菜の花忌

第1回はそのコメディタッチに馴染めなかった鎌倉殿の13人ですが、その後結局ハマっています。先週の石橋山の戦いに破れ洞窟に潜んでいる頼朝を梶原景時が見逃す場面や、今週の上総介広常の遅参を叱りつけ相互の信頼を築く場面は新・平家物語で読んで頭の中でイメージしたものがそのままビジュアルになってました。

大河ドラマと三浦半島記

司馬遼太郎の街道をゆくシリーズの三浦半島記をまだ読んでいなかったことに気づきダウンロード。司馬先生は何度も三浦半島を訪ね磯子にあった横浜プリンスホテルに滞在しつつ執筆、街道をゆくシリーズの他の作品と少し趣が異なり、その風土描写よりもその歴史を考察する記述が圧倒的です。平家物語の頃、北条政権、太平記の頃、そして横須賀海軍まで、日本史の舞台としての三浦半島の魅力が漏れなく語られています。

頼朝と政子だけでなく、あまり馴染みのなかった北条義時、畠山重忠、和田義盛、三浦義澄ら鎌倉殿の13人の登場人物の素性やその足跡を辿っており、ネタバレを嫌う向きは別として、今年の大河ドラマをよく理解するには絶好の一冊です。

頼朝は、たしかにただ一人で日本史を変えた。また史上最大の政治家ともいわれる。ただ、その偉業のわりには、後世の人気に乏しい。頼朝は、自分自身の成功にさえ酔わなかった。

新・平家物語を読んで大嫌いになった頼朝ですが、鎌倉殿の13人を見、三浦半島記を読んでちょっと見方が変わってきました。ガチガチの律令制古代国家に大きな風穴を空けた平清盛の後を受け、武家による封建社会としてのこの国の中世を創始し、この国が中国や朝鮮半島とは異なる歴史や文化を持つことになる礎を作ったのは間違いなく頼朝です。

世界史的にいえば、日本史はアジア史に似ず、むしろその封建制の歴史において、西洋史に似ている。
後世のアメリカ合衆国大統領が法の下にいるように、頼朝は、かれ自身がつくった理念の下にいつもいた。

その理念の実現のために冷酷ともいえる合理性を貫いたことは後年の信長に通じるものを感じさせます。頼朝が平家討伐には遠く鎌倉から指示を飛ばすだけで決して自らは出陣しなかったこと、その合理性を理解できず情に流される義経の成敗が避けられなかったこと、奥州を平定するまでいっさい上洛しなかったこと、全て理にかなっています。

鎌倉殿の13人では飄々としたキャラクターの大泉洋さんが頼朝を演じ、冷酷さより悩み苦悩する姿が先に立ちシンパシーを感じやすいドラマになっており、さすがは三谷幸喜作品と思わせます。

司馬先生は、鶴岡八幡宮、由比ヶ浜、江ノ島、三浦半島最高峰の大楠山や三浦氏の拠点だった衣笠山、とくまなく巡り、そして三浦半島にいながら、伊豆半島や房総半島、そして京や壇ノ浦まで思索を巡らせています。まるで鎌倉を動かず全国を指揮していた頼朝です。朝比奈切通を抜け金沢文庫、横須賀、浦賀、久里浜へと足を伸ばし、それにつれ思索の時代が変わって行きます。

ちなみに、自分が長く住んでいた下総は上総より北にあるのになぜ下なのか、ずっと疑問だったのですが、かつての江戸周辺は広大な湿地で、鎌倉から房総半島へは頼朝のように舟で渡るのが一般的、つまり上総の方が下総より京に近いということが由来と分かりました。

街道をゆくシリーズの中でも珠玉の作品といえる三浦半島記、先生が72歳で亡くなるほぼ一年前、阪神淡路大震災前後の頃の執筆です。震災のことには全く触れられてはいないものの日本人の特質を語り震災からの復活への願いがこめられているような気がします。

司馬先生、鶴岡八幡宮でタイワンリスに出会っています。戦時中に江ノ島で飼われていたリスが逃げ出して鎌倉中で繁殖したそうな。司馬作品に野生動物が登場するのは極めて珍しい。調べてみると今も鎌倉では簡単にリスに会えるらしく、鶴岡八幡宮門前ではリスが描かれたクルミっ子というお菓子も売られていると分かりました。

長谷駅から極楽寺駅までひと駅だけ江ノ電に乗車するシーンも。自分は確か20代の頃に2度ほど行ったきりの鎌倉、なんとしても再訪したくなりました。

司馬遼太郎記念館と菜の花

久しぶりに司馬作品を堪能して、ふと司馬先生の命日、菜の花忌は今時分だったはずと気づき、調べてみると菜の花忌は2月12日で一週間前でした。ところが司馬遼太郎記念館のウェブサイトで菜の花忌に行われた東京でのシンポジウムは無観客開催になり、1週間遅れの今日19日、司馬遼太郎記念館で館長トークのイベントが開催されると分かり訪ねてみました。

司馬遼太郎記念館へは八戸ノ里の方が僅かに近いものの、準急が停車する河内小阪から歩いて行くと、途中の小さな公園に菜の花のプランターが並べられていました。

司馬遼太郎記念館の隣のお宅に菜の花、もちろん司馬遼太郎記念館の門前にも菜の花。

司馬遼太郎記念館のお庭の小径も菜の花の鉢で縁取られています。

生前の時のまま保存されている司馬先生の書斎の窓の菜の花は満開。記念館の通路も柱ごとに菜の花の鉢。

館長トークのイベントは記念館地下の大書架に隣接するホールで開催、コロナで一つおきの席に制限されていたもののそれでも80人の参加とのこと、歴史関係のセミナーとかは高齢者ばかりのことが多いのですが、幅広い年齢層の参加者にちょっとびっくり。ステージには大きな菜の花の花束。

司馬遼太郎記念館館長は、みどり夫人の弟の上村洋行氏、司馬先生と同じく元産経新聞記者だそうです。最近よく「たよし」で呑んでいるせいか、自分には素人名人会の大久保怜さんを彷彿とさせる、マイクの持ち方と軽妙なトークです。

トークのメインは無観客で開催された東京での菜の花忌シンポジウムの様子の報告、「胡蝶の夢」-新型コロナ禍を考える、というテーマでのシンポジウムだったそうです。松本良順、関寛斎、ポンペらを主人公に西洋医学黎明期を描いた胡蝶の夢、だいぶ前に読んだことがあります。館長トークを聞きながら-JIN-仁を思い出していたら、シンポジウムにはその原作者の村上ともか氏もパネラーとして参加されていたそうです。シンポジウムのもようは4月にEテレで放映される由。

もうひとつ西洋医学黎明期の物語として手塚治虫陽だまりの樹を思い出します。幕末の蘭方医で手塚先生の曽祖父にあたる手塚良仙の物語です。松本良順と手塚良仙がいずれも適塾出身で名前も似ているので自分が混同してしまっていることに今更ながら気づきいたものの、手塚先生と司馬先生、それぞれの価値観が似ていると感じられ、ほぼ同世代でどちらも関西人なので接点があったのでは、とよほどトークの質疑応答で訊いてみようかと思ったのですが、手を挙げられませんでした。やっぱり気になります。

トークイベント終了時には参加者に菜の花が配られました。香りのかなり強い花です。帰り際、大書架の壁に掲げられている21世紀に生きる君たちへを久々に読みました。

私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。歴史のなかにもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。

司馬先生とって頼朝もやはり友だちだったようです。帰りは小阪ではなく八戸ノ里へ向かうと記念館から八戸ノ里の駅近くまでずーっと菜の花のプランターが並べられていてびっくり。

角を曲がったお宅の庭に菜の花と梅。メジロが飛び回っていました。2羽写っているの、わかりますか?

「この世にはたくさんのすばらしい友人がいる。歴史のなかにもいる。」にぜひ「自然のなかにもいる」を追加してほしい。

高架上をひのとり回送が通過、布施高校グランド沿いにびっしり菜の花。

地元の自治会や学校などによる「街に菜の花を咲かせよう」という活動で、2004年頃から毎年1月末から4月頃まで小阪や八戸ノ里の町並みを彩っているそうです。

グラウンドの北側も、布施高校正門前も菜の花が満開。

せっかくいただいた菜の花ですが、ウチに持って帰るとやはり香りがきつすぎて、ウチの中じゃなくてベランダに出さざるを得ませんでした。司馬先生のこよなく愛した菜の花ですが、自分的にはこの時期の花としては菜の花よりやはり梅がいい。