これが日本の王陵
橿原考古学研究所付属博物館の春季特別展「桜井茶臼山古墳」が6月15日まで、3月に現地を訪ねた桜井茶臼山古墳、その説明板に紹介されていた玉杖の実物なども見学できるはず、これは見逃せません。
大阪上本町駅9番線に「快速急行大阪関西万博」と掲げた1522系が停車中、「近鉄電車の車内で八尾が誇るものづくりを体感しよう!」という八尾市産業政策課主催の1日だけのイベントと分かりました。東生駒のけいはんな線連絡線を通って第三軌条式の7000系と連結すればこの車輌が夢洲へ行くことが可能かもと考えたものの、パンタグラフやクーラーが断面の小さいトンネルにひっかかってやはり無理、と気づきました。
八木で乗り換え、目的地のひとつ手前の八木西口駅で下車。大阪では降っていなかった雨が降っていて、バッグから折りたたみを取り出すと開いた状態で固定する金具(「上ハジキ」というらしい)が壊れていました。
八木西口駅の京都行線路から分岐しているのは橿原線と大阪線を結ぶ連絡線、基本的に標準軌台車に履き替えた南大阪線車輌を五位堂車庫まで回送するための専用線ですが、12年前にここを走るツアーに参加しています。動画に出てくるように、八木西口駅の南端に橿原神宮前への渡り線があります。
ひと駅乗って畝傍御陵前駅で下車、駅西口を出ると雨にけぶる畝傍山。
紫の花はハナハマサジ。橿原考古学研究所付属博物館に到着、昨年12月以来2回目です。左上は買ったばかりの傘。
展示室に入ると、最初に纒向石塚古墳と纏向勝山古墳の紹介。箸墓古墳に先立つ古墳時代前期初頭の築造、つまり日本最古の可能性がある古墳です。前方後円墳が定型化する前の纏向型と呼ばれる前方後円墳で、ヤマト王権最初の王都である纏向で王権の中枢にいた人の墓ではあるものの、圧倒的規模を持つ箸墓古墳とは異なり、「王陵」とは見なされないようです。
纒向石塚古墳出土の朱塗鶏形木製品や纏向勝山古墳出土の不明木製品(イノシシ形か)など定型化した前方後円墳では見られない出土品が並んでます。桜井茶臼山古墳を訪ねたその足で現地を歩いたばかりの2基、航空写真のパネルで現地の様子(木の根元にあったネコの頭蓋骨や田んぼのツグミたち)を思い出します。展示関連地図とおおよその時期のパネルは古墳の位置関係と時代順を再確認するにはとても便利。
同じく纒向型前方後円墳とされるホケノ山古墳、その中心埋葬施設想定復元模型です。3世紀後半以降の狭くて長い竪穴式石室と異なり、人頭大の川原石で囲まれた木槨です。
木槨の上に並べられていた壺形土器の実物、右ふたつは重要文化財。ホケノ山古墳の航空写真はこの元旦に訪ねた時の様子とは随分違っていて、発掘調査時のものと分かります。航空写真のすぐ上(南西側)に箸墓古墳が位置します。
さていよいよ桜井茶臼山古墳出土品、その発掘された5つの壺型埴輪と奥には埋葬施設の写真パネルと立体地図です。墳頂部の埋葬施設の上に方形壇が設けられ、その縁辺に壺形埴輪が配列され、さらにその外側は丸太垣で囲まれていたことが明らかになっています(方形壇と丸太垣図の拡大)。3月に訪ねた時は、立体地図右端の後円部端から地図下側を周り、地図左下まで来て、一旦宗像神社へ寄り道して、戻って、地図左上の前方部角まで歩きました。
桜井茶臼山古墳から至近の城島遺跡から大量の土木具が出土、その鍬や鋤、天秤棒です。桜井茶臼山古墳造営のためのキャンプ地だったようです。
纒向遺跡の纒向大溝から出土の工具や壺、「王都」纒向の全長2.6kmとも推測される纒向大溝は2世紀末から3世紀中頃の築造で、弥生時代の環濠集落よりも短期集中的な大規模工事の経験が王陵の造営に引き継がれたようです。
右側グレーの敷物の上は銅器製造に関わる脇本遺跡(雄略天皇泊瀬朝倉宮候補地を含む縄文〜奈良時代の複合遺跡)出土物、左側黒い敷物の上は鉄器製造に関わる纒向遺跡出土物。青銅器製造に関わる手がかりは少なく大型倭製鏡の製作地についても今後の研究を待つほかないとのこと。一方、鉄器は北部九州から先進的な生産技術を積極的に取り入れ、鞴の羽口なども出土しており、さかんに鉄器生産が行われていたと分かります。
ホケノ山古墳の画文帯神獣鏡や黒塚古墳の三角縁神獣鏡は以前アップしているので割愛。大和天神山古墳出土の7面の鏡(内行花文鏡、画像鏡、方格規矩鏡、三角縁変形神獣鏡、人物鳥獣文鏡、画文帯神獣鏡2面)。驚くほど状態が良くバリエーション豊かです。
湯迫車塚古墳(岡山市)の三角縁神獣鏡と前橋天神山古墳の三角縁神獣鏡(重要文化財)。銅鏡はヤマト政権の権威の象徴として遠隔地の首長へ配布され関係構築と格付けに用いられています。
メスリ山古墳現地の錆色の説明板で紹介されていて玉杖も展示されていました。それにメスリ山古墳の鉄矢、いずれも重要文化財。
展示室中央は桜井茶臼山古墳のコウヤマキ製4.89mの割竹形木棺。
黒塚古墳で1面だけ出土した画文帯神獣鏡と33面中の1面となる三角縁神獣鏡21号鏡(いずれも重要文化財)、やはりミラノ風ピザとナポリ風ピザの比較に見えます。
桜井茶臼山古墳の被葬者については見た限り展示ではひとことも言及されていなかったものの、一昨年11月の橿考研講演会で、103面超の銅鏡が確認されたことから「他の古墳の追随を許さない隔絶した王権の地位にあった人物」という見解が示されています。もちろん具体的な被葬者名は示されていませんが、上述のように桜井茶臼山古墳は政治や軍事を司る王となるので、卑弥呼という可能性は消え、例えば…。
第2展示室のメスリ山古墳コーナーには最大の2.5m円筒埴輪(左端)が東京国立博物館、九州国立博物館からの長い旅を終えて戻って来てました。前回と違って4本の巨大円筒埴輪が並ぶと壮観。桜井茶臼山の丸太垣に代わってメスリ山の墳墓を囲っていた円形埴輪です(メスリ山古墳円筒埴輪の配列図)。
メスリ山古墳 石製鏃と銅鏃、これらも重要文化財。大きく築造時期が変わらず(おそらくせいぜい50年くらい)、いずれも政治や軍事を司る王なのに、桜井茶臼山にはなかった円筒埴輪がメスリ山にはかくも巨大な円筒埴輪が存在したのか、どうやらメスリ山古墳の被葬者は政治や軍事を司ると同時に祭祀も司る王だったらしく、腑に落ちる説です。
新沢千塚500号墳の三角縁神獣鏡、方格規矩鏡、内行花文鏡。後ろには筒形銅器、銅釧、車輪石。
島の山古墳(川西町)の車輪石がずらり、後ろのパネルで出土時の様子が確認できます。車輪石も銅釧も貝殻を模したもので本来は腕輪ですが、手が通せない宝器です。芝ヶ原古墳の梅の木の陰で南山城の首長が腕に通さず両手で掲げていました。
室宮山古墳墳丘にレプリカが立てられていた靫形埴輪の実物です。
室宮山古墳出土の勾玉などの玉類がいっぱい、葛城氏の豊かさを感じさせます。