おぎの美術館再訪
先々週に訪ねたばかりのおぎの美術館へもう一度。
奈良ファミリーのフードコートでランチはハズレ、西大寺駅ナカの焼肉ライクにしとけばよかった。快晴のもと東へ、大極殿です。
左手の森は市庭古墳、平城天皇陵に治定されるものの、円筒埴輪や家型埴輪などが出土しており5世紀前半築造の前方後円墳であることは間違いなく、平城天皇崩御と400年もずれています。では平城天皇の真陵はどこかと調べてみると諸説紛々、既存の市庭古墳を再利用(追葬)したという見方もあるようです。桓武天皇の第一皇子、弟の嵯峨天皇に譲位後、上皇として平城宮に移り、平城宮へ再遷都を図り嵯峨天皇と対立(薬子の乱)し敗れ出家した平城天皇。平安時代以降で真陵が確定しない天皇は極めて稀な事例のようです。
不退寺
以前見た紅葉がすばらしかったのを思い出し、国道24号を越えて不退寺にやってきました。チケットブースで拝観料を払おうとしたら、紅葉はまだ早いのですがいいですか、と。せっかく来たので入ることにしました。なぜか先に本堂に上がって出てからから紅葉の写真を撮ってくださいと言われその通りにしました。
本堂から出て古池の青石の橋の袂に立つモミジ。
境内の隅っこに石棺、ウワナベ古墳南側の平塚古墳から発掘されたもので石材は砂岩の一種との説明がありました。平塚古墳では見つからなかったものの、平塚1・2号墳で見つかりました。現在地から国道24号を渡ったすぐ向こうの空き地です。
チケットブースのご住職の奥さんらしきに、じゅうぶん綺麗でしたよ、お世辞を言って出てきました。ウワナベ古墳に戻って来るとホシハジロ。
水上池の南側の草原に曰く有りげな石垣の溝、調べてみたものの不明です。この辺でキジに合ったことがあるものの今日は何も現れず。
若草山です。手前に大仏殿と二月堂。
昭和45年に発掘調査が始まっています。右下遺構検出状況の写真では、麦わら帽子にゴム長のおじさんたちやエプロン姿のおばさんら、柱の想定位置に並んでいる発掘調査に携わった人たちです。
復元にあたっては、大極殿が移築された恭仁宮大極殿あとの調査結果、現存する法隆寺金堂、薬師寺東塔、年中行事絵巻(宮中の年中行事が描かれた平安時代末期の絵巻物)に描かれた平安宮大極殿などを参考に復元されているそうです。
八角形の高御位、牽牛子塚古墳の八角墳を連想させます。八角形は、東西南北の四方とその間の四隅で八方位(世界の全域)を意味し、高御座の八角形は、飛鳥時代からの皇権象徴としての八角形伝統の後継するものという理解は妥当なようです。
中に置かれた椅子が高御座、椅子と八角形の屋形を含めても高御座と呼ばれているようです。椅子の高御座の京都御所の実物と較べると座布団がなく、螺鈿飾りが無いなどかなり簡素です。高御座の鳳凰と北側の壁の玄武、壁には四神や十二支が描かれています。
再訪したのはそそや館に立つ見晴し台から明るいうちに撮り鉄したかったため、先週より人が多めで、空くのを待って見晴し台に上って撮り鉄。長く占領できないのでこの2本だけ。
年輪年代法を説明する2枚のパネル、何度も読み直し、AIの回答も参考にしながら漸く頭に入ってきました。現在の樹木の年輪のデータと古い建物や出土した木材の年輪のデータを照合しつなぎ合わせた「暦年標準パターン」を作り、それと調べたい木造文化財の年輪と照合して年代を測定する、という理解で大体合っているかと。
①秋田県鳥海山埋没樹幹(BC466年)、②池上曽根遺跡大型掘立柱建物の柱根(BC52年)、③纒向石塚古墳周濠の木製品(AD177年)、④法隆寺金堂の上重雲肘木(AD669年)、⑤平城宮跡第一次大極殿院東回廊付近南北塀の柱根(AD694年)、⑥滋賀県宮町遺跡柵列の柱根(AD742~743年)、⑦鳥取県三仏寺奥院投入堂北側縁板(AD1098年)、⑧福井県一乗谷朝倉氏遺跡曲物の蔵骨器(AD1358年)、⑨パネル前に展示されている年輪(AD2000年)、と年輪のイラストと年輪のグラフが紹介されていて、①から⑨のそれぞれ一部ずつ重複していて、重複部分の折れ線グラフの形がほぼ一致しているのが分かります。
同じ環境のもとで育った同じ種類の木が似たような成長パターンを示す性質を利用した自然科学的年代測定法と定義されているのですが、秋田県と大阪で同じ環境の暦年標準パターンになるのか…、疑問や理解できていないことは残ります。
二上山博物館で学んだ瀬戸内技法によるナイフ形石器の紹介です。
「旧石器時代の動物」のパネル、ヤベオオツノジカとナウマンゾウは自然史博物館でみたばかり。マンモスとナウマンゾウの骨格標本の比較でマンモスの大きさにはビックリしました。北海道と本州が陸続きだったので本州にもヒグマがいたようです。それにウマは大陸から古墳時代に人により連れてこられたとばかり思っていたのですが、旧石器時代から日本列島に生息していたとは知りませんでした。
氷河期の奈良盆地は長野県の高原の湿地帯のような景観だったらしい。