兵庫県立考古博物館

久しぶりに西へ。尼崎行普通で出発、LCカーで隣の席にはアジア系のお嬢さん。ずっと英語画面の時刻表アプリを検索中。Excuse me、三宮へはこれでOKかと訊かれ、終点で乗り換えるように返事。たぶんフィリピンのお嬢さん。

大物駅手前、できたばかりのゼロカーボンベースボールパークではタイガース二軍が練習中。マウンドには背番号64岡留投手が確認できます。阪神なんば線車窓の楽しみが増えました。

尼崎で乗り換え、フィリピンのお嬢さんたちを直通特急へ案内しようとするも次は後続の快速急行。下車した同じ4番線で待つことしばし、駅のアナウンスでSannomiyaと聞こえ、不安そうだったお嬢さんたちに笑顔が。姫路行じゃなくて三宮行なので乗り過ごす心配もなくて良かったです。

三宮に到着、駅に貼られたタイガースのポスター。一昨日延長11回決勝2ランの近本選手と藤川監督ですが、何か変。右に大山選手、中野選手、その右は何故か鳥谷さんと金本アニキ。左側は岡田、掛布、吉田、矢野、田淵、真弓、村山と歴代名選手がずらり並んで、左端は岩崎投手がいつもの試合終了時のポーズ。「鼓動を鳴らせ。虎道を進め。」タイガース90周年記念のポスターだそうです。

三ノ宮駅前のマックで10:30ギリギリ間に合ったモーニングのグリドルをお腹に入れて加古川行快速でさらに西へ。須磨ベルトコンベア銘板が砂に埋れていた辺りを通過。三ノ宮から38分で土山駅に到着、明石市と加古川市に挟まれた加古郡播磨町です。

土山駅南口ロータリーに何と弥生時代の楼閣、時計台になっているようです。

南口から右手斜め方向に「であいのみち」と名付けられた緑道、ゲートには明治期のSLに明治時代の偉い人の誰か。この先に目的地の兵庫県立考古博物館があります。

緩くカーブした「であいのみち」、その道幅からも廃線跡で間違いなさそうです。

緑道脇に「1931年明石原人発見」等、ところどころで歴史の紹介。地元史だけでなく日本史、世界史も。よく見ると歴史紹介の支柱はレールです。

日本地図と家康、信長、秀吉。葉桜のソメイヨシノにはまだ花びらが残ります。

沿道の団地の庭から飛んできたと思われるスパラキシス。「1180年平清盛が福原に都をうつす」は地元史かと。

日差しにノムラモミジをかざしてみます。紅白のハナミズキ。

喜瀬川を渡る「ふるさと橋」と名付けられたがっしりした吊橋には原始人ファミリーのイラスト。歴史を紹介する緑道や、原始人のイラストは特徴的なのに、「であいのみち」にせよ「ふるさと橋」にせよ、もう少し色っぽいネーミングができなかったのか。

橋をわたると兵庫県立考古博物館。

考古博物館に入ると壁面にずらりと壺。入館料200円を払って、ドリンク自販機の場所を教えてもらいました。季節外れの暑さで喉はカラカラ。

建物を出た所の自販機で水を買ってベンチに腰を下ろすと梢の先にカワラヒワ。

わたしたちの由来

「人は歴史の主役」と題した説明から始まり、旧石器時代人フィギュア、縄文時代親子と猟犬、古墳時代の騎馬戦士、時代が飛んで平安時代のビジネスシーン。いずれも海洋堂作品を彷彿とさせる出来栄えです。

それぞれの展示ごとに掲示されたQRコードを読み取ると音声ガイドを聞くことができます。イヤフォンを持ってこなかったものの音量を小さくしてスマホを耳に当てて見学。お金はかからないしアプリをインストールしたりすることもなく簡単で優れた方法です。

4つのテーマで物語る博物館、最初のテーマは「人 - わたしたちの由来」。

高砂市日笠山貝塚の身長158cmで30才前後の3,500年前の屈葬された縄文人男性と、神戸市西区玉津中山遺跡の子どもの小さな棺と並んで膝を曲げて埋葬されていた約2,100年前の弥生女性の紹介。いずれも遺骨が展示されていたのですが、縄文人男性に撮影NGとあったので控えておきました。

和田山町向山古墳で見つかった40〜60才で亡くなったと推定される古墳時代の女性リーダー、ひどい虫歯のあとが確認され、頭蓋骨に水銀朱が残り巫女だったと推定されます。スクリーンの古墳は海のそば、和田山ではなく小壺古墳と並ぶ五色塚古墳ですね。

豊岡市出石町坪井遺跡で見つかった男性2人と女性1人が重なって埋葬されていたうちの、太くてしっかりとした大腿骨が残り働き者だったと思われる40才前後の古墳時代男性です。

昭和6年、明石市西八木海岸で見つかった明石人の寛骨。旧石器時代のものと思われていたものの戦災で消失、残されたいた石膏型で作られた模型だそうです。戦後、旧石器時代よりずっと古い原人段階のものという説が出され教科書にも明石原人として紹介されたものの、その証拠は確認できず現在も謎解きが続けられているとのこと。

約600万年前にアフリカで生まれた最初のヒトで2足歩行し道具を使った猿人、約180万年前に初めて火を使った原人、約60万年前に服を着て石器やお墓をつくった旧人、約20万年雨にアフリカで生まれた私たちの直接の祖先となるのが新人です。

新人がアフリカから4万〜3万年前日本へ移動したルートを示す地球儀、二上山博物館の地図と違って日本は大陸と地続きです。

縄文人、弥生人、古墳人の胸像が並び、後ろのパネルはむかしの人と背くらべ。古墳人(161.5cm)や鎌倉時代の人(159cm)より江戸時代の人(155cm)の方が背が低かったのは意外。現代人(170cm)が持っているはQRコードの解説が聞けないガラケーなので初期平成人です。

あなたは縄文系?弥生系?というパネルには鏡。どうやら自分は縄文系のようです。

自然とともに

2つ目のテーマは「環境 - 自然とともに」、旧石器時代 自然にいどむ狩人たちの実物大ジオラマ。二上山博物館のジオラマと違って、ナウマンゾウの狩りでは厚手の毛皮と足を守る靴が必須だったと分かりました。自分が抱いた疑問がずばり解決されて我が意を得たり。

約3万年前、丹波市春日町あたりで毎年秋に暖かい南の地へ移動するナウマンゾウの群れを待ち伏せ、群れからはぐれたゾウを沼地へ追い込む旧石器人たちです。「ナウマンゾウだゾ〜」のダジャレはいただけないものの、ジオラマの外に隠れた人のノリは好きです。その手前には瀬戸内海から出土したナウマンゾウの牙が展示されています。

3万年前頃までのナウマンゾウを狩るヤリ先や小刀、磨製石器も見つかっているようです。2万5千年前頃、姶良カルデラ(鹿児島湾)の大噴火があって環境が大きく変化、地球全体が寒冷化しナウマンゾウは絶滅。約1万2千年前に今くらいの気温に戻り、シカやイノシシが狩りの対象となり、木や骨の柄に取り付けて使うサヌカイトで作られた鋭いヤリ先が登場。

時代は縄文時代。弓で狩りをする親子と猟犬、縄文のとーちゃんカッコいい。犬が猟犬やペットになったもは縄文時代、猫よりずっと古いです。

サヌカイト原石と淡路市佃遺跡出土の削器(切る道具)や石匙(万能石器)、石鏃(石のヤジリ)、二上山のサヌカイトじゃなくて讃岐のサヌカイトです。

縄文土器の展示の左下に土偶、頭がないので分かりにくいものの肩と銅の部分の欠片です。

漁撈のジオラマも良くできてます。丸木舟から垂らされた網の錘は佃遺跡(淡路島東岸)から実際に発掘されたものとのこと。水中にはタイやサメが泳いでいます。大阪湾に迷い込んできたイルカの骨も見つかっているらしい。今もスナメリの棲む大阪湾です。

大陸から米づくりが伝えられ、縄文人は弥生人に。木を切って耕地を作るための大型蛤刃石斧、カンナとなる扁平片刃石斧、ノミとなる柱状片刃石斧です。

脱穀のための臼と杵、池上曽根遺跡の高殿に描かれていたのを見た時はてっきり石でできていると思っていたのですが、木でできていたのは意外。田下駄や貫頭衣も。

随所に描かれたイラストが素敵です。同じ作者のイラストや紹介パネルが4つのテーマ毎に色分けされていて、「わたしたちの由来」はオレンジ、「自然とともに」はグリーン。

鹿の角と鳥の羽根の冠を被り、首に勾玉のネックレス、腰に小さな銅鐸をたくさんぶら下げたシャーマン、池上弥生文化博物館の卑弥呼さまのようなドキッとする美人ではないものの、どこかでお会いしたことがあるような身近な感じです。左手の銅鐸を鳴らしてみたらカーンとありがたみを感じさせない軽い音がしました。

弥生のまつりに使われたさまざまな道具、後年あまりにも大型化してただの権威の象徴みたいになってしまう以前のまだ小型で鐘として使われていた頃の銅鐸です。来週から当館の春季特別展弥生の至宝 銅鐸が開催されるとは分かっていたものの、神戸市立博物館でたっぷり美しい銅鐸を見ているので、今日やってきた次第。

そして鉄がやってきました。この時点では鉄の原料は朝鮮半島からの輸入です。

国のなりたち

3つ目のテーマは「社会 - 国のなりたち」でテーマカラーは黄色です。頭上を飛び交う迫力の矢衾。弥生時代後半に鉄の道具が普及し、戦いの道具はまっさきに鉄に置き換わりました。古墳時代中期の鉄の鎧復元品です。

うるしが塗られ強化された盾、その盾を構えた戦士のイラストと矢の進化。狩りの道具だった弓矢は人に向けて使われるものに。ヤジリは重く長くなり破壊力、貫通力がアップ。

各地のクニが激しく争っていたころ、邪馬台国女王卑弥呼が現れ、周辺のクニをまとめ、播磨は邪馬台国と中国・四国地方のクニを結ぶ重要な場所になったとのパネル。中国・四国地方の土器が見つかっている長越遺跡(姫路手柄山の南)はその拠点のひとつと考えられるとのこと。

邪馬台国を中心として西日本が倭国としてまとまり、各地の王は倭国王から中国製の鏡をもらい、倭国王と同じ前方後円墳をつくり、古墳時代がはじまりましたとのパネル、兵庫県内の三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡の出土地点や、県内最古の丁瓢塚(よろひがごづか、姫路市)古墳が箸墓古墳の1/3サイズで同じ形をしていることを紹介、播磨とヤマト王権との繋がりの強さをアピールしています。

とても分かりやすいものの邪馬台国九州説が完全にシカトされていて、クレームが来ないかちょっと心配です。

豊岡市森尾古墳出土の正始元年三角縁神獣鏡(復元)と宝塚市安倉高塚古墳出土の赤烏七年画文帯神獣鏡(複製)、正始元年(240年)は魏の年号で、卑弥呼がもらった百枚の銅鏡の一枚の可能性があります。かたや赤烏七年(244年)は三国時代に魏と対立関係にあった呉の年号、邪馬台国や倭国が呉と国交があったという文献はなく、とても興味深い謎の銅鏡です。音声ガイドでは、時に考古資料は文献の記述にはない情報を今に伝えてくれることがある、と括られていました。

ちなみに音声ガイドでは「赤烏」を「あかみどり」と読んでいますが、これは明らかに間違いで「せきう」です。年号を訓読みすることはなくましてや中国の年号、それに「鳥(とり)」じゃなくて「烏(う、からす)」です。大化、白雉に次ぐ日本で3番目の年号「朱鳥(しゅちょう、例外的に訓読みで、あかみとり)」と勘違いされたものかと。

兵庫県の大型古墳の紹介、兵庫県最大は五色塚古墳(194m)。仁徳天皇陵(486m)との比較は分かりやすい。

武力を示す騎乗の王の実物大フィギュア。

香美町文堂古墳で見つかった頭椎大刀(かぶつちのたち)、金アマルガム法でメッキされ古墳時代の人々が見たままの輝きを復元。古墳時代も終わり頃には武器としての実用性よりも権力を誇示するための要素が強くなっています。

雲部車塚古墳(丹波篠山市)の石槨、古墳時代中期(5世紀)の前方個円墳で、剣8本、刀34本、よろい5領、馬具1組、矢107本が出土しています。石室の上には円筒埴輪も。

雲部車塚古墳の墳丘、石槨、石棺、出土品をさぐる。被葬者は四道将軍のひとり丹波道主命との説あり。

手前の紫の墳丘模型はおせちのお重のように開けて見ることができ、石槨の天井石、石棺の上石、遺体と副葬品が出てきます。右手の石棺は6つのパーツに分かれ元に戻すのがちょっと大変でした。

6世紀になり古墳をつくることのできる人が増え、小さな古墳がたくさんつくられるようになります。多可町の東山古墳群の横穴式石室のパネルと出土した土器の数々です。新沢千塚古墳群一須賀古墳群とほぼ同時期ですが、横穴式石室でも森の中の一須賀古墳群と違って開放感ある空間に横穴式石室。西脇からバスで30分くらいのところでちょっと遠いものの、訪ねてみたい所がまた増えてしまいました。

小野市勝手野古墳群から出土のイノシシや矢が刺さったシカ、騎馬人物、相撲風景などの装飾付須恵器、葬られた男性の人生を表しているそうです。

「国家」の成立は奈良〜平安時代と紹介されています。冠位十二階とか律令制度は飛鳥時代から始まっており、奈良時代じゃなくて飛鳥時代が「国家」の原点だと思うのですが…

豊岡市袴狭(はかざ)遺跡から出土の1万枚もの人や舟、馬などの形の木札。これを水に流し災いを取り除くおはらいのためのもので、水谷茶屋でみた春日大社の宮司さんが紙の人形を流していたのはこのおはらいが今も続いていいるということと分かりました。

みち・であい

漸く最後のテーマ「交流 - みち・であい」、テーマカラーはブルー。竜山石でつくられた見瀬丸山古墳(近鉄岡寺駅東側、6世紀後半築造、全国6位の巨大古墳で被葬者は欽明天皇とも蘇我稲目とも)の家形石棺を復元、石棺の蓋が修羅と呼ばれるソリに載せられています。蓋が4トン、身が5トンの石棺をソリと舟で兵庫からヤマトまで運ぶこと自体、大王の権力を誇示する意味があったとの説明、二上山の凝灰岩を運んでヤマトの古墳築造地で加工するより播磨から運んでくるパフォーマンス効果は大きかったと理解でき、品質だけで竜山石が選ばれた訳では無く、この頃すでに竜山石はひとつのブランドとしても認知されていたようです。

今日ここへくるまで前に竜山石採石遺跡と石宝殿(JR宝殿駅から徒歩30分)を訪ねる計画を立てていたのですが、駅から30分近くを2回も往復するのはためらわれ、考古博物館だけに急遽変更したのですが、やはり改めて竜山を訪ねてみたいと思います。

丸木舟の上に板を立てて囲みを作った準構造船。船の下半分は丸木舟なので大きな船の建造には直径の大きな木が必要で再現するにも苦労したとのこと。竜山石の石棺と並べられているので、兵庫津から難波津までこのような船で石棺を運んだということと思われます。

飛鳥・奈良時代をとばして時代は平安時代末期、大輪田の泊の再現、日宋貿易のビジネスシーンです。後ろの人物はカットアウトでこれまでのジオラマよりあっさり、やはり当館のメインは古墳時代以前と分かります。鎌倉時代以降の展示はさらに限定的で、姫路にある兵庫県立歴史博物館と役割分担しているようです。

最後の方はだいぶ端折ってもここまでで約2時間、学ぶことが多く満足度の高い博物館、出土品とジオラマやパネルを上手く組み合わせ、工夫を凝らした美しく迫力があり頭に入りやすい展示です。学芸員さんらしき年配男性に、万博より楽しいかも、とお声がけしたら地下の展示もぜひ、とのこと。

テーマ展示の外

テーマ展示を出て体験展示発掘ひろば、毎日発掘体験ができるそうで、展示や設備の充実度は似た展示の大阪歴史博物館をはるかに凌駕していると見て取れます。

B1フロアに下りてみます。フロアの真ん中に兵庫県の航空写真、周りには県内の遺跡をパネル展示。但馬、丹波、播磨、摂津、淡路と風土や文化の異なる地域を総合的に紹介、奈良や大阪の博物館にはできない芸当ではあります。

バックヤード見学デッキの窓の下は出土品調査や復元の作業場、本日の作業はなしとあったものの、広大な空間に並んだデスクにびーっしり発掘品が並べられていました。

収蔵展示品コーナーはテーマ展示から漏れた収蔵品。引き出しを開けると石器がびっしり。

収蔵展示品コーナーの窓の向こうは倉庫、調査分析を待つ発掘品のクレートが山積み。さらに戸棚の円筒埴輪も間近で。

3階建てくらいの展望塔がありエレベーターで上ってみました。西側の眺めです。手前の白い建物は播磨町郷土資料館、この後訪ねます。その向こうの池は潰目池(つぶれめいけ)、曰く有りげなため池です。

南側の眺めです。播磨臨海工業地帯が広がっていて海は見えませんが淡路島の島影がうっすら見えます。川崎重工播磨工場などが立ち並び財政力豊か、隣接する明石市や加古川市との合併を受け入れず単独町制を守る播磨町です。

播磨町郷土資料館や大中遺跡は後編で。