飛鳥の八角墳(前編)
あっという間に梅雨終了、6月中の梅雨明けは史上初だそうな。ということで夏本番が始まってしまいました。9月までの対策としては、①朝早く出て午前中に引き上げる、②標高の高いところへ行く、③冷房の効いているところでねばる、④ウチでじっとしている、が考えられますが、①の方法で、猛暑日(最高気温が35℃以上)になる前に飛鳥の古墳めぐりへ。
飛鳥駅に到着、この駅に降り立つだけでワクワクします。駅前の花壇にキキョウがいっぱい。
今日の古墳めぐりは八角墳。前方後円墳時代が終わったあとの、古墳時代終末期(飛鳥時代7世紀)の正八角形の古墳、牽牛子塚古墳を訪ねピラミッドのような迫力とカッコよさに魅了されました。八角墳は概ね7世紀なかば以降の大王墓に限られ、今日は野口王墓古墳(天武・持統合葬陵)と中尾山古墳(文武天皇陵)を訪ねる計画です。すぐ近くに明日香村唯一の前方後円墳とされる梅山古墳(欽明天皇陵)も訪ねてみたく、どういう順番で巡るかまだ決めかねていました。
東は善信尼と額田王で北は全員集合、東の上は青龍、北の上は玄武。
やはり時系列で梅山古墳→野口王墓古墳→中尾山古墳の順で歩くことに決めました。
まだ9時前で25℃くらい、気持ちいい朝です。
線路の向こうのぽっこりした小山は岩屋山古墳、下段は方墳で上段は八角墳とみる説もあり、被葬者は吉備姫王や斉明天皇説があるようですが、自分的には斉明天皇は牽牛子塚で確定しています。
石段を上りきると眺めが広がりました。益田岩船から牽牛子塚古墳へ遠回りして歩いた橿原市白橿町付近です。シュロの木右手は住宅が密集している橿原市、シュロの木左手は緑の谷が広がる明日香村とくっきり分かれています。山並みの右端当たりが益田岩船、画面左奥に顔をのぞかせているのは大和葛城山です。
振り返ると梅山古墳。
道端に「カナヅカ古墳」の説明板、軽トラが止まっている向こうの少し盛り上がったところがカナヅカ古墳のようです。
Google Mapにも上掲の周辺案内図にも記載されていない無いもの、ちゃんとWikipediaがありました。説明板に図解されているように、表面を磨いた切石を積み上げ天井石を載せた「岩屋山式」横穴式石室を持つ7世紀後半の方墳で、何と宮内庁により檜隈坂合陵の陪塚に治定されていて、どうやら吉備姫王の真陵らしい。ということは岩屋山古墳の被葬者が誰なのか闇に包まれてしまいます。カナヅカ古墳の覚書というかなり詳しいPDFが明日香村サイトにアップされていました。PDF17ページの復元図で陪塚とはいえ二段築成の堂々たる方墳と分かりビックリ。
歩いてきた道の左手に石段があって上ってみると鬼の俎。鬼の雪隠と同じ石室の底石で、雪隠の方はこの場所から転がったものらしい。雪隠脇のQRコードから河瀨直美さんの解説で鬼の雪隠、鬼の俎と呼ばれる理由が分かります。
正面に戻ってくると聞き馴染みのない鳥の声。ホーホケキョではないもののウグイスで間違いないかと。
緩やかにカーブした石段を下りてくると説明板に貼り紙。Google Mapにアップされた去年2月の写真では貼り紙の下には墳丘復元図と横口式石槨図が描かれており、ピラミッド状の5段築成で周囲に石段が張り巡らされていたこと、石槨には天武天皇の夾紵棺と持統天皇の金銅製骨壺が並べられていたことが確認できます。なぜ貼り紙でこれを隠さなければならなかったのか、この1年で元の説明を訂正しなければならないような発見は無かったはずですが、貼り紙にある「飛鳥・藤原を世界文化遺産へ」の絡みでより正確を帰そうしているのかもしれません。