能と話
2ヶ月ぶりに藤田美術館へ。3つのテーマの展示が毎月ひとつずつ変わるので3ヶ月毎でいいのですが、待ちきれません。
その前にひょっとしたらと思い毛馬へ行ってみることにしました。11年も前ですが、自分が初めてアサギマダラを見つけた場所です。
毛馬・赤川
ずいぶん久しぶりの毛馬閘門です。以前はよほど頻繁に通っていて、実に48本もブログを書いていた毛馬/赤川ですが、実に6年ぶり。
淀川の土手に上がると蕪村生誕地の歌碑、与謝蕪村の実家は摂津国東成郡毛馬村(現都島区毛馬3丁目)、この土手の下辺り、碑文は自筆の文字だそうです。
春風や 堤長うして 家遠し
自転車でずっと川上まで行った帰りの道のりの長さを思い出させる一句です。一番遠くは京都(木津川・淀川・桂川の三川合流地点)や高槻の三島江などへ自転車で行ったこともあります。体力的にさほど衰えたとは思っていないものの、阪神高速の工事で長柄より西へ淀川左岸を走ることができなくなったことが大きく、自転車が壊れて処分して以来公共交通機関と徒歩のみの自分です。
カワセミ島です。この辺りで2015年と2019年に特定外来生物のミズヒマワリを吸蜜しているアサギマダラを観察しています。島の水辺を丹念にチェックするもミズヒマワリもアサギマダラも見つからず。ミズヒマワリは駆除されてしまったのかも知れません。
西カワセミ島と東カワセミ島に分かれていてその切れ目です。その切れ目をコバルトブルーとオレンジ色のニクイ奴がピューンと通過、写真は撮れなかったもののカワセミです。5回に1回くらいの確率で会うことができた記憶のあるカワセミ島のカワセミです。写真は撮れなかったものの、6年ぶりにやってきていきなり出会えたのはやはり嬉しい。
モズの高鳴きがよく聞こえ、ようやくピンボケで出会えました。確実に以前よりバードウォッチングが下手になっていると実感。藤田美術館が今日の目的なのでこの辺で切り上げ土手に上がります。
赤川鉄橋を渡るEF210、13年前にこの鉄橋を自転車で渡っています。
城北公園駅はおおさか東線開業日以来のはず。鴫野で乗り換え、京橋の駅そばをお腹にいれて大阪城北詰駅に到着。3号出口の100段くらいある階段を、藤田の学芸員さんたちもこの階段で毎日通勤しているのかと考えながら、えっちらおっちら上り、PayPayで支払いを済ませ、藤田美術館の展示室へつながる最初の暗い部屋に入ったところです。
織田信長や武野紹鷗の釜師だったと伝わる西村道仁 真形羽付高砂釜(桃山~江戸時代、16~17世紀)、片側には夫婦円満、長寿を謳う能「高砂」の翁と媼が、反対側には蓑亀が取り付けられ、「みよしの」と浮き彫りされています。
釜の羽(かまのは)が欠けているのは、あえて不完全なものに風情を見出す「わび・さび」の美学でわざと割ったもののはず。利休が所持していたと伝わる古芦屋春日野釜でもあえて羽が割られていました。
弱法師(江戸時代、17世紀)は能「弱法師(よろぼし」の主人公の面、作者不詳。河内国高安の長者・高安通俊から勘当された息子の俊徳丸は悲しみのあまり失明、四天王寺の門前で物乞いをし弱法師と弱法師と呼ばれた俊徳丸、下村観山の重要文化財弱法師に物語の世界を実に美しく描かれています(e国宝)。
橋姫(江戸時代、18~19世紀)も作者不詳。平家物語剣巻に登場する鬼女・橋姫に由来し能「鉄輪(かなわ)」等に用いられる面。「元気ですかー!」というフレーズを思い出させます。
萩玉川図青貝料紙箱と硯箱(江戸時代、18~19世紀)、和歌の歌枕として詠まれる六玉川(むたまがわ)の内、料紙箱には萩の名所・野路の玉川(近江草津)、硯箱には桜と山吹の名所・井出の玉川が描かれています。富山藩の杣田細工と伝わる、厚さ約0.1mmまで薄く削った青貝螺鈿の超絶技巧。
朗読イベント心中天網島
一旦展示室を出て2時からの朗読イベント「心中天網島」に参加しました。リンク先ページのような様子で、空いていた最前列のベンチに着席。江戸時代の文豪・近松門左衛門のお墓が自宅から600mのところにあるものの、近松作品にも触れたことは一度もありません。ちなみに井原西鶴のお墓は自宅から300mですが、やはりその作品に触れたことがありません。
おさんという妻がいながら遊女小春に恋し一旦別れたものの忘れることが出来ない天満の紙屋治兵衛、おさんの心根を思い治兵衛から身を引こうとする曽根崎新地紀伊国屋の遊女小春、情けなく思いながらも甲斐甲斐しく夫を支える治兵衛の妻おさんの三角関係の紹介があって、クライマックスとなる「道行名残の橋づくし」の段を現代語訳で朗読。
曽根崎新地の大和屋を出た治兵衛と小春は、梅田橋(出入橋南にあった橋)、桜橋、蜆橋(ここ)、大江橋、舟入橋(大阪高裁辺り)、堀川の橋(阪神高速天神橋JCT辺り)、天神橋、天満橋、京橋、御成橋(片町1丁目の京阪電車をくぐる歩道トンネル辺り)、と大坂の観光案内のように橋を辿って、心中の地網島の大長寺へ。その大長寺の跡に立つのが現在地、藤田美術館(都島区網島町10-32)です。
亨保5年10月14日に大長寺境内で起きた心中事件を近松がわずか3週間で人形浄瑠璃に書き上げ、12月には初演されています。その日大長寺ではお十夜と呼ばれる法要がおこなわれており、治兵衛と小春が、せめてあの世で夫婦として生まれ変わりたい、とこの日この場所を選んだらしい。
黒漆地三番叟蒔絵茶箱
展示室に戻り黒漆地三番叟蒔絵茶箱を改めてじっくりと。藤田美術館の蔵出し50選に解説を見つけました。江戸時代の蒔絵箱に藤田家が自分好みに中身の茶道具を揃えたもので、左から野点用茶箱、青井戸茶碗銘隼(朝鮮)、塩笥茶碗(朝鮮)、唐物茄子茶入、朝日焼茶入、象牙荷葉形茶杓、象牙籠形彫茶筅筒、色絵鴛鴦香合、紅毛藍絵茶巾筒、袱紗の10点セット。袱紗だけが今日の展示と蔵出し50選で違ってます。
蔵出し50選の写真と違って間を開けて茶道具が広げられていてじっくり鑑賞でき、腰をかがめて低い視点から眺めると表情が変わります。時代も発祥も異なる野点に必要な茶道具一式、それぞれを仕覆や袱紗に丁寧に包んで茶箱にびっしりと詰め込まれます。超高級超一流で遊び心満点の茶人のおもちゃ箱といえそうです。
野々村仁清 色絵鴛鴦香合は、ほぼ同じサイズで形状や絵柄が違っている同じ野々村仁清の色絵おしどり香合 を大和文華館で見たばかりです。
紅毛藍絵茶巾筒は阿蘭陀物のナプキン筒、袱紗を立てておくものと思われますが、並べられた袱紗の絵柄は唐物。和物や高麗物の茶道具とも相まって、グローバルにまとめられているのも茶人の遊び心かと。
三番叟
蒔絵茶箱の三番叟(さんばそう)は能の演目ですが、三番叟(さんばそう)をFacebookのリール動画で見てその面白さに惹かれたことがあります。この動画の三番叟は、能ではなく長唄の「操り三番叟」を元にした、嘉永6年(1853年)初演の日本舞踊の演目で、演じるのは歌舞伎役者や日本舞踊家。子供が演じることも多いようです。
この長唄「操り三番叟」の元になったのが、延宝6年(1678年)に江戸の中村座で初演された歌舞伎の「操り三番叟」で、その後、宝暦13年(1763年)には大坂の豊竹座で人形浄瑠璃「新舞台式三番叟」が初演され、現在の「寿式三番叟」へと受け継がれています。
これらの原点となるのが、鎌倉時代に起源が遡るとされる能の「翁」。能「翁」の一段目が「父尉(ちちのじょう)」、上掲の翁面白色尉の面を着けて天下泰平を祈りながら舞うのが能「翁」の二段目となる「翁」、そして三段目が「式三番」で「三番叟」はそこに登場する役名、と自分なりに理解できたところです。
もとは神事的な性格を持っていた能の「翁」。その中の「三番叟」を題材に、江戸時代には歌舞伎や人形浄瑠璃、長唄、日本舞踊へと展開し、さまざまな娯楽的要素を取り入れながら、芸能として受け継がれてきたようです。
YouTubeに萬斎の新春玉手箱 「二人三番叟」野村萬斎×尾上菊之丞を見つけました。萬斎さんと菊之丞さんの華麗で繊細、リズミカルでダイナミックな舞、能・狂言と日本舞踊とのコラボでもあり、さまざまに発展してきた三番叟が集大成された舞台と言えそうです。三番叟蒔絵茶箱に描かれている笛、鈴、扇子、注連縄が舞台に全てが揃っていました。まず睡魔に襲われることはない舞台です。
御成橋跡の歩道トンネルをくぐり上がってくると正面に天守、バードウォッチングの元気は残っていないので帰ります。お城の南に大月能楽堂、西側に山本能楽堂があります。さほど興味のなかった能ですが、今日の藤田のおかげで、機会があれば「三番叟」や「弱法師」を見てみたいと思うようになりました。
地下の天満橋駅から高架の京橋駅へ一気に駆け上る京阪特急、京橋駅はここから1kmも先ですが、橋の京橋はこのすぐ右手、並行して歩道橋の大坂橋が架かっています。その京橋から大川の川崎の渡(現在は歩行者専用の川崎橋)をつないでいたのが御成橋、備前島橋とも呼ばれています。京阪の線路は埋め立てられた鯰江川(なまずえがわ)だったと分かります。
明治43年に京阪電車の天満橋-五条間が開業した当時、天満橋駅からわずか200mの御成橋跡のj歩道トンネルのあたりに初代の京橋駅が設置されたものの、わずか8ヶ月で廃止されています。昭和24年にグランシャトーの場所にあった蒲生駅が2代目京橋駅となり、昭和44年に少し西へ戻り現在の3代目京橋駅になったらしい。
京阪東口バス停に62系統住吉車庫前行がやってきたのでバスで帰ります。昭和38年まで地上駅だった天満橋駅がOMMビルの場所にあり、大阪市電の京阪東口電停がそのままバス停で遺されているのはちょっと嬉しい。