法師寺が飛鳥寺(法興寺)らしく、向原寺と飛鳥寺は姉弟寺ということになるようです。。

五重塔も含む壮大な伽藍が立ち並んでいた飛鳥時代の飛鳥寺の様子が描かれた説明板。遠くに金剛山の山影が確認できます。

酒船石

飛鳥寺から南へ5分ほど歩いた万葉文化館入口脇に亀形石造物のチケットブースの小屋、中の人に訊ねると酒船石(さかふねいし)へは小屋の裏の坂道を上って5分くらいで無料、小屋の前を奥へ進むと亀形石造物でこちらは文化財保存協力金300円とのこと。まずは小屋の裏の坂道を上ります。

山の中の坂道も益田岩船と較べるとはるかに楽勝です。

竹藪の中にチケットブースの中の人に見落とさないようにと教えてもらった建屋、中には発掘された石垣。

現在地は版築状に3mほど盛土された人工の丘陵で、日本書紀斉明二年条の「宮の東の山に石垣を累ねて垣とす」「石の山丘を作る」という記述に該当する遺跡である可能性が強いと説明板。

竹林に囲まれた酒船石、北側側面からと東側から。

QRコードを読み取り、河瀬直美さんの解説を聞きながら酒船石の廻りを歩き、これは何なのか考えにふけります。

酒船石の西側は溝を流れてきた水が貯まるようになっています。北側の側面角には何かを引っ掛けるためのような規則的な溝。

何らかの祭祀のためという説が有力なようですが、なんとなくピタゴラスイッチを彷彿とさせます。

酒船石北側地面に石の列、若一調査隊によると、この石の列は斉明天皇の時代に作られた運河で天理から運ばれてきた砂岩で、さっき建屋で見た石垣もその一部らしく、酒船石の置かれた丘全体が人工物と分かったそうです。

酒船石の丘を下りチケットブースまで戻ってきました。お弁当をつかっていたボランティガイドさんらしき中の人に、益田岩船より全然楽勝でしたと声をかけるとお箸を置いてくれたので、ここでも牽牛子塚古墳ライトアップの写真を自慢させてもらいました。

文化財保存協力金を払って亀形石造物へ。天皇皇后両陛下行幸啓記念の石、平成28年の現上皇上皇后両陛下の明日香村訪問を記念したものと思われます。その時高松塚を訪ねられた記録は見つかったものの、ここも訪ねられたかどうかは情報が見つかりませんでした。

亀形石造物です。切石の石囲いにホースが繋がれていて、筧から小判型の石造物に流れ込み、濾過してから亀形石に流れ、下流へ排出される仕組みです。酒船石以上のピタゴラスイッチっぽいです。

筧に水は流れていないものの、小判型と亀形石造物には水が溜まっていて、石造物の周囲には水がチョロチョロ流れています。近くにいたボランティガイドさんに訊ね、水道水じゃなくて湧水であることを確認。

河瀬直美さんの解説では酒船石から流れて来た水を亀形石に入れ下流に流すと説明されていますが、山の上の酒船石まで湧水が湧き上がるはずはなく、切石の石囲いの下が源流だと思います。

向こう側の斜面には発掘の最初に見つかった階段状の石垣。若一調査隊によると、この石段が地面の中にどんどんもぐりこんでいて、この亀形石が発見されたそうです。

全体が人工物と分かった丘、言われてみるとたしかに人工物っぽいです。亀形石からの水はどこへ流れていたのか、この北側に位置する、斉明天皇が造った狂心渠(たわぶれごころのみぞ)と呼ばれる運河に流れ込んでいたのかも知れません。ブラタモリでも紹介されていた運河です。

ボランティアガイドさんが指差し教えてくれた飛鳥坐神社前の公衆トイレ近くで狂心渠が確認できるらしい。斉明天皇の土木マニアぶりを実感すべく訊ねてみたいと思います。

万葉文化館

亀形石に隣接する万葉文化館でランチにします。

広い駐車場からの酒船石の丘、巨大な丘陵全体が人工物とはちょっと考えにくく、3mの盛土と石垣の建屋あったように、その一部が人工物だったと思われます。

駐車場脇に小さなフードコートがあって3件ばかりのお店が並んでいたのですが、ランチメニューは殆ど売り切れで、万葉文化館内のレストランに入りました。大きな窓に外の万葉庭園が広がっています。

カツカレーにしました。地元の野菜をふんだんに使っているのが自慢らしく、見たことのない野菜も。外側が紫で中が白いスライスはたぶん紅くるり大根。

レストランと展示棟に挟まれた飛鳥池遺跡復元遺構、ため池跡から発掘された古代工房遺跡だそうです。ここではボランティガイドさんが逆にご案内しましょうかとせっかく声をかけてくれたのに失礼してしまいました。

エスカレーターで地下へ下りると「歌とはなんだろう」というよく意味がわからないトンネルから始まり、その奥には海石榴市(つばいち、古代の市)を再現した空間が広がっていました。

浦島太郎の紹介、何と亀を助けて龍宮城へ連れられたのではなかったようです。

壬申の乱・瀬田の唐橋の戦いのジオラマ、左手近江朝軍に対し右手大海人皇子軍の方が圧倒的です。

横に長い万葉集年表のパネル、大伯皇女(おおしのひめみこ)、持統天皇、柿本人麻呂、但馬皇女の部分です。

網代帆を開き荒波を越える遣唐使船のジオラマ、平城宮跡の復原遣唐使船と同じ形で、こうやって見ると150人は乗れそうです。

大仏鋳造の場面のジオラマ、手前の僧侶と貴族は良弁と吉備真備でしょうか。

万葉びとの筆跡、病弱だったと伝わる聖武天皇の筆跡が意外と力強い。

万葉庭園を少し歩いてみます。向こうの丘の裾野を行くとボランティガイドさんに教えてもらった飛鳥坐神社前の公衆トイレへ抜けられそうですが、今日は反対方向の飛鳥宮跡へ行きたいので狂心渠機会を改めることにします。

ところどころに梅が咲き、復原遺跡もあり、とても気持ちいい庭園です。

飛鳥宮

上掲の若一調査隊の前半で紹介されていた発掘現場へ、農業用水らしき直線の流れに沿って歩きます。飛鳥寺と耳成山が見えます。

何も無い土だけの地面が飛鳥宮の内裏跡発掘現場で間違い無さそう、若一調査隊の取材からせいぜい3ヶ月くらいしか建っていないはずも既に埋め戻されてしまったようです。

発掘現場に隣接する飛鳥京跡苑池休憩舎でセグロセキレイ。

梅の木の向こうに広がる空間は飛鳥京跡苑池、庭園遺構で渡り堤で仕切られたふたつの池、噴水、中島、桟敷などが設置されていたとのこと。斉明朝頃の造営で天武朝頃に改修されているらしい。ここでも斉明天皇の土木マニアぶりが発揮されていたようです。

飛鳥宮跡です。杭の並んだ建物の柱跡と石敷井戸。

5年前に同じ場所に来ています。その時は飛鳥宮跡ではなく伝飛鳥板蓋宮跡でした。

3期の宮殿遺構が重なって作られており、皇極天皇・飛鳥板蓋宮(Ⅱ期)だけでなく、Ⅰ期の舒明天皇・飛鳥岡本宮、Ⅲ期前半の斉明天皇・後飛鳥岡本宮、Ⅲ期後半の天武天皇・持統天皇の飛鳥浄御原宮が置かれていたことが判明、伝飛鳥板蓋宮跡から飛鳥宮跡に名称変更されたそうです。

奈良県の建てた説明板も令和3年3月に「史跡 飛鳥宮跡」に変更されていました。

その先のガレージのシャッターにバンクシー風のイラスト。

帰り道

酒船石の丘の麓の小さな休憩所の飛鳥を翔けた女性たち、狂心渠まですぐ近くですが、飛鳥大仏バス停でほどなくやってきたバスに乗り込んでしまいました。

橿原神宮前駅東口の飛鳥観光広域案内図です。牽牛子塚古墳は仕切り壁の建てられた石室のイラスト、八角形のピラミッドが復原される前の案内図と分かります。

橿原神宮前駅構内踏切の北側、奥にモト90形が見える右手の上屋は南大阪線車両が台車を履き替えるための施設です。

南側は狭軌の線路がまっすぐ伸びてこの先吉野線に合流します。特急の左も狭軌の南大阪線車両です。

いつもの「みよきく」、アテは珍味3展盛りにしました。お酒が進むのですが塩分摂りすぎと気づいたのは食べてから。

「飛鳥・藤原の宮都」世界文化遺産国内推薦決定の横断幕が掲げられていました。百舌鳥・古市古墳群が世界遺産なので飛鳥はとっくに世界遺産かと思い込んでいたのですが、1月28日に文化庁が発表したばかりと分かりました。世界遺産になると古墳や遺跡の発掘や保存、整備が進むのはいいとして、観光公害が心配。でも堺や藤井寺が観光客で溢れているということはなく、東大寺や清水寺、あるいは富士山のようなインパクトがあるわけではないので、大丈夫かも。

大和八木駅での連絡がよくないと分かり大和西大寺経由で帰ります。満開のピンクはたぶんアンズです。

石切付近の夕日。隣の韓国人女性も歓声を上げていました。