二上山博物館
承前、古墳時代から一挙に逆戻りして次の目的地は旧石器時代へタイムスリップ。
3つの石の博物館
展示室に入るとまず岩石標本、後で読もうとiPhoneで撮っておいたものの文字が潰れて読めませんでした。およそ1,000万年前まで活発な火山活動が行われていた二上山によって生み出された火成岩の内、3種類の石がこの博物館のテーマになっています。自分以外他に見学者はいなくて後ろに手持ち無沙汰っぽいボランティアガイドさんらしきが立っています。
3つの石の紹介がこの博物館のテーマ、旧石器時代の打製石器となったサヌカイト、古墳時代の石棺や石室に用いられた二上山凝灰岩、明治以降の研磨剤としての金剛砂です。背景の二上山は5年前の秋に訪ねた千股池から撮ったものと分かります。
サヌカイトはガラス質の岩石で、打ち欠くと鋭利な刃ができることから、旧石器時代の生活に欠かせない打製石器の原材料です。
採掘されたサヌカイトを瀬戸内技法という工程で製作された国府型ナイフ形石器の説明。国府(こう)は大和川から石川が分岐するところの藤井寺側に位置する旧石器時代から中世の複合遺跡で、昭和32年の発掘調査で出土した石器が規則正しい割り方で作られており、特徴的な翼のような破片から作られた石器を国府型ナイフ形石器、その工程が瀬戸内技法と名付けられたそうです(参考: 藤井寺市のページ)。
旧石器時代の遺跡と石材産地のパネル、瀬戸内海がなく本州と四国九州が地続きです。九州と朝鮮半島は現在よりかなり狭い対馬海峡で隔たれていて旧石器時代の渡来人も舟で渡ってきたのは間違いないようです。この地図で気になるのは琵琶湖、湖北野鳥センターの沖の湖底に縄文時代からの葛籠尾崎湖底遺跡が確認されており、琵琶湖が存在していたとしても旧石器時代の琵琶湖は現在とは全くことなる形をしていたはずです。
もうひとつの注目点は伊豆諸島、大島でも三宅島でも八丈島でもなく名前が表記されているのは神津島。神津島はサヌカイト同様に剥離して鋭利な刃物になる良質な黒曜石の産地、伊豆半島でも神津島産の黒曜石が発見されており、旧石器時代に神津島に住んでいた人たちが外洋航海の技術を持っていたと分かります(参考: ボランティアガイドさん談とソトコトの記事)。
石材採掘現場のジオラマです。旧石器時代は氷河期だったはず、裸同然の格好での採掘作業に違和感があります。エスキモーやイヌイットの衣服のような毛皮でできた全身を覆うような衣服だったのではないかと思います。裸足のままなのも気になります。サヌカイトを採掘しているとしたら鋭利な切り口で怪我は必至、何か足に巻いていたのは間違いないと思います。
時代は縄文時代(紀元前14,000年頃から紀元前10世紀頃)へ。石器が精密なものに、表面を磨いた磨製石器、鏃や斧などの道具だけでなく装身具なども登場してきます。
縄文時代のかしばのイラス、中央部を左右(南北)に流れる葛下(かつげ)川が分岐する辺りが現在地、その手前(南東)の集落が狐井(きつい)ムラ、イラスト左下の大きな集落の瓦口森田ムラは現在の五位堂駅辺りです。画面左上には竹内ムラ、司馬遼太郎ゆかりの地である竹内には5年前に訪ねています。
カンカン石とも呼ばれるサヌカイトでできたシロフォンです。
クイズコーナーでクイズに挑戦、二上山の凝灰岩はどう呼ばれていたでしょう? ②で正解しました。元旦に箸墓古墳を訪ねた時の歌碑を思い出したので正解できました。
大坂に 継ぎ登れる 石群を 手ごしに越さば 越しかてむかも
運んでいた石はサヌカイトでは、と書いていたリンク先の記述は凝灰岩に訂正しておきました。「大坂」とは難波のことではなく、二上山の麓から難波に抜ける穴虫峠のことを指すようです。石の名前を訂正でき、大坂の意味を確認できたことだけでも今日の二上山博物館訪問は意義があります。
千股池からほど近い良福寺阿弥陀橋に安置された石棺片を元に竜山石で復元された長持形石棺の蓋。二上山凝灰岩のネガキャンにならないのかな。
竜山石は高砂市竜山から採れる凝灰岩、山陽新幹線車窓から岩肌がむき出しの山並みが見える辺りです。加工に適した柔らかさと十分な強度や粘りがあり耐火性にも優れ、仁徳天皇陵の石棺、平城宮の礎石、姫路城の石垣、国会議事堂まで時代を問わず利用されてきたとのこと。どうやら二上山凝灰岩より優れた石材だったようです。
復元された長持形石棺の蓋の真下になぜか遮光器土偶。ヤマトの古墳時代の石棺の下に、東日本の縄文時代の遮光器土偶は強い違和感を感じざるを得ない。
いくつか疑問を感じる展示もあったものの、高校の地学の時間は寝てしまうばかりで、今まで大の苦手だった石について興味を持たせてくれた博物館、来て良かったと思います。