関大博物館とハニワ工場

1月に訪ねた京大博物館に続いて今日は関大博物館へ。

阪急千里線関大前で下車、地下の改札から東側へ出ると階段状の公園が広がっていてその上に関西大学と掲げられたビル。関大を訪ねるのは49年前の入試以来、もちろんこんな公園は当時ありませんでした。

石段を上った先に長いエスカレーター、この時間帯は2本とも上り。

関大のキャンパスマップを見ると、学部によっては千里丘駅の方が近くなると分かります。地図右端に名神高速、その向こうに関大一高。大学っていうと正門に守衛室があって部外者立入禁止というイメージで、守衛室で博物館へと断って入るつもりだったのに、敷地を囲むフェンスも無いようです。

キャンパスマップの⑨に向います。せっかく階段と長いエレベーターで上って来たのに千里丘という丘にいることを実感させる下り坂。ちょうど入試が終わったばかり、どうやら長い春休みに入ったようで殆ど人が歩いていません。

簡文館

⑨の簡文館に博物館があります。1928年に図書館として建てられたものらしい。

関西法律学校発祥の地の碑と事実上の関大創立者、大審院長(最高裁判所長官にあたる)だった児島惟謙像。自分が高校生だった頃も司法試験目指すなら関大とよく言われていましたが、自分が受験したのは文学部。

簡文館のドアを開けて中に入るも受付は見当たらず、いきなりどーんと藤ノ木古墳石棺の復元。「石棺の表面には水銀朱が塗ってあります。絶対に触らないでください」との注意書き。

奥へ進むと京都銘菓おたべのキャラクターみたいな陶器の人形が座布団に鎮座していて、おこしやす。左手は年史編纂室とあり壁にはぶどうのレリーフと壺、その右手のいかにも博物館な階段を上ります。

受付は2階にあり学芸員さんらしきが座っていました。見学は無料。

大正期大阪の財界人で言論人、本山彦一が蒐集した考古学資料である「本山コレクション」を昭和27年に関西大学が譲り受け、橿原考古学研究所初代所長で関西大学考古学研究室教授の末永雅雄が本山コレクションを核として設置した小さな考古学資料室が礎となり、平成6年に関西大学博物館が開設されたとのこと。

展示された末永雅雄博士遺愛の座机には昭和32年の二上山の発掘調査報告書やサヌカイト製打製石器が置かれています。

縄文時代後期の石棒がいっぱい並んでいます。何やら怪しげな形、中には精緻な文様が刻まれたものも。脱穀に使うすりこぎ棒かと思いきや、どうやら実用的なものではなく、見た目どおり子孫繁栄や豊穣を祈願した呪術的な道具であったと考えられているそうです。

磨製石斧の数々。独鈷石は真ん中に柄を取り付けて斧として使ったものと思われます。いずれにせよ尖っておらず木も切れそうにない石斧や独鈷石は非実用品で祭祀や儀礼に使われたと考えられるようです。それでも仕上がるまで2ヶ月もかかり、非実用品の所有が縄文時代のステータスになっていたらしい。

土偶がいっぱい。北上市更木出土とある土偶は北上川東岸に位置する八天遺跡からのもののようです。口や鼻、耳など体の部分だけの土製品が出土しているユニークな遺跡です。

茨城県稲敷市福田遺跡出土の豊満なGカップの土偶。福田遺跡がどこなのかは分からないものの、霞ヶ浦の南にある稲敷市には5年前にバードウォッチングで訪ねています。

遮光器土偶の頭が2つ、右手の頭が手前の胴体につながるようです。中は空洞です。

縄文土器というと大型の甕のようなものをイメージしますが、小型の注口土器やミニチュア土器も。

縄文時代晩期の土器に内側が金色に塗られた台付鉢形土器は、明治や大正の茶会で花入れや茶器使われたものらしい。縄文土器でお茶会を楽しむという発想がスゴイ。

弥生時代へ移ります。

堺市四ツ池遺跡(諏訪ノ森と津久野の中間辺り)から出土の蛸壺形土器、展示された壺はイイダコ漁用のものらしい。岸和田出の自分には馴染み深い飯粒のような卵がいっぱい詰まったイイダコ、弥生時代でもよく食されていたようです。

銅鐸が5点、前列は四條畷市から出土の扁平鈕袈裟襷文銅鐸、大きい方の中に小さい銅鐸が入れ子になって発見されたらしい。中列は出土地不明の扁平鈕袈裟襷文銅鐸、後列右も出土地不明の突線鈕式銅鐸。ところが後列左は江戸時代末期から明治期に作られたと推測される贋作銅鐸とのこと。細かい文様もしっかり作られ、錆具合からも一見本物より本物っぽい贋作です。

景初三年銘画文帯神獣鏡(模造品、和泉黄金塚 - 信太山丘陵の北西部)、方格規矩鏡(兵庫県新宮町香山古墳)、文字がくっきり刻まれた出土地不詳の前漢鏡。卑弥呼が魏に使者を派遣したのが景初三年(239年)です。

続いて古墳時代。鉢巻に刀子を差した料理人らしき男性、冑をつけた武人、あごひげを蓄えた農夫の人物埴輪。

鶏形埴輪と鷹形埴輪、鷹じゃなくてイカルに見えます。

日葉酢媛命(ひばすひめのみこと - 垂仁天皇皇后)陵の蓋形埴輪復元模型、蓋の漢字になぜか「礻」が付いてます。陵は佐紀盾列古墳群の佐紀陵山古墳(近鉄平城駅東側付近)。垂仁天皇が皇后の葬儀に際し殉死を悪習とし、野見宿禰の提案により殉死に代わり埴輪を埋葬することを進言したのが埴輪の始まりとされます。

古墳の被葬者頭部をのせる碧玉製の石枕、右手の大きい方は天理市渋谷の古墳(景行天皇陵を指していると思われる)から出土の重要文化財。

末永雅雄先生復元の古墳時代甲冑です。

1階の年史資料室も覗いてみるとここにもぶどうのレリーフ、展示室では関西大学の歴史が詳しく紹介されていました。

関大のスポーツといえばやはりフィギュアスケート。高橋大輔、織田信成、宮原知子、町田樹と錚々たるスターたちです。

簡文館の外に高松塚古墳壁の再現展示室。ハーフカットの石室模型に入ってみます。

「玄武」と「女子群像」です。これまでおたふく顔の飛鳥美人ってちっとも美人じゃないと思っていたのですが、改めて見てみると赤い服の女性とか十分美人に見えるのは自分が古代史好きになったせいか。

高松塚古墳の発掘調査は1972年に奈文研所長の末永雅雄指揮の下、関西大学と龍谷大学の研究者・学生により行われています。

高松塚古墳だけじゃなく石舞台古墳や唐古・鍵遺跡も末永先生により発掘調査されたもの。奈良テレビのYouTubeでその業績が分かりやすく紹介されており、末永先生がいなかったら自分の今の古代史への興味もなかったと気付きます。今読んでる倭人伝を読みなおすの森浩一先生も末永先生に師事したひとり。

簡文館と高松塚古墳壁画再現展示室を後にします。

関大正門です。この眺めはうっすら記憶にあります。右手の円筒形の建物にある食堂でランチ、トレイを持って厨房の前に並ぶような学食を期待していたのですが、テーブルまで給仕してくれるふつうにレストランでちょっとがっかり。

正門前の通りは学生街らしく春休み中の土曜日でもそこそこ賑わっていました。関大前駅は高校生がびっしり、関大一高も含め私立高校の多くはまだ土曜日に授業があるようです。淡路で河原町行準急に乗り換えてもうひとつの目的地へ向います。茨木市でさらに普通に乗り換え富田(とんだ)で下車。乗ってきた普通は8300系と7300系の混結、7300系は運転台も撤去されていました。

史跡新池ハニワ工場公園

JR富田駅まで歩いて高槻市営バスに乗って上の池南バス停で下車。上の池じゃなくて中の池畔の遊歩道には御守を手にしたブロンズのハニワ。

その先のハニワ工場館は後で見学することにして、新池畔に並べられたハニワのレプリカ群をチェック。

武人、家形、蓋形ハニワのレプリカ、一群のレプリカごとに陶板に描かれたマンガの開設。

新池を反時計回りに見るべきところ逆に回って来たと分かりました。マンガは今城塚古墳の案内板と同じ絵本作家ヨシトミヤスオ氏の作品です。

ハニワ工場公園の全体図です。3基の窯が復元されていて、1基は発掘時の様子。

2基は上屋も被せられた1600年ほど前の様子です。

登り窯を上から覗いてみたところです。

窯の上に2棟の工房、竪穴建物です。さらにもう1棟の工房が上屋の無い発掘調査時の姿で残されています。

工房付近から見下ろした新池を囲むハニワ工場公園の全体像です。

ハニワ工場公園のジオラマ。手前のパネルには450年頃3基の窯で太田茶臼山古墳のためのハニワが製造されていた時の様子、530年頃13基の窯で今城塚古墳のためのハニワが製造されていた時の様子が描かれています。

反対側へ回ってみると遠景の案内。

正面のこんもり茂るラクダ形の森は太田茶臼山古墳、その向こうの高層ビル群は梅田です。

ハニワ工場館へはさっきと反対側からも入れるようになってました。

ハニワ工場館の内部です。階段でじっくり窯の様子を見学できるようになっています。実物の埴輪3点も展示。

3基の窯以外の窯跡は生け垣で表現されているのはなかなか優れたアイデア。周囲をぐるっと高層住宅に囲まれたちょっとシュールな趣の遺跡です。

太田茶臼山古墳

太田茶臼山古墳まで歩いてみます。正面にエキスポシティのオオサカホイール。

気持ちのいい田んぼの道を行くといかにも古墳らしい竹林、マップをチェックして番山古墳(5世紀頃)と確認。円墳に見えますが、元々帆立貝形古墳だったらしい。古墳のすぐ向こうを名神高速道路が横切っています。

畑から首を伸ばした妙な野菜、芽キャベツです。道路をぐるっと迂回させているのは二子山古墳、太田茶臼山古墳ち号陪塚です。

名神高速道路をくぐって南側へ。防音壁がよく効いていて騒音はさほどじゃないです。

太田茶臼山古墳が見えてきました。その手前にも古墳、太田茶臼山古墳へ号陪塚です。

太田茶臼山古墳は周濠の外が工事中。

フェンスの金網からレンズを伸ばして周濠のカモたち。マガモとカイツブリの他に白い線の入った黒い首を横にして眠っているカモが2羽、これだけでは判別しようがないです。

さらに公園の中に太田茶臼山古墳C号陪塚、宮内庁ではと号陪塚。治定されているものいないもの併せて陪塚が全部で何基なのかよく分かりません。

西国街道の道標、太田茶臼山古墳は戻る方向を差しているのは間違ってます。

ずいぶん迷って太田茶臼山古墳拝所への入口にたどり着きました。宮内庁御用達の植木屋さんが作業中。

ジョウビタキ♂は十分ピントが合う前に行ってしまいました。ジョウビタキの右手に宮内庁の詰所があります。

太田茶臼山古墳(継体天皇三嶋藍野陵)です。5世紀中葉の築造と推定される全国で21番目に大きい古墳、宮内庁により継体天皇陵と治定されているものの、継体天皇は6世紀の人なので、継体天皇陵は今城塚古墳と理解するのが正解のようです。しかしながら摂津で陪塚を伴う古墳はこの太田茶臼山古墳しかなく、大王墓級の古墳であることも間違い無さそうです。継体天皇の曽祖父意富富杼王(おおほどのおおきみ)に治定する説があります。

きれいに掃き清められた砂利を撮っておいたのですが、左手の生け垣の向こうも車塚とよばれる陪塚と帰ってから分かりました。

藍野病院という巨大病院があって藍野さんという創立者によるものかと思っていたのですが、継体天皇三嶋藍野陵に因むと気付きました。近くを流れる安威川付近の野が藍野と呼ばれ、藍が自生し、染色に携わる人たちが暮らしていたようです。

藍野大学です。看護専門学校を母体とする藍野病院に関連する医療や看護を専門とする大学と分かりました。

さらに介護老人保健施設あいの苑、こちらも藍野病院に関連する施設のようです。

土室南バス停にたどり着くとメジロがやってきました。あいの苑は茨木市、土室南バス停は高槻市で高槻市バスでJR富田駅へ戻ります。

 

曽根崎のキリンケラーヤマトでプファー、パイ生地のピザが美味い。おかわりはヒューガルデン、ベルギービールは冷やさない方が美味しいかも。