おぎの美術館再訪

先々週に訪ねたばかりのおぎの美術館へもう一度。

西大寺駅で奈良交通のレンタサイクルを借りて出発。駅西側の開かずの踏切で電車を眺めるのは楽しい。

奈良ファミリーのフードコートでランチはハズレ、西大寺駅ナカの焼肉ライクにしとけばよかった。快晴のもと東へ、大極殿です。

左手の森は市庭古墳、平城天皇陵に治定されるものの、円筒埴輪や家型埴輪などが出土しており5世紀前半築造の前方後円墳であることは間違いなく、平城天皇崩御と400年もずれています。では平城天皇の真陵はどこかと調べてみると諸説紛々、既存の市庭古墳を再利用(追葬)したという見方もあるようです。桓武天皇の第一皇子、弟の嵯峨天皇に譲位後、上皇として平城宮に移り、平城宮へ再遷都を図り嵯峨天皇と対立(薬子の乱)し敗れ出家した平城天皇。平安時代以降で真陵が確定しない天皇は極めて稀な事例のようです。

佐紀町周辺

水上池にやってきました。水面から駆け上がったカワウと上空にはカモたち。マガモのようです。

カイツブリじゃなくてハジロカイツブリ、さほど珍しくはないものの自分的にはライファー(初見)のはず。それとカンムリカイツブリ。

池畔のモミジを見て水上池北側のヒシアゲ古墳、5世紀中葉-後半築造の前方後円墳で仁徳天皇皇后磐之媛命の陵墓に治定されています。拝所の向こうにも濠があり、前方部だけ二重濠になっています。

池の底にカーブミラーが立つ八上池、水が抜かれていて、鳥たちが好みそうな環境になっているものの、何も見つからず。

歌姫町の牧場のヤギたち、みんなニコニコすごく楽しそう。数えてみると15頭いました。

上空にANA機、平城野外活動研修センター前の池は乾垣内池という名前があると分かりました。

いつも濠が白濁しているコナベ古墳、5世紀前半の前方後円墳で、こちらも磐之媛命の陵墓参考地として治定されているものの拝所はありません。白濁しているのは地下水に含まれる炭酸カルシウムらしい。

航空自衛隊奈良基地を挟んで東側はウワナベ古墳、5世紀中頃の前方後円墳で、同じく仁徳天皇皇后八田皇女の陵墓参考地として治定されているもののやはり拝所は無し。濠は白濁しておらず、ほぼ隣接していて地質は同じであってもコナベ古墳と較べて濠が浅く広く、水が溜まりにくいことが原因のようです。

濠の縁を囲んでいるのはススキかオギか。オギだと思います。

不退寺

以前見た紅葉がすばらしかったのを思い出し、国道24号を越えて不退寺にやってきました。チケットブースで拝観料を払おうとしたら、紅葉はまだ早いのですがいいですか、と。せっかく来たので入ることにしました。なぜか先に本堂に上がって出てからから紅葉の写真を撮ってくださいと言われその通りにしました。

本堂から出て古池の青石の橋の袂に立つモミジ。

一本のモミジの巨木の紅葉です。4年前に訪ねた時と較べるとまだ半分青いものの十分美しい。

重要文化財の多宝塔、鎌倉時代建立で不退寺最古の建物。平城天皇が譲位してこの地に隠棲、「茅の御所」と呼ばれる屋敷が建てられたのが始まりで、平城天皇の孫の在原業平が暮らし、業平が自ら刻んだ聖観音像を納め寺院となったと伝わります。業平の百人一首の歌碑。

ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは

竜田川じゃなくて、付近の流れる佐保川にしたいところですが、一音足りません。

境内の隅っこに石棺、ウワナベ古墳南側の平塚古墳から発掘されたもので石材は砂岩の一種との説明がありました。平塚古墳では見つからなかったものの、平塚1・2号墳で見つかりました。現在地から国道24号を渡ったすぐ向こうの空き地です。

チケットブースのご住職の奥さんらしきに、じゅうぶん綺麗でしたよ、お世辞を言って出てきました。ウワナベ古墳に戻って来るとホシハジロ。

水上池の南側の草原に曰く有りげな石垣の溝、調べてみたものの不明です。この辺でキジに合ったことがあるものの今日は何も現れず。

若草山です。手前に大仏殿と二月堂。

大極殿

久しぶりに大極殿の中に入ってみようと思い着きました。入口は北側ですが、周囲を囲む柵の中に入るのは東側です。

入口へのスロープの隣に階段。古代には無かったバリヤフリー設備です。

平城宮第一次大極殿正殿のスタンプを写メ。

大極とは宇宙の根源のことで、古代中国の天文思想では北極星を意味するとのこと。パネルには天文図の中心に平城宮、その中心に大極殿、手前に平城京、周囲に玄武、青龍、朱雀、白虎と記されているのはここでは単に北、東、南、西を意味しているのかも。

大極殿の内部に常設されていたのは玉座となる高御座だけだったらしく、他にはせいぜい儀式に使う几帳・屏風や高官の着座位置を示す床几程度だったようです。

天皇の権威・天子の正統性や十二辰・陰陽・五行による宇宙の秩序を表す幢幡(どうばん、旗竿)が並んでいて、左から順に白虎、玄武、九輪に菩提樹(たぶん)、中央は不明、九輪に鳳凰、青龍、朱雀だと思われます。不明の中央についてChatGPTに訊ねると天(天帝)・天上界を象徴する天蓋型の幡、だそうです。四方世界を表す四神、仏法・宇宙秩序を表す九輪、天の中心(天帝・天子が天意を受ける場)を表す中央という構成になっているらしい。

昭和45年に発掘調査が始まっています。右下遺構検出状況の写真では、麦わら帽子にゴム長のおじさんたちやエプロン姿のおばさんら、柱の想定位置に並んでいる発掘調査に携わった人たちです。

復元にあたっては、大極殿が移築された恭仁宮大極殿あとの調査結果、現存する法隆寺金堂、薬師寺東塔、年中行事絵巻(宮中の年中行事が描かれた平安時代末期の絵巻物)に描かれた平安宮大極殿などを参考に復元されているそうです。

鴟尾は平城宮でも恭仁宮でも発掘されていないものの当時の格調高い建物には鴟尾がのせられていたので、元々なかったとは考えにくく、設置されているそうです。

がらんとした大極殿内部のほぼ全体です。

八角形の高御位、牽牛子塚古墳の八角墳を連想させます。八角形は、東西南北の四方とその間の四隅で八方位(世界の全域)を意味し、高御座の八角形は、飛鳥時代からの皇権象徴としての八角形伝統の後継するものという理解は妥当なようです。

中に置かれた椅子が高御座、椅子と八角形の屋形を含めても高御座と呼ばれているようです。椅子の高御座の京都御所の実物と較べると座布団がなく、螺鈿飾りが無いなどかなり簡素です。高御座の鳳凰と北側の壁の玄武、壁には四神や十二支が描かれています。

法隆寺夢殿の宝珠を参考にして造られた大棟中央飾り。木工事、屋根工事、塗装・彩色工事、金属工事の様子のパネルが並んでいて上皇陛下が平成22年に平城宮跡を御訪問された時の御製。

研究を 重ねかさねて 復元せし  大極殿いま 目の前にたつ

おぎの美術館

朱雀門前をあをによしが通過。おぎの美術館そそや館にやってきました。

再訪したのはそそや館に立つ見晴し台から明るいうちに撮り鉄したかったため、先週より人が多めで、空くのを待って見晴し台に上って撮り鉄。長く占領できないのでこの2本だけ。

眼の前に垂れていたオギの穂を触ってみるとすべすべでふわふわ、とても心地いい手触りです。

おぎの美術館を出たところからの大極門と大極殿の並びです。久しぶりに大極殿の中に入って学ぶこと多し。

前回はもう閉館になっていたそよ館が開いてました。

ひと株ずつがアクリルケースに囲まれ観察できるようになってます。

そよ館は回遊式じゃないので出口で折り返して入口に戻ってきました。大仏殿と二月堂が近くなりました。

おぎの美術館本館に入ります。

鏡の中のオギと朱雀門と自分。

「カヤネズミと共に」とはあるものの、運よく見つけたとしても写真に撮るのはほぼ不可能かと。自宅前の道路を横切るイタチを年に1回か2年に1回くらい見かけるのですが、道路をすばやく横切るだけで、あっ!イタチ、がせいぜいです。ましてや体長がせいぜい8cmほどのカヤネズミです。

オギのモニュメントに止まったアキアカネ♀、翅がプラスネジで固定されているみたい。

「空を切り取る」と案内があって1m四方くらいの台に寝転んで空を見るようになっていたので、試してみました。

大きい額縁と小さい額縁から朱雀門、先週とほぼ同じ構図ですが、太陽の位置が違ってます。

おぎの美術館ルートマップです。

踏切より西側のオギ原、手前の少し茶色はススキ、奥の白いのはオギで間違いないかと。

平城宮跡資料館

平城宮跡資料館に入ります。

平城宮・平城京研究の先駆者たちのパネルには関野貞の紹介、天龍山石窟を最初に発見した博士です。

平城宮のジオラマには上述の幢幡が並んでいて、やんごのなき人たちフィギュアの行列。周囲を囲む回廊もいずれは復元されるのでしょうか。

秋季特別展の「ナラから平城へ」、平城宮以前の旧石器時代から飛鳥時代の奈良を紹介する展示。昭和の怪獣映画風ポスターがよくできています。

年輪年代法を説明する2枚のパネル、何度も読み直し、AIの回答も参考にしながら漸く頭に入ってきました。現在の樹木の年輪のデータと古い建物や出土した木材の年輪のデータを照合しつなぎ合わせた「暦年標準パターン」を作り、それと調べたい木造文化財の年輪と照合して年代を測定する、という理解で大体合っているかと。

①秋田県鳥海山埋没樹幹(BC466年)、②池上曽根遺跡大型掘立柱建物の柱根(BC52年)、③纒向石塚古墳周濠の木製品(AD177年)、④法隆寺金堂の上重雲肘木(AD669年)、⑤平城宮跡第一次大極殿院東回廊付近南北塀の柱根(AD694年)、⑥滋賀県宮町遺跡柵列の柱根(AD742~743年)、⑦鳥取県三仏寺奥院投入堂北側縁板(AD1098年)、⑧福井県一乗谷朝倉氏遺跡曲物の蔵骨器(AD1358年)、⑨パネル前に展示されている年輪(AD2000年)、と年輪のイラストと年輪のグラフが紹介されていて、①から⑨のそれぞれ一部ずつ重複していて、重複部分の折れ線グラフの形がほぼ一致しているのが分かります。

同じ環境のもとで育った同じ種類の木が似たような成長パターンを示す性質を利用した自然科学的年代測定法と定義されているのですが、秋田県と大阪で同じ環境の暦年標準パターンになるのか…、疑問や理解できていないことは残ります。

「狩猟採集民の生活」のパネルで怪獣映画風ポスターのイラスト左端は小原研究員と分かりました。資源を求めて集団全体が移動し続けるフォーレジャーモデルと、キャンプ地から資源を求めて限られたメンバーが派遣されるコレクターモデルがあると学習。

「日本の主要な石材原産地」と岩石のサンプル、右端が二上山のサヌカイト、左端手前は黒曜石(たぶん伊豆諸島の神津島)。

二上山博物館で学んだ瀬戸内技法によるナイフ形石器の紹介です。

「旧石器時代の動物」のパネル、ヤベオオツノジカとナウマンゾウは自然史博物館でみたばかり。マンモスとナウマンゾウの骨格標本の比較でマンモスの大きさにはビックリしました。北海道と本州が陸続きだったので本州にもヒグマがいたようです。それにウマは大陸から古墳時代に人により連れてこられたとばかり思っていたのですが、旧石器時代から日本列島に生息していたとは知りませんでした。

氷河期の奈良盆地は長野県の高原の湿地帯のような景観だったらしい。

自転車を返却する前に駅ではなく訪ねたことのないお寺の西大寺を見つけました。駅のすぐ西側です。近くを歩いていた男の子が、あをによしやっ。西大寺東門をくぐってみます。

重要文化財の西大寺本堂、文化5年頃に建て直されたものらしい。西大寺は聖武天皇没後の764年、国家鎮護のための東大寺と異なり、民衆救済の実践や戒律復興の拠点として光明皇后により創建。

石積の基壇は東塔跡で、1502年まで五重塔が立っていた場所らしい。思った以上に広い境内で塔頭寺院も多数並ぶものの、人影は少なく、東大寺のような賑わいは全く無ありませんが、正月の大茶盛式は有名ですね。