四天王像の躍動感
常設展が展示替えされたらしい奈良博(奈良国立博物館)へ。
寒々とした平城宮跡、おぎの美術館もなくなっています。
西大寺に到着すると1番線に京都線の奈良行急行が入線してきました。ひょっとしてと構内放送に注意していると1番線から奈良行急行が発車しますと聞こえ慌てて乗り換えたところです。京都線の急行が遅れていたのかと調べてみると12:05発着で定刻、乗ってきた奈良線快速急行は12:04着12:07発になってました。なぜ京都線を優先しているのかは不明。
奈良博仏像館
仏像館を展示順じゃなくてざっくり時代順で。如来坐像(五胡十六国-4〜5世紀)は展示されている仏像でたぶん最古。
二仏並坐像(中国北魏、正始元年-504年)は大阪市立美術館の北魏〜隋時代の石仏の金銅仏版、笑顔が同じです。いずれも日本に仏教が伝来する前の仏像です。
誕生釈迦仏立像(飛鳥時代-7世紀、収蔵品番号1314、8.8cm)と以前も見た誕生釈迦仏立像(飛鳥時代-7世紀、収蔵品番号1313、11.8cm)。幼児体型で愛らしい表情の1313に対し、がっしりした体型でおとなびた表情の1314。1313は新羅、1314は北周〜隋の影響を受けた様式らしい。
観音菩薩立像(飛鳥時代-7世紀)は頭上に天冠化仏、香川県三豊市伊舎那院伝来らしい。東博にそっくりな法隆寺宝物の観音菩薩立像を見つけました。同型あるいは同系統の原型で鋳造され、ヤマトの技術が地方にも伝えられていたことが分かります。
夏見廃寺出土小型独尊塼仏(飛鳥時代-7世紀)、夏見廃寺の塼仏壁は名張中央公園の夏見廃寺展示館や明日香村埋蔵文化財展示室で復元展示されています。かなりの数が出としているようで京大博物館ではさらに多数が展示されているのを見たことがあります。
優しい表情、くびれた腰、長い手で女性を強く感じさせる十一面観音菩薩立像と如来三尊像(いずれも長安3〜4年-703〜704年)、中国史上唯一の女帝、則天武后が唐に代わり建てた15年間の武周朝時代の造立と考えられています。いずれも陝西省西安市宝慶寺伝来、西安は唐の都長安、その光宅寺という則天武后が建てた寺院にあった七宝華台という塔の外壁にはめ込まれていた石灰岩浮彫の石仏とする説が有力で、光宅寺荒廃後に、近世まで塔が存在していたことを示す記録が残る宝慶寺に移されたと考えられるようです。清朝崩壊頃の中国の混乱期に明治末から昭和初期に、おそらく美術商の早崎稉吉により買い付けたもので、ここ奈良博の他、東博やボストン美術館等にも所蔵されています。
横から撮ってみると後ろに岩がくっついているので、石窟から削り取られたものかと思いきや、大阪市立美術館の天龍山石窟将来の浮彫半跏思惟像や鳳凰像と異なり、背面も直立していて切り口はストレート、もともと寺院建築内に据えられていた独立した石造仏を切り出した際に残った岩質部のようです。天龍山石窟のように現地遺構の破壊が確認できる事例とは異なり、当時すでに廃絶していた寺院跡から持ち出された可能性が高く、天龍山石窟とは異なり、中国からの返還要求も確認されていません。
史料は見つからないものの、同時期に活動していた美術商の早崎稉吉と天龍山石窟石仏の項で書いた山中商会に浅からぬ接点があった可能性も想像されます。
金峯山寺仁王門金剛力士立像の大きな展示室に重要文化財興福寺伝来の四天王像(平安〜鎌倉時代)、順に広目天、増長天、持国天、多聞天。明治39年まで興福寺に一具(セット)で伝来、増長天と多聞天は当館、広目天は興福寺、持国天はMIHO MUSEUM所蔵で四軀揃っての展示は28年ぶりとのこと。制作時期は11世紀〜13世紀の諸説あり、興福寺のどの堂宇に安置されていたかも特定されていないそうです。
国宝の四天王像としては法隆寺金堂に飛鳥時代の一具(飛鳥時代)、東大寺戒壇院の一具(奈良時代、塑像)、唐招提寺の一具(奈良時代)があり、ネットで見ると、法隆寺は静的で直立、戒壇院と唐招提寺はこの興福寺四天王像のように動的です。
おそらく最初の四天王像があったのは飛鳥寺と並ぶ最古の寺院である四天王寺のはずも、創建以来の四天王像ははるか昔に失われ、徳川秀忠による元和の再建時の四天王像も戦災で焼失しているのですが、調べてみると1963年に再建された四天王像は動きが少なく直立、動的なポーズの戦前の四天王像とは全く違っていると分かりました。戦後の再建では飛鳥時代の姿に戻すことを狙ったらしい。武器を手にする戦前の四天王と異なり盾を持つ戦後の四天王は再建された時代背景が反映されているようです。
奈良時代の戒壇院四天王像や唐招提寺四天王像も躍動的ですが、平安後期から鎌倉時代の武士の時代になり、厚い胸板、引き締まった体、指先の動き、翻る衣、興福寺四天王像では一挙に動きがリアルになったように見えます。作者が実際に戦場で戦う武将たちの姿を見た故ではないかと。
金峯山寺仁王門の金剛力士立像(延元4年-1339年、南都大仏師康成作)、特別展示ですが、2018年から始まった吉野の金峯山寺仁王門大修理が完了予定の2028年までの特別展示らしい。左奥阿形は口を閉じていて右手前の吽形は口を開いていることを確認。8.4mの東大寺南大門金剛力士像に較べると小さいものの、向こう側に立っている警備員さんとの比較で大きさがよく分かります。大きさも躍動感のひとつと言えそうですが、大きすぎてリアルさは感じさせません。
水門町の片側だけ欄干の残った「うみすゐもん」の橋が架かる吉城川支流の白蛇川にシカ、どうやって出るのか見ていると、川の石垣に上り、金網の破れたところをくぐって行きました。
山焼きが終わったばかりの黒い若草山、手前は8.4m運慶快慶作金剛力士像のある南大門です。
吉城園と北西側の森をしきりに行き来している鳥たちが葉っぱの落ちた枝先に止まり、ツグミと確認できました。
2月3日追記
上述した1963年に再建された四天王寺の四天王像を自分の目で確かめるべく、堂内撮影NGは承知も自宅からほど近い四天王寺へ行ってきました。
PayPayで中心伽藍の拝観料を払って、金堂(本堂)に入ると中央の本尊救世観音菩薩を囲み安置された四天王像はいずれも邪鬼を踏みつけながらも直立姿勢、上掲の興福寺四天王像のような躍動感はありません。戦後まだ20年経たない時代で攻撃的なポーズは避けたのではないかと推測します。
金堂隅の授与品販売所の尼さん(たぶん)に戦災前の四天王像はこんなポーズだったんですよね、と身振りを交えて尋ねてみたところ、同じ身振りを返してくれて、その四天王像は宝物館で展示されているとの回答にビックリ。
五重塔です。11年も前に初めて20倍ズームのカメラを買った時に、この五重塔の九輪の先の水煙が天女の舞になっていることにビックリしたことを思い出しました。見直してみると、いつの間にか九輪全体が金色に代わってます。
亀の池の上に架かる橋の上は重要文化財の石舞台、飛鳥の石舞台古墳と違って雅楽を奉納するための舞台です。向こう側の堂宇は六時礼讃堂、現在大規模保存工事中で、仮堂が和労堂(無料休憩所)の隣に設けられています。
回廊で囲まれた中心伽藍の東側に宝物館、中心伽藍とは別に拝観料が必要と分かりちょっと躊躇していたのですが、通りがかった作務衣の女性に尋ねると、やはり四天王像が展示されていると分かり、靴を脱いでスリッパに履き替えました。
新春名宝展を開催中で聖徳太子ゆかりの国宝や重要文化財等々を展示、写真NGなのであまり覚えていいない中、国宝懸守桜折枝文が記憶に残ってます。5つの俵型の桜色の布包が桜の花びらの形に積まれた平安時代のお守り袋で、CTスキャンで内部に小さな仏龕が入っていることが確認され、その金色の3Dプリンター復元が並べられていました。
聖徳太子ゆかりの展示の他に1階に2躯、2階に2躯の修復作業中の四天王像が展示されていて、金堂ではなく六時礼讃堂の四天王像と分かりました。戦後に再建された金堂の四天王像と異なり、自分や尼さんが真似した上掲の興福寺四天王像のようなダイナミックなポーズですが、金堂の再建四天王像や興福寺四天王像よりずっと大きい。金堂を含む中心伽藍は空襲で全焼したものの、六時礼讃堂は戦災を免れ、江戸時代初期造立の六時礼讃堂四天王像も残されたと確認できました。