オポナカムラ

承前、兵庫県立考古博物館のある大中遺跡公園にはもうひとつの博物館、播磨町郷土資料館があります。

別府鉄道

播磨町郷土資料館の屋外展示、別府(べふ)鉄道の機関車と客車です。土山駅からの「であいのみち」は昭和59年に廃線となった別府鉄道土山線の線路跡と確認できました。別府港にある多木製肥所(現、多木化学、肥料、水処理薬剤の大手メーカー)の製品を積み出すための鉄道として大正10年国鉄高砂線(昭和59年廃線)の野口駅と別府港を結ぶ野口線が開業、大正12年に山陽本線土山駅までの土山線が開業しています。

子供の頃から鉄ちゃんだったのでその存在は知っていたものの、尾小屋鉄道のようなナローゲージじゃなかったこともあり訪ねたことはありませんでした。

DC302ディーゼル機関車、昭和28年川崎車両製で、昭和41年倉敷市交通局(現、水島臨海鉄道)から移籍。

ステップを上って運転室に入ることができます。

運転席から前方、計器類も残されていて黒い箱は元制御器、型式DC5320、日本電興株式会社とあります。

足元にはシフトレバーとペダル、縦長のペダルは警笛、横長のペダルはクラッチだと思います。

運転席後ろにも計器類と元制御器、ペダル、シフトレバー。後ろ向きで運転する場合の装置一式がもうワンセット設置されています。DE10などの支線用入替用小型ディーゼル機関車では運転台は運転室中央一箇所に線路と並行方向に位置していて運転士さんも線路と並行する方向に座って運転するのが一般的ですが、小型機ながら2箇所運転台はDD51などの本線機並の作りといえそうです。

運転席右側には手ブレーキ、運転台の空気圧ブレーキとは別に、手回しで車輪に制輪子を圧着して緊急ブレーキをかけるためのものです。

ロッドで連結された3軸、後ろ向き運転用にヘッドライトも装備。

自動連結器で繋がれたハフ5、プラットフォームは無いものの階段で客車内へ入れます。昭和5年日本車輌製の元神中鉄道(現、相模鉄道)のガソリンカーが無動力化されて三岐鉄道を経て昭和34年に別府鉄道へ。

思ったより広くて綺麗な車内、窓枠のニスや天井も塗り替えられ、シートは張り替えられており、保管状態良好。ハフは3等緩急車の意、緩急車なので、こちらにも手ブレーキが装備されています。

機関車側です。網棚には昭和21年頃と昭和46年の沿線図、昭和48年喜瀬川を渡るDB201とハフ7。

SLが現役だった頃の写真、後ろの客車はこのハフ5です。SLも後ろ向きで走っており、別府鉄道にターンテーブルは元から設置されていなかったようです。

1984年のキハの写真にはジャスコ等の看板が見え、撮影地を特定しようとしたものの分かりませんでした。1965年の野口駅では国鉄高砂線のキハ06と接続。国鉄車両の中でもかなりのレアものです。

ボギー台車じゃなくて貨車同然の板バネ単軸、乗り心地は推して知るべしかと。

社章は多木製肥所のもので古代の鋤がモチーフらしい。

反対側と正面から。

土山線はディーゼル機関車4両と客車2両で基本的に貨車と混合列車で運用されていて昭和46年時点で5往復、野口線は気動車3両で10往復だったようです(参考: ローカル線のアルバム)。

播磨町郷土資料館

播磨町郷土資料館の排水溝上になぜか縄文土器。

資料館前のヤエザクラです。「ようこそオポナカムラへ」と掲げられた資料館に入ります。入場無料。

オポナカムラとは大中村の弥生語、その出土品や竪穴住居の模型です。パネルに描かれたキャラクターは播磨町のマスコットでイセキくんとヤヨイちゃん。

オポナカムラの竪穴住居から多数出土したイイダコ漁の壺。イイダコとは直接関係ありませんが、明石焼きは大阪のたこ焼きよりずっと歴史が古く、明石焼きは江戸時代末、たこ焼きは昭和初期だそうです。当地の2千年ものタコ食文化を伝えるタコツボと言えそうです。

大中遺跡からの出土の内行花文鏡片(複製)とその復元(点線が出土部分)、三国時代の前、後漢時代のもので、割れ口を磨き、首からぶら下げられるように穴が開けられていることから、中国から完全な形で入ってきたのを、わざと割って破片にしてからオポナカムラにやってきたらしい。

黄麻(ジュート)の貫頭衣と苧(からむし)の帯で再現した弥生時代の服。

イイダコ漁のジオラマです。

ジオラマの脇にボタンがあってオポナカムラの少年からの弥生語メッセージを聞くことができます。和楽webで現代語から弥生語への翻訳に挑戦しようという記事を見つけました。上代日本語(古墳時代頃から奈良時代の日本語)と弥生語が比較されており、クセの強い弥生語が古墳時代に現在に近い言葉に進化したようです。

幕末に通訳・貿易商として活躍したジョセフ・ヒコは当地の出身。漂流モノが好きで誰かの小説で読んだ記憶があります。

阿閇神社秋祭の絵巻(江戸時代)、今も毎年10月に行われていて、泉州や河内のふとん太鼓のような屋台や神輿がオポナカムラを練り歩く動画がアップされていました。

大中遺跡公園

竪穴住居が並ぶ広い大中遺跡です。マツバウンランが咲いていました。

全部で7棟もの竪穴住居が復元されています。そのひとつ92号です。中へ入ることができます。

92号よりひと回り大きく立派な屋根をもった復元竪穴住居1101号旧、中には臼と杵、薪の上には土器も。

木陰で涼し気な復元竪穴住居3号です。弥生時代に食されていた木の実をならせるクリ、トチ、ヤマモモなどが植えられているそうな。弥生の人たちが歩いていておかしくない雰囲気のある公園です。

復元竪穴住居8号に入ろうとしたら入口にハチ。そこへ親子がやって来て入ろうとしたので、ここは止めておいた方がいい、あっちの方がいいですよとアドバイス。穴が広がっていて杭が並んでいるのも竪穴住居跡。これまでに73棟の竪穴住居跡が見つかっているらしい。

復元竪穴住居8号付近からの復元竪穴住居1101号旧。復元住居毎に形の異なる茅葺屋根は、茅葺の里として知られる京都美山の職人さんたちの手によるものとこと。

大中遺跡公園全体図です。環壕集落ではなかったようで、また竪穴住居ばかりで高床式の楼閣や高殿とかはなく、唐古・鍵遺跡池上・曽根遺跡のような王や首長の住むムラではなかったものの、内行花文鏡片が出土しているように裕福なムラだったようです。

弥生時代の遺跡といえば教科書で習った静岡の登呂遺跡を想起しますが、唐古・鍵遺跡は42万㎡、池上・曽根遺跡は60万㎡、大中遺跡は7万㎡、登呂遺跡は10万㎡と比較すると、オポナカムラは関西の登呂遺跡ともいえそうです。

兵庫県立考古博物館裏の狐狸ケ池、縦長の頭が特徴的なヨシガモがいました。夏にはガガブタが咲く池だそうです。

エントランスホールの「ときのギャラリー」を再チェック。弥生時代から丹波焼までの壺がずらり、食料貯蔵用に混じって壺棺も。一番手前は加古川市美乃利遺跡出土の弥生時代前期の壺、近畿地方最大級の弥生の壺で容量約200リットル。

さっきの親子に再会、無事竪穴住居の中に入れたとのこと。

まだつぼみも残るツバキです。

大中遺跡公園を出て駅へ戻ります。「であいのみち」沿いの公園の池では子どもたちが服を着たまま水遊びでびしょびしょ、公園の奥へ進むとビオトーブのホタルの里になってました。

ビオトーブを抜けると喜瀬川の土手に出て来ました。セグロセキレイです。

対岸に黒い鳥、自分はオウヘイドリと呼んでいるハッカチョウです。

ハッカチョウの周りの小さなピンクはカラスノエンドウ。

普通(西明石から快速)米原行の手前に普通(西明石まで快速)網干行が交錯したところです。

「であいのみち」に戻るとアカタテハとフリージア。

1984年別府鉄道土山線廃線。1962年大中遺跡が発見される。大中遺跡を発見したのは播磨中学の生徒3人だそうです。播磨中学のホームページには歴代校長の紹介と並んで本校生徒3名が「大中遺跡」発見とありホッコリ。

来る時には気づかなかった駅前の円形モニュメント。臼と杵で脱穀する弥生人です。隣はイノシシと鹿。

さらに鹿狩りのシーン。何かをテーマにした町おこしとかはダサいことが多いと感じるのですが、ここ播磨町の弥生時代で町おこしは洗練されていてクォリティも高い(「であいのみち」や「ふるさと橋」のネーミングを除く)。

普通(西明石から快速)米原行で帰ります。土山駅は播磨町と明石市を跨いでいて、自分がいる位置はたぶん明石市、電車の位置は播磨町。

レンゲ畑が広がっています。丘の上の塔は明石市西部配水場、この辺りを歩き回って鳥鉄したのはもう8年も前。

元町で下車していつものようにセンタープラザのマルショウでプファー。タイガースはデーゲームで敗けてました。

長田本庄軒はやはり長蛇の列、この前見つけたさんプラザ地下のハンバーグ屋さんも行列。その先に見つけたとんかつ屋さんに入ってみました。ご飯、漬物、味噌汁、カレー、生卵が食べ放題、ぜったい満腹できるお店です。