キトラ古墳

先週行きそびれたキトラ古墳、7月2日の若一調査隊(7月9日にはYouTubeアップされるはずです)でキトラ古墳を訪ねていたのを見て俄然行きたくなりました。先週より3~4℃くらい気温が高めの予報、駅から1kmほどの道のりも日陰がなさそうな道でどうすっぺと迷っていたのですが、去年の七夕の朝9時で30℃の天見からマルバマンネングサを探して歩いています。ウダウダ悩んでいてもしょうがないので出かけます。

キトラ古墳への道

先週と同じ7:32の名張行急行で出発、先週は発車直前に最後尾車輌に飛び乗ったのですが、今日は前4両が5200系でテンション上がりました。 

6020系4連の急行で、飛鳥の次の壺阪山駅に到着。16400系2連の特急と列車交換。

明日香村ではなく高取町の中心駅で特急も停まるものの飛鳥駅と較べ垢抜けない壺阪山駅です。それでも飛鳥駅より多い10人ほどが下車でちょっとビックリ。調べてみるとこれはたまたまで平均乗降客数は飛鳥駅の半分くらいです。

壺阪山駅前商店街です。右手の「うどんそば」とある双葉食堂さんには「しばらくの間休ませて頂きます」と掲げられていました。2回しか行ったことが無いもののすでに常連さんのつもりだったお店で心配です。

国道169号の交差点付近からイッピツケイジョウツカマツリと聞こえてきて、電線に止まっていたホオジロが地面に下りてきました。なにやら緑色の虫をゲットしたようです。

土佐街道です。土佐へ向かう道ではなく、飛鳥の都づくりのために動員されてきた土佐の人たちが住んでいた町で、右へ行くと趣ある街道が続き、そのずっと奥に壷阪寺、そのずっとずっと奥の山の上が高取城。左へ入ったあたりが曾祖母の実家があったと思われる付近、高取の血が1/8流れている自分、一昨年の暮に周辺を精力的に歩いています。

前方後円墳のような森は子嶋寺。この森もぐるっと歩いて回っています。高取川を渡るところ、正面にちらりと見える芝生の丘がキトラ古墳のある公園。

田んぼに囲まれた道の先の方で舗装が違っているところが高取町と明日香村の境界線です。

葉っぱが全面的に白くなったハンゲショウ。

カブトエビ発見。左手のでっかいのはスクミリンゴガイ、気色の悪いピンクの卵を生む奴です。

カブトエビが3匹、向きによってはカタツムリに見えます。

シオカラじゃなくてシオヤトンボです。ちょっと久しぶり。

特別史跡キトラ古墳

よそ見を重ねつつ駅から20分ほど歩いて国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区。丘陵の上に特別史跡キトラ古墳。上段径9.4m高さ2.4m、下段径13.8m高さ90cmの二段築成円墳、直径23m高さ5mの高松塚古墳よりかなり小さいものの、高松塚古墳のように西洋庭園風の生垣で囲まれてはいません。

「史跡のうち学術上の価値が特に高く、わが国文化の象徴たるもの」と規定される特別史跡は三内丸山遺跡、吉野ケ里遺跡など全国に63箇所、ブログに書いた特別史跡としては、銀閣寺、金閣寺、大坂城跡、姫路城跡、高松塚古墳、石舞台古墳、巣山古墳、藤原宮跡、文殊院西古墳、平城宮跡、本薬師寺跡、の11箇所あり、12箇所目となります(訪ねる人の少ない史跡にリンクを組み込んでいます)。

特別史跡としての説明板と金属製キトラ古墳地形復元模型。

四神のレリーフは乾拓板とあり、紙をのせて鉛筆でこすって絵を写し取るためのもの。紙と鉛筆の持参が必要。

四神と天文図の他に獣頭人身像の乾拓板、バナナのような幟をもった♀らしき午(うま)と、はたきのような幟をもった寅。

キトラ古墳四神の館

開館時間の9時半になったのでキトラ古墳壁画体験館四神の館に入ります。うっかり建物外観写真を取り忘れたのですが、自分が今日最初の来館者のようです。入館料は無料、1階のキトラ古墳壁画保存管理施設は撮影NG、ガラスで覆われた壁画実物の展示スペースがあるものの空っぽで、年4回、部分毎に実物の展示が行われているらしい。地下1階の展示室は撮影OK、

1/20のキトラ古墳断面模型です。被葬者は高市皇子、百済王昌成、阿倍御主人らの名前が上げられており、ガッチリした体格で虫歯がありモノをくわえるクセがあった熟年~初老の身分の高い男性だそうです。

展示室中央には四神の壁画を映し出したモニタに四方を囲まれたスペースの天井に、石室天井に描かれている天文図を光で表現したもの。

360個ほどの星を結んで74の星座が描かれた中国式星図、中心部の一番小さい赤い円の内側下部に北斗七星らしきが見えます。左右の大きな光も単なる照明ではなく、左の昼白色が太陽、右の昼光色が月。

石室模型が嵩上げされた状態で据えられていて、立ったまま内部に入れるようになっています。二上山産凝灰岩の石室は長さ2.4m、幅1.04m、高さ1.14mと小さめも、黒漆塗りに水銀朱を施された木棺が納められていたそうです。終末期古墳を築造順に並べると、牽牛子塚→野口王墓→高松塚→キトラ→中尾山となり、大化の改新で薄葬令が出されていたものの、野口王墓の持統天皇や中尾山の文部天皇のように火葬ではなかったようです。

石室天井に描かれた天文図、約360個の星は金箔で描かれ、現存する世界最古の中国式天文図だそうです。飛鳥時代の人たちが見ていた北斗七星らしきとオリオン座らしきです。夏の北斗七星と冬のオリオン座を同時に見ることは冬の終わりから春の初めの日没から9時ころまで可能も逆方向らしく、間違っている可能性が高そうです。

正面(北壁)の玄武、思ったよりずっと小さく10cmほどですが甲羅の亀甲までかなり細密。

左側(西壁)の白虎です。東壁の青龍は泥土に覆われていて判然としませんが、白虎とほぼ同じ形で、白虎の縞模様が鱗になっていて角の向きが違っているくらい。

東壁の獣頭人身十二支像の寅、ボランティガイドさん(たぶん)がペンライトで照らして教えてくれました。

高松塚古墳には描かれていない獣頭人身十二支像、子丑寅午戌亥の6体が確認できるそうですが、寅以外は墳丘前の乾拓板になっていた午も見つけられず。

南壁の朱雀です。横穴式石室の蓋になる部分で大きく欠けている部分は盗掘跡を再現しています。朱雀は一部が欠けているもののほぼ全体が残されていたのは奇跡的。高松塚古墳の朱雀は盗掘時の破壊で残されておらず、壁画館の復元に朱雀はいません。

キトラ古墳も高松塚古墳も盗掘は鎌倉時代、古墳の盗掘はだいたいどこも鎌倉時代。平安時代の墓守制度が廃止されてしまったのが大きな原因らしい。鎌倉幕府しっかりせんかい。

キトラを漢字で書くと「亀虎」「北浦」の2説にまとめられるようです。

大仙古墳とキトラ古墳の大きさ比較、墳丘は496mと13.6mなので、キトラ古墳の図は本来この半分くらいになるはず。

四神のスタンプコーナー、自分も押しておきました。スタンプを押すだけでなく風水の重要概念である四神思想の勉強ができるようになっています。若者の時代を「青春」壮年は「朱夏」熟年は「白秋」老年は「玄冬」、大相撲も東は青房、西は白房、南は赤房、北は黒房です。

壁に孔、石室の盗掘孔からの眺めと分かります。正面に玄武。

孔から手を突っ込んで自撮りに変えると内側にちゃんと朱雀がいました。

1972年高松塚古墳壁画発見のニュース直後に近隣住民から似た古墳があると報告があったのが発端。その当時のキトラ古墳の写真はどこにでもありそうな円墳です。

高松塚古墳でのカビ発生の経験から慎重に調査方法を検討、1983年に漸くファイバースコープを石室内に差し込んで北壁に玄武の壁画を発見、1998年にリモートコントロールの40万画素CCDカメラで青龍、白虎、天文図を発見、2001年に334万画素のデジタルカメラで朱雀と獣頭人身十二支像を発見。実に長い時間をかけ慎重に技術の進化と並行するように調査が行われています。ちなみに手元のiPhone12pro(2020年モデル)は1200万画素です。

2003年に石室内の環境を保護しながら調査を進めるための仮説保護覆屋が完成、写真でキトラ古墳墳丘全体が建物で覆われている様子が確認できます。盗掘孔から目で直接壁画を見ることができるようになり木棺の破片や刀の金具、人骨、ガラス玉などが発見されています、

2004年に崩壊の危険にあった漆喰に描かれた壁画を取り外し修復作業が行われています。

2013年石室内調査が終了、石室と羨道部を埋め戻し、盗掘孔は石室石材と同じ凝灰岩で塞がれています。

展示室一角に渡来人の暮らしの大きなジオラマ。現在地のすぐ北に位置する檜前(ひのくま)遺跡群にオンドルなど渡来人の暮らしのあとが確認できるそうです。

飛鳥への最初の渡来人は檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかはかとこ)と身狭村主青(むさのあお)でいずれも中国系渡来人、その子孫となる東漢氏が飛鳥文化形成に貢献。後年新しくやってきた渡来人の技術者は「今来才伎(いまきのてひと)」と呼ばれ、そのひとり高句麗系渡来人の黄文本実(きぶみのほんじつ)がキトラ古墳壁画の作者と推測されているようです。

シアタールームで10:05からの「発見!キトラ古墳壁画」で調査復元保存活動を映像で確認。

もういちど天文図、古代文化を調査復元し守ることの大変さ、大切さをしっかり学ぶことができました。

地下1階から道路をくぐり向こう側の広場へ出るトンネルの壁に飛鳥の歴史全体像、遣唐使から始まりキトラ古墳築造、東大寺大仏造立から現代まで、正確な時間の幅をとって表現されていました。

トンネルを出ると四神の広場、空は晴れ上がりムワッと暑い。左手に四神の館別館があってギフトショップやカルチャースクールなどが並んでいます。

八木西口でプファー

鮮やかな赤い花はキョウチクトウ。もういちどキトラ古墳、羨道の入口も見えないこの姿が古墳本来の姿なのかも。

3年前までキトラ古墳から飛鳥駅へのバスがあったものの廃止、オンデマンドバスがあるようですが利用方法がよくわからないので歩いて帰ります。紫の集散花序はヤナギハナガサ。

坂道の脇に柵がある部分は明日香村、その先の平地から高取町です。まだ10時半、帰るにはもったいなく、キトラ古墳と同時期の築造も円墳ではなく六角墳で、壁画は描かれていなかったものの漆喰で塗り固められた横穴式石室をもつマルコ山古墳も訪ねてみたいところですが、熱中症になりかねないので止めておきます。

3分ほどで上り電車が来ると分かり駅へ駆け込み構内踏切を渡ったところで踏切が鳴り出し、すんでの所でセーフだったかと思いきや踏切音は下り線に対するものでやってきたのは青シン。飛鳥駅のように地下道がなく、構内踏切は上り側にあるので、上り電車は踏切がしまると30分待ちになります。

青シンと交換の橿原神宮前行普通に乗車。

壺阪山駅を出たところの車窓、キトラ古墳は見えそうで見えません。森に囲まれた寺院は子嶋寺。

橿原神宮前に到着、乗車してきた6620系4連はそのまま区間急行阿部野橋行に変身。なぜ吉野から区間急行じゃないのかは全く不明です。

1番線の西大寺行普通に乗ります。8A系の大量導入で引退間近と思われる1969年製の8400系L02編成、いい感じで形式写真ぽく撮れました。

引き込み線には22600系。

北側の側線で出番を待っている近鉄モト90形(97・98)です。

先週のまんま八木西口駅で下車してラ・ポッシェ、ランチではなくグランドメニューから唐揚げと目玉焼きハンバーグ(税込1,067円、ライス・スープ付、ビール別)でプファー。

大和八木駅4番線からの眺め、通りに青信号が見える先の右手にラ・ポッシェがあります。