飛鳥の八角墳(前編)

あっという間に梅雨終了、6月中の梅雨明けは史上初だそうな。ということで夏本番が始まってしまいました。9月までの対策としては、①朝早く出て午前中に引き上げる、②標高の高いところへ行く、③冷房の効いているところでねばる、④ウチでじっとしている、が考えられますが、①の方法で、猛暑日(最高気温が35℃以上)になる前に飛鳥の古墳めぐりへ。

橿原神宮前駅ナカのドトールでモーニングのつもりだったけど次の吉野線が10分後なので、モーニングは諦めリトルマーメイドでカレーパンを調達。自宅最寄りのリトルマーメイドがことごとく別のパン屋になってしまったので、久しぶりにミルクフランスも追加。

飛鳥駅に到着、この駅に降り立つだけでワクワクします。駅前の花壇にキキョウがいっぱい。

今日の古墳めぐりは八角墳。前方後円墳時代が終わったあとの、古墳時代終末期(飛鳥時代7世紀)の正八角形の古墳、牽牛子塚古墳を訪ねピラミッドのような迫力とカッコよさに魅了されました。八角墳は概ね7世紀なかば以降の大王墓に限られ、今日は野口王墓古墳(天武・持統合葬陵)と中尾山古墳(文武天皇陵)を訪ねる計画です。すぐ近くに明日香村唯一の前方後円墳とされる梅山古墳(欽明天皇陵)も訪ねてみたく、どういう順番で巡るかまだ決めかねていました。

駅前に立つ「飛鳥を駆けた女性たち」の日陰側に腰を下ろし、カレーパンを食べながらルートを検討。目の前の持統天皇は何やら構造模型のような物を手にしていると気づきました。父親の天智天皇が作った漏刻(水時計)の模型かもと、さんざん調べてみたものの不明です。斉明(皇極)天皇の手には玉杖のようなもの。

見上げるとキトラ古墳壁画の白虎。西を守護する霊獣で、ここでも西向きで日陰を提供。

南側の推古天皇は手ぶら、上には朱雀。朱雀の走る姿はルーニーチューンに倒叙するロードランナーに似ています。アメリカの砂漠を高速走行するオオミチバシリです。

「飛鳥を駆けた女性たち」の作者を探してみたものの、ChatGPTやGeminiでも分かりませんでした。

東は善信尼と額田王で北は全員集合、東の上は青龍、北の上は玄武。

やはり時系列で梅山古墳→野口王墓古墳→中尾山古墳の順で歩くことに決めました。

まだ9時前で25℃くらい、気持ちいい朝です。

線路の向こうのぽっこりした小山は岩屋山古墳、下段は方墳で上段は八角墳とみる説もあり、被葬者は吉備姫王や斉明天皇説があるようですが、自分的には斉明天皇は牽牛子塚で確定しています。

梅山古墳

県道から細い路地に入り畑の坂道を上ると吉備姫王墓、吉備姫王(きびのひめみこ)は斉明天皇、孝徳天皇の実母。

高札が立っているように宮内庁により欽明天皇陵の陪塚と治定されており、小円墳とされるもそうは見えず、古墳ではないという説もあるようです。

吉備姫王墓の柵の中に猿石と呼ばれる4体の石像、中に入れないので、柵の隙間から撮ってみました。江戸時代に付近の田んぼから掘り出された飛鳥時代に作られたと見られる石像で、明治時代にこの場所に移されたらしい。猿石と呼ばれるものの、左から順に、女性、山王権現、法師、男性、だそうです。

坂道を下りてすぐ先に巨大な梅山古墳、墳丘長140m、前方部後円部とも約15m。宮内庁により被葬者は第29代欽明天皇(敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の父)、に治定されているものの、岡寺駅東側の丸山古墳を欽明天皇陵とする学説も多く、梅山古墳の被葬者は蘇我稲目という説もあるようです。

広い周濠は幕末に田んぼが改修されたものだそう。後年欽明天皇后の堅塩姫が合葬され檜隈坂合陵と呼ばれます。トッキョキョカキョク、ホーホケキョ、さらに重低音のボーボーボー、とホトトギスとウグイスとウシガエルの合唱がずっと響いています。

ぐるっと回り込んできたのに吉備姫王墓と梅山古墳は繋がっていました。説明板左手のスロープとは別に右手から伸びていた石段を上ってみると足元にコミスジ、胴体が構造色です。

石段を上りきると眺めが広がりました。益田岩船から牽牛子塚古墳へ遠回りして歩いた橿原市白橿町付近です。シュロの木右手は住宅が密集している橿原市、シュロの木左手は緑の谷が広がる明日香村とくっきり分かれています。山並みの右端当たりが益田岩船、画面左奥に顔をのぞかせているのは大和葛城山です。

振り返ると梅山古墳。

鬼の俎・雪隠

梅山古墳沿いの田んぼに挟まれた道を東へ、野口王墓古墳へ向かいます。

野中の道のお花畑に見たことのない花、ムギワラギクだそうです。

壺型のピンクはフウリンソウ。小さな薄紫のポンポンはカッコウアザミ。

赤、黄色、クリーム色、ピンクのヒャクニチソウ。一重咲と八重咲があってオシベの形も様々。

シャスタデージーにベニシジミ、ヒャクニチソウにモンシロチョウ。

さらにみごとなダリアも。

南が上の周辺案内図、緑色グラデーションの低い丘の南麓を西から東へ歩いています。地図の向きや案内されているポイント、見どころなどの説明が、設置された場所毎に特化していてとても分かりやすくありがたい案内図です。

草むらからカエルを追いかけるヘビ。カエルは田んぼに飛び込み九死に一生を得ました。

10年来里山歩きをしているもののシマヘビじゃないヘビは初めて。アゴの下の黄色が目立つヤマカガシ、毒蛇です。カエルを逃してしまったのを残念そうにしばらくじっとしていたのですが、諦めがついたかスルスルと草むらに戻って行きました。

道端に「カナヅカ古墳」の説明板、軽トラが止まっている向こうの少し盛り上がったところがカナヅカ古墳のようです。

Google Mapにも上掲の周辺案内図にも記載されていない無いもの、ちゃんとWikipediaがありました。説明板に図解されているように、表面を磨いた切石を積み上げ天井石を載せた「岩屋山式」横穴式石室を持つ7世紀後半の方墳で、何と宮内庁により檜隈坂合陵の陪塚に治定されていて、どうやら吉備姫王の真陵らしい。ということは岩屋山古墳の被葬者が誰なのか闇に包まれてしまいます。カナヅカ古墳の覚書というかなり詳しいPDFが明日香村サイトにアップされていました。PDF17ページの復元図で陪塚とはいえ二段築成の堂々たる方墳と分かりビックリ。

ウスバキトンボらしきが飛んでるのを見ていたらあっという間にジョロウグモの巣に捕まってしまいました。ミイラのように糸で包まれるまであっという間でビックリ。

地面に下りてきたのはオオシオカラトンボ♀。

鬼の雪隠と呼ばれる遺跡。7世紀後半の終末期古墳の石室の蓋石とのこと。

歩いてきた道の左手に石段があって上ってみると鬼の俎。鬼の雪隠と同じ石室の底石で、雪隠の方はこの場所から転がったものらしい。雪隠脇のQRコードから河瀨直美さんの解説で鬼の雪隠、鬼の俎と呼ばれる理由が分かります。

鬼の俎がその材料にされそうになったと河瀨直美さんのガイドにあった高取城が左手の台形の山です。

右手には金剛山が広がってます。手前の鮮やかな緑の小山が岩屋山古墳。同じ方向のはずの牽牛子塚古墳は見えそうで見えません。

小さな青い実を成らせた柿の木にホオジロ。ほどなく電柱のてっぺんに移動。

天武・持統天皇陵

野口王墓古墳が近づいてきました。道端にオオムラサキツユクサ。

野口王墓古墳、天武天皇・持統天皇檜隈大内陵です。687年(持統天皇元年)築造で東西58m南北,高さ9mの八角墳。703年に火葬された持統天皇が合葬されています。鎌倉時代に無惨な盗掘にあったことが記録に残されており、治定に疑いの余地の無い数少ない古墳。

宮内庁の管理で墳丘には入れないものの墳丘の周囲に道が続いています。石畳の道から石段を上り墳丘の裏側へ。

オオシオカラトンボ♀とナミアゲハ。

八角墳の裏側です。

正面に戻ってくると聞き馴染みのない鳥の声。ホーホケキョではないもののウグイスで間違いないかと。

緩やかにカーブした石段を下りてくると説明板に貼り紙。Google Mapにアップされた去年2月の写真では貼り紙の下には墳丘復元図と横口式石槨図が描かれており、ピラミッド状の5段築成で周囲に石段が張り巡らされていたこと、石槨には天武天皇の夾紵棺と持統天皇の金銅製骨壺が並べられていたことが確認できます。なぜ貼り紙でこれを隠さなければならなかったのか、この1年で元の説明を訂正しなければならないような発見は無かったはずですが、貼り紙にある「飛鳥・藤原を世界文化遺産へ」の絡みでより正確を帰そうしているのかもしれません。

梅山古墳から続く丘陵の東端に位置する天武・持統天皇陵、より高い位置に立ち周囲がスロープの牽牛子塚と異なり、広い田んぼに囲まれた空間も悪くない。墳丘を覆う鬱蒼とした木立を取っ払って、石段で覆われた5段築成のピラミッド状八角墳が聳えていたことをイメージしてみます。仁徳天皇の民の竈の逸話のような思いが天武・持統天皇へも受け継がれていたのではないかと感じられるロケーション、1400年変わらない景色が残る飛鳥です。

まだ10時を回ったばかりですが、続きは後編に分けます。