久津川古墳群

母の祥月命日で臨時休業として墓参り。

快速急行の冷房がガンガン効いていて寒い。これからの季節、バッグに薄手のジャケットを入れておくのが必須だったと思い出しました。今日は持ってきていません。

墓苑の裏手にある花屋さんの人懐こいニャンコ、足にスリスリしてくれました。

お寺の境内の黄色と赤の花はエニシダ。黄色だけがいっぱい、こちらもエニシダです。

おふくろの墓参りを済ませお寺を出ると小さな畑にシュンギク、ナス、カボチャ、ネギ。

ちなみに子どもの頃は「お母ちゃん」と呼んでいたのが、いとこらが「ママ」と呼んでいたこともあり、高校生くらいになって「お母ちゃん」と呼ぶのが恥ずかしくなって、「おふくろ」とか「お母さん」とか変えてみようとしたものの亡くなるまでずっと定着しなかった記憶があります。関西では「おかん」と呼ぶと思われていますが、友人や親戚でも「おかん」は聞いたことがなく、どうやら近年よしもとが普及させたもののようです。

臨時休業のはずがクライアント様のトラブル処理を何とか電話で完了、予定通り古墳巡りへ向かいます。

西大寺で乗り換え、時刻表アプリの案内通り各駅停車で目的の駅へ。奈良市山陵町の山林に挟まれた谷を抜けます。谷からこちらを撮り鉄したことがあります。近鉄宮津駅で特急を退避、左手の車庫でアーバンライナー中間制御車撮影会は10年前のこと。

三山木から興戸付近、草内の鳥見でさんざん歩いたエリアですが最近ご無沙汰です。

新田辺を過ぎて木津川を渡ります。西大寺から各駅停車37分で久津川駅に到着。京都府城陽市です。

久津川車塚古墳

駅から東へ5分ほどで久津川車塚古墳、金網のフェンスで囲われているものの、扉がつけられていて中に入れます。墳丘長約180mで南山城で最大の前方後円墳。古墳時代中期前半(5世紀前半)の築造。

泉屋博古館で展示されていた重要文化財の7面の銅鏡が出土した現場を見たくてやってきた次第です。ここに葬られていた長持形石棺も京大博物館で見たことがあります。

墳丘への上り道に立てられているのは被葬者と目される南山城地域を治めていた大首長のパネル。墳丘に上っても何も無いと聞いていたので止しておきます。

広い平坦地はたぶん二重に巡らされていた周濠跡、凝ったデザインのベンチが設置されていたりするものの地面は荒れたまま、一旦整備されたもののその後放置されているようです。

5世紀のヤマトでは物部氏、大伴氏、葛城氏ら豪族が割拠しており、南山城の豪族名も分かりそうなものですが、調べてみた限り和邇氏の可能性がありそうです。

前方部と後円部の区別もよくわからないくらいですが、平坦地左手(北側)が後円部です。

後円部の奥に回ってみるとたぶん築造時にはなかったはずと思われる墳丘へ続く尾根道。

墳丘の東側をJR奈良線が突き抜けています。椿井大塚山古墳では前方部と後円部の間のくびれ部あたりを線路が横切っていたのですが、久津川車塚古墳では古墳の端を縦方向に貫通しています。

踏切から前方部墳丘を撮ったところです。

久津川車塚古墳からほど近い、来る前にチェックしておいたお店に入りました。鶏もも唐揚げ定食に決めてご飯は釜炊きのかやくご飯。朝から何も食べておらずお腹ペコペコ、店内に客は自分ひとり、なのに待っても待っても料理がでてきません。

20分ほど待ってやっとでてきました。白和えなどのおばんざいが4品、釜炊きのかやくご飯はたっぷり3杯分、3杯目は出汁茶漬けでいただきました。釜の底にはおこげ、20分かかるはずです。締めて1,980円は大満足。

お店の隅っこでは美人若女将といかにもそれらしき立ち居振る舞いの大女将、いずれも美しく着こなした着物姿がスーツ姿の業者さんと商談中。

大女将と若女将がいるような店なのかと表にでると、ごはん屋さんの奥に暖簾のかかった玄関、道路側には由緒書きも。いただいたばかりの釜炊きかやくご飯は古代から受け継がれた「奈良火鍋(ならほうこう)」の流れをくむものと分かりました。

暖簾のかかった玄関は京都八百忠という料亭で、ごはん屋さん(永楽)はその経営と分かりました。八百忠のランチをチェックすると魅力的なお膳がかなりリーズナブル、京都市内だとこの倍はするかと。おふくろが元気だったら連れてきたかったと思う。

芝ヶ原古墳

久津川車塚古墳から10分ほど東の芝ヶ原古墳、古墳時代初期(3世紀前半)築造と知り訪ねてきました。

斜面手前の建物は資料館じゃなくて地域の集会所とトイレです。一面に黄色い花はセイヨウヒキヨモギ。一面の黄色い花はセイヨウヒキヨモギ、その中のピンクはユウゲショウ。

公園の左手に丘が続いています。

久津川車塚古墳やこの芝ヶ原古墳も含め100基以上の古墳が分布、久津川古墳群と括られていると分かりました。

扇状地に広がる久津川古墳群全体を見渡せる12角形のジオラマ、12の辺ごとに主要な古墳の墳形や出土品を紹介するパネルがはめ込まれています。扇状地右手(南)の丘陵の麓付近が現在地、久津川車塚古墳をJR奈良線が南北方向に縦断していることもよく分かります。

斜面の上にぽっこりと小さな丘、これが芝ヶ原古墳。正確には芝ヶ原古墳群の芝ヶ原12号墳です。

12角形ジオラマの置かれた谷を振り返ると久津川車塚の説明板、画面左端の森がそれで説明板のイラストと一致しています。

芝ヶ原古墳北側(谷側)の説明板によると墳形は前方後方墳、現在地は後方部北側。墳丘の復元推定図や発掘時の写真が紹介されていて、南側の前方部は道路になっていることが確認でき、とても分かりやすい。

さらに後方部東側には前方後方墳に関する説明板。自分の訪ねたことのある中では布留の西山古墳も前方後方墳、前方後円墳へと発達する前の古墳時代前期の古墳の墳形です。

東側にも入口があって「史跡芝ヶ原古墳」の石碑が置かれていました。

住宅に囲まれではいるもののよく整備されていてとても居心地のいい芝ヶ原古墳、丘の上の12号墳だけじゃなく谷の真ん中に置かれた12角形のジオラマもいいシンボルになってます。斜面にはブタナとムラサキツメクサ。

前方後方墳から少し下に権威の象徴としての銅釧を掲げている地域を治めた首長のパネル、久津川車塚とは時代が異なるので別人物です。ほぼ卑弥呼の時代の首長、この国に文字のなかった頃で名前は不明です。

坂を下りて集会所の西側に「寺田石棺材(歯痛地蔵)」、よくみると顎を押さえているような人物像が見えます。元々6世紀末から7世紀後半に竜山石で作られた石棺の底石で、鎌倉時代に地蔵菩薩坐像が浮き彫りされ、大正時代には寺田駅付近の小川の石橋として使用されていたそうです。

関西電力送配電久津川変電所の鉄柱、電線は向こう側にしか続いていません。発電所でつくられた高圧の電気を使いやすい電圧に下げる変電所がこの下にあります。

おうすの里の直売店、名前からすると和菓子屋さんですが梅干しやさんで、周辺に工場や研究所も。紀州南部の梅農家さんが天保時代に京で開業した老舗らしい。

駅への帰り道、久津川車塚古墳をJR奈良線が貫通する東側をチェックしてみました。竹藪の向こうを205形が通過。ここにも説明板、この辺りが二重の周濠跡だったことが確認できます。石棺出土状態のイラストが素敵。

同じ城陽市教育委員会管理でも、芝ヶ原古墳と比べて整備されていないというか整備しかけて放置されている感がする久津川車塚古墳ですが、芝ヶ原古墳と較べて遥かに規模が大きいこと、真ん中をJRが走っていること等々でなかなか整備は難しいだろうと想像できます。

その周濠跡の一角が黒い幕で囲まれた茶畑になっています。この幕は被覆栽培と呼ばれ木津川の河原辺りでよく見かけます。日光を遮ることでお茶の旨味を増し渋みを抑える効果があり、特に抹茶の原料となる碾茶(てんちゃ)栽培に用いられるそうな。ちょうど茶葉をいっぱいにした竹籠を軽々と片手で持ちつつも腰が90°曲がったおばあさんとたぶん孫娘さんらしきが畑から出てきたので、摘みたての茶葉を撮らせてもらいました。振り返ったおばあさんの笑顔の何と素敵だったか。

夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂る、あれに見えるは茶摘みじゃないか、茜襷に菅の笠♪

茜襷じゃなかったけど茜襷を掛けているように見えたおばあさんが摘んだばかりの宇治茶の抹茶の元です。このあと「夏も近づく八十八夜♪」がずっとイヤーワームになってのは言うまでもありません。

久津川駅前には絶滅危惧種の駅前書店が盛業中。

ひと駅となりの寺田で下車。こちらが城陽市の中心地らしいものの、久津川の方が賑やかに見えます。

城陽市歴史民俗資料館

寺田駅から線路沿いの道を行くと「あおによし」が通過もタイミングが合いませんでした。

線路沿いの水路上に「自然と人と水と魚、ふるさとの魚たち」という石碑、小学生たちが描いた魚のイラストがいっぱい。どれも甲乙つけがたく素晴らしい作品ばかりですが、念の為名前の部分にはモザイクを入れておきました。その下の水路は魚たちがやってくるような感じではなく、調べてみると宮ノ谷都市下水路と分かりました。

文化パルク城陽です。円筒形の部分はプラネタリウムでその下が歴史民俗資料館。

プラネタリウムがのっかっている円筒形ビルの4階に上がると別棟のようになっている部分がチケットブースがあって渡り廊下を進むとまた別棟のような建物に特別展示室、されに渡り廊下を行くと奥に常設展示室。実に複雑な構成で上手く説明できないので、ウェブサイトの施設案内へのリンクを貼っておこうとしたらSSL対応していなかったので止めておきます。

まずは「古墳へ行こう!2025+発掘調査速報展」特別展。久津川車塚古墳を作っている様子の模型(1/150)、墳頂まで直通する巨大なスロープが作られていて、二重の周濠には何箇所も板の橋が架けられています。人形たちが一列で長い列を作り手渡しで資材を運んでいます。

城陽市内の見学できる古墳をパネル展示、それぞれの特徴を端的に表現しています。

常設展示室の久津川古墳群のジオラマ、葺き石で覆われた姿を再現した久津川車塚古墳は円筒埴輪が大きすぎて、上述の建設途中のジオラマと較べてかなり雑な感じです。七重塔が立つ伽藍は平川廃寺で奈良時代中頃の創建も平安時代初期には廃絶したらしい。葺き石の沓川車塚古墳と七重塔の平川廃寺が立ち並ぶ姿は存在しなかったはず。

芝ヶ原古墳の上に回廊で囲まれた場所は正道官衙とあります。芝ヶ原古墳より僅か200mほど南で、5世紀の小規模な古墳、飛鳥時代の集落、奈良時代の官衙の複合遺跡で、山背国久世郡の郡衙だったらしい。史跡公園として整備され色んな時代の遺構が見学できると分かりました。遠からず再訪することになりそうです。

芝ヶ原古墳埋葬施設のジオラマでは墓壙上面の拳大の礫敷が再現されています。

芝ヶ原古墳出土の四獣鏡とふたつの銅釧、いずれも重要文化財。QRコードの先のページによると四獣鏡は4匹の龍のような獣像を配置とあるものの、どうみてもナメクジにしか見えません。中国からの渡来品ではなく仿製鏡だそうです。渡来鏡と比べるとかなり稚拙ではあるものの、古墳時代初期にここまでのものが国産されていたこと自体が評価されるべきかと。

芝ヶ原古墳現地でパネルの首長が掲げていた銅釧の実物、赤い部分は顔料とのこと。釧(くしろ)とはブレスレットで、縄文時代から貝で作られていたのが古墳時代になって銅や石でつくられています。新沢千塚500号墳の発掘現場で石の釧が見つかった様子が写真で紹介されていたのを思い出しました。

同じく芝ヶ原古墳から出土の重要文化財の玉類と庄内式土器。

庄内式土器とは弥生時代から古墳時代に遷移する時期に作られた弥生土器と土師器の両方の特徴を併せ持つ薄く作られた煮炊きに適した土器で、豊中市の庄内から多数見つかったことに由来しているそうです。

芝ヶ原古墳からは旧石器時代およそ2万年前の石器も出土。JR永山駅に近い森山遺跡からは旧石器時代の石斧や縄文土器が出土、サヌカイトの破片も多数出土しており石器製造が盛んな地域だったらしい。こちらも史跡公園として整備されていると分かりました。

常設展示室全景のほぼ半分、右隅に城陽市内から出土のハニワ。甲冑を着た戦士の前の円筒埴輪は久津川車塚から出土品で、木津川を行き来する帆掛け舟のような絵が描かれています。

展示室中央にどーんと置かれた長持形石棺(復元)、その内部の様子と外側です。

仿製鏡ではなく中国製の三角縁銘帯三神四獣鏡は芝ヶ原11号墳から出土、黒塚古墳出土の鏡と同型鏡だそうです。黒塚古墳展示館にも三角縁銘帯三神四獣鏡のレプリカが展示されていました。

奈良時代から江戸時代は割愛して近代。天井川のパネルでは南山城で天井川が形成された経緯とJR奈良線青谷川の写真。

茶のパネルではさっき合ったおばあさんを彷彿とさせる茶摘み風景。

円筒埴輪に刻まれていたような帆掛け船の写真。上津屋の流れ橋は八幡市に位置するもののすぐ上流は城陽市域、10年前に橋が流された状態の時に訪ねています。

予想以上に学ぶことが多かった沓川古墳群と歴史民俗資料館、城陽市教育委員会がかなりいい仕事をしていると感じさせます。京都市内と違って外国人旅行者を見かけることも殆どなく、ゆっくり歴史探訪できまた来たくなりました。

新田辺までは地下鉄からの乗り入れ本数が多く便利です。西大寺では京都行しまかぜ。