高井田横穴公園

若一調査隊で高井田横穴公園の謎、線刻画が描かれた横穴墓群がウチから遠くない場所にあるとは知りませんでした。早速訪ねてみることにしました。

あまり乗る機会のない大和路線の王寺行普通で高井田に到着、南側にセブンがある他周辺に何も無い駅です。高井田系ラーメン(極太麺の濃厚醤油味)はここではなく、同名駅の大阪メトロ中央線高井田です。

駅北側から100mほどで高井田横穴公園の入口、線刻画が描かれたガラスのモニュメントが立っています。

ガラスのモニュメントのすぐ裏側に横穴墓、順に第3支群24号墳、23号墳、21号墳。春秋の特別公開の他、事前に5名以上の申込みで内部見学できるそうですが、今日はがっしりした扉が閉ざされ鍵がかかってます。

振り返るとお茶の京都トレイン、向こうの緑は大和川の土手です。

高井田横穴公園の全体図、第1〜第4の支群に分けられる高井田横穴群のうち第2〜第4支群が史跡公園になっています。第1支群は隣接する修徳学院の敷地内で公園外、地図に第4支群が見当たりませんが、第3支群との境界ははっきりしないらしい。地図上に凸形の横穴マークの他、たくさん緑と黄色の◯が並んでいるのが何なのか注記はないのものの、おそらくすべて横穴のようです。6世紀前半から7世紀にかけて築造された200基以上の横穴墓があり日本最大規模だそう。

横穴墓群第3支群

台地の上に第3支群28号墳。ひらひら舞っていたホシミスジは19号墳の前に下りてきました。

小さな広場に曰く有りげな石が並んでいます。現在地の北に位置していた大県廃寺の礎石を移設してきたものと分かりました。孝謙天皇が巡拝した大里寺にあたると考えられるそうです。

周辺には飛鳥時代に建てられた寺院跡が12箇所も密集していたらしい。飛鳥から大阪平野の入口だったこの地の特別さが感じられます。現在地と大県廃寺の間に位置する大平寺廃寺周辺を歩いたことがあります。もう12年も前、カタシモワイナリーを見学した時のことです。

第3支群5号墳で。階段の下に線刻画のレプリカが屋外展示されていて線刻画は羨道の両側にある線刻画を写し取ったものと分かります。他の横穴と違って横穴自体が屋根で覆われていて、鉄柵じゃなくちゃんとしたドアが付いていました。

船に乗ってあの世へ向かう被葬者を、奥さんらしきが手を振って見送っているところらしい。もう1枚は何のシーンかよく分かりませんが、着ている衣装が同じです。

柏原市立歴史資料館

まだ横穴墓群が続くのですが先に坂道の上の柏原市立歴史資料館に入ることにします。

エントランスホールの柏原市立体地図、赤い線が25平方kmと広くない柏原市域で、東は奈良県、北は八尾市、西は藤井寺市、南は羽曳野市、奈良県から流れてきた大和川が蛇行し、市役所付近で石川と合流、市役所から北に大和川が付替以前の流路が描かれています。ちなみに柏原は「かしわら」、奈良県橿原は「かしはら」です。

「柏原のあゆみ」のパネルは旧石器時代「東山山麓、玉手山丘陵を旧石器人が往来」、古墳時代「東山山麓には鉄製品をつくる村があらわれる」、飛鳥時代「近江朝廷方と吉野方、河内餌香川で戦う」、奈良時代「舟運、陸上交通の中継地として栄える」、平安時代「都の移動によって交通上の重要性を失い市域はすたれる」、1704年「大和川付替工事」、1892年「大阪鉄道(JR関西線)港町・奈良間が開通する」、1901年「河南鉄道(近鉄南大阪線)柏原・長野間が開通する」、大正時代「ブドウが市域の重要な農作物となる」、1958年「柏原町が柏原市になる」。旧石器時代から1万年の年表がある市は少ないかと。

ちょうど大県郡条里遺跡に関する講演会が開催される直前で館内は賑わっていました。

鰭付楕円形埴輪(松岳山古墳、4世紀)、158cmのものと143cmのもの。両側にヒレがついているなかなかカッコいい円筒埴輪。松岳山(まつおかやま)古墳は大和川対岸の国分神社境内にあり、墳丘上には石棺と立石がそのまま残されていると分かり、訪ねてみたい古墳です。

もう1本は茶臼塚古墳出土の円筒埴輪。茶臼塚古墳は松岳山古墳にすぐ隣接する長方形墳で小規模古墳であるにも関わらず他に三角縁神獣鏡と四獣鏡、石釧や車輪石が多数出土しているらしい。

茶臼塚古墳出土の車輪石と石釧、四獣鏡と三角縁神獣鏡です。

この後訪ねる高井田山古墳の熨斗と神人龍虎画像鏡。フライパンのような熨斗(ひのし)は衣服のシワを伸ばすアイロン、国内では新沢千塚126号墳の熨斗とこの熨斗の2つしか完全なものは残されていないと若一調査隊で話されていました。それに歴史に憩う橿原市博物館のレプリカ(実物は東京国立博物館蔵)には重要文化財とあったのですが、その後国宝に格上げされていたようです。

平尾山古墳群太平寺第4・5支群古墳模型、現在地の北側に広がる1400基もの古墳が点在する古墳群、大半は10mほどの円墳も前方後円墳もあると分かります。

平尾山古墳群太平寺第4支群2号墳ジオラマ、典型的な古墳時代後期の小円墳だそうです。

平尾山古墳群太平寺第5支群1号墳出土の乙女形埴輪等、埴輪がずらり。「みんな本物だよ!」

ここまで歩いてきた高井田横穴群から出土の副葬品の数々。柏原のあゆみ年表にもあった鉄製品の鍛冶関係の遺物。

飛鳥・奈良時代の柏原、ずらりと並べられているのは付近に点在する廃寺となった古代寺院の瓦。

古代寺院の五重塔が立ち並ぶ現在地付近のイラストで往時をイメージできます。

高井田横穴の特大パネル、ブドウ畑の中に横穴が点在している場所もあるようです。

横穴はどのように造ったのか? 未完成のままでも埋葬が行われたていた横穴のエピソードが紹介されています。若一調査隊で歴史資料館特別館長さんが紹介していた、古代の石工の親方と見習いの会話はさもあらんでした。

ここにも第3支群5号墳の線刻画のレプリカ。弥生時代の唐古・鍵遺跡の絵画土器から300年以上経っているのに描かれた絵は稚拙なまま、精巧な細工が施された青銅鏡の技法なども普及していたはずなのに、2次元イラストが進化していないのが不思議でなりません。

第3支群5号墳だけでなく27箇所の横穴でさまざまな線刻壁画が確認されているようです。1-5と4-34にある「女陰」が気になります。

特集展示「発見!縄文時代の柏原」コーナーに大県郡条理遺跡の石棒、関大博物館でずらりと長いのが展示されていました。

両腕が身体とつながり脚は省略された台式土偶と呼ばれる土偶は近畿地方でのみ見られるものだそうです。東北地方や信州の土偶とは違った近畿地方独自の土偶の進化があったようです。

時代は飛んで江戸時代、堤切所之覚附箋図(貞享4年 - 1687年)。西から見た図で右上が大和川石川合流地点、すぐに玉櫛川と久宝寺川に分かれ深野池、新開池に流れ込み北の淀川に向かっていて、江戸時代でもまだ古代河内湖の名残が残っているのが分かれります。たくさん貼られた付箋は堤防が切れたことのある場所を示し、大和川付替の必要性をアピールするものです。

同じ年の乍恐御訴訟(おそれながらごそしょう)、大和川付替を求める今米村(近鉄けいはんな線吉田駅付近)庄屋中甚兵衛らによる幕府への嘆願書の控え、付替えの切実さが伝わってくる内容です。付替に対し元の流域の村々と新しい流域の村々で意見は対立、この嘆願書は結局幕府に受け入れられず、安治川開削などを行った河村瑞賢の大和川付替反対意見が受け入れられてしまったものの、瑞賢没後の元禄14年に河内低湿地で今米村の全年貢が免除されるほどの大洪水が発生、元禄15年に堺奉行が付替の検討を開始、堺奉行に力量をかわれた中甚平が普請御用を仰せ付けられ、元禄17年新大和川築造工事開始、宝永元年に竣工。

常設展示の最後は龍田川古道亀の瀬絵巻と題した重田祐介氏によるピクセルアニメ。

平城京を出た2台の鳳輦を中心とした一行(聖武天皇と阿倍内親王?)が難波宮に入るまでのアニメーション、桜の季節で空には雁のV字編隊や空飛ぶ麒麟。龍田川(現在の龍田川ではなくこの付近の大和川を龍田川と呼んだらしい)の亀岩付近で踊っているのは信貴山の神、笛を吹くのは聖徳太子。五重塔が立ち並ぶ現在地近くにあった河内大橋を渡り難波宮へ。画面右下には高橋虫麻呂の歌(万葉集)、

大橋の 頭に家あらば うら悲しく 独り行く児に 宿貸さましを

ハンパない古代交通の要衝だった柏原の地が果たしてきた歴史上の役割を美しく1枚にまとめた、いつまでも見ていたいアニメです。わざわざ「写真 SNS OK」とあり、公式HPのQRも並んでいました。HPの「龍田古道を歩く」を開くと、デジタル絵巻のかなり詳しい解説付動画、8本あるように見えますが1本の動画の該当箇所にジャンプします。

春季企画展の「周溝墓の誕生、やがて古墳へ至る道」、弥生時代のお墓でやがて前方後円墳などに進化する周溝墓のジオラマ。大県遺跡、船橋遺跡、玉手山遺跡などから確認されているようです。

本郷遺跡の方形周溝墓のそばから出土した弥生時代後期の小銅鐸、文様も刻まれていないようなシンプルな銅鐸です。

受付で販売されていた熨斗は実物大のペーパークラフト、100円。熨斗じゃなく青谷式軒丸瓦&神人龍虎画像鏡マグネットシート100円を買ってきました。

近隣博物館のポスター、弥生文化博物館の「いのち輝く古代中国社会のデザイン」はちょっと惹かれます。

高井田山古墳

資料館を出て高井田山古墳へ向かいます。サトキマダラヒカゲが葉っぱの裏側に止まりました。

公園のてっぺんに高井田山古墳、直径20mの円墳、横穴墓群より半世紀くらい古い5世紀後半の築造で、被葬者は渡来人夫婦と考えられ、百済から雄略天皇の人質とした送られた昆支王(こんきおう)夫妻説があります。

墳丘の盛土は流出しておりカーポートのようなガラスの屋根で覆われています。

ガラス屋根側面の窓には鍵がかかっていて、若一調査隊のように覗き込むことはできないものの、須恵器が置かれているのを確認。

反対側のガラスは汚れていて殆ど中が見えないものの、隙間にレンズを合わせて何とか熨斗と銅鏡のレプリカが撮れました。熨斗の方はいいとして、銅鏡の方はどうやらただの円盤のようです。

横穴墓群第2支群

公園の東、第2支群をチェック。第2支群11号墳、この辺り道は狭く険しくなってます。

第2支群6号墳、開いたままかと思いきや奥に鉄柵が嵌まってました。

垂直方向三角形に並んだ第2支群3、4、5号墳、多少不安を感じつつもそのまま進むと高井田山古墳の説明板前に出て来ました。

クロヒカゲです。なぜか明るい色の蝶はおらず陰気な感じの蝶ばかりが出てきます。

竹林に囲まれた谷底に東屋、ここでお弁当をつかう気にはなれない竹がぶつかり合う音しか聞こえない陰気な休憩所です。谷から坂道を登ると第3支群10、11、12号墳。

公園を出て駅に戻ってきました。対岸にフタコブラクダの二上山。

高井田駅を南口です。橋上駅舎向こう側の竹林はさっきまでいた東屋付近です。

大和川を渡るだけなので高井田駅ではなく近鉄河内国分駅から帰ります。川を撮ったのですがこちら側の土手の雑草に何やら白い花がいっぱい。もう調べようもないのですが気になります。

北の方にハルカス、曇り空なのに六甲も見えます。付け替えられた大和川はここから西へ向きを変えますが、かつてはハルカスの方へ向かって流れていて、その先に自分ち、さらにその先に難波宮。

大和川を渡る近鉄大阪線急行です。まっすぐ帰らず布施で途中下車、いつもの小西酒店。伊豆修善寺のクラフトビールのレッドアンバーエール、エールビールが結構お気に入りです。

焼肉李朝園が閉店してました。コリアンダイニング李朝園の別業態で、ずいぶん通ったハイハイタウンのお店がだいぶ前に閉店、布施へ電車に乗ってまで、カンテキ(七輪)で炭火焼のミックス焼肉辛いラーメンセットを食べに行っていたのですが、残念。調べてみるとまだ十三と近鉄奈良に焼肉李朝園があると分かったもののメニューが違っているようです。

ということで回転寿司発祥の元禄寿司本店にしました。探したらミックス焼肉辛いラーメンの写真が見つかりました。