俵屋宗達白象図

久々にとてもワクワクする小説に出会いました。原田マハ「風神雷神(上)」(以下「小説」と記します)を読み終えたところです。天正少年使節と同世代の俵屋宗達の物語、天性の卓越した画才を持つ京の扇屋俵屋の息子、まだ12歳の少年伊三郎が描く扇絵が評判になり、安土城に上り織田信長から余が見たことのないもの描いてみよと命じられ、二枚の杉戸に描いたのが南蛮寺の襖絵で見た白い象の母子、感銘を受けた信長から宗達の名を与えられます。

東山の養源院に残る重要文化財俵屋宗達筆白象図、撮影NGらしいものの、どうしても自分の目で見たくなりました。

実は3日前、大して呑んだはずはないのに、すっ転んで顔にいっぱい擦り傷を作ってしまいました。転んだ時、大丈夫ですかと女性の声が聞こえた記憶はあるものの、どこで転んだのかもはっきり覚えておらず、翌朝目覚めると見るも無惨な自分の顔になってました。とりあえず薬局で軟膏を買ってきたものの、診てくれた薬剤師さんのシリアスげな表情が気になってやはり形成外科で診てもらうことにしました。麻酔を塗って傷を洗って、キズパワーパッド等で治療してもらってきました。金曜土曜はおとなしくしてヒリヒリした痛みもなくなったので、土曜日のつもりだったのを一日繰り延べて日曜日に京都へ向かうことにしました。

京都の天気予報は「雪ときどき止む」、去年2月に糺の森でルリビタキ、八瀬でカワガラスに会った時のような雪景色を期待していたのですが、七条大橋付近は晴れ渡っていて積雪ゼロ。

3日ぶりの外食、七条大橋のマックでブレックファースト。マックのセルフオーダーのテーブルデリバリーは先に空席を選んでそのテーブル番号を覚えてから注文しなければならないとずっと思い込んでいたのですが、機械の隣に番号札が掛けられていてその番号を入力して、番号札を空いているテーブルに置けばいい、とこの前、学園前のマックで教えてもらったばかりです。

唇も切ったのでホットコーヒーじゃなくオレンジジュースをストローで。グリドルは小さくちぎっていただきます。

このところよく歩く七条通、どんつきは智積院、左手の煉瓦壁は京都国立博物館。チラチラと降り出したので自撮りしてみたのですが、雪は写っていませんでした。左目の下でキズパワーパッドがはみ出しているのが痛々しい。

三十三間堂の長い屋根に雪が積もったらどうなるんだろう、と楽しみにしていたのですが、いつもと変わらず。

三十三間堂を越えて右へ曲がると白象図のポスター。日本に、京都があってよかったは京都市のPRポスターで2008年の第1段渡月橋から始まり、2020年の題34段京セラ美術館までで止まっているようです。白蔵図は2014年の第23段。

夜間特別拝観の時、この辺りから行列の最後尾についた三十三間堂東大門、つきあたりは南大門、東大門の真正面が養源院の山門。

養源院

一直線の参道を進み、幔幕をくぐって雪用のブーツを脱いで本堂に上がり、拝観料を払って写真はNGですよね、と確認。代わりに撮らせてもらった御朱印の見本です。

10人ほどのグループになってお寺の方の解説で堂内を巡ります。浅井長政追善のため淀殿が秀吉に願って創建された浅井氏の菩提寺、落雷により焼失後お江(徳川秀忠正妻で淀殿の妹)により再建されて以降徳川氏の菩提寺ともなっています。

本堂廊下の天井は血天井。関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦い(慶長5年7月18日〜8月1日)では、攻める豊臣方4万に対し籠城する徳川方は僅か2000で10日以上持ちこたえたことにより、9月15日の関ヶ原の戦いで西軍の布陣の遅れをもたらしたものの全滅。鳥居元忠ら徳川方将兵の弔いのため、多くの将兵が自刃した伏見城廊下の板の間を天井にしたもので、今も生々しい血の跡がびっしり残されています。もし鳥居元忠らの奮戦がなければ関ヶ原がどうなっていたか分からないと伝える血天井、浅井、豊臣、徳川、いずれにも深い縁のあるお江さんにしかできなかった養源院の再建です。

俵屋宗達の杉戸絵も伏見城の戦いで自刃した将士を弔うために描かれたと伝わります。写真NGもひょっとして、杉戸絵の絵葉書を買ってそれをブログにアップしてOKですか、と訊ねてみると、どうぞどうぞと言ってもらえました。

靴を脱いで上がったところの正面に唐獅子図、2枚の絵葉書を並べて撮って若干トリミングしていいます。東大寺南大門の金剛力士像のように阿吽の対になっていて、右が口を開いた阿形、左が口を閉じた吽形。調べているとこの唐獅子像は実は4面あって、この2面は4面の内、中央の2枚らしい。

血天井の廊下の入口側には麒麟図、ジラフではなくキリンビールのキリンです。あとから気づいたのですが唐獅子の杉戸の裏面が麒麟です。麒麟の麒は雄、麟は雌とは知りませんでした。左が麒らしい。解説のお寺の方の「麒麟と同様に雌雄を表す架空の動物は何でしょうか?」という質問、誰も答えないので、「鳳凰」と答えたところ、お寺の方に喜んでもらえたみたい、エヘン。

血天井の廊下のつきあたりに白象図。絵葉書では全体が杉板の茶色のモノトーンに見えますが、実際にはモノクロに近い色合いで、これくらいの感じです。絵葉書は左右別々に1枚ずつになっていて、並べると襖の引き手がズレてしまっていたので、絵葉書をずらして撮り直しトリミングしています。

小説では少年俵屋宗達が織田信長の御前で描いた白象図ですが、養源院では元和7年(1621年)頃に描かれたものと紹介されていました。生没年不詳の俵屋宗達だけに、小説の作者のこの想像の膨らませ方はアリです。唐獅子図や麒麟図と較べると白象図は筆致がシンプルで、子どもが描いた絵のような楽しさがあり、母象に甘える子象の様子に宗達の母への思いが描かれているようにも感じられます。

帰宅後気付いたことなので未確認ですが、白象の裏に唐獅子の外側2枚が描かれているはず。それと、ここでの2つ目の質問を思い出しました。「俵屋宗達の代表作風神雷神はどこにあるでしょうか?」、おそらく建仁寺という回答を期待していたと思われるのですが、やはり誰も答えないので、(すぐそこの)京都(国立)博物館と答えたら、質問者のお寺の方は我が意を得たりといった表情をしてくれました。

杉戸絵の他、本堂牡丹の間で狩野山楽筆紙本金地著色牡丹図の襖絵を見たのですが、絵葉書にセットに含まれていたのは見た記憶のない俵屋宗達筆金地着色松図、どうやら通常非公開らしいと分かりました。実際に見ていない絵を絵葉書で紹介するのは憚られるので控えておきます。ところどころカーペットが敷かれているものの、ずっと板の間で説明を聞いていたので足が冷たいのですが、帰りがけにホットカーペットになってなくてスミマセンとの一言で心は暖かくなりました。養源院参道のニャンコたち、ネコのいる寺としても知られているらしい。

ゾウが大好きで、SNSでアップされているタイ発のゾウの動画に癒やされています。2012年に会った春子は2014年に64歳で亡くなり、残されたラニー博子が2018年に亡くなって以降天王寺動物園にはゾウが不在。ゾウは1日に200〜300kgもの草を食べ、1日の大半を食事に費やすそうで、飼育は大変ですが、ぜひ天王寺にもゾウがやってきて欲しい。このまま岡崎動物園へ5頭いるゾウを見に行っても良かったのですが、機会を改めることにして、来る前に決めていたあと2箇所の目的地を回ります。

南蛮寺跡

東山七条から207系統で四条烏丸、鶏鉾町です。室町通を上ると京都芸術センター、昭和6年築の元明倫小学校で登録有形文化財、ジャンルを問わないアーティストの活動を支援するための施設だそうです。

蛸薬師室町を西へ入ったところ、呉服の和光本社の塀に南蛮寺跡の石柱と立札が立ってました。俵屋宗達の実家、扇屋の俵屋がどこにあったかは不明ですが、小説では宗達の家の近所に、新しい南蛮寺がパードレ・オルガンティーノの指導により建てられ、珍しいもの見たさに宗達は南蛮寺へ二年も日参し見たものを写生していると、オルガンティーノに招き入れられ、聖母子像を見せてもらうことに。

この南蛮寺で宗達が見た襖絵に描かれていた象、オルガンティーノがかつてこの国にきたことがあると教えてくれた象を信長の御前で描いたのが杉板の白象です。見事じゃと褒められ、西欧の絵をもっと見たい、それを描き写してみたいという宗達の思いを受け入れた信長により、天正少年使節に宗達が加えられることになります。

その南蛮寺が建っていた辺りを見てみたくてやってきたのですが、立札によると永禄4年(1561年)にこの付近に建てられた礼拝堂が古くなって、天正4年(1576年)に再建され、天正15年(1587年)の伴天連追放令で破壊され復興されることはなかったそうです。原田マハさんもこの立札はチェックしているはず。

狩野永徳洛中洛外図屏風

四条烏丸に戻り201系統に乗って千本丸太町で下車すると、真ん前が平安宮朝堂院大極殿跡。公園を通り抜け、今日3箇所目の目的地の平安京創生館。3年ほど前に訪ねているのですが、ここに洛中洛外図屏風の複製が展示されているのを思い出してやってきた次第。

法勝寺の九重塔のジオラマの向こうに洛中洛外図屏風、上杉本洛中洛外図屏風と呼ばれ、天正2年に織田信長が狩野永徳に描かせ上杉謙信に贈られ、原本は山形県米沢市の上杉博物館所蔵され国宝。この複製は屏風ではなく陶板壁画です。

洛中洛外図屏風複製陶板壁画、左雙、右雙の全体です。小説では狩野永徳がこれを描くシーンがかなり克明に描かれていました。山形へ本物を見に行きたいところですが、手近なところで複製を見ることができるのはありがたい。

以下、陶板壁画の部分を少しレタッチしています。

右雙右端、上端に清水の舞台、その手前中程は横に長い三十三間堂、その手前の鴨川でラクロスのラケットのような形の網を手にした男たちは鮎漁らしい。川上に架かる橋は五条大橋、その上は八坂の塔で、その左に八坂神社。

五条大橋を渡る人々や両岸の人々です。馬に乗った武士と足軽たち、傘を被った女性たちのグループ、立ち話の老女たち、墨染め衣の僧侶、川上では川遊びの人たち。室町時代の人々の声が聞こえてきそうです。

祇園祭です。四条大橋は鎧兜の武士が渡り、その川上は神輿渡御の列。橋の手前には長刀鉾、その左手にはカマキリののった蟷螂山。

船鉾がすぐ見つかります。その左手の水の流れは室町通で濠が流れていたらしい。濠に面して立っているのは鶏鉾、その上に白楽天、その上に函谷鉾。祇園祭は天正も令和も同じ賑わい。

御所です。一番大きな屋根は紫宸殿、その左下が清涼殿。衣冠束帯の人たちが並ぶ中で舞楽が行われているようです。

細川屋敷の部分、大きなお屋敷が立ち並ぶものの瓦葺きじゃなくて茅葺きです。鷹を手にした武士も見えます。その手前は板葺の貧しげな庶民の家が立ち並び、遊び回る子どもたちも。貧しくても楽しげです。全体で2485人も描かれているらしい。そのそれぞれのポーズや持ち物が個性的で手抜きゼロ、狩野永徳の凄さです。

濠が流れる通りが多く描かれているのが驚きです。室町時代の京にも都市インフラとしての水路が張り巡らされていたと分かりビックリです。

左雙には雪をかぶった金閣寺。そして嵐山には渡月橋と天龍寺。小説では俵屋宗達の凄さだけでなく、狩野永徳も凄い、複製陶板画で金色の発色がイマイチですが、その凄さの一端を確認できてよかったです。

小説にはもうひとつの洛中洛外図屏風が登場します。ちょっとネタバレになってしまいますが、ローマ法王へ献上されるものとして、狩野永徳と少年俵屋宗達の共作で、京だけでなく安土城が描かれ、洛中には南蛮寺や伴天連や南蛮人たちも描かれています。

狩野永徳と俵屋宗達共作の洛中洛外図屏風が実在したかどうかはともかく、安土城が描かれた図屏風が信長からヴァリニャーノに託され、教皇グレゴリウス13世に贈呈、気に入った教皇は地図の間にそれを飾ったと記録に残されているものの行方不明になっているらしい。外務省のページでも確認できます。

大河ドラマのオープニングにも登場した平安京特大ジオラマ、その時の大河ドラマは見てません。右奥へ回り込むと森の中の深泥池、太古の昔から存在する池です。北山付近は田んぼばかり、画面左上の木々多い辺りは現府立植物園。

雪時々晴

千本丸太町でバスを待っていたら吹雪に、この時の自分です。5分も経たないうちに青空が広がりました。

201系統のバスで出町柳へ。八瀬へ言ってみようかと考えていたものの、八瀬から戻ってきた電車には全く雪を被った様子がないので止めました。さすがに比叡山は白くなっていたものの、大文字山は積雪ゼロ。

賀茂川左岸を歩きます。カイツブリが飛び込む一瞬が撮れ、カワアイサも簡単に見つかりました。

たぶん全部で7、8羽。相変わらず吹雪になったり青空が広がったりで寒い。

間近にモズ姫が止まってくれました。モフモフの羽毛セーターが暖かそうです。

出雲路橋の下に掲げられた洛東洛西洛南洛北京名所交通図会、出町柳から高野川を遡って大原がほど近く、左へずんずんと鞍馬山と貴船までの道が描かれています。

下鴨神社の方へ向かうと、府道沿いにタバコが吸えてコーヒー400円の喫茶店を見つけました。マスクの中のガーゼを外すのに忙しくコーヒーを撮り忘れたのですが、壁に貼られたEXPO'70のマップを撮ってました。寒かったので出されたメニューも見ずにホットコーヒーを頼んでしまったものの、くちびるの傷はマシになったのでストロー無しで飲めました。神戸のニュータウンのようなウッディタウンというお店、後でチェックし直すとカレーやビーフシチューも美味しそう、たぶん度々訪ねることになりそうです。

下鴨神社はかなりの賑わい、御朱印とかだけじゃなく本殿の参拝にも長い列ができていました。

出町柳駅周辺にこれといったお店は見つけられず、さっきの喫茶店でカレーかビーフシチューを食べて来ればよかったです。窓際に肘掛けがなくて8000系と較べて居心地が劣る3000系の特急で帰ります。窓の向こうに復刻塗装2200系。

天満橋でもこれといったお店は見つけられず結局上本町まで戻ってきました。よく行くお店でこの顔を披露するのは恥ずかしいので、あまり行かないお店で鍋焼きうどん、2日間止めておいたアルコールですが、プレモルで試運転。傷の残るくちびるに苦手なお餅が入っていて難儀しました。

原田マハ「風神雷神(下)」をダウンロード、何とフェリペ2世やカラヴァッジョが登場するようです。原田マハさんの著書は今回が初めてなんですが、美術と歴史を絡めて想像を膨らませた作品がわが琴線に触れます。学科は異なるものの母校文学部卒で誇らしい。