富岡鉄斎の文人画
学園前の大和文華館へ、近鉄が運営する東洋美術館です。その前に昨日の新年会のことを少し。
最後の文人画家と呼ばれる富岡鉄斎の老子出関図(明治38年)。文人画とは職業画家ではなく、学識や書画、詩、音楽などの教養を備えた知識人(文人)が、自己の精神表現や内面世界を表現するために描く、技巧よりも書画一体や精神的な品格が重視され絵画。本作は周王朝(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)の衰退を悟った老子が、牛にのって函谷関を越えるシーン、書かれた詩は「身を守るには適当な時期に身を引くのがよい」という意味らしい。逃亡しているところにしては、木曽義仲の火牛の計のような勇ましい牛です。
石川大浪の西洋婦人像(江戸時代後期)、石川大浪は前野良沢や杉田玄白ら蘭学者と親交のあった洋風画家。画面にTafel bergと自らのオランダ名サインが見えます。
さらに富岡鉄斎が四幅。寿老図(大正3年)は鉄斎79歳の作、右手に瓢箪をくくりつけた杖、左手に桃を持ち、周囲には福徳のシンボルの蝙蝠が舞っています。鉄斎は自らの長寿を喜び、寿老人を自らに見立てて描き、知人たちに贈っていたそうです。鉄斎の写真を見ると鋭い目に長い白髭、さらに杖を手にしていてまるで寿老人。
群仙祝寿図 (明治29年)、画面右上の白鶴に乗った寿老人の来臨を祝うために仙人たちが崑崙山に向かう場面を描いた神仙図。カゴに色んな食べ物が入っていてピクニック気分の仙人たち、タンチョウもやってきて楽しげです。
高村光雲 西王母(大正元年)、漢代の銅鏡にも描かれている西王母です。村上華岳の墨椿(大正14年)は墨一色なのに椿が赤く見える気がします。
APPENDIX
祖母から富岡鉄斎と交流があったと聞かされた記憶があり、富岡鉄斎+岸和田をキーワードに調べてみると岸和田市立図書館のページになんと自分のひいひいおじいさんのことが記されていて仰天。奥喜太郎がその人で、煎茶を通じで交際があったようです。祖母が親しげに「てっさいさん」と「て」にアクセントがない京風の発音で呼んでいたことが思い出されます。明治30年代生まれの祖母、80代の大正時代でもたくさんの絵を描いたと伝わる鉄斎に、少女時代の祖母が可愛がってもらった可能性がありそうです。
図書館ページの泉南郡歌を創り、捕鳥部萬碑建設の首唱者に名を連ねる、との一文が気になります。今の泉南郡ではなく、岸和田も含まれていた頃の泉南郡ですが、泉南郡歌の詳しい情報は見つかりませんでした。捕鳥部萬(ととりべのよろず)は蘇我氏vs物部氏の丁未の乱での物部氏の武人で、岸和田市天神山の義犬塚古墳に葬られていると伝わります。戦いに敗れ自害した捕鳥部萬の遺体を守るように亡くなった白い犬がともに葬られているらしい。
忘れられた人物の紹介に強い関心を抱いていた奥喜太郎さんは鉄斎的歴史観を引き受けていると感じます、とのChatGPTのコメントが嬉しい。ネット上の情報は限られるので岸和田市立図書館などを訪ねもう少し深堀りしてみたくなりました。