馬見古墳群

バードウォッチング、お花見、古墳めぐりがオールインワンで楽しめるはずと気づき馬見丘陵公園へ。5年前にひまわりを見に行って以来かと。

馬見丘陵公園館

五位堂駅からバスで20分、馬見丘陵公園に到着。バスから下りたのは4人だけも駐車場はほぼ満車でした。

バス停正面の馬見丘陵公園館に入ってみると、「知っていますか古墳の形」という特大パネル。前方後円墳、前方後方墳、帆立貝形、円墳、方墳までは分かりますが、双方中方墳、双方中円墳、双円墳、八角墳、上円下方墳は知りませんでした。逆に出雲で有名な四隅突出墳が抜けてます。

巣山古墳のジオラマ、馬見古墳群中央郡の盟主となる巨大前方後方墳だそうです。

帆立貝形の三吉(みつよし)石塚古墳ジオラマ。大型横穴式石室の変遷と石棺の種類を勉強。

奈良県内の県立都市公園のパネルに吉城園が含まれていてちょっと嬉しい。

4世紀〜6世紀の大小さまざま、形も様々な230基もの古墳が集積する馬見古墳群です。

ロウバイが咲いている場所をポストイットで紹介。1月19日に開催された探鳥会観察記録も掲示。まさにバードウォッチング、お花見、古墳めぐりがオールインワン。

外へでると喫煙所発見、逸る気持ちを抑えていっぷく。喫煙所にやってきたハクセキレイです。

ナガレ山古墳

公園館から少し南へ歩くと見えてきました、ナガレ山古墳です。馬見丘陵公園へは少なくとも3回は訪ねているはずですがナガレ山古墳を見た憶えがありません。一番下の段丘は古墳じゃなくて丘を削ったもののようです。

かつて流山線沿線に住んでいたので「流れ流れて流山」というフレーズが出てきます。流山音頭とかの歌詞かと調べてみると違っているようです。

昭和63年から整備工事が進められ、1600年前と後の姿を同時に見ることができるようにしたと案内されています。案内板に河合町教育委員会とあります。てっきり広陵町かと思いきや、現在地は河合町です。河合町と広陵町の境界はかなり錯綜していて、ナガレ山古墳、乙女山古墳、一文字古墳は河合町、上池、下池は広陵町です。

前方部側面に続く円筒埴輪に囲まれた石段を登ります。

ナガレ山古墳前方部から後円部を見上げたところです。前方部に墓壙と粘土槨の位置がレンガで示されています。

後円部に上り前方部を見下ろしたところです。東側は葺石で覆われた1600年前の姿、西側は芝で覆われた現在の姿。

後円部の墳頂は何も無い広場、埋葬施設も明らかではないとのこと。

後円部から東側の眺め、上池の池面が見えます。

後円部から北側の眺めと後円部葺石の斜面です。

前方部東側からのナガレ山古墳のほぼ全容です。

円筒埴輪はFRP樹脂製が494本、素焼き埴輪が181本並べられているそうです。肌色のがFRP、茶色のが素焼きです。

今日の鳥たち

ナガレ山古墳から上池の方へ歩いているとヤマガラの姿が見えたもののピント合わず。でもコゲラ登場。

ヤマガラは間近のセコイヤの幹に止まってくれました。

写真の右下に「セコイア」と掲げられているのでメタセコイア(ヒノキ科)と思い込んでいたのですが、この時期に落葉針葉樹のメタセコイアの葉っぱが青々としているはずはなく、上の写真に(スギ科)とあり、センペルセコイア(単にセコイアとも呼ばれる)で間違い無さそうです。

セコイアの樹皮から虫をほじくり出しているヤマちゃんです。

頭上にはエナガ。

コゲラの地鳴きって始めて聞いたかも。ギーギー。

上池畔で緑色のカモ。くちばしが黒いのでマガモじゃなくてヨシガモです。

どんどん池から上がってきます。飛んでるヨシガモじゃなくて向こうにいるヨシガモにピントが合ってしまいました。

さらに集まってきて遊歩道を渡り向こうの芝生で何かついばんでいたのですが、人が歩いてきてバタバタっと池へ戻ってしまいました。

池には9羽の♂と2羽の♀、ヨシガモの集団を見たのは始めて。構造色の緑色がとても綺麗。

下池へやってくるとオオバンたち。おや、1羽だけバンが。

バンとオオバンの大きさ比較です。バンじゃなくてコバンあるいはミニバンと呼びたいところです。

池の真ん中にはミコアイサ♀。120mくらい先に浮いているのをがんばって撮りました。

名前に惹かれた乙女山古墳に行ってみます。北エリアまで歩いて来たもののやはり花は少ない。白とピンクのシバザクラが少し。

この先の丘でチューリップを見たことを思い出し、チューリップで検索して5年前の春に来ていると分かりました。チューリップの丘の向こうの緑道エリアに縄文遺跡(馬見二ノ谷遺跡)があると分かったのですが、どうやら説明板だけのようです。緑道エリアでエナガに会ったことも思い出し、検索してみると11年前の秋と分かりました。この時は五位堂駅から池部駅まで延々(6kmくらい)歩いています。

乙女山古墳は行き過ぎていると分かり中央エリアへ引き返します。花壇に咲いているのもキンセンカくらい。

乙女山古墳は竹林で覆われていました。ここからは周濠で囲まれていたことくらいしか分かりませんが、家形埴輪や楕円筒埴輪を含む円筒埴輪列が見つかっていて、5世紀前半の築造と推測される葺石の施された後円部直径104m高さ14.7mの帆立貝形古墳です。

下池の東側を歩いてます。池の向こうのひときわ背の高いセンペルセコイア(たぶん)が指している山は二上山雄岳、ここからだと雌岳が隠れてしまいヒトコブラクダです。

反対側遠くに若草山、左端に見えるレンガの煙突はどこかの酒蔵かな。

畝傍山です。左手の緑色の屋根は広陵中学校。火の見櫓の向こうは耳成山。曇り空でも大和しうるわし。

下池南側に位置する一本松古墳です。4世紀中頃の前方後円墳ですが、ただの小山にしか見えません。

巣山古墳

歩道橋で道路を渡ると巣山古墳、その手前の広場です。馬見丘陵公園の園内マップでは「春まちの丘」と案内されている場所の右手に案内板。

案内板では「春まちの丘」という表現は一切登場せず、「巣山古墳外堤の北側に位置する古墳状の高まり」から古墳時代中頃初め(4世紀末)の円筒埴輪と共通するつくりの円筒棺が出土、内部には被葬者が有力者であったことを伺わせる鉄剣などの副葬品が納められていたと写真付きで紹介されています。地面には石が並べられその出土位置が示されています。「古墳状の高まり」という表現に徹底していることにこの案内板を作成した人の矜持が感じられます。

ようやく見つけました。オオイヌノフグリとホトケノザ。今の時期の山野草といえばこの2種類。

古墳状の高まりの少し西側の小山も古墳、古墳時代前期の帆立貝形古墳の佐味田狐塚古墳と案内されているものの、古墳を斜めに道路が横切っています。

墳丘に上ってみると古墳が歩道橋の役割を担わされてしまっていました。

ロウバイが見頃を迎えていました。

ジョウビタキが出て来ました。

サザンカの蜜を吸うメジロ。この2枚の写真を前後に切り替えるとアニメみたいになります。

馬見丘陵公園の古(いにしえ)の丘にいます。その古墳マップです。

マップから振り返ると帆立貝形古墳の三吉(みつよし)2号墳、巣山古墳の陪塚ではないかと思われます。

巣山古墳の西側側面からの全体像です。4世紀終わりごろに築かれた前方後円墳、公園館のジオラマでは「馬見古墳群中央郡の盟主となる巨大前方後方墳」と説明されていましたが、ここでは墳丘の全長220m「馬見古墳群全体で最大」と明記されています。被葬者は明らかではないものの、馬見古墳群は葛城氏の墓域とされその祖とされる武内宿禰説があるようです。

巣山古墳の案内板に御墳印めぐりというのが案内されています。ここ北葛城4町だけでなく、埼玉県行田市周辺の古墳群、八尾市の心合寺山古墳などでも御墳印を集められると分かったものの、宮内庁管理の古墳はもちろん、百舌鳥古市古墳群や佐紀古墳群などは全く含まれておらず、神社仏閣の御朱印帳のような広がりは難しそうに思います。

巣山古墳に出島状遺構が見つかり水鳥形埴輪が出土と紹介されています。やはり水鳥形埴輪が出土している古市古墳群の津堂城山古墳の島状遺構と酷似、築造時期も4世紀後半と合致しています。

見えにくいものの周濠に石の敷かれた場所を見つけました。たぶん出島状遺構です。

巣山古墳の作り出し部分では整備工事が進んでいるようです。宮内庁管理ではなく、遠からず中へ入れるようになるのかも知れません。

三吉2号墳に上ってみると整備されすぎていました。

もう1箇所、公園館にジオラマがあった三吉石塚古墳へ行ってみます。県道を越えると竹取公園、隣接する讃岐神社が竹取物語の伝承地とされることに因む公園ですが、ローラーすべり台とかいろんな遊具が設置された公園になってます。竹取公園を抜けさらに南へ。

三吉石塚古墳、5世紀後半築造の帆立貝形古墳です。

三方がびっしり広大な墓地に囲まれ、殆どは新しい墓石ばかり、反対側は石材店、いささか不気味な古墳です。墳頂への石段も墓石と同じ種類の石と思われ、墓地の分譲事業者が古墳を整備したのではないかと推測。「古墳のある公園墓地」はキャッチフレーズになります。

三吉石塚古墳の墳頂からの眺めです。正面はヒトコブラクダの二上山。

帰り道を検索して馬見中二丁目バス停にたどり着くと1時間に1本しかないバスが5分後。来る時は後ろ乗り後払いだったのに帰りは前乗り前払い、ICカード決済がどういうしくみになっているのか不思議です。五位堂からの急行電車の連絡もバッチリ。このまま上本町まで戻っても日曜休業の店が多いので布施で途中下車していつもの小西酒店へ。

駅前に見覚えのある菜の花、やはり菜の花忌のプランターです。3年前の菜の花忌に司馬遼太郎記念館を訪ねています。