富岡鉄斎の文人画

学園前の大和文華館へ、近鉄が運営する東洋美術館です。その前に昨日の新年会のことを少し。

昨日の新年会

難波駅5番線のサザン前4両が復刻塗装10000系、後ろ4両ははげちょろけの7100系。新年会持ち込みの551を荷物棚に載せて、復刻塗装サザンと一緒に撮ってみます。6番線の発車メロディは、なんかいホークス♪のままでした。

友人宅で吉例新年会のはじまりはじまり。シーバスリーガルミズナラ青、さすがに美味。

陶芸を嗜む家主が食器棚から出して見せてくれたのは自作の「油滴天目」。焼き上がってこのツブツブが浮き上がってきたときにはかなり感動したようです。

家主作の「真珠の耳飾りの少女」模写、明るめの色彩で原作より若々しさを感じさせます。同じく家主作コペンハーゲンの運河、30年くらい前に家主と旅した時のシーン、右端の車椅子が家主、その隣に立っている緑のジャケットが自分です。

ええ塩梅になって帰り道、やってきたのは復刻塗装7100系。珍しく運転室右側に運転士さんのバッグが置かれておらず、バッチリかぶりつき。

泉佐野で復刻塗装7100系とお別れ。たぶんこの復刻塗装7169編成は廃車されるまでこのツートングリーンということになりそうです。それにしてもグレーに青と黄色ストライプのCIは何だったんでしょう。コーポレートアイデンティティ活動とは企業理念や存在意義をアピールするものですが、このツートングリーンの方がよほど140年の歴史を持つ南海電鉄のCIにかなってます。

大和文華館

上本町駅ホームの時計がちゃんと動いているのに、どれも「調整中」になっていました。推測ですが時計を廃止してしまうのではないかと。最近近鉄に限らず、時刻表、ゴミ箱、駅の設備の簡略化が進んでいるのでその一環ではないかと。隣の発車案内にデジタルで時刻表示は簡単にできるはずですが、どうなるんでしょう。

学園前に到着、南口にでるとすごい数の若者たちがゾロゾロと、どうやら大学入学共通テストのようです。会場のリストに帝塚山大学が含まれていました。

10分ほど閑静な住宅地を歩くと大和文華館、近鉄グループの東洋古美術美術館で1960年開館、あべのハルカス美術館とは全然役割が違ってます。

クルマが4台しかとまっていないのに、えらく広い駐車場を囲む塀の切れ目が入口の門、その脇に小さなチケットボックスがあって中の人が歩いてくる自分を見ていたようです。「伝神写照 東アジアの人物表現とものがたり」が開催中。

門を入るとさらに広くてビックリ。丘全体がその敷地になっているようです。案内図にはなごよみ。キャノンの500mmくらいのレンズの女性がカメラを構えていたので、自分もバッグからカメラを取り出します。

坂道の先になまこ壁の建物が見えてきました。花ごよみにあったロウバイはまだつぼみかたし。鳥は少なくなさそうなのですが見かけたのはシジュウカラだけ。

なまこ壁の建物に入ったところです。展示室はひとつだけも撮影OK。

最後の文人画家と呼ばれる富岡鉄斎の老子出関図(明治38年)。文人画とは職業画家ではなく、学識や書画、詩、音楽などの教養を備えた知識人(文人)が、自己の精神表現や内面世界を表現するために描く、技巧よりも書画一体や精神的な品格が重視され絵画。本作は周王朝(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)の衰退を悟った老子が、牛にのって函谷関を越えるシーン、書かれた詩は「身を守るには適当な時期に身を引くのがよい」という意味らしい。逃亡しているところにしては、木曽義仲の火牛の計のような勇ましい牛です。

石川大浪の西洋婦人像(江戸時代後期)、石川大浪は前野良沢や杉田玄白ら蘭学者と親交のあった洋風画家。画面にTafel bergと自らのオランダ名サインが見えます。

御題棉花図冊(清代、乾隆30年頃)、農民が収穫した棉を乾燥させている場面で、皇帝や皇族に農民を慈しむ心を養うためのものらしい。

建物の真ん中に中庭。この中庭と外に面した大きな窓があって、展示ケースのガラスへの映り込みが激しいのが気になり、展示室全体が美術館としては明るすぎる気がします。

李宗謨筆陶淵明故事図巻(明時代)、東晋の詩人・陶淵明(365〜427年)にまつわる12の逸話を描いた図巻。その第1段の酒と硯に囲まれた陶淵明、下級役人であったものの俗塵を離れ田園に暮らすことを選んだ生き様が後世の文人たちの理想とされたらしい。

文姫帰漢図巻は後漢時代は約12mの絵巻、董卓の乱で侵入した胡人に捕らえられ12年間んを南匈奴の左賢王の妻となり異郷で12年間を過ごし、魏の曹操により故郷に戻った後漢の才女、文姫(蔡琰、さいえん)の物語。第五拍の匈奴での生活、第十三拍の蔡文姫 子どもや夫たちと分かれる、第十八拍文姫故郷へ還るの場面です(拍=区切り)。

仕女図巻(嘉靖19年、1540)、明代中期に蘇州で活躍した仇英の落款があるものの、贋作工房で造られた上質の蘇州片らしい。素っ裸で蓮を採っている仕女や踊る仕女たち、贋作と言われても十二分に美しく、美術館に展示する価値は伝わります。

蘇州片とは明代後期から清代にかけて、江蘇省蘇州で作られた偽造された古画。唐、宋、元時代の有名画家の落款や印章を偽造した模写品が大量に制作され、偽物として蔑まれていたものの、現在では当時の蘇州の風俗や高い絵画技術、文化史を知るための重要な歴史的資料として再評価され、台北国立故宮博物院でも少なからず所蔵されているようです。

蘇州版画の三美人図(清時代、18世紀後半)、美しく精巧な多色摺り版画が清時代から土産物として売られていたらしい。江戸時代に長崎を通じて日本へもたらされ浮世絵にも少なからず影響を与えているらしい。いっときお付き合いしていたひとが自称蘇州美人、この3人より綺麗でしたが性格はこんなのほほんとした感じじゃなかったです。

茉莉花歌図(清時代、18世紀)も蘇州版画。画面右下は元時代の古典劇西廂記(せいそうき)のワンシーン、画面左下は三国志演義の呂布と貂蝉、画面中央やや上は牽牛と織姫が雲上で会うシーン、だそうです。

婦女弾琴図は桃山時代の初期洋風が、印影はは読み取れないものの、カトリック教会と関係の深い絵師の作らしい。

一休宗純像(室町時代)は一休の弟子の蘇我蛇足作と伝わり、賛は一休自身によるもの、つまり自画ではないものの自賛です。東博の重要文化財一休和尚像と同じ顔つき、表情です。

さらに富岡鉄斎が四幅。寿老図(大正3年)は鉄斎79歳の作、右手に瓢箪をくくりつけた杖、左手に桃を持ち、周囲には福徳のシンボルの蝙蝠が舞っています。鉄斎は自らの長寿を喜び、寿老人を自らに見立てて描き、知人たちに贈っていたそうです。鉄斎の写真を見ると鋭い目に長い白髭、さらに杖を手にしていてまるで寿老人。

群仙祝寿図 (明治29年)、画面右上の白鶴に乗った寿老人の来臨を祝うために仙人たちが崑崙山に向かう場面を描いた神仙図。カゴに色んな食べ物が入っていてピクニック気分の仙人たち、タンチョウもやってきて楽しげです。

神武天皇像です。40代の鉄斎は石上神社や大鳥神社の宮司を務め、さかんに建国神話を描いているらしい。

衣冠束帯で笏を手に畳上に座す菅原道真像は明治39年の作。若い頃より晩年の筆づかいの方がずっといい。鉄斎は勝者の歴史、中央の正統史観よりも、滅びた側、周縁に追いやられた人物、志を貫いたが報われなかった者に強烈な共感を示していた、とChatGPTが教えてくれました。まさに菅原道真です。

文華苑と名付けられた自然園に囲まれた大和文華館、見頃はまだ先ですが、梅林がいい感じになってました。「文華苑実生」と札のかかった紅白の梅、文華苑実生とは品種名じゃなく、接ぎ木ではなく文花苑で種から育てた梅のことらしい。

品種名は分からないけど、蕾の密集度がすごい紅梅。

ツバキの季節になりました。白いツバキは白侘助という品種。

大阪城梅林では見たことのない緋の司。小さな柑橘がいっぱい、右近の橘のタチバナです。

数は少ないもののマンリョウも。門を出たところの建物は文華ホール、明治42年築で辰野金吾設計の奈良ホテルラウンジを移築してきたものだそうです。

中野美術館

すぐ近くに名前も初めて聞く中野美術館、「所蔵名作展、近代日本の洋画・日本画」後期を開催中。どうやら年中開館しているのではなさそう、せっかくなので入ってみることにします。入口になぜか石の下駄。

靴を脱いでスリッパに履き替えて上がり、シニア割引で500円。2時から何かイベントがあり、参加されますかと聞かれ、時計を見ると1時59分だったので参加することに。案内されたのは誰もいない館長室、室内には快適そうな椅子が並べられ、館長さんとしては若い人が、ジャズにしますか、と聞かれたのでクラシックでと答えると、ヨーヨー・マのバッハをかけてくれ、置かれた芸術新潮の司馬遼太郎特集号を眺めながら30分ゆっくり寛がせてもらいました。

上のフロアの洋画展示室には梅原龍三郎や須田国太郎らの作品、彫刻は佐藤忠良 若い女夏。下のフロアは日本画展示室。

ここでも富岡鉄斎、書と山水画が対になった軸が2点、「題詠偶寫層巒茂樹清泉園」と「題詠暁風吹雨江村雨霽」。清泉園は固有名詞ではなくユートピアの意味で、描かれたふたりは鉄斎自身とお弟子さんらしい。もう一幅は阿蘇を描いたもの、山を横切る白い雲は噴煙かも。

岩山に立つ木こりさんを描いた橋本関雪「秋正樵夫」と富田渓仙「広沢渓鳥図」、池にはコハクチョウらしき影、手前にいるのはマガモか。

高村光雲 西王母(大正元年)、漢代の銅鏡にも描かれている西王母です。村上華岳の墨椿(大正14年)は墨一色なのに椿が赤く見える気がします。

窓の向こうに広がる蛙股池、対岸に大和文華館。当館を設立した中野皖司の年譜、御所で林業を営んでいた実業家で右下の写真は御所市の生家。当館は昭和59年の開館。

いかにも学園前な起伏のある景色、遠景は生駒山上。生駒トンネルを抜けると大阪平野には黄砂が被さっていました。

APPENDIX

祖母から富岡鉄斎と交流があったと聞かされた記憶があり、富岡鉄斎+岸和田をキーワードに調べてみると岸和田市立図書館のページになんと自分のひいひいおじいさんのことが記されていて仰天。奥喜太郎がその人で、煎茶を通じで交際があったようです。祖母が親しげに「てっさいさん」と「て」にアクセントがない京風の発音で呼んでいたことが思い出されます。明治30年代生まれの祖母、80代の大正時代でもたくさんの絵を描いたと伝わる鉄斎に、少女時代の祖母が可愛がってもらった可能性がありそうです。

図書館ページの泉南郡歌を創り、捕鳥部萬碑建設の首唱者に名を連ねる、との一文が気になります。今の泉南郡ではなく、岸和田も含まれていた頃の泉南郡ですが、泉南郡歌の詳しい情報は見つかりませんでした。捕鳥部萬(ととりべのよろず)は蘇我氏vs物部氏の丁未の乱での物部氏の武人で、岸和田市天神山の義犬塚古墳に葬られていると伝わります。戦いに敗れ自害した捕鳥部萬の遺体を守るように亡くなった白い犬がともに葬られているらしい。

忘れられた人物の紹介に強い関心を抱いていた奥喜太郎さんは鉄斎的歴史観を引き受けていると感じます、とのChatGPTのコメントが嬉しい。ネット上の情報は限られるので岸和田市立図書館などを訪ねもう少し深堀りしてみたくなりました。