これが日本の王陵

橿原考古学研究所付属博物館の春季特別展「桜井茶臼山古墳」が6月15日まで、3月に現地を訪ねた桜井茶臼山古墳、その説明板に紹介されていた玉杖の実物なども見学できるはず、これは見逃せません。

大阪上本町駅9番線に「快速急行大阪関西万博」と掲げた1522系が停車中、「近鉄電車の車内で八尾が誇るものづくりを体感しよう!」という八尾市産業政策課主催の1日だけのイベントと分かりました。東生駒のけいはんな線連絡線を通って第三軌条式の7000系と連結すればこの車輌が夢洲へ行くことが可能かもと考えたものの、パンタグラフやクーラーが断面の小さいトンネルにひっかかってやはり無理、と気づきました。

八木で乗り換え、目的地のひとつ手前の八木西口駅で下車。大阪では降っていなかった雨が降っていて、バッグから折りたたみを取り出すと開いた状態で固定する金具(「上ハジキ」というらしい)が壊れていました。

マップで見つけたお店でランチ。喫煙コーナーで食事もできるレストラン、大阪府では30㎡以上の店舗は一律禁煙(飲食のできない喫煙スペースは設置可)になってしまったので奈良県まで来る価値があります。日替りランチはメンチカツ+海老フライ+オムレツ、コーヒーがついて、タバコが吸えて880円。

ラ・ポッシュというお店でメニューも豊富、スーパー・マツゲンの中にあり、生活用品売り場で新しい折りたたみ傘をゲット。

八木西口駅の京都行線路から分岐しているのは橿原線と大阪線を結ぶ連絡線、基本的に標準軌台車に履き替えた南大阪線車輌を五位堂車庫まで回送するための専用線ですが、12年前にここを走るツアーに参加しています。動画に出てくるように、八木西口駅の南端に橿原神宮前への渡り線があります。

ひと駅乗って畝傍御陵前駅で下車、駅西口を出ると雨にけぶる畝傍山。

橿考研への道端に植栽からはみ出した黄色い花と白い花がいっぱい。野菊の一種のようですが名前は分かりません。

プランターには水滴に覆われたガウラ。

紫の花はハナハマサジ。橿原考古学研究所付属博物館に到着、昨年12月以来2回目です。左上は買ったばかりの傘。

特別展 桜井茶臼山古墳

「これが日本の王陵(チラシ)」とキャッチのついた特別展、懸垂幕スライドショーから始まります。

ロビーの壁際で「巨大」前方後方墳 - 王陵の系譜 - を石膏模型で紹介、桜井茶臼山に先立つ箸墓古墳(墳丘長280m、3世紀中頃)と西殿塚古墳(230m、3世紀後半)です。

そして桜井茶臼山に続く王陵となる行燈山古墳(崇神天皇陵、242m、4世紀前半)と渋谷向山古墳(景行天皇陵、300m、4世紀中葉頃)。いずれも山の辺の道に面していて画面右、前方部が西です。

展示室に入ると、最初に纒向石塚古墳と纏向勝山古墳の紹介。箸墓古墳に先立つ古墳時代前期初頭の築造、つまり日本最古の可能性がある古墳です。前方後円墳が定型化する前の纏向型と呼ばれる前方後円墳で、ヤマト王権最初の王都である纏向で王権の中枢にいた人の墓ではあるものの、圧倒的規模を持つ箸墓古墳とは異なり、「王陵」とは見なされないようです。

纒向石塚古墳出土の朱塗鶏形木製品や纏向勝山古墳出土の不明木製品(イノシシ形か)など定型化した前方後円墳では見られない出土品が並んでます。桜井茶臼山古墳を訪ねたその足で現地を歩いたばかりの2基、航空写真のパネルで現地の様子(木の根元にあったネコの頭蓋骨や田んぼのツグミたち)を思い出します。展示関連地図とおおよその時期のパネルは古墳の位置関係と時代順を再確認するにはとても便利。

同じく纒向型前方後円墳とされるホケノ山古墳、その中心埋葬施設想定復元模型です。3世紀後半以降の狭くて長い竪穴式石室と異なり、人頭大の川原石で囲まれた木槨です。

木槨の上に並べられていた壺形土器の実物、右ふたつは重要文化財。ホケノ山古墳の航空写真はこの元旦に訪ねた時の様子とは随分違っていて、発掘調査時のものと分かります。航空写真のすぐ上(南西側)に箸墓古墳が位置します。

複製ではあるものの箸墓古墳出土品を初めてみました。現品は宮内庁書陵部蔵の円筒埴輪と特殊壺の欠片です。

もうひとつの王陵とされる西殿塚(手白香皇女に治定されるも時代が合わず、台与-卑弥呼の後継者-説がある)古墳の円筒埴輪。西殿塚古墳と同時期ではあるものの、今日の主役の桜井茶臼山古墳には円筒埴輪は並べられていなかったらしい。

行燈山古墳と渋谷向山古墳出土品、中央下は行灯山古墳周濠から出土した銅板の複製、その上の額は現在行方知れずのこの銅板の内行花文鏡文様が描かれた面の拓本(長岳寺)。

渋谷向山古墳にほど近い柳本立花遺跡出土の1.7mもある円筒埴輪、王陵のための埴輪生産の様子を示すものです。

「王陵を築く」と題したパネルが気になりました。箸墓-西殿塚-桜井茶臼山-メスリ山-行燈山-渋谷向山、と6基の王陵をひとつの時系列の変遷と捉える見方とは別に、箸墓-西殿塚-行燈山を祭祀を司る王の系列、桜井茶臼山-メスリ山-渋谷向山を政治や軍事を司る王の系列、というふたつ系列に分ける見方が示されています。

大和天神山古墳出土の多量の水銀朱が塗られた木棺。行燈山古墳のすぐ西側に位置し、上掲の古墳の時代順のパネルにあるようにメスリ山古墳とほぼ同時期も、王陵ではなく初期ヤマト政権の有力者の墓と見られます。

さていよいよ桜井茶臼山古墳出土品、その発掘された5つの壺型埴輪と奥には埋葬施設の写真パネルと立体地図です。墳頂部の埋葬施設の上に方形壇が設けられ、その縁辺に壺形埴輪が配列され、さらにその外側は丸太垣で囲まれていたことが明らかになっています(方形壇と丸太垣図の拡大)。3月に訪ねた時は、立体地図右端の後円部端から地図下側を周り、地図左下まで来て、一旦宗像神社へ寄り道して、戻って、地図左上の前方部角まで歩きました。

桜井茶臼山古墳から至近の城島遺跡から大量の土木具が出土、その鍬や鋤、天秤棒です。桜井茶臼山古墳造営のためのキャンプ地だったようです。

纒向遺跡の纒向大溝から出土の工具や壺、「王都」纒向の全長2.6kmとも推測される纒向大溝は2世紀末から3世紀中頃の築造で、弥生時代の環濠集落よりも短期集中的な大規模工事の経験が王陵の造営に引き継がれたようです。

右側グレーの敷物の上は銅器製造に関わる脇本遺跡(雄略天皇泊瀬朝倉宮候補地を含む縄文〜奈良時代の複合遺跡)出土物、左側黒い敷物の上は鉄器製造に関わる纒向遺跡出土物。青銅器製造に関わる手がかりは少なく大型倭製鏡の製作地についても今後の研究を待つほかないとのこと。一方、鉄器は北部九州から先進的な生産技術を積極的に取り入れ、鞴の羽口なども出土しており、さかんに鉄器生産が行われていたと分かります。

特別展第二会場

もう特別展展示室の出口で玉杖や銅鏡はどこ?と外に出ると特別展第二会場に続いてました。ごちゃごちゃっとした第一会場(?)と異なり博物館というより美術館といった美しい展示室です。

第二会場中央に玉杖と鉄杖。玉杖の緑色の部分は碧玉(ジャスパー)製。英国王室の戴冠式等で見かける権威の象徴となる王杖(あるいは王錫)ではなく、呪術的な意味合いを併せ持つとされる玉杖ですが、王権を象徴するレガリアとして基本的に同じものかと。

古代メソポタミアの粘土板などにも描かれていた王杖、この玉杖は古墳時代初期に遥か遠くから伝わったものなのか、あるいは日本独自に進化したものなのか、後者の可能性が高そうですが引き続き調べてみたい。

玉杖に類する乙木・佐保庄遺跡(天理市)の団扇型木製品と黒塚古墳のY字型鉄製品(重要文化財)、そして新沢500号墳の八ツ手葉形銅製品。新沢千塚500号墳は新沢千塚古墳群に含まれてはいるものの、新沢千塚古墳群公園から1kmほど南に位置し、古墳群で最も古い4世紀末の前方後円墳。

後ろのパネルで桜井茶臼山古墳の玉杖と新沢500号墳の八ツ手葉形銅製品の使い方(組み立て方)の説明、上部に鳥の羽などの有機質製部材を差し込むようになっています。

王陵の隔絶性を際立たせる銅鏡103面超、桜井茶臼山古墳出土の銅片集合の写真が美しくカッコいい。最初のスライドショーと同じ写真ですが、学芸員さんたちの銅片にかける並々ならぬ思いが感じられます。

まずはピッカピカに磨かれた銅鏡鏡面模造品、もう少しポーズをとれば良かった。

内行花文鏡、画文帯神獣鏡、斜縁神獣鏡等の欠片、盗掘がひどかったようで小さな欠片ばかりですが、これらを集めて美しく並べたのが上掲の写真。小さな欠片個々に分析、分類、修復が続けられると思われ、上掲の銅片集合はもう撮る機会はないかと。

ホケノ山古墳の画文帯神獣鏡や黒塚古墳の三角縁神獣鏡は以前アップしているので割愛。大和天神山古墳出土の7面の鏡(内行花文鏡、画像鏡、方格規矩鏡、三角縁変形神獣鏡、人物鳥獣文鏡、画文帯神獣鏡2面)。驚くほど状態が良くバリエーション豊かです。

湯迫車塚古墳(岡山市)の三角縁神獣鏡と前橋天神山古墳の三角縁神獣鏡(重要文化財)。銅鏡はヤマト政権の権威の象徴として遠隔地の首長へ配布され関係構築と格付けに用いられています。

松林山古墳(静岡県磐田市)の内行花文鏡28.7cmと下池山古墳(大和古墳群)の内行花文鏡37.6cm。いずれも超大型の倭製鏡(仿製鏡)。

メスリ山古墳現地の錆色の説明板で紹介されていて玉杖も展示されていました。それにメスリ山古墳の鉄矢、いずれも重要文化財。

展示室中央は桜井茶臼山古墳のコウヤマキ製4.89mの割竹形木棺。

黒塚古墳で1面だけ出土した画文帯神獣鏡と33面中の1面となる三角縁神獣鏡21号鏡(いずれも重要文化財)、やはりミラノ風ピザとナポリ風ピザの比較に見えます。

桜井茶臼山古墳の被葬者については見た限り展示ではひとことも言及されていなかったものの、一昨年11月の橿考研講演会で、103面超の銅鏡が確認されたことから「他の古墳の追随を許さない隔絶した王権の地位にあった人物」という見解が示されています。もちろん具体的な被葬者名は示されていませんが、上述のように桜井茶臼山古墳は政治や軍事を司る王となるので、卑弥呼という可能性は消え、例えば…。

常設展示

常設展示室に入ると土偶頭部がずらり、反対側へ回ると土偶の足がずらり円形に並べられていました。紀元前1,000〜紀元前400年のもので、現在地に隣接する橿原公苑内の橿原遺跡(陸上競技場スタンド辺り)からの出土の重要文化財です。

前回来たときにはこの背面にあるナウマンゾウの牙に気を取られてしまったせいか、1枚も撮っていませんでした。

全体が欠けていない土偶が大きな口を開けて立ってます。

ミニチュア土器もいっぱい。調べてみた限り、何のためのものか不明、祭りの儀式用品、あるいは子どものおもちゃという推測の域を出ていないようです。

不思議な道具と題した縄文時代の石器や土器、反対側は動物意匠を表現した土器、登場する動物は何故かヘビとムササビばかり。

さらに橿原遺跡の土偶の破片、身代わり説、豊穣祈願説、死と再生説、儀礼説等あるものの、いずれにせよ土偶は壊れているのがデフォルトです。土偶体部(消化器官)まで展示されていました。

土偶の多くは東日本、中でも青森県や信州に多く、見に行く計画も考えていたところだったのですが、橿原にこんなにさまざまな土偶がたくさん出土、展示されていてビックリ。灯台下暗しですが、縄文時代に興味を持ったのが最近のことです。

第2展示室のメスリ山古墳コーナーには最大の2.5m円筒埴輪(左端)が東京国立博物館、九州国立博物館からの長い旅を終えて戻って来てました。前回と違って4本の巨大円筒埴輪が並ぶと壮観。桜井茶臼山の丸太垣に代わってメスリ山の墳墓を囲っていた円形埴輪です(メスリ山古墳円筒埴輪の配列図)。

メスリ山古墳 石製鏃と銅鏃、これらも重要文化財。大きく築造時期が変わらず(おそらくせいぜい50年くらい)、いずれも政治や軍事を司る王なのに、桜井茶臼山にはなかった円筒埴輪がメスリ山にはかくも巨大な円筒埴輪が存在したのか、どうやらメスリ山古墳の被葬者は政治や軍事を司ると同時に祭祀も司る王だったらしく、腑に落ちる説です。

新沢千塚500号墳の三角縁神獣鏡、方格規矩鏡、内行花文鏡。後ろには筒形銅器、銅釧、車輪石。

島の山古墳(川西町)の車輪石がずらり、後ろのパネルで出土時の様子が確認できます。車輪石も銅釧も貝殻を模したもので本来は腕輪ですが、手が通せない宝器です。芝ヶ原古墳の梅の木の陰で南山城の首長が腕に通さず両手で掲げていました。

室宮山古墳墳丘にレプリカが立てられていた靫形埴輪の実物です。

室宮山古墳出土の勾玉などの玉類がいっぱい、葛城氏の豊かさを感じさせます。

大規模に農業が行われていたことを窺わせる南郷遺跡群の木製品と南郷大東遺跡のパネル。さらにメノウ、水晶、碧玉、勾玉の原材料となる滑石。葛城の地でこれだけの貴石を算出しているはずはなく、一豪族であったにせよ、葛城氏が全国各地と広範に交流していたことが分かります。

後ろのパネルの左下に室宮山古墳が見えます。その上、金剛山麓に広がる傾斜地が葛城の王都だった南郷、その間に見える禿山部分は無許可拡張工事で少なくとも4基の古墳を破壊し行政指導で修復したときくゴルフ場と思われます。

新沢千塚古墳群等からのさまざまな銅鏡、五鈴鏡、獣形鏡、乳文鏡、珠文鏡とか名前も初めて聞きます。いずれも日本独自の仿製鏡(5世紀)です。

おおっ、蛇行剣です。宇陀市後出古墳の出土品(5世紀)、桜井茶臼山古墳から国道166号経由で13kmほどの位置です。富雄丸山古墳出土の超特大サイズ蛇行剣(2.37m)はここ橿考研でいずれまた公開されるはずです。

近々に訪ねるつもりの烏土塚古墳(6世紀、平群町)の出土品です。状態の良いものが多数出土しているようです。

藤ノ木古墳(6世紀後半)の国宝群展示は小さくなっていたものの、前回無かった金ピカに復元された金銅製冠が展示されていました。

第3展示室の飛鳥時代へ移動。橿原市、奈良市、御所市の廃寺から出土の7世紀の塼仏と当麻寺の大型多尊塼仏複製、シルクロードを感じさせます。

牽牛子塚古墳(古墳時代末期)出土品が展示されていました。斉明天皇の持ち物だったかもしれません。

最後に奈良時代、古事記を編纂した太安萬侶のお墓の模型です。墓壙内の木炭や土層は本物らしい。先ごろ重要文化財から国宝に格上げされたばかりの墓誌は別のところに移されたようです。

最後の最後に天目茶碗(室町時代)、あまり状態は良くなく天目茶碗も色々のようです。

特別展はもちろん、常設展も前回より展示品やレイアウトも大きく変わっていて、少なくとも年2回は訪ねる必要があると分かった橿考研博物館です。外へ出ると雨は上っていました。