和歌山の博物館美術館

天気予報を見て京都や奈良よりも少し涼しげな和歌山へ向かうことに決めていました。和歌山といえば復元塗装のサザンが走っているはず。南海のPDFを見るとコールセンターで運行ダイヤを教えてくれるとのことで電話してみると、21日午前中の難波発は8:45と11:20と教えてもらいました。

早起きして8:45に乗れば和歌浦は上げ潮に変わったばかりでトビハゼに会えそう、と計画していたものの、昨晩ちょいと呑みすぎて二日酔い。迷ったけどせっかく電話までして運行ダイヤを確認したので11:20で和歌山へ向かうことにしました。

復元塗装10000系

特急サザン往復座席指定券付き和歌山観光きっぷで先頭車の海側ををゲット。後ろ4両は同じく復元塗装の7100系。

片開きドア同様、絶滅危惧種の折戸が閉まるシーンです。昭和の特急電車の多くがこの折戸だったのですが、平成に入った頃から一挙にプラグドアが普及。近鉄でもアーバンライナーPlusまでは折戸、以降はプラグドアです。

車体を復元塗装に変更しただけじゃなくて枕カバーもいつものピンクじゃなく専用のものに。南海電鉄創業140周年かつ10000系運行開始から40年で南海グリーンの140にLegacy into the Future。

2号車の自販機までお茶を買いに行ったのですが、よく揺れて座席の肩に掴まらないと歩けないくらい。何度も車内を巡回しなけらばならないアテンダントさんは大変なお仕事と分かります。リクライニングのボタンの下には開けなくなった灰皿、タバコが吸えたのは2011年まで。

鳥取ノ荘を過ぎると海、水平線が斜めになっていたので、Premiere Proで補正してます。

みさき公園で日中1時間ヘッドになってしまった多奈川線を分岐、錆びたか細いレールがしばし並行。

プラットホームの残る旧深日駅跡、レンガの建物は明治44年竣工の深日変電所、本線と電線が繋がっている現役です。

まもなく和歌山市に到着、紀の川を渡ります。

上り線は明治36年架橋のプラットトラス橋、こちら下り線は大正11年架橋のワーレントラス橋。部材の組み方がかなり違ってます。

和歌山市駅に到着。ドア脇に南海の社章プレートが取り付けられていました。通常の車輌にあるオレンジと黄色のマークは社章ではなくコーポレートシンボルだそう。

連結面の7100系側に枕カバーと同じデザインのヘッドマーク。架線にハクセキレイ。

3番線から水色のめでたいでんしゃが加太に向かって出ていきました。

7100系先頭車にもヘッドマーク、車体の塗装がとても美しい。

復元塗装サザンが難波へ向かって発車、くねくね曲がって10000系前方の7100系も撮れました。10000系にはヘッドマーク無し。10年前に7000系と同時に復元塗装された時、7月20日の写真では、取り付けフックがないのに大きな130周年のヘッドマークが10000系にも取り付けられていたものの、9月26日の写真ではヘッドマークが外されてました。ちなみに10年前の復元も同じ和歌山市寄り先頭車が10904の10004編成、中間車2両は元10001編成を中間車化改造したもの。

和歌山城

もう潮位はすっかり上ってしまい、トビハゼは巣穴に引っ込んでいて見つからないだろうと想像がつき今日は諦めました。ということで和歌山観光きっぷについてきた500円のキーノわかやまグルメクーポンで腹ごしらえ。

クチコミとかチェックすることなく直感でとんかつの「よし平」に決めました。熟成厚切り150gロースカツ膳がクーポン使って1359円、白ごはん、十穀米、炊き込みご飯から選ぶことができおかわり無料、迷わず選んだ炊き込みご飯のたこ飯が美味しかった。紀州小梅とゆず大根と青きゅうりのお漬物も食べ放題。

ソースの壺は「甘口」「辛口」と絵付けで描かれているのがいい感じ、バイトさんたちの接客もよくて満足。紀伊田辺を本店に県内に7店舗を構えるローカルチェーンとのこと。

和歌山県庁に近い和歌山県立博物館へ向かいます。和歌山城方面へのバスに乗りこんだものの、どうやら和歌山県庁は経由しないと気づき和歌山城前で下車。Mapをチェックするとお城の北東の現在地から城内を抜けてお城の南西に位置する博物館へ歩いて行けそうです。一の橋でお掘りを渡ると大手門。

大手門をくぐってすぐ右手の石垣上の巨木は、樹齢400年以上、幹周り7m、樹高25mのクスノキで県指定文化財天然記念物。

ブログ内に記録が見当たらないものの、これまで2回ほど訪ねた記憶がある和歌山城です。みごとな石垣の下に灰皿発見、いっぷくします。和歌山城が国宝だった頃からの石垣のはず。まっすぐ博物館へ向かうつもりだったのですが上った記憶のない天守に上ってみることにしました。

表坂の石段を上ると動物園が見下ろせます。動物や鳥は見当たらないものの営業中、アルパカやカピバラ、フンボルトペンギンもいるらしい。

大汗かいてチケットブースまで上ってくると、笑顔で迎えてくれたガイド係のにいさんは真っ黒な忍者衣装でさらに暑そう。天守茶屋でひと休みして大天守に上ります。階段をどんどん上って最上階、大天守は真北や真東じゃなく東北東に面していて眺めはお城の北東方向です。高層ビルは殆どなく、茶色いダイワロイネットホテルの20階建てが目立ちます。

加太から戻ってきた水色のめでたいでんしゃが紀ノ川橋梁を渡るところです。上下線のトラス橋の形の違いがよく分かります。

大天守を反時計回りに周ります。北西の眺めは紀の川の河口。

沖に浮かぶ貨物船の向こうの島影は国産み神話オノゴロ島説のある沼島(たぶん)。

南西方向の雑賀崎は黒いビルの陰。

紀州東照宮から章魚頭姿山(たこずしやま)の山並みの間に片男波の海がちらり。3年前この稜線を歩いています。

紀三井寺がよく見えます。東側の眺めの左端がJR和歌山駅辺り。

水色から赤に変わっためでたいでんしゃが加太へ向かって行きました。

14:30の上りサザンが紀の川を渡ります。後ろから2両目と3両目は改造じゃなくて新造中間車なので窓が大きい。30分あとが復元塗装のはずですが、ちょっと遠すぎるし、早く博物館を訪ねたいのでパス。

下の階には武具や絵図など多数展示、その和歌山御城内惣御絵図。江戸時代後期に作事方あるいは普請方が作成したもので、改築されるごとに貼り紙で更新され、明治初年まで使用されていた絵図です。天守はこの当時から東北東を向いていて、それを囲む天守郭全体も東西方向から15°くらい北を向いています。和歌山城は天守など11棟が昭和10年に国宝に指定されたものの昭和20年7月の和歌山大空襲で11棟全てが焼失、昭和33年に天守群がコンクリートで再建されています。

木下日足紋・五七桐紋 緋羅紗陣羽織は幕末に備中足守藩主木下家から紀州徳川家家老三浦家へ嫁してきた姫さまの陣羽織らしい。Geminiに訊いて足守藩最後の藩主・木下利恭の妹で、名は順子らしいと分かりました。備中足守といえば緒方洪庵が足守藩士、順子姫と接点があったかも。

すごく気になったのがこの絵巻物。江戸時代の鳥類図鑑(粉本)、狩野派による絵の下絵としか説明がないものの、こんどはChatGPTに訊いて、江戸時代前期の紀州藩狩野派御用絵師、狩野養朴の作で間違いなさそうと分かりました。粉本や写生図に優れ、特に植物・鳥類・獣類の写生図に見られる繊細な描写が評価されているとのこと。画像検索でとこの粉本と同じタッチの作品が見つかります。ツムキとあるのはどうみてもツグミ、いかにもモズな姿勢のモズ、ウの後ろにはハクセキレイ。

中シギとあるのはオグロシギっぽい。イカルの右、背黒ゴイ(たぶん)と記されているのはゴイサギのようです。カイツブリはイヨメと紹介されていて、右端のオナガはホンジャク(たぶん)関東尾長トモ云とあり江戸時代前期もオナガは関東の鳥だったようです。

次の部分には雌雄のコガモ、ヒバリ、ホウジロ。

メバチとあるのはコサメビタキですね。山ショウビンはアカショウビン、さらに深山ホジロ(ミヤマホウジロ)、イソヒヨ、キヤウシヤウシギ(キョウジョシギ)、ヒレンジャク。カメラ無しで動き回る鳥たちをよくぞここまで正確に観察し描写したものだと感心するばかり。それと鳥たちの和名がこの時代から今に至るまで引き継がれていることにもビックリです。

全国お城番付が掲げられていたいました。大坂城ではなく大阪城とあるので明治のものと思われます。石高順の番付でやはり加賀金沢が図抜けています。和歌山は行事役。今なら人気順で東の横綱はやはり姫路かと。

徳島蜂須賀藩の軍船模型です。紀州藩にも同型の軍船があったとのこと。幕末には紀州藩も徳島藩も蒸気船を持っていたので、模型は江戸中期のものかと。

最後に陸奥宗光、南方熊楠、有吉佐和子、松下幸之助ら錚々たる和歌山市の偉人・先人紹介パネルを見て外に出て来ました。松下幸之助って大阪ちゃうん、と近くにいた人が話していたのですが、自分もそう思ってました。和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(和歌山市禰宜、JR和歌山線千旦駅付近)の小地主の三男だそうです。

和歌山県立博物館

天守のチケットブースで県立博物館への道を尋ね、坂道を下りたところにさっきの忍者くんがいたのでもう一度道を尋ね、広い道路を渡ったところに和歌山県立近代美術館、渡り廊下で繋がった丸い建物が和歌山県立博物館。どちらも黒川紀章氏設計。

まずは和歌山県立博物館、65歳以上無料、写真撮影OK(一部を除く)。

兵庫県立考古博物館より少し小さめの展示スペース、但馬、丹波、播磨、摂津、淡路にまたがる兵庫県全体をカバーする広い空間軸で古代以前に限られた時間軸の兵庫県立考古博物館に対し、こちらは紀州のみの限られた空間軸で、きのくにのあけぼの、古代国家と紀伊国、荘園と武士、きのくにの祈り、動乱の時代、紀州藩と領民、和歌山県の誕生という7つのテーマで一気通貫の時間軸での展示です。

まずは縄文時代の貝塚(つまりはゴミ箱)からの出土品、並べられているのは磨製石器とかじゃなくて貝殻や動物の骨ばかりでイマイチな感じ。

続いて弥生時代の銅鐸、小さい方はJR和歌山駅東方から出土の袈裟襷文銅鐸と舌(複製)、大きい方はみなべ町から出土の袈裟襷文銅鐸(複製、現品は東博蔵)。小さい方は「聞く銅鐸」、大きい方は「見る銅鐸」と明記されていて、銅鐸は時代を経るにつれ実用性をなくしていったことがよく分かります。

縄文土器から弥生土器、古墳時代の土師器や須恵器への時の変遷が、出土品だけでうまく整理されています。

高さ4.3mもあって二階建みたいな岩塚千塚古墳将軍塚古墳の石室と、男女二体が足を組み合わせて埋葬されていた東国山1号墳竪穴式石室模型のジオラマ。将軍塚は紀伊風土記の丘公園内にあって内部を見学できるとのこと。紀伊風土記の丘は今日行ってみることも考えたもののバスの本数が少なく諦めたばかり。

7つのテーマごとに現代作家さんによるものと思われる木彫が置かれています。最初は笑顔が可愛い石包丁で稲穂をつむ弥生の女性。作者は不明。

和歌山平野には宮川用水(名草溝)と呼ばれる現在も利用されている紀の川からの水路が張り巡らされています。この水路を築いたのが古代豪族の紀氏で、6世紀にはヤマト王権から紀伊国造に任ぜられています。当時と現在を重ねた地図から、その頃の紀の川はまっすぐ紀伊水道ではなくトビハゼの棲息する和歌浦干潟に流れ込んでいたと分かります。

租(収穫に応じて米を収める税)、庸(麻布など特産品で収める税)、調(労役や兵役)の詳しい説明があって、このコーナーの木彫は税を都に運ぶ農民。律令制が庶民を苦しめていたとストレートに伝わってきます。

鳥獣人物戯画(複製)と明恵像(樹上坐禅像、複製)。神護寺で修行、高山寺を開いた明恵は平治の乱で平清盛の危機を救った湯浅党の出。鳥獣人物戯画は動物をこよなく愛した明恵の霊前に備えるために高山寺に施入されたとのこと。

1275年の阿弖川荘上村百姓等申状(カタカナ言上書、複製)、阿弖川(あてがわ)は有田川上流の荘園で、地頭湯浅氏の横暴を止めさせるよう荘園領主の円満院門跡にその非法行為を13か条のカタカナで書き上げた百姓の肉声。律令制以来の荘園領主と鎌倉幕府により派遣された地頭の二重支配で苦しめられていた庶民です。

泣く子と地頭には勝てぬ、木彫も地頭の非法に抵抗する百姓。明恵も湯浅党、横暴な地頭も湯浅党、その湯浅党も南北朝で内部分裂、急速に衰退したらしい。

熊野詣関連の史料はかなり充実。熊野古道とおもな王子社のパネルです。千里王子と岩代王子は訪ねたことがあります(海辺の熊野古道)。

熊野への道中、八上王子にて瑞垣に和歌を書きつける西行の絵巻、八上王子は田辺から中辺路の山中に入ってすぐの辺り。新・平家物語を読んで以来、西行ファンの自分です。

戦国時代、単なる寺院ではなくひとつの都市として発展した根来寺、その遺跡から出土品の数々です。

戦国時代の勢力配置のパネルです。湯浅党は南朝とともに滅び、紀中紀南では湯河氏、玉置氏などの豪族が現れ、紀北では雑賀衆、根来寺、高野山が勢力を大きくし、一国全体を支配するような戦国大名は登場しなかったとのこと。敬語が無いとされる和歌山弁の原点がここにありそうです。

有田みかん、湯浅の醤油、太地の捕鯨と今に続く紀州の地場産業マップ。左の掛軸は幕末頃の密柑山図、木彫はとり入れた蜜柑を運ぶ農民。やっと笑顔です。

時間軸に分けた展示でもその時代区分をテーマ毎にしたことで却って全体が分かりにくく、熊野詣などはかなり充実している一方、史料が十分なはずの江戸時代もかなりあっさりでちょっと物足りない感じです。

それに発掘品や重要文化財などの実物よりも複製品展示が目立ち、ありがたみが少なかったのですが、テーマ毎にその時代を映し出した木彫たちはとてもインパクトがありました。蜜柑を運ぶ木彫には「おいやん、つれもていこら」と声をかけたくなります。

和歌山県立近代美術館

和歌山城天守外観を撮るのを忘れてました。県立博物館を出たところから見上げた天守です。手前の木にアオサギたちが営巣しているようです。

隣接する和歌山県立近代美術館に入ります。県立博物館の倍くらいあるスペースにとてもゆったりした展示で、こちらも写真NGマーク以外は展示作品撮影OKが嬉しい。

名だたる巨匠の作品がいっぱい並んでいてビックリ。まずは見覚えのある黒田清輝「裸婦」、とても美しい背中。

そして岸田劉生「黒き帽子の自画像」、なかなかイケメンです。

色づかいでそれと分かる東郷青児「静物」。

見覚えのある景色は佐伯祐三「オプセルヴァトワール附近」。リュクサンブール公園を南へ出た辺り、画面を斜めに横切る通りはモンパルナス通りで右に500mほどのところが自分の定宿にしていたVavinかと。

「佐藤春夫の美術愛」展を開催中。新宮出身の文豪の作品と所蔵品の展示会です。

まずは春夫作の「蓬莱山」、シンプルもダイナミック。新宮は神武東征の上陸地、かつ秦の始皇帝の命で徐福が不老不死の薬を求めてやってきた地、故郷の新宮が蓬莱山というイメージで描かれたものかと。

膨大なコレクションからフランシスコ・デ・ゴヤのエッチング、あの「裸のマハ」「着衣のマハ」のゴヤのエッチングです。武者小路実篤、里見弴と3人で共同購入した80点をくじびきで分け合った内の22点が春夫の手に。

谷中安規「文豪佐藤春夫」、マッチ箱サイズの木版です。ものすごく見応えのある展示会で再訪したいと思うものの展覧会は6月29日まで。

帰り道

さらに現代美術の展示室をさっと見て出てきました。館内のカフェはもう店じまい、お城に戻って西の丸庭園や御橋廊下も歩いてみたいもののもう時間がないし、それ以上にかなりくたびれました。帰ります。

県庁前バス停にたどりついたら目の前がバスが発車、駆けていったこっちに気づいていたと思うのですが冷たいです。次のバスは30分後なので市駅に向かって歩いていると城北橋という次のバス停では別の路線が合流して5分後にバスがやってきました。バス停ひとつ分だけ乗って市駅にたどりつきました。17:30の復元編成サザン、往路と同じ最後尾の10904の山側席をゲット。

最後尾山側席にしたのは西日が眩しいのと前方の7100系を見たかったからです。

みさき公園駅近くの西陵古墳、5世紀前半築造の前方後円墳で墳丘長210m、全国28位の規模。被葬者は雄略天皇により新羅討伐に派遣され新羅で病死したと伝わる紀小弓と推定されています。紀氏は和歌山から孝子峠を超えてこの付近まで勢力圏にしていたようです。すぐ向こう側にある紀淡の春巻定食を食べて、その駐車場から復元塗装サザンを撮り鉄して、西陵古墳の墳丘に上ることも考えてはいたものの、この時期墳丘に上るには藪漕ぎ必至と思われ、機会を改めます。

淡輪駅に隣接する淡輪ニサンザイ古墳、440年-460年頃築造の前方後円墳で墳丘長173m、宮内庁により垂仁天皇皇子 五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)陵墓に治定されているものの、こちらも紀小弓を被葬者とする説があるようです。こちらは宮内庁の管理でかつ周濠に囲まれているので墳丘へは入れません。

ベタ凪の茅渟(ちぬ)の海。

難波に到着、折り返しは回送と分かり、その出発を撮り鉄します。いわゆる同業者さんがふたりいたので気を使いながらポジションを確保。31000系りんかんが発車。続いて万博ラッピングのラピートが到着。

泉北ライナーと空港急行が同時入線。しばらく待って復元サザン回送が発車。同業者さんたちのおじゃまにならなかったかちょっと気になってます。