竹内街道をゆく

司馬遼太郎の街道をゆく第1巻の第2章に竹内(たけのうち)街道が収録されています。いつものように須田剋太画伯と、ちょっと偏屈なイギリス人日本語学者のロジャ・メイチンさんを道連れに、石上神宮、三輪明神を訪ねた後、大阪への帰路、司馬先生の故郷ともいえる竹内街道の竹内村(現、葛城市竹内)へ向かっています。

記紀に登場する伝説上の人物で、蘇我氏ら古代勢力の祖とされる武内宿禰(戦前の紙幣の肖像に度々登場、200歳を超える長寿だったらしい)が竹内の出とされていること、武内宿禰の出身地であるにも関わらずいまや英雄豪傑はカケラも出そうにない淳朴な村から出た軍人らしからぬ陸軍少尉だった叔父さんの思い出、付近に古墳がたくさんあり発掘調査のまねをして鏃拾いが流行ったこと、拾った鏃がとても鹿や兎の毛皮は貫けそうもなく太古の地元民の姿を悲しく思ったこと、そんな縄文時代の末裔が暮らしていた大和盆地に鉄製の武器を携えて西の方から竹内峠を越えてやってきた人々により大和王朝が難なく成立したこと、自身の経験を織り交ぜた司馬先生の歴史考察をじっくり味わえる一篇です。

この竹内村へ、梅雨時にしか会えないカブトエビ探しを兼ねて司馬先生の足跡を辿ってきました。

久しぶりの南大阪線、上ノ太子を過ぎると勾配が急になります。府県境穴虫峠の穴虫トンネル、線路の上は大阪府道/奈良県道703号線が跨いでいるだけなので、トンネルといっていいかどうか微妙です。

穴虫トンネルの先は下り勾配が続き、坂を上ってくるさくらライナーとすれ違い、二上神社口で上り準急と行き違い。

二上山が間近、去年はこの付近でカブトエビを見つけたのですが、竹内街道付近でも見つかるはず。このまま磐城駅へ。

始めて下りた磐城駅、駅前食堂のカブが出迎えてくれました。

国道166号に平行する1本南側が日本最古の官道(国道)である竹内街道、緩やかな上り坂が続いています。

大和高田・竹内峠間の道路はいまは枝道になり、道ざまは鄙びてしまっている。われわれはそれをとる。これが古代ミワ王朝や崇神王朝、さらにはくだって奈良朝の文化をうるおした古代のシルク・ロードともいうべき道だからである。
私事をいうと、私は幼年期や少年期には、武内村の河村家という家で印象的にはずっと暮らしていたような気がする。そこが母親の実家だったからだが、…(中略)…竹内峠の山麓はいわば故郷のようなものである。
路相はおそらく太古以来変わっていまい。それが竹内街道であり、…(中略)…長尾ー竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定さるべき道であろう。

つまり日本の国が成立する前からある日本最古の街道で、日本の国の礎を築いた道であると同時に、現代日本人の歴史感を育んだ司馬先生自身が少年期を過ごした国宝級の街道を今、自分は歩いています。

田んぼの向こうに大和葛城山、ロープウェイの山上駅が見えます。

早速カブトエビ発見。日本最古の道端にジュラ紀からの姿を残す生きている化石です。

1cmもないくらいの黒い小さなカエル、ヒキガエルの幼体です。

「村内徐行 とび出し注意 大字総代 當麻町交通対策協議会」、平成16年に當麻町が葛城市になってます。

カフェやギャラリーもあるのですが、国宝級のはずの街道を人っ子ひとり歩いていません。

「綿弓塚←トイレ」と案内が掲示されていて、横道に入ってみると古い井戸のある綿弓記念館。造酒屋を改造したそうで、土間の奥に清潔なトイレがありました。

庭に芭蕉の句碑があります。

綿弓や 琵琶に慰む 竹の奥

1684年に竹内村を訪ねた野ざらし紀行で詠まれた句です(句の意味)。江戸から同行の門人、苗村千里の故郷が竹内だったためで、数日滞在した後、竹内峠を越えて大坂ではなく、吉野へ向かっています。芭蕉は笈の小文の旅で再び竹内を訪ね、この時は竹内峠を越えているようです。

句碑は句が詠まれてから僅か約100年後に建てられています。まだ文化文政時代の真っ只中、伊勢参りの人たちに芭蕉翁もここに来られました、とアピールしたかったんでしょうね。現在より当時の方が竹内街道はよほど賑わっていたはずです。

句碑前の草むらにベニシジミ、右側は春型、左側の黒くなったのが夏型です。ツマグロヒョウモンがヒメジョオンにじっと止まって、じっくり撮らせてくれました。

綿弓記念館の中です。街道マップが掲げられていて「司馬遼太郎ゆかりの家」とあるのですが、それらしき家を探してみたものの、河村さん宅は見つかりませんでした。鍛冶屋、醤油屋、麹屋、饅頭屋、蒟蒻屋、さぞかし賑やかだった頃が目に浮かびます。川につながる水路には水車もあったようです。

坂道が急になってきました。おっと、左手のお宅は茅葺き、それも葺き替えられて間がないようです。

ほどなく坂道は国道165号と合流、大型トラックは来ないものの、そこそこ交通量のある歩道のない国道の端をビビりながら歩きます。

街道をゆくに登場する竹内上池に着きました。

「海ちゅうのは、デライけ?」
となかまの子供たちからきかれたことがある。…(中略)…
「デライ」と、断定すると、子供たちはうなづいてくれた。子供たちはさらに
「カミの池よりデライけ」
ときいた。私は比較の表現に困り、
「むこうが見えん」
というと子供たちは大笑いし、そんなアホな池があるもんけ、と口々にののしり、私は大うそつきになってしまった。

司馬先生たちの乗ってきたタクシーがここで故障、小さな旅行はこのカミの池で終わってしまいます。日もとっぷり暮れてしまったこの後どうやって帰ったかは書かれていませんが、子供の頃の正確な記憶とオーバーラップする昼間の竹内街道の描写に惹かれてやってきた自分です。

ツバメが電線に並んでいます。まだ幼鳥らしく、親鳥が餌を持ってくるのをスタンバイしています。

池の畔のガマの穂を眺めていたら、水面をコバルトブルーの光がスーッと。カワセミが2羽。対岸に止まったように見えてとりあえずシャッターを押しておいたものの、やはり写っていませんでした。

振り返ると真正面に畝傍山、背景は竜門ヶ岳連峰。足元にモンシロチョウ。

この先、竹内峠を越え、上ノ太子、駒ヶ谷へと続きますが、ここで引き返します。太いタイヤのロードバイクの兄ちゃんが上ってきました。漕ぐのはキツそうですがトルクはありそうです。

ちょっと下りると竹内遊歩道の道標、来る時は全然気づかなかったけど、車にビビることなく歩けるのはありがたい。入口にはイノシシよけの柵があり、紐を解いて通れるようになっていました。

舗装された歩きやすい遊歩道を少し下るとすごいお宅。国道側を通った時には平屋にしか見えなかった旧家は何と石垣の上の二階建です。中央が母屋、左手が蔵、石垣の上に張り出した二階建は離れと思われます。

離れの石垣に穴が空けられていて川べりに下りることができるようになってます。洗濯したり野菜を洗ったりしていたのでしょうね。

遊歩道なのに急にぬかるんできました。なにげなくスニーカーじゃなくて干潟用のブーツを履いてきたのが大正解でした。久しぶりにオオシオカラトンボ。

さらに遊歩道は歩きにくくなってきました。たぶんさっきのとは別のオオシオカラトンボを正面から。

かなり難儀して漸く出口にたどり着きました。よく見ると「整備が済んでおらず、ご利用はお控えください」と小さく掲示されていました。

渓流沿いの狭い棚田にカブトエビ。真ん中に寄った目が可愛いですが、黒い2つの目の間にもう1つ小さい目があります。カブトエビは3つ目なのです。

イネの葉の陰に顔を覗かせたのはツチガエルのようです。

動画でカブトエビ。タテに泳いでるフグみたいなオタマジャクシも映ってました。

黄色いのと黒いのと、雌雄同体なので雌雄の違いじゃないです。孵化してから2ヶ月ほどの寿命の間に何度も脱皮を繰り返すらしく、黄色いのは脱皮したばかりかと思われます。

そういえば玩具店に勤めていた時、トリオップスという商品名のカブトエビ飼育セットを販売していたのを思い出しました。夏休みのチラシには毎回掲載させてもらい、バカ売れした記憶はないものの自由研究には絶好の商品でした。トリオップスとはカブトエビの英名で、ギリシャ語で三つ目の意味だそうです。

またまたオオシオカラトンボ、そこへ普通のシオカラトンボがやってきて、オオシオカラトンボは追い出されてました。

竹内街道から1本南側の田んぼの道を下りて行きます。

大和盆地が大きく広がりました。

真正面が耳成山、その奥が三輪山の山裾、その先に桜井の町並が見えます。

少し南側に畝傍山、もうひとつの大和三山、天香久山は畝傍山の陰に隠れています。後ろに屹立するのは竜門ヶ岳連峰の音羽三山、北側から音羽山851m、経ヶ塚山889m、熊ヶ岳904m。

ただ大和盆地の広がりとしてはもう少し南、九品寺辺りからの眺めの方が雄大な感じがします。

その葛城をあおぐ場所は、長尾村の北端であることがのぞましい。それも田のあぜから望まれよ。…(中略)…
「大和で、この角度からみた景色がいちばんうつくしい」
ということを、ごく最近、大阪中之島で出会ったひとに話すと、そのひとはわざわざ出かけてくれて、
ー申されるとおりである。
とわざわざ人伝につたえてくれた。そのひとはハワイの真珠湾を奇襲した飛行隊の指揮官だったひとで、淵田美津雄という元海軍大佐である。戦後キリスト教の伝道者になられた。

この叙述を確認することが今日のもうひとつの目的だったのですが、完全に勘違いしていました。この叙述での司馬先生のお薦めは大和盆地じゃなくてこの写真の背中側、葛城の山並みです。つまりだいたいこの角度の景色ということになります。当時より住宅が増えたせいか、二上山から金剛山までを見渡せる場所ではありませんでした。

綿弓記念館に戻ってくると子供たちの集会所になっていました。

ファミマ向かいの材木店には木のブリキマン、ブリキマンの本職は木こりなのでバッチリです。

今日のプファー、味のかけ橋というお店で瓦そばセット。3種類の練りもののてんぷらが付いてきました。瓦そばとは下関のソウルフードだそうで、熱く焼かれた瓦に茶そば、牛肉甘辛煮と錦糸たまごと海苔がたっぷりのっかっていて、これを温かいそばつゆに浸けていただきます。茶そばに限らず、焼いてパリパリの日本蕎麦は初めての経験です。Macaroniでも山口へ行ったら食べたい名物のベスト7位にランクインしていました。

駐車場は満車、よく流行ってます。コロナ対策もしっかりしていて安心でした。

白鳳中学の裏側の田んぼです。オオヨシキリのギョギョシ、ギョギョシが響いてくるものの姿は見えず裏側から探してみても見つけられませんでした。もう磐城駅のすぐ近くなのに、田んぼの端っぽの道は小さな川で遮られ駅へはつながっておらず、引き返さざるを得ませんでした。

マップで確認すると、期せずしてこの場所が正に長尾村の北端のあぜみちです。長駆引き返したので、司馬先生の叙述のように視界が広がっていたら間違いなく写真を撮っていたはずですが1枚も撮っていません。司馬先生の旅は大阪万博の頃、葛城市域は当時から人口がほぼ倍増しており、住みよさランキングで全国31位(近畿で2位)だそうです。竹内地区は50年前の姿を今も色濃く残すものの、長尾地区はかなり様変わりしたものと思われます。

竹内街道の東端は磐城駅ちかくの長尾地区で、南への街道の分岐点に古い石の道標が建てられていました。上述の淵田美津雄氏(Wikipedia)の出身地が長尾村です。

左いせ、はせ、右よしの、つぼ坂、こうや、の道標、隣の古い石も左いせ、はせ、と書いてあるそうです(参考)。江戸時代に大坂から竹内峠を越えてきた伊勢参りの人たちのための道標のようです。ちなみに落語東の旅の伊勢参りは暗峠を越して行きますが、竹内峠越えの方が10kmほど短く、それに勾配も緩やかです。実際には暗峠より竹内ルートの方が賑わっていたのではないでしょうか。

竹内街道は長尾で終わり、長尾からまっすぐ東へ藤原京、三輪への道は横大路と呼ばれるそうです。

長尾神社の脇にだんじり小屋。去年のお祭りの動画がありました。だんじりといっても岸和田とは全然違っています。綱でひっぱるのではなく、だんじり自体を押して移動、だんじり囃子も聞き慣れないリズムです。竹内地区も含め旧當麻町伍町だんじりまつりが毎年10月に開催されているようですが、今年も例年通りかどうかは不明。

磐城からの帰りはラビットカーに当たりました。

阿倍野橋に到着、大汗かいて黒いポロシャツが塩を吹いて白く縞模様になってます。恥ずかしいのであべので飲むのは諦めて100円バスで帰ります。