和歌山の博物館美術館
天気予報を見て京都や奈良よりも少し涼しげな和歌山へ向かうことに決めていました。和歌山といえば復元塗装のサザンが走っているはず。南海のPDFを見るとコールセンターで運行ダイヤを教えてくれるとのことで電話してみると、21日午前中の難波発は8:45と11:20と教えてもらいました。
早起きして8:45に乗れば和歌浦は上げ潮に変わったばかりでトビハゼに会えそう、と計画していたものの、昨晩ちょいと呑みすぎて二日酔い。迷ったけどせっかく電話までして運行ダイヤを確認したので11:20で和歌山へ向かうことにしました。
片開きドア同様、絶滅危惧種の折戸が閉まるシーンです。昭和の特急電車の多くがこの折戸だったのですが、平成に入った頃から一挙にプラグドアが普及。近鉄でもアーバンライナーPlusまでは折戸、以降はプラグドアです。
鳥取ノ荘を過ぎると海、水平線が斜めになっていたので、Premiere Proで補正してます。
和歌山城
もう潮位はすっかり上ってしまい、トビハゼは巣穴に引っ込んでいて見つからないだろうと想像がつき今日は諦めました。ということで和歌山観光きっぷについてきた500円のキーノわかやまグルメクーポンで腹ごしらえ。
下の階には武具や絵図など多数展示、その和歌山御城内惣御絵図。江戸時代後期に作事方あるいは普請方が作成したもので、改築されるごとに貼り紙で更新され、明治初年まで使用されていた絵図です。天守はこの当時から東北東を向いていて、それを囲む天守郭全体も東西方向から15°くらい北を向いています。和歌山城は天守など11棟が昭和10年に国宝に指定されたものの昭和20年7月の和歌山大空襲で11棟全てが焼失、昭和33年に天守群がコンクリートで再建されています。
木下日足紋・五七桐紋 緋羅紗陣羽織は幕末に備中足守藩主木下家から紀州徳川家家老三浦家へ嫁してきた姫さまの陣羽織らしい。Geminiに訊いて足守藩最後の藩主・木下利恭の妹で、名は順子らしいと分かりました。備中足守といえば緒方洪庵が足守藩士、順子姫と接点があったかも。
すごく気になったのがこの絵巻物。江戸時代の鳥類図鑑(粉本)、狩野派による絵の下絵としか説明がないものの、こんどはChatGPTに訊いて、江戸時代前期の紀州藩狩野派御用絵師、狩野養朴の作で間違いなさそうと分かりました。粉本や写生図に優れ、特に植物・鳥類・獣類の写生図に見られる繊細な描写が評価されているとのこと。画像検索でとこの粉本と同じタッチの作品が見つかります。ツムキとあるのはどうみてもツグミ、いかにもモズな姿勢のモズ、ウの後ろにはハクセキレイ。
中シギとあるのはオグロシギっぽい。イカルの右、背黒ゴイ(たぶん)と記されているのはゴイサギのようです。カイツブリはイヨメと紹介されていて、右端のオナガはホンジャク(たぶん)関東尾長トモ云とあり江戸時代前期もオナガは関東の鳥だったようです。
全国お城番付が掲げられていたいました。大坂城ではなく大阪城とあるので明治のものと思われます。石高順の番付でやはり加賀金沢が図抜けています。和歌山は行事役。今なら人気順で東の横綱はやはり姫路かと。
徳島蜂須賀藩の軍船模型です。紀州藩にも同型の軍船があったとのこと。幕末には紀州藩も徳島藩も蒸気船を持っていたので、模型は江戸中期のものかと。
最後に陸奥宗光、南方熊楠、有吉佐和子、松下幸之助ら錚々たる和歌山市の偉人・先人紹介パネルを見て外に出て来ました。松下幸之助って大阪ちゃうん、と近くにいた人が話していたのですが、自分もそう思ってました。和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(和歌山市禰宜、JR和歌山線千旦駅付近)の小地主の三男だそうです。
まずは和歌山県立博物館、65歳以上無料、写真撮影OK(一部を除く)。
兵庫県立考古博物館より少し小さめの展示スペース、但馬、丹波、播磨、摂津、淡路にまたがる兵庫県全体をカバーする広い空間軸で古代以前に限られた時間軸の兵庫県立考古博物館に対し、こちらは紀州のみの限られた空間軸で、きのくにのあけぼの、古代国家と紀伊国、荘園と武士、きのくにの祈り、動乱の時代、紀州藩と領民、和歌山県の誕生という7つのテーマで一気通貫の時間軸での展示です。
熊野詣関連の史料はかなり充実。熊野古道とおもな王子社のパネルです。千里王子と岩代王子は訪ねたことがあります(海辺の熊野古道)。
熊野への道中、八上王子にて瑞垣に和歌を書きつける西行の絵巻、八上王子は田辺から中辺路の山中に入ってすぐの辺り。新・平家物語を読んで以来、西行ファンの自分です。
最後尾山側席にしたのは西日が眩しいのと前方の7100系を見たかったからです。
みさき公園駅近くの西陵古墳、5世紀前半築造の前方後円墳で墳丘長210m、全国28位の規模。被葬者は雄略天皇により新羅討伐に派遣され新羅で病死したと伝わる紀小弓と推定されています。紀氏は和歌山から孝子峠を超えてこの付近まで勢力圏にしていたようです。すぐ向こう側にある紀淡の春巻定食を食べて、その駐車場から復元塗装サザンを撮り鉄して、西陵古墳の墳丘に上ることも考えてはいたものの、この時期墳丘に上るには藪漕ぎ必至と思われ、機会を改めます。