能と話

2ヶ月ぶりに藤田美術館へ。3つのテーマの展示が毎月ひとつずつ変わるので3ヶ月毎でいいのですが、待ちきれません。

その前にひょっとしたらと思い毛馬へ行ってみることにしました。11年も前ですが、自分が初めてアサギマダラを見つけた場所です。

大阪駅前から34系統のバスに乗車、後ろにも34系統、3〜4分毎で大阪シティバス最多運行本数の34系統です。余裕のガラガラで発車、上町筋の62系統も1時間3本程度に増えたものの、大阪城公園へ向かうインバンドさんは増える一方なので、もっと増やしてほしいところ。運転手不足は承知ですが。

毛馬橋で下車、バス停前のコンビニで水を買って出発。

毛馬・赤川

ずいぶん久しぶりの毛馬閘門です。以前はよほど頻繁に通っていて、実に48本もブログを書いていた毛馬/赤川ですが、実に6年ぶり。

淀川の土手に上がると蕪村生誕地の歌碑、与謝蕪村の実家は摂津国東成郡毛馬村(現都島区毛馬3丁目)、この土手の下辺り、碑文は自筆の文字だそうです。

春風や 堤長うして 家遠し

自転車でずっと川上まで行った帰りの道のりの長さを思い出させる一句です。一番遠くは京都(木津川・淀川・桂川の三川合流地点)や高槻の三島江などへ自転車で行ったこともあります。体力的にさほど衰えたとは思っていないものの、阪神高速の工事で長柄より西へ淀川左岸を走ることができなくなったことが大きく、自転車が壊れて処分して以来公共交通機関と徒歩のみの自分です。

土手の上から淀川大堰、チョウゲンボウをよく見かけたところです。手前は3月に竣工したばかりの淀川ゲートウェイ(淀川大堰閘門)、現在はまだ季節限定の観光船のみの運行。

轟音が聞こえランディングギアを出した機体番号JA848J、羽田からのJL113瓶、B787−8 Dreamliner、ここから伊丹空港の滑走路まであと8km。

自分が勝手にカワセミ島と呼んでいる緑が近づいてきました。

カワセミ島です。この辺りで2015年と2019年に特定外来生物のミズヒマワリを吸蜜しているアサギマダラを観察しています。島の水辺を丹念にチェックするもミズヒマワリもアサギマダラも見つからず。ミズヒマワリは駆除されてしまったのかも知れません。

西カワセミ島と東カワセミ島に分かれていてその切れ目です。その切れ目をコバルトブルーとオレンジ色のニクイ奴がピューンと通過、写真は撮れなかったもののカワセミです。5回に1回くらいの確率で会うことができた記憶のあるカワセミ島のカワセミです。写真は撮れなかったものの、6年ぶりにやってきていきなり出会えたのはやはり嬉しい。

島の切れ目の向こう側に浮かんでいるのはホシハジロのようです。アレチハナガサに垂直方向で止まっているのはたぶんヤマトシジミ。

東カワセミ島の東端です。ワンドの沖に釣り人、あそこまで行くにはワンドの池をぐるっと回り込んでかなりの藪漕ぎが必須なはず。

久しぶりの淀川河川敷がとても気持ちよく、ちょっと赤川まで足を伸ばしてみることにしました。赤川鉄橋を渡る221系です。水路には以前見なかったような水草が激しく繁茂しています。特定外来生物のナガエツルノゲイトウです。地球上最悪の侵略的植物とも呼ばれ、過日印旛沼の治水ポンプをつまらせ大規模洪水の原因ともなっています。

赤川鉄橋の日陰でひと休み。ここでもカワセミに会ったことがあるものの、水面がナガエツルノゲイトウで覆われカワセミがダイブできる状態ではなくなっています。ワンドの池も水草が繁茂して狭くなってしまっているようです。

モズの高鳴きがよく聞こえ、ようやくピンボケで出会えました。確実に以前よりバードウォッチングが下手になっていると実感。藤田美術館が今日の目的なのでこの辺で切り上げ土手に上がります。

赤川鉄橋を渡るEF210、13年前にこの鉄橋を自転車で渡っています。

城北公園駅はおおさか東線開業日以来のはず。鴫野で乗り換え、京橋の駅そばをお腹にいれて大阪城北詰駅に到着。3号出口の100段くらいある階段を、藤田の学芸員さんたちもこの階段で毎日通勤しているのかと考えながら、えっちらおっちら上り、PayPayで支払いを済ませ、藤田美術館の展示室へつながる最初の暗い部屋に入ったところです。

藤田美術館

2つ目の暗い部屋に入ると親子のかっこいいシルエット。最初の展示は鳥がいっぱい描かれた「能」特別展示 面箱(明治~大正時代 )。

「能」特別展示 翁面白色尉(江戸時代)とその面箱。通常の能や狂言と異なり神事として扱われる「式三番」で用いられる面で、能楽師が面を着けずに登場し舞台上で翁面を着用し舞うらしい。

箱裏には江戸時代の絵師能役者・福王雪岑(ふくおう せっしん)による帽子や扇の絵、

「能」特別展示 黒漆地三番叟蒔絵茶箱、茶道具一式と屋外で茶を楽しむための蒔絵の茶箱。解説ウェブページに個々の茶器についての解説がないのですが、オシドリの香合には見覚えがあります。

既にみている「葵」のテーマ。8月は「豊」→「葵」→「金」の順で展示だったはずが、「葵」から始まっています。重要文化財 菊花天目茶碗を上の方から撮ってみました。

ふたつ目は「能」のテーマ、能は一度だけ鑑賞したことがあります。演目は鉢木(はちのき)、零落した鎌倉御家人の家へ一夜の宿を求めてきた旅の僧(実は執権北条時頼)に、落ちぶれても「いざ鎌倉」の大事あれば一番に馳せ参ずると語り、大切な盆栽を薪にしてもてなす物語、うっすら場面を思い出すことができるものの、睡魔との戦いでした。

白地鯉ト波模様縫箔(昭和時代)は能の演目「羽衣」などに用いられる能装束、裳裾の波に金糸で縫い込まれた鯉が舞ってます。

宮川長春 美人文殊普賢図(江戸時代)、能「江口」に因む、経巻を手にする文殊菩薩(右幅)と象に乗った普賢菩薩(左幅)が遊女の姿に見立て描かれたもの。

牡丹唐獅子蒔絵香合(鎌倉時代)、蒔絵の牡丹に金属をはめ込んだ獅子。百花の王・牡丹の花に戯れながら舞う百獣の王・獅子の舞が見どころとなる能「石橋(しゃっきょう)」をモチーフにした香合。義理と人情を秤にかけりゃ♪の「唐獅子牡丹」も能に因む刺青の図案とは知りませんでした。

織田信長や武野紹鷗の釜師だったと伝わる西村道仁 真形羽付高砂釜(桃山~江戸時代、16~17世紀)、片側には夫婦円満、長寿を謳う能「高砂」の翁と媼が、反対側には蓑亀が取り付けられ、「みよしの」と浮き彫りされています。

釜の羽(かまのは)が欠けているのは、あえて不完全なものに風情を見出す「わび・さび」の美学でわざと割ったもののはず。利休が所持していたと伝わる古芦屋春日野釜でもあえて羽が割られていました。

菱川師宣 大江山酒呑童子絵巻中巻(元禄5年)は源頼光の酒呑童子討伐を描いた能「大江山」に因む絵巻。

夙川で能舞台瓦照苑を構える上田家蔵の能面4面が正四角柱の美しく展示されています。出目満喬 曲見(しゃくみ、江戸時代、17~18世紀)は能「隅田川」などで用いられる憂いや陰りのある表情を表す能面。

同じく 長霊癋見(ちょうれいべしみ、江戸時代、17~18世紀)は牛若丸らに討伐される盗賊・熊坂長範(くまさかちょうはん)の役に用いられる面、「癋」はやまいだれに悪、心臓の病気や心の病を意味する漢字。出目満喬(でめみつたか)は大野出目家四代目。

京の能面師・宮田筑後 邯鄲男(江戸時代、18世紀)は能「邯鄲(かんたん)」のシテ盧生や「高砂」の住吉明神に用いられる面。

出目吉満 般若(桃山~江戸時代、16~17世紀)は嫉妬や悲しみ、怒りによって鬼女となった役に用いられる面。出目吉満は豊臣秀吉から「天下一」の称号を与えられた大野出目家初代の能面師。

3つ目のテーマは「話」、「物語」とした方が分かりやすいのですが、藤田のテーマは漢字一字と決まっています。

酒井抱一の弟子で江戸琳派の池田孤村 小督仲国図(万延元年)は平家物語巻第六の女房で琴の名手であった小督(こごう)の悲恋物語、右幅は琴を弾く小督、左幅は小督を探す源仲国、舞台は嵯峨野。

弱法師(江戸時代、17世紀)は能「弱法師(よろぼし」の主人公の面、作者不詳。河内国高安の長者・高安通俊から勘当された息子の俊徳丸は悲しみのあまり失明、四天王寺の門前で物乞いをし弱法師と弱法師と呼ばれた俊徳丸、下村観山の重要文化財弱法師に物語の世界を実に美しく描かれています(e国宝)。

橋姫(江戸時代、18~19世紀)も作者不詳。平家物語剣巻に登場する鬼女・橋姫に由来し能「鉄輪(かなわ)」等に用いられる面。「元気ですかー!」というフレーズを思い出させます。

尾形光琳 桜狩蒔絵硯箱(江戸時代、17世紀)、伊勢物語渚の院に描かれた文徳天皇や惟喬親王らの交野での桜狩りの蒔絵に重ねて、蓋表には「復やミ無 かたのみ濃の」、身見込には「ハる乃阿けほ乃」、合わせて藤原俊成の「またやみん 交野の御野の桜狩 花の雪散る 春のあけぼの」という新古今和歌集巻第二の和歌。

黒漆塗りに金で絵が描かれているのが一般的な蒔絵ですが、本作は黒漆塗の木の箱全体に金粉が撒かれ、樹木や馬は鉛板、文字は銀板を嵌め、桜の花や人物の顔は螺鈿。尾形光琳は図案だけかと思いきや、金粉を撒く蒔絵作業や、螺鈿、鉛板などの切り出し・貼り付けなども光琳自身が自ら手を下しているそうです。

萩玉川図青貝料紙箱と硯箱(江戸時代、18~19世紀)、和歌の歌枕として詠まれる六玉川(むたまがわ)の内、料紙箱には萩の名所・野路の玉川(近江草津)、硯箱には桜と山吹の名所・井出の玉川が描かれています。富山藩の杣田細工と伝わる、厚さ約0.1mmまで薄く削った青貝螺鈿の超絶技巧。

築島物語絵巻(室町~桃山時代、15~16世紀)は幸若舞「築島」を題材にした、大輪田泊(現神戸港)を築港する様子を描いた絵巻。工事が難航し人柱を立てようとする残酷な物語にも関わらず、素朴で親しみやすい表現で描かれています。

伝土佐光起 源氏絵(江戸時代、17世紀)は源氏物語の8帖を選択して、1帖ごとの場面とそれに相応する詞書や和歌を色紙形や短冊形に配した画帖、「小蝶」とあり第24帖の「胡蝶」の場面を描いたもの。

西行物語図(江戸時代、19世紀)は復古やまと絵師・冷泉為恭が西行物語のうち12場面を画にしたもの。その「江口」の場面。妻子を残し漂白の旅に出た西行が、江口(淀川と神崎川の分岐点にあった宿場町)で宿を求めるも家主の遊女(江口の君)に断られ、和歌で問答したというエピソードです。

「ものがたりMAP」のパネル、テーマ「話」の展示作品に描かれた場面がもれなく解説され、「物語絵のみかた 源氏物語編」のパネルでは、展示されている源氏絵「胡蝶」などの源氏物語の絵巻や扇面、図屏風の図様が定型化、様式美化し描き継がれていることが解説されています。

朗読イベント心中天網島

一旦展示室を出て2時からの朗読イベント「心中天網島」に参加しました。リンク先ページのような様子で、空いていた最前列のベンチに着席。江戸時代の文豪・近松門左衛門のお墓が自宅から600mのところにあるものの、近松作品にも触れたことは一度もありません。ちなみに井原西鶴のお墓は自宅から300mですが、やはりその作品に触れたことがありません。

おさんという妻がいながら遊女小春に恋し一旦別れたものの忘れることが出来ない天満の紙屋治兵衛、おさんの心根を思い治兵衛から身を引こうとする曽根崎新地紀伊国屋の遊女小春、情けなく思いながらも甲斐甲斐しく夫を支える治兵衛の妻おさんの三角関係の紹介があって、クライマックスとなる「道行名残の橋づくし」の段を現代語訳で朗読。

曽根崎新地の大和屋を出た治兵衛と小春は、梅田橋(出入橋南にあった橋)、桜橋、蜆橋(ここ)、大江橋、舟入橋(大阪高裁辺り)、堀川の橋(阪神高速天神橋JCT辺り)、天神橋、天満橋、京橋、御成橋(片町1丁目の京阪電車をくぐる歩道トンネル辺り)、と大坂の観光案内のように橋を辿って、心中の地網島の大長寺へ。その大長寺の跡に立つのが現在地、藤田美術館(都島区網島町10-32)です。

亨保5年10月14日に大長寺境内で起きた心中事件を近松がわずか3週間で人形浄瑠璃に書き上げ、12月には初演されています。その日大長寺ではお十夜と呼ばれる法要がおこなわれており、治兵衛と小春が、せめてあの世で夫婦として生まれ変わりたい、とこの日この場所を選んだらしい。

黒漆地三番叟蒔絵茶箱

展示室に戻り黒漆地三番叟蒔絵茶箱を改めてじっくりと。藤田美術館の蔵出し50選に解説を見つけました。江戸時代の蒔絵箱に藤田家が自分好みに中身の茶道具を揃えたもので、左から野点用茶箱、青井戸茶碗銘隼(朝鮮)、塩笥茶碗(朝鮮)、唐物茄子茶入、朝日焼茶入、象牙荷葉形茶杓、象牙籠形彫茶筅筒、色絵鴛鴦香合、紅毛藍絵茶巾筒、袱紗の10点セット。袱紗だけが今日の展示と蔵出し50選で違ってます。

蔵出し50選の写真と違って間を開けて茶道具が広げられていてじっくり鑑賞でき、腰をかがめて低い視点から眺めると表情が変わります。時代も発祥も異なる野点に必要な茶道具一式、それぞれを仕覆や袱紗に丁寧に包んで茶箱にびっしりと詰め込まれます。超高級超一流で遊び心満点の茶人のおもちゃ箱といえそうです。

三番叟蒔絵茶箱の蓋には能「翁」において3番目に舞う「三番叟」の笛、鈴、扇子、側面には注連縄が蒔絵で描かれています。

象牙荷葉形茶杓の抹茶を掬う部分(櫂先)は蓮の葉、持ち手(切止)は蓮の蕾に形作られた唐物の象牙製茶杓、元は薬匙だったもの。竹を編んだ籠のようにみえる象牙籠形彫茶筅筒は江戸時代後期から明治時代製と思われます。

野々村仁清 色絵鴛鴦香合は、ほぼ同じサイズで形状や絵柄が違っている同じ野々村仁清の色絵おしどり香合 を大和文華館で見たばかりです。

紅毛藍絵茶巾筒は阿蘭陀物のナプキン筒、袱紗を立てておくものと思われますが、並べられた袱紗の絵柄は唐物。和物や高麗物の茶道具とも相まって、グローバルにまとめられているのも茶人の遊び心かと。

三番叟

蒔絵茶箱の三番叟(さんばそう)は能の演目ですが、三番叟(さんばそう)をFacebookのリール動画で見てその面白さに惹かれたことがあります。この動画の三番叟は、能ではなく長唄の「操り三番叟」を元にした、嘉永6年(1853年)初演の日本舞踊の演目で、演じるのは歌舞伎役者や日本舞踊家。子供が演じることも多いようです。

この長唄「操り三番叟」の元になったのが、延宝6年(1678年)に江戸の中村座で初演された歌舞伎の「操り三番叟」で、その後、宝暦13年(1763年)には大坂の豊竹座で人形浄瑠璃「新舞台式三番叟」が初演され、現在の「寿式三番叟」へと受け継がれています。

これらの原点となるのが、鎌倉時代に起源が遡るとされる能の「翁」。能「翁」の一段目が「父尉(ちちのじょう)」、上掲の翁面白色尉の面を着けて天下泰平を祈りながら舞うのが能「翁」の二段目となる「翁」、そして三段目が「式三番」で「三番叟」はそこに登場する役名、と自分なりに理解できたところです。

もとは神事的な性格を持っていた能の「翁」。その中の「三番叟」を題材に、江戸時代には歌舞伎や人形浄瑠璃、長唄、日本舞踊へと展開し、さまざまな娯楽的要素を取り入れながら、芸能として受け継がれてきたようです。

YouTubeに萬斎の新春玉手箱 「二人三番叟」野村萬斎×尾上菊之丞を見つけました。萬斎さんと菊之丞さんの華麗で繊細、リズミカルでダイナミックな舞、能・狂言と日本舞踊とのコラボでもあり、さまざまに発展してきた三番叟が集大成された舞台と言えそうです。三番叟蒔絵茶箱に描かれている笛、鈴、扇子、注連縄が舞台に全てが揃っていました。まず睡魔に襲われることはない舞台です。

御成橋跡の歩道トンネルをくぐり上がってくると正面に天守、バードウォッチングの元気は残っていないので帰ります。お城の南に大月能楽堂、西側に山本能楽堂があります。さほど興味のなかった能ですが、今日の藤田のおかげで、機会があれば「三番叟」や「弱法師」を見てみたいと思うようになりました。

地下の天満橋駅から高架の京橋駅へ一気に駆け上る京阪特急、京橋駅はここから1kmも先ですが、橋の京橋はこのすぐ右手、並行して歩道橋の大坂橋が架かっています。その京橋から大川の川崎の渡(現在は歩行者専用の川崎橋)をつないでいたのが御成橋、備前島橋とも呼ばれています。京阪の線路は埋め立てられた鯰江川(なまずえがわ)だったと分かります。

明治43年に京阪電車の天満橋-五条間が開業した当時、天満橋駅からわずか200mの御成橋跡のj歩道トンネルのあたりに初代の京橋駅が設置されたものの、わずか8ヶ月で廃止されています。昭和24年にグランシャトーの場所にあった蒲生駅が2代目京橋駅となり、昭和44年に少し西へ戻り現在の3代目京橋駅になったらしい。

京阪東口バス停に62系統住吉車庫前行がやってきたのでバスで帰ります。昭和38年まで地上駅だった天満橋駅がOMMビルの場所にあり、大阪市電の京阪東口電停がそのままバス停で遺されているのはちょっと嬉しい。